同仁会


少しの間細菌戦部隊直接ではなく、

周辺で部隊を支えたり協力した組織を書いていきます。

まず同人会ですが、

古く歴史ある組織なので書き出したらきりがなく、

私自身それほど詳しくないので簡単に整理します

[同仁会]

1902年(明治35年)、

日清戦争に勝利してアジアで優越感を持った日本は、

アジアで医学的啓蒙をするために同仁会を組織しました。

前年に出来た東亜同文医会が母体になっています。

 

● 同仁会の目的 (原文カナ、意訳)

 清、韓、その他アジア諸国に

 医学及びそれに伴う技術を普及せしめ、

 かつ我彼人民の健康を保護し救済する・・・・

 

上記の目的の為に具体的には、

アジア各地に医学校や医院の設立、

薬剤師や看護婦の派遣、

その他・・・・を行なう事としました。

会長は初代から、長岡護美、大隈重信、

内田康哉、林権助と続き

最後は敗戦時の近衛文磨でした。

運営資金は最初会費や寄付でしたが、

第一次世界大戦後は国庫補助を受け、

昭和になると国費となり完全な政府機関となりました。

1937年(昭和12年)の中国侵略以降は

日本軍の指揮下に組込まれ、

外務省と陸軍省は同仁会に対して

「対支防疫事業方針」を示しました。

中国侵略地の防疫事業はこのようにして

同仁会が行なう事になりました。

その時の中心人物は同仁会副会長の宮川米次で

「東京帝大付属伝染病研究所(伝研)」の所長を兼ねていました。

宮川は伝研所長として多くの東大医学部の学生を、

731部隊を始めとした細菌部隊に送り込みました。

つまり同仁会は全国の大学医学部から

人材を送り出した人材センタ-の

役割をはたしていたのです。

 

●1939年当時の同仁会の役職

 会長 近衛文磨

 副会長  宮川米次

 理事 (全13人)

   小泉親彦(軍医学校本部医監,陸軍省軍務局長) その他
     注:小泉は1944に崩壊した東条内閣で厚生大臣をしていた。
       1945年9月13日自殺した。

 評議員(全67人)

  戸山正三(京大医学部、第1期南極特別委員、金沢大学学長)

  田宮猛雄(東大医学部伝研所長、

      日本医師会会長、国立ガンセンタ-所長)             

  小林六造(慶応大学医学部、軍医学校嘱託、

      国立予防衛生研究所所長)           

  三木良英(陸軍省医務局長)