軍による性暴力

慰安婦をどうやって集めたか?
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最終更新日:2014/05/05 9:37

慰安婦と言われた女性たちはどの様にして集められたのでしょうか?

この件は議論が分かれるところです。

色々なケースがありますが、私なりに整理してみます。

まず集めた場所ですが、

1 日本・朝鮮・台湾から集めた方法

現地軍が業者を指定して集めさせました。

その業務の統制は方面軍、師団、旅団などの司令部が行いました。

また、派遣軍からの依頼を受けて、日本、朝鮮、台湾の部隊が業者を選定して集めさせる事も行われました。

2    アジア各地に派遣された日本軍が占領地で慰安婦を集めた方法

現地軍直接、現地に出向いていた日本の業者、現地人の組織や行政などの場合もあります。

* 「憲兵下士官」鈴木卓四郎著 から

1941年4月21日、台湾第48師団は福州を占領したが、師団専属の慰安婦がついてこなかったので、

師団参謀部は兵站部に軍慰安所の設置を指示した。

そこで、兵站部は福州憲兵隊の兵長に協力を求め

市内の有力者に物資を提供して女性たちを集めさせた・・・・

   * 「新京陸軍経理学校第5期生記念文集(追悼)」から

1944年5月25日の洛陽攻略の後、戦車第3師団のある少尉は、

方参謀に呼ばれて「至急民家を改造して兵隊用の慰安所を作れ、

ついでに洛陽で女を集めて来い」という命令を受けた

そこで「これはメチャクチャである」と思ったが、

トラックに塩2~3袋を積んで洛陽に行き、2~3軒まわって10数名の女性を集めた。

 

そして次はどの様にして集めたか、ですが。その時に多くの問題が発生しました。

1 募集 軍が選定した業者に依頼して、日本、朝鮮、韓国で慰安婦として募集したケ-ス

     この場合、業者が年齢を偽って連れ出す例が多かったようです。

* 日本から 日本は婦人・児童の売買を禁止した国際条約に加盟していたので、

   内地で慰安婦を募集する場合は、すでに売春婦として商売をしている21歳以上の女性を集めました。

  しかし年齢は守られない事が多く、警察は黙認していたようです。

 「支那渡航婦女の取扱に関する件」 内務省発警第5号 1938年2月23日(原文カナ、意訳)

1 醜業を目的とする婦女の渡航は現在内地において娼妓その他事実上醜業を営み

  満21歳以上かつ花柳病その他伝染性疾患なき者にして

* 内地部隊、朝鮮軍、台湾軍が半ば強制的に募集した

       形式は募集でも、借金の代わりに身売りされたり、軍によって人数を割り当てられたりしました。

* 東南アジアでは軍が直接応募した例もあります。

    「マレ-半島における日本軍慰安所について」 林博史 論文

第25軍兵站に所属した兵士の証言によれば、1942年1月2日、

マレ-半島の上陸点シンゴラにいた兵站将校から3名がタイのバンコックに出張を命じられた。

そこで彼らは、日本企業の駐在員に頼んで23名の娼婦を集めてもらった。・・・・

       「シンガポ-ルの日本軍慰安所」 林博史 論文

1942年3月5日から8日にシンガポ-ルの中国語新聞「昭南日報」に

征求接待婦(接待慰安婦)と言う広告が載っている。

内容は   各民族の接待婦数百名を募集する

    年齢は17歳から28歳

    受付はラッスルズホテル(兵站管理の将校用ホテル)

    オランダ人やオ-ストラリア人女性に応募するよう強制した例もありました。

2   偽募集 警察、憲兵、役場、周旋人が嘘を言って連れ出した。

形式は募集でした。

       嘘の例  日本で就職させる

              日本の学校に入れてやる

              看護婦にする

              洗濯や炊事の仕事がある

* 朝鮮半島の宋神道の例(当時16歳)

大田で子守の仕事をしていた時、「戦地へ行って御国のために働かないか」と、

美しい身なりの朝鮮人女性に誘われた。

どの様な仕事なのかという説明はなかった。

平壌に連れて行かれ、そこで朝鮮人の男に売られた。

陸路で天津から漢口をへて、武昌に入った。

* フィリピンのルソン島の例  裁判の訴状から

フランシスカ・ナペ・サ・アウスタリは1942年12月頃、川で洗濯をしていたところ、

日本軍の協力者がやってきて、日本軍のために「洗濯の仕事をすると給料が家に送られる」と言った。

そこで、他の4人の女性と一緒に日本軍の駐屯地に行った。

その内2人は12歳だったので帰された。残った3人は慰安婦にされた。

* インドネシアのボルネオの例 「我らの軍隊生活」      輜重兵第32連隊第1中隊戦友会編

ある兵士は、44年にそこの軍慰安所にいた、リナ-という慰安婦から、

自分達は水産会社の事務員にするとだまされて、

スラウエン島のメナドからガレラに連れてこられて慰安婦にされたと聞いたという

* ラング-ンの例「戦場と記者」 小俣行男著

・・・・私の相手になったのは23~4の女だった。

日本語は上手かった。公学校で先生をしてたと言った。

「学校の先生がどうしてこんな所にやってきたのか?」と聞くと、彼女は本当に悔しそうにこう言った。

「私たちは騙されたのです。東京の軍需工場へ行くという話で募集がありました。

私は東京へ行ってみたかったので、応募しました。

仁川沖に停まっていた船に乗り込んだところ、東京へ行かずに南へ南へとやってきて、

着いたところはシンガポ-ルでした。

そこで半分くらいが降ろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです・・・・」

 

嘘をついてつまり騙して連れ出したのは誘拐(強制連行)に当たるのかどうか問題になる点です。

これについては既に1937年(昭和12年)、大審院の判例で「慰安婦業者に誘拐罪」が適用されています。

                      注:大審院は現在の最高裁判所です

* 1937年の大審院判決  1997年 洪祥進氏が発見した資料 (原文カナ)

第二審は被告人等が婦女を誘拐して上海に移送し醜業に従事させることを謀議した上、

被告人「A」以外の被告人等がその謀議に基づき長崎地方において10数名の婦女を誘拐し、

これを上海に移送したる事実を認定し、被告人等いずれも共同正犯なりと判定し、

その行為中、誘拐の点に対しては刑法226条第1項、移送の点に対しては同条第2項を各適用し・・・・

注: 1 被告人「A」は1930年10月頃から上海で慰安所を営業していたが、

  1932年1月「海軍指定慰安所」として営業を拡張しようと思い、

  「B」「C」と共に、単に女給または女中として雇うように騙して女性を誘惑し

  上海に連れて行った内容です。

2 「醜業に従事することの情報を隠し、単に女給又は女中として雇うものの如く騙し、

  勧誘誘惑して上海に移送」した事が刑法226条の「国外誘拐・国内移送罪」に問われた

  判決です。

  そしてこの226条は植民地だった朝鮮にも適用されていました。

3 強制連行 強制割当てで役場から連れて行かれた

この連行の多くは官斡旋という形を取っています。

軍が必要な人数を依頼してくると、地元の憲兵、警察、行政が協力して、村や町に割り当てるのです。

家族や地域を守るために大人から説得されて多くの女性が犠牲になりました。

* 中国の例 南京を占領した日本軍の宮本大尉が友人に宛てた手紙    1937年12月16日付

・・・・夜、兵站部の新設した慰安所に行って”慰安を受けよ”という命令を受けた。・・・・

中に300名の慰安婦がおり、もちろん今回の戦利品であり、すなわち地元で徴集した女性である。

私たちがついた時、慰安婦たちも相当疲れた様子で、火の周りに猫のように寝転んでいた。

誰もお金をもらえない、私たちを待っているだけである。

慰安婦の逃走或いは反抗を防ぐためか分からないが、兵士たちはにぎり飯を1個ずつ配られ、

やる時に慰安婦にやれ、これは慰安婦の1日の食べ物だと言われた。

女性たちはかなり飢えていたようで、おにぎりを見ると、すぐ奪い取って食べ始めた。

私たちが彼女たちの体の上で何をするか全然気にしない様子であった。・・・・

用が終わって集合して帰ろうとした時に、また80人くらいの地元の女性が連行されてきて、

衰弱した慰安婦と入れ替えにされた。

* 中国の例 平林一男 独立山砲兵第2連隊連隊長 回想から

両市塘に駐屯していた前の警備隊長は、

治安維持会長に最初にまず姑娘を差し出すように要求したというように、

小さな警備隊では自らの力で慰安所を経営する能力がないので、

中国側の協力に期待する事になっており、

ある場合には強制と言う形になっていたかもしれない。・・・・

* 中国の例 「憲兵下士官」鈴木卓四郎 より

1941年4月21日、台湾第48師団は福州を占領したが、師団専属の慰安婦がついてこなかったので、

師団参謀部は兵站部に軍慰安所の設置を命令した。

そこで、兵站部は福州憲兵隊の兵長に協力を求め、

市内の有力者に物資を提供して女性たちを集めさせた。

* 朝鮮の例 「ある日、赤紙が来て」真鍋元之著 から

・・・・ある日突然村長がやってきて、「軍の命令だ。お国への御奉公に娘を差し出せ」と言う。

御奉公の意味がすぐに分かったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号を繰り返したが、

村長は耳を貸さない。

この面(注:村の事)へ8名の割り当てが来たが、面には娘が5人しかいないから、

ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ。

村長の背後で日本人の巡査が肩をそびやかせている・・・・

*フィリピン、ミンダナオ島の例

  「高野部隊ミンダナオ島戦陣記」 フリピン・ミンダナオ島第126野戦飛行場設定隊から

飛行場の建設を始めた第126野戦飛行場設定隊の武石主計少尉は、上陸直後の44年6月、

内地から持参した女性用ワンピ-スの布を持ってダバオの有力者を訪問して慰安婦の斡旋を依頼、

1週間後に6名の女性を受け取って軍慰安所を開設した。

  「泥棒と黄塵」 下津勇 から

・・・・バヨンボンの大隊本部は急遽軍慰安所を作るように命令した。

そこで命令を受けた大隊附の下津勇中尉は各中隊の駐屯地の町長と話し合い、志願者を募集した・・・・

* マレ-のクワラビラの例 「マレ-半島の日本軍慰安所」林博史 から

歩兵第11連隊のある中隊長が治安維持会の会長代理(華人)を呼び出し、女性を集めるように指示した。

このころ、各地で日本軍による中国系住民の虐殺がおきていたので、

拒否すると殺されるとおびえた会長代理は、未亡人など18名を集めて差し出したが、

女性たちは会長代理に家に帰りたいと泣いて訴えたという・・・・

4 強制連行(誘拐) いきなり拉致して慰安所に連行する

どんなに嘘をついて偽募集しても噂が広まり集まらなくなります。

そのために拉致も行なわれました。

学校の帰りや買い物の途中で年齢も確認しないで、

いきなり拉致してそのまま見知らぬ土地の慰安所に連れて行かれるのですからひどいことです。

多くが15歳、16歳の処女の女性です。

この場合、白紙委任状、渡航許可証、戸籍謄本・・・・等の必要書類を

業者、役人が偽装して警察は黙認しています。

それどころか連行現場に警察や憲兵が立ち会う場合もありました。

注: 今、日本政府に謝罪を求めている人の多くがこのような例だったと思います。

 * 朝鮮半島 文玉珠の例 (当時16歳)

友達の家からの帰り、まだいくらも歩かない内に、軍服を着た日本人が近寄ってきて、

突然腕を引張って日本語で何か言った。

そのまま憲兵隊らしい所へ連れて行かれた。そのまま中国東北部の軍慰安所に入れられた。

* フィリピン マリア・ロサ・ルナ・ヘンソンの例 (当時15歳)聞き取り

父がルソン島アンヘレスの大地主、母がそのメイドであった・・・・

抗日ゲリラメンバ-と一緒に水牛の引く荷車に乗って日本軍の検閲所を通過しようとして呼び止められ、

彼女だけ連行された。

日本軍が宿舎にしていた病院に監禁され、次に精米所だった建物に移されて、

日本兵の相手をさせられたという。

週1回程度、性病検査があったという。・・・・

* インドネシア カリマンタンの例 「現地調達された女性たち」大村哲夫 から

1943年前半に、海軍派遣部隊の隊長が在留日本人の「蓄妾禁止令」を出すとともに、

日本人と性的関係にある住民を強制的に収容する命令が出され、海軍特別警察隊が集めた女性たちが、

3ケ所の海軍用慰安所と、5~6ケ所の民間人用慰安所に入れられた。

* 中国・青島の例  「日本軍と戦った日本兵」 水野靖夫 著から

・・・・若い女性をとらまえると、日本の兵隊たちはまず両手を開かせて、手の甲を調べた。

農民や労働者の手であれば、その場でおもちゃにしたり、

県城に連れて行って慰安婦や金持ちの妾や小間使いに売り飛ばした。

白い手の女は、八路軍の手先の疑いありとして、憲兵に手渡され、

拷問のあげくに虐殺される事が多かった。

* 鈴木啓久 陸軍第117師団師団長・中将 撫順戦犯管理所での筆供自述から(原文カナ)

1941年分 私は巣県において、慰安所を設置することを副官堀尾少佐に命令して、これを設置せしめ、

中国人民及び朝鮮人民婦女20名を誘拐して慰安婦となさしめました。

1942年分 日本侵略軍の蟠居する所には

私は各所(豊潤、砂河鎮その他2~3)に慰安所を設置することを命令し、

中国人婦女を誘拐して慰安婦となしたのであります。

その婦女の数は約60名であります。

5 捕虜

日本軍が各地で捕虜を殺害した事は知られていますが、

女性兵士や掃討作戦で逃げ遅れた女性も捕虜にしましたが、

殺害せずに慰安婦にした場合もあります。

このケ-スの場合、秘密が漏れるのを防ぐため僻地の最前線に送られています。

非常に悲惨な末路だったと思われます。

6 監禁強姦 占領した部落から女性を連行して勝手に閉じ込めて長期間強姦する。

    勿論正式な(?)慰安所ではありませんが、被害にあった女性から見れば同じ事です。

* フィリピン ロシ-タ・パカルド・ナシ-ノ の例  聞き取り

日本の占領中、42年に母が死亡し、翌年父が餓死した。

彼女はイロイロのキャンディ工場で働いていたが、

44年に工員をやめて祖母のいるエスタンシアに帰る途中、

家の近くで日本兵に拉致された。

家から20分くらいのところに日本軍の兵営があった。

彼女はエスタンシアの旧製氷工場に連れて行かれ、将校・下士官・兵に次々と強姦された。

彼女はこの工場に約1ケ月監禁されていたが、中には約15名の女性がいたようである。

7 単なる行きずりの強姦

説明の必要はありません

 

以上のケ-スで、どこまでが慰安婦であり慰安所なのか・・・・を分類する事には意味はありません。

ケ-スはどうあれほとんどが処女の女性(商売ではない)、

しかも強制(詐欺を含む)で奴隷のように管理されたのですから、

性暴力を受けたことには変わりないからです。

 

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