防疫給水部(細菌戦部隊)

波8604部隊
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最終更新日:2014/06/28 15:36

1938年9月20日、一応日本国内で組織された部隊です。
第21軍(通称波集団 司令官古荘幹郎)が広東を占領した翌年、1939年5月に広東で正式に編成されました。

当初の部隊員は約800人でしたが最盛期には1200人以上に増大したといわれています。

部隊は接収した広州市の中山医科大学(中山大学医学部)に本部を作りました。
そこは1941年12月の第二次世界大戦が始まると、英国領香港に近い為重要な場所になりました。

それまで香港には日本軍による侵略から逃れた中国大陸の難民が多数避難していました。

日本軍では香港占領後、増えていた香港の人口を何とか減らすために人口疎散政策をとりました。

そのときこの8604部隊は難民を細菌によって殺害したようです。

 「部隊の概略図」

 SCN_0094 細菌部隊8604図

  「部隊の組織」

部隊長 初代 田中巌軍医大佐
       佐藤俊二軍医大佐  昭和18年 栄1644部隊長に 19年少将になる

第1課 細菌研究

課長 溝口軍医少佐 
課員は約80人、内将校が10人、中国人労務者7人

庶務係

研究係
検索係   係長佐藤大尉
丸山茂
培地係
消毒係
動物係


第2課  給水担当

課長 井口衛生少佐

第3課  伝染病の予防と治療

課長 小口軍医少佐

第4課 ペスト菌の培養と病理解剖

課長 渡辺軍医中佐  敗戦時 朝鮮軍の軍医部長

大学の北門と東門の間に巨大なネズミ飼育場があった。
コンクリ-ト2階建ての長さ50メ-トルもある建物が5棟並んでいた。

ここに50万匹のラットが飼われていた

第5課  薬剤の研究と供給

経理部(総務課) 課長 熊倉衛生少佐

所属不明の勤務者

井上睦夫 昆虫班

馬場大尉 獣医 ネズミの飼育の責任者


この部隊でもかなりペスト用のネズミやノミを飼育していました。

*1943年4月、参謀本部で開かれた「ホ号打合」から。金原業務日誌による。

イ、餅(ネズミ)月1万ケ。月産10Kg(注:ノミの生産)。

  7~8は発生率不良。
  5,6,9,10が良し。
ロ、2月は補給現在迄2万。
ハ、エヂプトぬまねずみの2代目を作り、粗暴性緩和す。

  飼育馴化しあり。自変種にかわりつつあり。
ニ、葡萄糖を利用する等2/3の節用をなしあり。


「中国側資料による細菌戦」

*大東亜戦争陸軍衛生史より

波8604部隊は海南島安定県に15人を送ってペストの調査をした。

*1939年6月1日中国鉄道運輸指令銭宗沢から重慶衛戌司令部に宛てた電報

敵(日本軍)は漢奸(裏切り者)を難民に偽装させて、コレラ、腸チフス、

ペストの細菌を入れた魔法瓶を持たせ、

広東、広西、雲南、四川に潜入させ、わが軍陣地の飲用水の水源に混入させている。

*1939年10月 顧祝同が蒋介石に宛てた電報

敵(日本軍)は細菌戦、化学戦の専門家30人余り山西、湖北、広東などに派遣して指導に当たらせている。

*広東省楽昌県の蔡満天からの手紙

私は当時まだ学生でしたが、抗日軍に志願して樂昌で訓練を受けていました。

1941年の5月から6月にかけて日本軍は漢奸(日本軍に協力する中国人)に避難民を偽装させ、

楽昌県の県城内外に潜入させました。・・・・

ところがその漢奸たちは水ガメや食べ物の置いてある所、

あるいは井戸にこっそりと細菌を投げ入れたのです。

大勢の人が中毒したり死んだりしました。

私の知る限り、日本軍はコレラ、肺結核、マラリア、痢疾などの細菌を使いました。

伝染性が強く、すぐに流行し、死亡率も高かったです。

当時楽昌県にはそれらの病気の特効薬はありませんでした。

3個中隊が訓練中でしたが、どの中隊にも患者が数十人いました。

コレラは死ぬのが特に速く、3時間を越すことはありません。

ほかの病気はもっと長くかかりました。

私も被害者の一人で、楽昌第83病院で治療を受けました。

かなり重く、もう少しであの世へいくところでした。

幸いアメリカから運んできた薬で助かりました。・・・・

毎晩聞こえるのは被害者を埋葬する時の爆竹の音でした。・・・・

4~5キロはなれたところへ行くと、見渡す限り新墓でした。

*公衆衛生の専門家 陳安良教授の証言

1942年に、私は中国軍政部軍医署第8防疫大隊で働いていた。

当時、日本軍機が広東省北部の翁源一帯にムギ粒を散布し、

それにノミが混じっていたが、培養基がなかったので何の細菌かは分からなかった。

抗日戦争中、淅江省衢州市では日本がやったペスト菌が発見された。

日本軍は1941年に湖南省の常徳の上流でゼラチン状物質を投下したが、後にコレラ菌が検出された。

抗日戦争中、広東省の廉江、湛江一帯にペスト菌があり、ペストがしばしば流行した。

 

「証言」
  * 丸山 茂   1917年生れ   1993年証言

私は昭和14年(1939)、広東(現・広州)の南支那派遣軍防疫給水部隊に配属されました。

部隊が編成された昭和14年5月頃、「なんか珍しいことやってるよ」って兵隊たちが言うんです。

「なんだ、なんだ」と部隊北側にあった酒保の下にあるプールに行きました。

プールにはホルマリンが入っていたのでしょうか、

その中に死体が漬けてありました。女の死体もありました。

渡辺という中佐が兵隊に死体を上げさせて、執刀しました。

そして頭をノコギリで切ったりしていました。

渡辺中佐は「これが肝臓だ」とか言っておりました。

次に香港難民の細菌による大量殺害について、私が知っていることをお話します。

軍は香港から広東市に来る難民を市内の治安を保つために、

灘石頭(注:南石頭の事)の収容所に入れておきましたが、

収容所が限界になったため南スホ(注:南支那派遣軍防疫給水部の事)に細菌による殺害を命じました。

責任者のMははじめ収容所内の4ケ所の井戸に、

チフス菌だとかパラチフス菌だとか、そこらにざらにいる細菌を投込んだらしいんです。

しかし効果はなかったそうです。

中国人は生水を飲まないし、食糧も煮たり炒めたりしたものしか食べなかったからです。

難民は増える一方なもんですから、あわてて部隊長が東京の軍医学校に相談したわけですね。

そうしたら一番効果があるものを飛行機で送ってきたわけです。

それがゲルトネル食中毒菌、モスキ-型の軍医学校で作った菌株なんです。

ゲルトネル菌は20%位の死亡率だといわれているんですが、軍医学校の菌株はもっと強いものです。

絶大な効果があったようです

ゲルトネル菌を撒いたその日の夕方から患者が出て、死亡者がどんどん出始めたそうです。

死亡者は役人がどっかに運び出して埋めたらしいんですが、

しまいには埋める場所がなくて、死体を重ねて埋めて、死体にかける土もなくなったと・・・・

Mはゲルトネル菌を飲用湯に投入したそうです。

一般に腸系の細菌は熱に弱いので、43度ぐらいに下がった時に投入したそうです。

また憲兵から聞いた話では、収容所の残った難民200人を北江上流の敵の勢力圏に移送したそうです。

その人たちはゲルトネルの保菌者です。

保菌者にお金、食糧、衣服を持たせて敵地に放ったのです。

つまり細菌戦です。


* 井上睦夫   病理班で生体解剖に従事 1996年埼玉県庄和高校生徒の聞き取り

・・・・死んでいない者も解剖しました。

額の所を撃たれていますので、治っても助かるということはまずありません。

そういうのはまだ体も温かく血液も動いています。・・・・

病理班には死体は多い時で1日に4体も5体も来ました。

1日に解剖し切れませんでした。・・・。1日にせいぜい3体ぐらいだと思います。・・・・

解剖しきれない遺体は冷蔵庫に入れて保管しておいた。

洗面器ほどの大きさの氷を遺体の腹の上に置いてきました。

それも私たちの役目でした。・・・・

病理で解剖したものは、地下室の水槽に浸けてありました。

解剖室は、円形の座席のついた講義用になっている医学部の部屋で、その中央に解剖台があった。

その地下室が遺体水槽になっていました。

その中に遺体は浸けてあります。

標本はかめや大きな瓶に頭や臓器等ホルマリン浸けにしたものがたくさんあって、

その数は100本には満たないが、50本以上は確かにあったと思います。

その中のいくつかは中国の方だったとは思いますが、具体的な数字はわかりません。

地下室にはプ-ルのようなものがあって、そこにホルマリンを入れました。

そこに番号札を付けた死体を泳がせておくわけです。

死体の受け取りが来ると、番号を探し出した後、裸のままその中にはいって、

死体をかかえて来ていたのですが、それがあまりにも気持ち悪いのです。

そのうち長い竿に鈎のような金具を付けて、そこに死体を引っ掛けて引き寄せるようになりました。


  * 馮慶章 当時難民収容所で数年過した

・・・・広州が陥落してまもなく、かいらい省政府は広東省救援委員会南石頭難民収容所を作りました。

所長は劉念端でした・・・・

難民収容所は・・・条件が非常に悪く、1人1日に味付けガユが20ccしかなかった。・・・・

そのころ収容所で流行ったざれ歌にこういうのがありました。

「カゴの鳥は高くは飛べない。

味付けガユを食わなきゃ空きっ腹、

食えば食ったで腹痛み、病気になっても薬はない、

死んだら最後、骨まで溶かす池に放り込まれる」

一ぺんに何百人も死にました。

かいらい政府が派遣した人が収容所の外の無縁墓地に運んで、いい加減に埋めます。

毎日のように2~30人死にました。少ない日でも6~8人は死にました。・・・

1942年の春と夏は、香港が陥落したあと、難民が大勢、船で次々と収容所に運ばれてきました。

3000人から4000人ぐらいいました。・・・・

地元の難民とは別々にされました。・・・・

日本人は難民に強制的に予防注射を打ちましたが、

打たれたあと、高い熱を出し、痙攣を起こし・・・・何日も起きられませんでした。

この時はもう死体を溶かす池が2つできていて、

死んだ人やもうすぐ死にそうな人はみんなこの池に放り込まれました。

池は深さ4mぐらいで、正方形でした。コンクリ-トで、・・・・

死体が一杯になると薬の水を入れて蓋をしました。

10日から15日たって蓋を開けたとき、夜のことが多かったのですが、ものすごい臭いがしました。

日本人がしょっちゅう収容所にやってきて働き手を募集して若い者を運びました。

外で仕事をするということでしたが、実際は検疫所に連れて行ったのです。

何日かはいい物を食べさせて少しふとってきたころ、

真っ暗な部屋に入れて蚊やノミに食わせるんだそうです。

そのうちだんだん痩せてきて死んでしまいます。

次々と収容所から出て行った難民は帰って来ません。・・・・

1945年に日本が降伏する前、国民党が収容所を接収する直前には、

残っていた難民はほんのわずかしか残っていませんでした。・・・・

何千人もいた難民は散り散りになり、うやむやになったのです。


* 梁檬 住民

日本軍が1938年10月に広州を占領してまもなく、南石頭に検疫所と珠江船舶検査所を作った。

そこには日本軍の憲兵隊が駐屯した南石頭村の西側には特別検査所ができて、

1940年ごろ、私たちの南石頭村で盛んに蚊を集めた。

毎朝6時ごろには2,3人の日本人が勝手に村民の家に入り込んで、

そっと蚊帳をめくっては血を吸った蚊を1匹1匹つかまえ、持ってきたガラスの小ビンに入れて帰った。

日本人が毎日のように村に来るので落ち着いて暮らせなかった。

ある時、無理やり村民の耳を切って血をとったり、注射器で血を抜いたりして試験をした。

人を捕まえて検疫所へ入れ、足の肉を切って血をとったという話も耳にした。

この時は逃げ出したのが2人いた。

村の東南に昔の砲台を懲戒場にしたところがあったが、日本軍はそこを広州難民収容所にした。

日本軍が難民をトラックに乗せて何台も収容所に入って行くのを見た。

名前は難民収容所だったが、実際はひそかに人を殺していたのだから“収命所”だ。

毎日大勢が死んだ。死体運びに6人いたが、運びきれなかった。

その後、収容所の中に死体処理池が作られ、難民の死体を次々に放り込んだ。

その臭いは臭くてどうにもたまらなかった。

どんなに腹が立っても何も言えなかった。

難民は毎日、食事を作る時に日本兵が薬物をまぜるので、

配られた飯がノドを通らず腹をすかしているほかなかった。

それも日本軍の陰謀だ。

 

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