防疫給水部(細菌戦部隊)

同仁会
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最終更新日:2014/08/02 11:46


少しの間細菌戦部隊直接ではなく、周辺で部隊を支えたり協力した組織を書いていきます。
まず同人会ですが、古く歴史ある組織なので書き出したらきりがなく、

私自身それほど詳しくないので簡単に整理します

[同仁会]
  1902年(明治35年)、日清戦争に勝利してアジアで優越感を持った日本は、

アジアで医学的啓蒙をするために同仁会を組織しました。
前年に出来た東亜同文医会が母体になっています。

* 同仁会の目的 (原文カナ、意訳)

清、韓、その他アジア諸国に医学及びそれに伴う技術を普及せしめ、

かつ我彼人民の健康を保護し救済する・・・・

上記の目的の為に具体的には、アジア各地に医学校や医院の設立、

薬剤師や看護婦の派遣、その他・・・・を行なう事としました。

会長は初代から、長岡護美、大隈重信、内田康哉、林権助と続き最後は敗戦時の近衛文磨でした。

運営資金は最初会費や寄付でしたが、

第一次世界大戦後は国庫補助を受け、昭和になると国費となり完全な政府機関となりました。

1937年(昭和12年)の中国侵略以降は日本軍の指揮下に組込まれ、

外務省と陸軍省は同仁会に対して「対支防疫事業方針」を示しました。

中国侵略地の防疫事業はこのようにして同仁会が行なう事になりました。
その時の中心人物は同仁会副会長の宮川米次で「東京帝大付属伝染病研究所(伝研)」の所長を兼ねていました。

宮川は伝研所長として多くの東大医学部の学生を、731部隊を始めとした細菌部隊に送り込みました。

つまり同仁会は全国の大学医学部から人材を送り出した人材センタ-の役割をはたしていたのです。

* 1939年当時の同仁会の役職

会長 近衛文磨

副会長  宮川米次

理事(全13人)小泉親彦(軍医学校本部医監,陸軍省軍務局長) その他
               *小泉は1944に崩壊した東条内閣で厚生大臣をしていた。
                1945年9月13日自殺した。

評議員(全67人)戸山正三(京大医学部、第1期南極特別委員、金沢大学学長)

              田宮猛雄(東大医学部伝研所長、日本医師会会長、国立ガンセンタ-所長)
              小林六造(慶応大学医学部、軍医学校嘱託、国立予防衛生研究所所長)
              三木良英(陸軍省医務局長)

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