慰安婦をどうやって集めたか?

慰安婦と言われた女性たちはどの様にして

集められたのでしょうか?

この件は議論が分かれるところです。

色々なケースがありますが、私なりに整理してみます。

 

「集めた場所」

1. 日本・朝鮮・台湾から集めた方法

 現地軍が業者を指定して集めさせました。

 その業務の統制は方面軍、

 師団、旅団などの司令部が行いました。

 また、派遣軍からの依頼を受けて、

 日本、朝鮮、台湾の部隊が業者を選定して

 集めさせる事も行われました。

2. アジア各地に派遣された日本軍が

 占領地で慰安婦を集めた方法

 現地軍直接、現地に出向いていた

 日本の業者、現地人の組織や行政などの

 場合もあります。

 ◎「憲兵下士官」 鈴木卓四郎著 から

  1941年4月21日、台湾第48師団は

  福州を占領したが、

  師団専属の慰安婦がついてこなかったので、

  師団参謀部は兵站部に

  軍慰安所の設置を指示した。

  そこで、兵站部は福州憲兵隊の兵長に

  協力を求め、市内の有力者に

  物資を提供して女性たちを集めさせた・・・・

 ◎「新京陸軍経理学校第5期生記念文集(追悼)」から

  1944年5月25日の洛陽攻略の後、

  戦車第3師団のある少尉は、

  後方参謀に呼ばれて

  「至急民家を改造して兵隊用の慰安所を作れ

  ついでに洛陽で女を集めて来い」という命令を受けた

  そこで「これはメチャクチャである」と思ったが、

  トラックに塩2~3袋を積んで洛陽に行き、

  2~3軒まわって10数名の女性を集めた。

 

「どの様にして集めたか」

その時に多くの問題が発生しました。

1. 募集 

 軍が選定した業者に依頼して、

 日本、朝鮮、韓国で慰安婦として募集したケ-ス     

 この場合、業者が年齢を偽って

 連れ出す例が多かったようです。

 ● 日本から 

  日本は婦人・児童の売買を禁止した

  国際条約に加盟していたので、  

  内地で慰安婦を募集する場合は、

  すでに売春婦として商売をしている

  21歳以上の女性を集めました。

  しかし年齢は守られない事が多く、

  警察は黙認していたようです。

  参考:「支那渡航婦女の取扱に関する件」

     内務省発警第5号 1938年2月23日

     (1)醜業を目的とする婦女の渡航は

     現在内地において娼妓その他

     事実上醜業を営み満21歳以上

     かつ花柳病その他伝染性疾患なき者にして

 ● 内地部隊、朝鮮軍、台湾軍が

  半ば強制的に募集した       

  形式は募集でも、

  借金の代わりに身売りされたり、

  軍によって人数を割り当てられたりしました。

 ● 東南アジアでは軍が直接応募した例もあります。

  ☆「マレ-半島における日本軍慰安所について」

             林博史論文から

   第25軍兵站に所属した兵士の証言によれば、

   1942年1月2日、マレ-半島の上陸点

   シンゴラにいた兵站将校から

   3名がタイのバンコックに出張を命じられた。

   そこで彼らは、日本企業の駐在員に頼んで

   23名の娼婦を集めてもらった。・・・・

  ☆「シンガポ-ルの日本軍慰安所」 林博史論文から

   1942年3月5日から8日に

   シンガポ-ルの中国語新聞「昭南日報」に

   征求接待婦(接待慰安婦)と言う広告が載っている。

   内容は   

    各民族の接待婦数百名を募集する    

    年齢は17歳から28歳    

    受付はラッスルズホテル(兵站管理の将校用ホテル)

   オランダ人やオ-ストラリア人女性に

   応募するよう強制した例もありました。

2. 偽募集 

 警察、憲兵、役場、周旋人が嘘を言って連れ出した。

 形式は募集でした。

 嘘の例  

  日本で就職させる

  日本の学校に入れてやる

  看護婦にする

  洗濯や炊事の仕事がある

 ● 朝鮮半島の宋神道の例(当時16歳)

  大田で子守の仕事をしていた時、

  「戦地へ行って御国のために働かないか」と、

  美しい身なりの朝鮮人女性に誘われた。

  どの様な仕事なのかという説明はなかった。

  平壌に連れて行かれ、

  そこで朝鮮人の男に売られた。

  陸路で天津から漢口をへて、武昌に入った。

 ● フィリピンのルソン島の例 裁判の訴状から

  フランシスカ・ナペ・サ・アウスタリは

  1942年12月頃、川で洗濯をしていたところ、

  日本軍の協力者がやってきて、

  日本軍のために「洗濯の仕事をすると

  給料が家に送られる」と言った。

  そこで、他の4人の女性と一緒に

  日本軍の駐屯地に行った。

  その内2人は12歳だったので帰された。

  残った3人は慰安婦にされた。

 ● インドネシアのボルネオの例 

   「我らの軍隊生活」輜重兵第32連隊第1中隊戦友会編

  ある兵士は、44年にそこの軍慰安所にいた、

  リナ-という慰安婦から、

  自分達は水産会社の事務員にするとだまされて、

  スラウエン島のメナドからガレラに

  連れてこられて慰安婦にされたと聞いたという

 ● ラング-ンの例 「戦場と記者」 小俣行男著

  ・・・・私の相手になったのは23~4の女だった。

  日本語は上手かった。

  公学校で先生をしてたと言った。

  「学校の先生がどうしてこんな所に

  やってきたのか?」と聞くと、

  彼女は本当に悔しそうにこう言った。

  「私たちは騙されたのです。

  東京の軍需工場へ行くという話で

  募集がありました。

  私は東京へ行ってみたかったので、応募しました。

  仁川沖に停まっていた船に乗り込んだところ、

  東京へ行かずに南へ南へとやってきて、

  着いたところはシンガポ-ルでした。

  そこで半分くらいが降ろされて、

  私たちはビルマに連れて来られたのです・・・・」

   注:嘘をついてつまり騙して連れ出したのは

     誘拐(強制連行)に当たるのかどうか問題になる点です。

     これについては日本では既に1937年(昭和12年)

     大審院の判例で「慰安婦業者に誘拐罪」が適用されています。

            注:大審院は現在の最高裁判所です

 (参考)1937年の大審院判決

  1997年、洪祥進氏が発見した資料(原文カナ)

  第二審は被告人等が婦女を誘拐して

  上海に移送し醜業に従事させることを謀議した上、

  被告人「A」以外の被告人等がその謀議に基づき

  長崎地方において10数名の婦女を誘拐し、

  これを上海に移送したる事実を認定し、

  被告人等いずれも共同正犯なりと判定し

  その行為中、誘拐の点に対しては刑法226条第1項

  移送の点に対しては同条第2項を各適用し・・・・

  解説:

   1. 被告人「A」は1930年10月頃から

    上海で慰安所を営業していたが、  

    1932年1月「海軍指定慰安所」として

    営業を拡張しようと思い、

    「B」「C「共に、単に女給または女中として

    雇うように騙して女性を誘惑し  

    上海に連れて行った内容です。

   2. 醜業に従事することの情報を隠し、

    単に女給又は女中として雇うものの如く騙し、  

    勧誘誘惑して上海に移送した事が

    刑法226条の「国外誘拐・国内移送罪」に問われた  

    判決です。  

    そしてこの226条は植民地だった

    朝鮮にも適用されていました。

3. 強制連行 

 強制割当てで役場から連れて行かれた。

 この連行の多くは官斡旋という形を取っています。

 軍が必要な人数を依頼してくると、

 地元の憲兵、警察、行政が協力して、

 村や町に割り当てるのです。

 家族や地域を守るために大人から説得されて

 多くの女性が犠牲になりました。

 

 ● 中国の例 

    南京を占領した日本軍の宮本大尉が

    友人に宛てた手紙 1937年12月16日付

  夜、兵站部の新設した慰安所に行って

  慰安を受けよ”という命令を受けた。

  中に300名の慰安婦がおり、

  もちろん今回の戦利品であり

  すなわち地元で徴集した女性である。

  私たちがついた時、慰安婦たちも相当疲れた様子で、

  火の周りに猫のように寝転んでいた。

  誰もお金をもらえない、

  私たちを待っているだけである。

  慰安婦の逃走或いは反抗を

  防ぐためか分からないが、

  兵士たちはにぎり飯を1個ずつ配られ、

  やる時に慰安婦にやれ、

  これは慰安婦の1日の食べ物だと言われた。

  女性たちはかなり飢えていたようで、

  おにぎりを見ると、すぐ奪い取って食べ始めた。

  私たちが彼女たちの体の上で何をするか

  全然気にしない様子であった。・・・・

  用が終わって集合して帰ろうとした時に、

  また80人くらいの地元の女性が連行されてきて、

  衰弱した慰安婦と入れ替えにされた。

 ● 中国の例 平林一男 

   独立山砲兵第2連隊連隊長 回想から

  両市塘に駐屯していた前の警備隊長は、

  治安維持会長に最初にまず姑娘を

  差し出すように要求したというように、

  小さな警備隊では自らの力で

  慰安所を経営する能力がないので、

  中国側の協力に期待する事になっており、

  ある場合には強制と言う形になっていたかもしれない。・・・・

 ● 中国の例 「兵下士官」 鈴木卓四郎 より

  1941年4月21日、

  台湾第48師団は福州を占領したが、

  師団専属の慰安婦がついてこなかったので、

  師団参謀部は兵站部に軍慰安所の設置を命令した。

  そこで、兵站部は福州憲兵隊の兵長に協力を求め、

  市内の有力者に物資を提供して女性たちを集めさせた。

 ● 朝鮮の例 「ある日、赤紙が来て」真鍋元之著 から

  ある日突然村長がやってきて、

  「軍の命令だ。お国への御奉公に娘を差し出せ」と言う。

 御奉公の意味がすぐに分かったので、

  父母は手を合わせ声の限りに哀号を繰り返したが、

  村長は耳を貸さない。

  この面(注:村の事)へ8名の割り当てが来たが、

  面には娘が5人しかいないから、

  ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ。

  村長の背後で日本人の巡査が肩をそびやかせている・・・・

 ● フィリピン、ミンダナオ島の例

    「高野部隊ミンダナオ島戦陣記」 

  フリピン・ミンダナオ島第126野戦飛行場設定隊から

  飛行場の建設を始めた第126野戦飛行場設定隊の

  武石主計少尉は、上陸直後の44年6月、

  内地から持参した女性用ワンピ-スの布を

  持ってダバオの有力者を訪問して

  慰安婦の斡旋を依頼、

  1週間後に6名の女性を受け取って

  軍慰安所を開設した。

  「泥棒と黄塵」 下津勇 から

  バヨンボンの大隊本部は

  急遽軍慰安所を作るように命令した。

  そこで命令を受けた大隊附の下津勇中尉は

  各中隊の駐屯地の町長と話し合い、

  志願者を募集した・・・・

 ● マレ-のクワラビラの例 

    「マレ-半島の日本軍慰安所」林博史 から

  歩兵第11連隊のある中隊長が

  治安維持会の会長代理(華人)を呼び出し、

  女性を集めるように指示した。

  このころ、各地で日本軍による

  中国系住民の虐殺がおきていたので、

  拒否すると殺されるとおびえた会長代理は、

  未亡人など18名を集めて差し出したが、

  女性たちは会長代理に

  家に帰りたいと泣いて訴えたという・・・・

4. 強制連行(誘拐) 

 いきなり拉致して慰安所に連行する。

 どんなに嘘をついて偽募集しても

 噂が広まり集まらなくなります。

 そのために拉致も行なわれました。

 学校の帰りや買い物の途中で年齢も確認しないで、

 いきなり拉致してそのまま見知らぬ土地の

 慰安所に連れて行かれるのですからひどいことです。

 多くが15歳、16歳の処女の女性です。

 この場合、白紙委任状、渡航許可証、

 戸籍謄本等の必要書類を業者、役人が

 偽装して警察は黙認しています。

 それどころか連行現場に警察や

 憲兵が立ち会う場合もありました。

  注:今、日本政府に謝罪を求めている人の

    多くがこのような例だったと思います。

 ● 朝鮮半島 文玉珠の例(当時16歳)

  友達の家からの帰り、

  まだいくらも歩かない内に、

  軍服を着た日本人が近寄ってきて、

  突然腕を引張って日本語で何か言った。

  そのまま憲兵隊らしい所へ連れて行かれた。

  そのまま中国東北部の軍慰安所に入れられた。

 ● フィリピン マリア・ロサ・ルナ・ヘンソンの例 

        (当時15歳)

  父がルソン島アンヘレスの大地主、

  母がそのメイドであった・・・・

  抗日ゲリラメンバ-と一緒に

  水牛の引く荷車に乗って日本軍の

  検閲所を通過しようとして呼び止められ、

  彼女だけ連行された。

  日本軍が宿舎にしていた病院に監禁され、

  次に精米所だった建物に移されて、

  日本兵の相手をさせられたという。

  週1回程度、性病検査があったという。・・・・

 ● インドネシア カリマンタンの例 

    「現地調達された女性たち」大村哲夫 から

  1943年前半に、海軍派遣部隊の隊長が

  在留日本人の「蓄妾禁止令」を出すとともに、

  日本人と性的関係にある住民を

  強制的に収容する命令が出され、

  海軍特別警察隊が集めた女性たちが、

  3ケ所の海軍用慰安所と、

  5~6ケ所の民間人用慰安所に入れられた。

 ● 中国・青島の例 

       「日本軍と戦った日本兵」 水野靖夫 著から

  若い女性をとらまえると、

  日本の兵隊たちはまず両手を開かせて、

  手の甲を調べた。

  農民や労働者の手であれば、

  その場でおもちゃにしたり、

  県城に連れて行って慰安婦や

  金持ちの妾や小間使いに売り飛ばした。

  白い手の女は、

  八路軍の手先の疑いありとして、憲兵に手渡され、

  拷問のあげくに虐殺される事が多かった。

 ● 鈴木啓久 陸軍第117師団師団長・中将 

    撫順戦犯管理所での筆供自述から(原文カナ)

  1941年分 私は巣県において、

  慰安所を設置することを副官堀尾少佐に

  命令して、これを設置せしめ、

  中国人民及び朝鮮人民婦女20名を誘拐して

  慰安婦となさしめました。

  1942年日本侵略軍の蟠居する所には

  私は各所(豊潤、砂河鎮その他2~3)に

  慰安所を設置することを命令し、

  中国人婦女を誘拐して

  慰安婦となしたのであります。

  その婦女の数は約60名であります。

5. 捕虜

 日本軍が各地で捕虜を殺害した事は

 知られていますが、

 女性兵士や掃討作戦で逃げ遅れた女性も捕虜にして、

 殺害せずに慰安婦にした場合もあります。

 このケ-スの場合、秘密が漏れるのを防ぐため

 僻地の最前線に送られています。

 非常に悲惨な末路だったと思われます。

6. 監禁強姦 

 占領した部落から女性を連行して

 勝手に閉じ込めて長期間強姦する。    

 勿論正式な(?)慰安所ではありませんが、

 被害にあった女性から見れば同じ事です。

 ● フィリピン ロシ-タ・パカルド・ナシ-ノの例  

  日本の占領中、42年に母が死亡し、

  翌年父が餓死した。

  彼女はイロイロのキャンディ工場で働いていたが、

  44年に工員をやめて

  祖母のいるエスタンシアに帰る途中、

  家の近くで日本兵に拉致された。

  家から20分くらいのところに

  日本軍の兵営があった。

  彼女はエスタンシアの旧製氷工場に

  連れて行かれ、将校・下士官・兵に

  次々と強姦された。

  彼女はこの工場に約1ケ月監禁されていたが、

  中には約15名の女性がいたようである。

7. 単なる行きずりの強姦

 説明の必要はありません

 

以上のケ-スで、

どこまでが慰安婦であり慰安所なのか・・・・

分類する事には意味はありません。

ケ-スはどうあれほとんどが処女の女性(商売ではない)、

しかも強制(詐欺を含む)で奴隷のように管理されたのですから、

性暴力を受けたことには変わりないからです。