軍による性暴力

証言・手記・回想録から
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最終更新日:2014/04/20 12:35

慰安婦問題の中でも強姦は証拠資料があまりありません。

それは加害者の兵士にとって、強姦が軍の刑法で厳しく罰せられることと、

家族に対してみっともないということで口を閉ざしているからです。

被害者は世間の冷たい目に晒されて、証言できずにじっと耐えて生きて来たからです。

しかし1990年代始めに韓国の女性が証言を始めてから、アジアの各地で被害を受けた女性たちが証言を始めました。

まず被害者の証言です。

全ての証言は日本政府が主張する事とは逆で、完全に軍が関与している内容ですし、レイプもあります。

一番被害を受けた中国全体の状況はなかなか分かっていません。

しかし現地の山西省孟県の小学校教師、張双兵さんが地道に50人の聞き取り調査をしました。

その内すでに20人の女性が亡くなっています。       (1997年現在)

 

その中から1996年に日本の訴訟弁護団が聞き取りした内容を最初に紹介します。

 

「李秀梅」さん  山西省孟県李庄村 出生 1996年7月21日日本武道館にて聞き取り

・・・・私はまだ生理が始まっていませんでした。

結婚はしておらず、性体験はありませんでした・・・・

私が満15歳旧暦8月のことで、夕方でした。

私は母と2人、オンドルの上で靴作りをしていました。・・・・

4人の日本兵が入ってきました。・・・・

日本兵はオンドルの所に来て私を引張りました。

私を引張り返そうとした母は顔を殴られました。・・・・

母も私も泣きました。すると私は口にハンカチのような物を詰め込まれました。

私は外まで引張られました。私はロバにまたがされて連れて行かれました。

母の私を呼ぶ声が聞こえていました。・・・・

進圭村に連れて行かれヤオドンに入れられました。(注:ヤオドンはレンガ作りのドアが一つの家)・・・・

小さい部屋で小さい窓がありました。

床は張ってありません。オンドルがあるだけです。

ヤオドンでは2人の娘と一緒でした。・・・・

ヤオドンから砲台に連れて行かれました。

砲台の中の部屋に入れられました。

きれいな部屋でベッドもありました。

強姦されるという事は噂で聞いていたので分かっていました。

日本兵は私の顔にキスしたり体を触ったりしました。・・・・

身振りで私に服を脱ぐように要求し。私は恐ろしさのあまり抵抗できずに自分で脱ぎました。

日本兵も服を脱ぎました。日本兵の要求に従い私は横になり、強姦されました。

陰部に痛みがありました。性行為の経験がなかったのですから痛かったです。

この時のことは本当に忘れようにも忘れる事は出来ません。・・・・

それから強姦を繰り返される毎日が始まりました。

砲台に連れて行かれて強姦されることもあれば、ヤオドンに日本兵が来て強姦される事もありました。

砲台では夜、ヤオドンでは昼も夜も強姦があったように思います。

日本兵が進圭村にいる時はほとんど毎日です。

1日何人くらいに強姦されたかという事は、今となっては分かりませんが、

1人が出て行ったかと思うとまたすぐ次の者が来るということはよくありました。

日本兵が戦闘で進圭村にいない時だけ休めました。

生理のように出血している時も容赦なく強姦はありました。

しかし日本軍に連れて行かれてから初潮を見たのか、

強姦で傷つき出血したものかは実のところわかりません。・・・・

トイレの時だけ外に出て、見張られながら用を足しました。・・・・

ヤオドンには布団はありませんでした。麻袋や藁のような物で出来た空の米袋を布団代わりにしていました。

食べ物は雑穀(ポテト、とうもろこし、粟)でした。・・・・着替は与えられることはありませんでした。

身体を拭いたり洗うこともありませんでした。

砲台で強姦される時は、日本人は汚いといって私に顔を洗わせる事がありました。

強姦に来る日本兵の中でもひときわひどいのが「赤ら顔隊長」と呼ばれていた人物でした。

赤ら顔隊長は他の日本兵より特にひどいです。

人間ではありません。・・・・5ケ月たったころでした。

ヤオドンに赤ら顔隊長が来ました。その日も私を強姦しようとしましたが、私は抵抗したのです。

長く監禁され、逃げる事も出来ない、死ぬ事も出来ない、どうしようもない気持ちでした。

家族の事も思われました。

今日は死んでもいいと思って抵抗しました。赤ら顔隊長は怒って、革ベルトで私の顔を叩きました。

バックルが右目に当たり右目が見えなくなりました。

私は泣きながら庭に逃げ出しましたが、隊長は追ってきて、私の左腕を引張りました。

それはそれは痛く、骨が折れたと思いました。

そうまでされながらも、その日は死ぬ気で抵抗しようと思っていたので、私は隊長の腕に噛み付きました。

隊長はいっそう怒り、私の脚(左大腿部)を軍靴で蹴りました。私は倒れました。

隊長は付近にあった棍棒で倒れた私を殴りました。

頭を叩かれた時大量に血が出て、左目まで見えなくなりました。

頭を殴られ意識朦朧となり何がなんだか分からなくなりましたので、どこをどう殴られたのか分かりませんが、

後で見ると背中や脇などにも傷を負っていました。

私はメチャクチャにされ、その日は出来る状態でなくなったので、

結局その日は強姦されませんでした。・・・・

私は見張り役の中国人に民家に運ばれました。・・・・数日して知らせを受け、兄が迎えに来ました。・・・・

あまりに私の状態がひどいので、籠を雇って家に運んでくれました。

家に帰った私は、母が亡くなっていることを知りました。

母は私を引き取るため親戚から借りて、600元の銀を払ったのに、それでは足りないといわれ、

私を取り戻せず失望して首吊り自殺をしてしまったのです。

父もこうして母をなくし、私も戻らずショックで惚けたような状態で頭がおかしくなっていました。・・・・

半年あまり寝たきりの生活を送った後にようやく起きられるようになりました。

左目は10ケ月位して少しだけ見えるようになりました。・・・・

20歳で私は結婚しました。幸い夫はよい人でした。

子どもを4人もうけました。・・・・夫には最近この事を知らせました。

夫はいたわりの気持ちで見てくれます。・・・今は夫と2人で西冶村に住んでいます。

 

次は台湾の原住民女性の聞き取りからです

「イアン・アパン」さん  タロコ族の女性  1929年生まれ  台湾元慰安婦裁判原告の一人

1944年の暮、イアン・アパンさんは銅門派出所のタキムラ巡査部長に呼ばれた。

タキムラはこう言ったという「男はお国のために戦争へ行く、女もお国のために働かなくてはためだ。

榕樹の倉庫部隊へ働きに行かないか?兵隊の服を縫ったりボタンをつけたりする仕事だ」

月10円の報酬も出るという。

貧しい暮らしの足しになったらと思い行く事にした。・・・・

行くと兵隊は500人から600人位いた。

2~3ケ月たったある夜、宿舎に副隊長のナリタ軍曹が呼びに来た。

洞窟に連れて行かれると、すぐに一人の兵隊が入ってきていきなり襲いかかった。

着ている物を剥ぎ取られ、犯された。

痛みが襲い血まみれになった身体が恐怖に震えた。

15歳の子どもにとってそれがどういうことなのか理解できなかった。

それ以来、昼間は今までどおりの仕事をして、

夜になると何人かが交代で呼び出されて洞窟内で性暴力を受けた。

その中にはナリタ軍曹、隊長のエラ少尉、軍医のミヤモト上等兵がいた。

月に2回くらい家に帰ったが両親には本当の事が言えなかった。・・・・

3度も妊娠したが、そのつど軍医のミヤモト上等兵が薬と10日間の休みをくれた。・・・・

45年8月15日の敗戦は知らされなかった。何事もなかったように、何一つ変わらない日々が続いていた。

彼女達が部隊から解放されたのは46年3月だった。部隊が日本に引き上げたのである。

* イアンさんの話を続けます。

  「台湾の政府が毎月私たちにくれる150元のお金はとても助かっています。ありがたいですよ。

でも、どうして台湾政府から貰わなくてはならないのですか?

ひどいことをしたのは日本ではありませんか」

 

次は韓国の例で強制的に連行されて正式な(?)慰安所に入れられた女性です。

「崔奉仙」さん  1925年3月12日 平安北道雲山郡生まれ

・・・・14歳になったある日、子守をしている私のところに日本人の警官と憲兵隊長が2人でやって来ました。

「娘を供出する」と言い、無理やり私を連れ出そうとしました。

私は抵抗したのですが、2人は私の長い髪を掴み引きずり出しました。

そのまま私は5キロほど離れた民家に連れて行かれました。

中には私と同じくらいの年頃の娘が17人いました。

私たちはトラックに乗せられ香山駅まで連れて行かれ、そこから汽車に乗せられました。

私は着のみ着のままで何一つ荷物はありませんでした。・・・・

中国の黒龍江省の「サピョン」の2つ手前の駅で降ろされました。

トラックで連れて行かれた建物は「明月館」という看板がかかっていたのを覚えています。

そこにはすでに30人くらいの朝鮮の娘たちがいました。・・・・

この日から私は朝鮮の名前を失いました。

私に付けられた日本名は「ハルヤマホウセン」です。・・・・

私が入れられたのは19号室で入り口に名札が掛けられました。

部屋と言ってもアンペラ(ゴザ)で幅1メ-トルくらいに囲ってあるだけで簡単なもので、

入り口には布が掛けられているだけでした。・・・・

私の部屋に「タカシマ」という部隊長が長い軍刀を腰に下げて入ってきました。

タカシマは「言うことを聞け」と言って私に襲いかかってきました。

私はまだ幼くただただ恐ろしくて、大きな声で泣き叫びました。

その時他の部屋からも娘たちの叫び声が聞こえてきました。・・・・

泣き喚く私の口を無理やり塞いたので、暴れた拍子に歯が2本折れてしまいました。

言うことを聞かないので、タカシマは私の脚を縛りつけて強姦しようとしました。

それでも私は抵抗を続けました。

そうしている内に朝になり、タカシマはイライラして私の脚を蹴りつけ踏みつけて出て行きました。・・・・

その日の夜、タカシマはまた私の部屋にやって来ました。

「今度言うことを聞かないと軍刀で切るぞ!」と脅かすのです。

それでも私は拒否し続けました。

怒ったタカシマは軍刀でダイコンを切って、それを私の性器の中に押し込みました。

さらに2人の軍人が入って来て、私のそれぞれの足を引張りました。

私の膣は肛門まで裂けてしまいました。

あまりの痛みと恐怖で私は気を失ってしまいました。・・・・

それからというもの、私は犬や豚のような扱いを受けました。

私は年若くただただ恐ろしく毎日なき続けご飯も喉を通りませんでした。

20日ほどたったときのことでした。私たち朝鮮人女性48名が庭に集められました。

軍人は私たちの膝に、水で浸した角棒を挟んで正座させ、その太ももを棒で殴りつけたのです。

棒を水につけては殴りを繰り返しました。

その時脚をかばった拍子に頭に棒が当たって「ハルヤマヒロコ」という娘が死にました。

私と同じ14歳でした。娘の死体は外に放り出されました。

そこに来てから軍人の相手を多くした者は殴られる回数が少なく、少ない娘は何度も殴られました

。私の脚は裂けて肉がはみだし、膝は外れてしまいました。

その後麻酔もかけない状態で右足を4ケ所、左足を1ケ所縫いました。

そんなひどい怪我をしていても軍人はやってくるので傷口はすぐ開いてしまいました。

そんな苦しい目に遭いながらも私は死ぬことも出来ませんでした。

生命力の弱い娘たちは死んでいきましたが、私の生命力は強く死ぬことも出来なかったのです。

ある日妊娠した娘が出産しました。

私たちは会話を禁止されていましたから、その娘は誰にも相談する事も出来ず、

生まれた子どもをどうすることも出来ませんでした。

すると軍人は生まれた子どもを外に捨てたのです。

幸い通りかかった中国人がその子どもを拾って行きました。その後子どもがどうなったかは全く分かりません。

1年半ほどして部隊はチチハルに移動しました。これまでに6人が亡くなりました。・・・・

1年半ほどして再び部隊が移動する事になりました。

その内私は梅毒にかかってしまいました。

血膿が出るほどの重症でした。軍人は梅毒に罹った私を鍵のかかった部屋に閉じ込めたのです。

あまりに痛みがひどくぐったりしてしまいました。

3日目に軍医がやってきて「606号」の注射を打ってくれました。・・・・

19歳の歳です。私はトラックに乗せられて北京に連れて行かれました。

そこの部隊は広い野原にあり、私はテントに入れられました。

テントの中は小さく分けてありそこに娘たちが一人一人入れられたのです。

そこでは服を着ることも許されず、私たちは裸のままでした。・・・・

そんなある日突然軍人たちの姿が見えなくなりました。中国人がやってきて「日本は戦争に負けた。

軍人たちは皆逃げてしまっていない」と教えてくれました。

そこで私たちは解放を知ったのです。

私を含め7名の朝鮮の娘たちは置き去りにされたのです。

私たちは服もなく靴もなくお金もなく、これからどうしたらいいのか途方にくれてしまいました。

その時やって来た中国人に助けられて、朝鮮に帰る事が出来たのです。

しかし新義州に着いた、時私はその足で故郷に帰ることをためらいました。

恥ずかしくてとても家族に会うことは出来ませんでした。そこで私は故郷ではないピョンヤンに行ったのです。

とうとう故郷の親に消息を知らせる事も会う事も出来ませんでした。

 

次は北朝鮮からの証言を2つ。

これは2001年3月に日本市民訪朝団が北朝鮮を訪れた時の記録です。

「李桂月」さん  1922年9月5日 黄海道碧城白雲生まれ

・・・・ペタン旅館で働いていた時に、洞長が来て連れ出されました。

ペタン旅館の前の線路に停まっていた汽車の中に放り込まれてしまいました。

1人は大きな星をつけた高田という人でした。

ドアが閉じられて、見ると皆どこで捕まってきたのか、

中には私のような幼い少女たち2人がワンワン泣いていました。・・・・

ハルビンかどこかに降ろされて、今度は船に乗りました。

牡丹県で降り・・・・板の壁で下にはムシロが敷かれている所に私たち3人は入れられました。・・・・

その晩高田が私を犯しました。

私たち3人は、背の低いヨンジャには永子(エイコ)、イプニには愛子(アイコ)、

私には松子(マツコ)と名前が付けられました。・・・・

毎日男の相手をするからエイコは病気になって、お腹が大きく膨らんだのです。

エイコは14歳でした。・・・・そしたら「こいつは妊娠したから役に立たないから殺しても構わない」と、

軍刀でお腹を切りましたが胎児はありませんでした。

妊娠ではなくて腹水でした。エイコは野原に放置されて軍犬がむさぼりました。

それを見て私たちは気を失ってしまいました。・・・・

将校たちが酒に酔って踊ったりして遊びまくった後に、際限なく私たちに性行為を強要するのです。

耐えられずに気を失いました。・・・・

高田が「このやろ、死んだのか」と、私の腹に火のついたタバコを押し付けました。

熱くて体が驚いて動くと、それを見て「まだ生きている」と快楽に喜びながら、

私の上に乗ったまま繰り返しやってから出て行きました。

他のやつらはそれを見て「もう死んだ」と言って出ていきました。

イプニは13歳の子どもでした。・・・・

そんな子を日曜に8時から12時まで100名も構わんと性行為を強要したので死んでしまいました。

そしたら、刀で切り刻んで四方に放り棄てました。

私たちの食事は、麦、馬の餌に与えるもの、タイ米、粟などでしたが、

軍犬には牛肉や野菜を入れた汁を食べさせ、私たちは味噌汁すら見ることも無かったのです。

2年もいて、踏みつけられ、子宮が裂かれたり腫れたりして、お腹が腫れあがり、下半身不随になりました・・・・

 

「金英淑」さん   1927年1月24日 平安北道泰川郡鶴峰里 生まれ

下女の仕事をしていましたが・・・・1939年11月、巡査に騙されて汽車に乗りました。

私は満12歳でした。・・・・

たどり着いたのが中国の瀋陽でした。・・・・

まわりをレンガの高い垣根と鉄条網で囲んだ建物がありました。

そこで将校相手の「慰安婦」をさせられたのです。・・・・

「遊ぶ」という言葉の意味が何なのか全然分からないまま、

その日本の男が私を無理やり倒すと、私を犯そうとしてのしかっかってきました。

男性器を入れようとしてしても入るもんですか、入りません。

入らないとポケットからナイフを取り出して私の身体のあちらこちらを切り裂き、

さんざん切り裂かれて、そして最後に入って来て、それで私は気を失いましたが、

それでもその男はやりたいまま欲望を満たして行きました。

その日本人は中村と言いました。・・・・

金村というやつが私の部屋に入ってきました。

「おまえ、私の言うことを聞かないとおまえの肝を取って食ってやる」と言って、

それで・・・・こう切り裂きました。

切り裂かれて腸が全部出てきました。あまりにも痛くて悲鳴を上げたので、

ほかの慰安婦たちが駆けよってお腹を針で縫って、腸を入れて・・・・

そうして、本当に、私は死んだようになって分からなかった。

血がいっぱい出ていました。それで別の1人の男が入って来ると、その名前は分からないが、今度は軍靴で踏み潰そうとして、・・・・

日本のやつは、正直言って、あいつもこいつも誰でも同じ。どのやつも言葉で言わないで。・・・・

こうして本当に、殺そうと・・・・ひどかった。

本当に・・・・もう一つ、鳳女という女性が妊娠してしまいました。

妊娠していたので、言うことを聞かないといって、電信柱に吊るしてから、私たちに皆出てくるように言われました。

集めさせて「言うことを聞くのかどうか」と聞かれて「死んでも聞かない」と答えると、

逆さまに吊るされたまま、刀で上から下に切りました。

飛び出した内臓、便のついたものや血のついたものを私たちの首にかけました。

それで、それを見せ付けられてみんな失神してしまいました。

解放になる前の45年3月頃・・・・

殴って殺し、踏み潰して殺し、こうして(25名いた慰安婦の内)20名が殺されました。

今度は私が死ぬ順番が来た。それで決心して逃げ出しました。・・・・

本当に歳が幼すぎるから・・・・

日本の男に、このように私が苦痛を受けた体験が分かりますか?12歳の幼さで何を分かりますか?

 

インドネシア女性の証言です

「マルディエム」さん  1929年生まれ  1995年12月8日  東京TBSホ-ルにて

・・・・経済的に困っているというわけではありませんでしたが、歌手になりたいと思っていたので応募しました。

カリマンタンのバンジェルマシンで募集していたのは、レストランで働くか芝居の役者でした。

募集は「ソウゲンジ」言う日本人がしました。・・・・

トウドウ駅に集まると、ジョグジャガルタの人が40人、アンバラワンの人が8人で合計48人でした。・・・・

途中で何人か別れて、バンジェルマンからトラックでトラワンと言うところに連れて行かれました。

そこで24人は個室を与えられました。

個室には1から24の番号がふってありました。私は11号室を与えられました。

私は「モモエ」と言う名を付けられました。15歳以下の人が4人いました。

翌朝になると軍の病院に連れて行かれ、身体検査をされました。

何のためだかまだ分かりませんでした。

病院から帰って仔細がのみこめました。そこには沢山の人が集まっていました。

その日は慰安所のオ-プンの日だったのです。

市場のように人が列を作って待っていました。・・・・

最初に経験した人の風貌を忘れる事が出来ません。

よく覚えています。当時、私は13歳だったので、続けて6人も客を取らされると物凄い出血がありました。

死んだほうがましだとさえ思いました。・・・・

私たちはお金を貰ったわけではありません。

客は来ると、映画館と同じようにチケットを買うわけです。

昼間には軍人が利用しますが、2円50銭払うとチケットと2個のコンド-ムが渡されます。

私たちが受け取ったのはチケットの切れ端だけです。・・・・

1時間に2回相手をしなければならず、出血止の薬を貰って血が止まるとまた1日に10人から13人の客を取らされました。

1943年に妊娠してしまいました。・・・・

戦争中だったので、麻酔も鎮痛剤もなしに掻爬されてしまいました。とても痛かったです。

出された赤ちゃんは5ケ月の男の子でした。まだ生きていましたが殺してしまったのです。

罪の意識に今でもさいなまれています。

習慣に従って名前を付けました。「マルディヤマ」と名付けました。・・・・

日本の皆さんに言いたい事があります。

私は物乞いをしているのではありません。

日本の人に被害を知って欲しいのです。

日本の若い人が知らないというのは罪ではありません。年配の人が教えなかったのが罪です・・・・

 

「スハナ」さん  当時16歳 1999年8月、

「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」での証言

私が家の前の道端にいた時、突然「ダイニッポン」のジ-プがやって来ました。

軍人が6人くらい乗っていたと思います。

彼らは私の長かった髪を引張って引きずり、ジ-プの中へ押し込みました。

その後、元々オランダ軍の将校用住宅だったグドウン・ウラバンという建物に連れて行かれました。

日本兵は私に「働け」と命令しました。・・・・

そこには若い女性が30人くらい入れられていて驚きました。

私は「家に帰りたい」となき続けていたら軍人に殴られました。・・・・

翌日、別の部屋で「ダイニッポン」の男がやってきて、私は無理やり犯されました。

抵抗すると平手打ちされました。

「イケダ」という軍人です。

私はその時処女でした。

私は本当に死んだような気がしました。・・・・

その日から毎日毎日、日本軍の男たちに犯され続け、とても長く感じられました。

金曜日に「タナカ」という医師に検査されました。

そこでなんとタナカ医師も私をレイプしました。・・・・その時の日本兵の様子は軍服を脱がず、

ただズボンを降ろしただけで、そういう格好で私たちをレイプしたのです。・・・・

1部屋に3人入れられました。それなのに軍人たちはお構いなしです。

私は恥ずかしくて周りを見ることが出来ずいつも目を覆っていました。

拒否すると「バケロ-」と言って足蹴りにされたり殴られたりしました。

日曜日は休みなのですが外に出ることは出来ませんでした。・・・・

恐らく生理の時でさえずっとレイプされ続けたからだと思うのですが、私は病気になりました。

私の友達も病気になり、何が原因だか分かりませんでしたが亡くなりました。・・・・

私のような若い女性が1晩に10人もの男にそのような仕打ちを受け続ける事に耐えられるはずがありません。

私は部屋の端に1ケ月そのまま放っておかれ、ずっと出血が止まりませんでした。

その内いつの間にか日本の軍人たちも、そこで働いていた中国人もいなくなってしまいました。・・・・

私は歩けない状態でしたがインドネシアの兵補におぶさって家に帰りました。・・・・

父は私を探しに言って日本の軍人に殺され、母はショックで病気で死んでしまいました。・・・・

私は男の子を養子に貰って育てました。

私は息子に一度も戦争中に体験した事を話しませんでしたが、

日本に来るためにパスポ-トの準備をした時に初めて話をしました。

彼は大きな衝撃を受け泣き崩れました。・・・・

実は私はインドネシアに帰国することをとても案じています。

隣近所の人は誰も知らないからです。・・・・

慰安所に閉じ込められ、最初に着せられたのは白い上着でした。

ですから、今でも白い上着を見たりすると当時の事を思い出すのです。

日本に来て「日の丸」の旗を見ると涙が出ます。

もう一つ「ダイニッポン」の歌を聞くと悲しくなります。

私の身体も一生メチャメチャされた事を思い出すのです。

 

次は日本人慰安婦の証言です。

日本の社会の中で自分が慰安婦だったと名乗り出る事は大変勇気のいることです。

「城田すず子(仮名)」さんの話と手記から

城田さんは1985年自分の体験をTBSラジオで語りました。

この頃彼女は千葉県の女性厚生施設で車椅子の生活を送っていました。

1993年に71歳で亡くなりました。

若い人で従軍慰安婦を知らない人は幸福よ。

本当に幸福。従軍慰安婦の女の子たちのこと、いっぺんも、一言も、どこでも言った事はないのよ。

終戦から40年にもなるのに、兵隊さんや民間の事、原爆の事とかは、みんな言ってるわよ。

だけど慰安婦の事だとか性の提供者だとか、その人たちが大勢死んでいるってこと、

いっぺんの慰めもないし・・・・

40年たった今、バカヤロ-って言いたくなっちゃう。

ほんとに・・・・中国、東南アジア、アリュ-シャン列島で性の提供をさせられた女性たちは、

さんざん弄ばれて、足手まといになったらおっぽり出され、

荒野をさ迷い凍てつく山野を食もなく、野犬や狼の餌食になり、骨はさらされ、土になった。

兵隊さんは1回50銭か1円で列を作り、私たちは洗う間もなく相手をさせられる。

地獄の苦しみ・・・・何度、兵隊の首を絞めよう思ったか、半狂乱だった。

死ねばジャグルの穴の中に棄てられ、親元に知らせるすべもない有様だった。

それを私は見たのです。この目で。女の地獄を・・・・椰子の木なんかを集めて慰安所を作ったのよ。

女の人はみじめだったわよ。ほんとにみじめだった。

水兵さんだって痩せこけて骨と皮ばっかりになってうろちょろしているのに、それでも女のところに来るのよ。

耐え切れなくて自殺しちゃった女の子もいっぱいいたわよ。

死体はジャングルの中にほっぽり投げておくの。

そうすると野良犬だとか見たことの無い動物が来て肢体を食べるんだから、

それで骨ばっかり散らばっているのよ。

 

慰安婦だけではなく日本軍人の手記も書きます。

 

「山口時男軍医の手記」 溝部1人「独山2-もう一つの戦争」から

8月4日(晴)・・・・10時から各隊長会議・・・P屋(慰安所)規則の制定である。・・・・

 よく考えてみると設備が大変である。

 部屋、受付、帳場、洗浄所、風呂場、便所、それに寝台、衣服、

 衛生材料・・・・女の名前は各乗馬の名前を付けよ20数名応募したうち数名はヴァ-ジンである。

 1人で1日何人受け持てる?みんな素人で、最大限1人当たり5人だ・・・・

8月11日(晴)・・・・徴発P(拉致した慰安婦)の身体検査があると思うと全く嫌になる。

   段列から「準備が出来た」と

 電話がかかって来る。

   耳鏡、綿棒、聴診器、クレゾ-ル石鹸液、携帯嚢などを持って馬で行く・・・・

 局部の内診になると、ますます恥ずかしがってズボンを脱がない。

 通訳と維持会長が怒鳴りつけてやっと脱がせる。寝台に仰向けくらいにして触診すると、

 夢中になって手を引っ掻く。

 見ると泣いている・・・・次の姑娘も同様で、こっちも泣きたいくらいである。

 みんなもこんなに恥ずかしい事は初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、

 屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。

 保長や維持会長たちから、村の治安のためにと懇々と説得され、泣く泣く来たのであろうか?

 なかにはお金を儲けることが出来ると言われ、応募した者もいるかもしれないが、

 戦に敗れると惨めなものである。

 検診している自分も楽しくてやっているのではない。

 こういう仕事は自分には向かないし、

 人間性を蹂躙しているという意識が念頭から離れない・・・・

 

「わが戦記 恥さらし」 宮谷重雄(戦車第3師団見習士官)      新京陸軍経理学校第5期生記念文集から

・・・・出頭すると、「宮谷少尉は、至急民家を改装して兵隊用の慰安所を作れ、

ついでに洛陽で女も集めて来い」という命令である。

もうこれはメチャクチャである。

大学を出て、何の因果でピ-屋作りをさせられるのか、その上女衒まがいの女集めまでさせられたのである。

何とも情けない思いであったが、命令である。

同行していた大工上がりの軍属に慰安所作りの指示を与え、塩を2~3袋トラックに積んで、

洛陽市内に女狩りに赴いた。・・・・

ともかく、洛陽をトラックでグルグル回り、私のカンも良かったのか、2~3軒で10数人の女集めに成功して、

部隊に連れてくる事が出来たのである。

 

「我等の軍隊生活」 輜重兵第32連隊第1中隊戦友会誌

・・・・慰安婦は30名余りおり、

その内の1人で源氏名を清子(本名リナ-)と名乗る18歳の若い娘を知り、よく遊びに行った。

彼女らは、セレベス島のメナドから、

東印度水産会社の事務員にすると騙されてガレラに連れてこられ、慰安婦にさせられたそうである。

彼女らの女学校時代のセ-ラ-服の写真を見せられたが、日本の女学生と同じ服装で、

メナド人はミナハサ族と言って色白で日本人にとく似た顔立ちで美人であった。

彼女らは当時としては高等教育を受けた良家の子女であった。

 

「北斗七星から南十字星」 濱村幾三郎

・・・・そのうち戦友の一人が遊びから帰ってきてビックリしたように言った。

「女を買いに行ったら、それがなんと妹の同級生なんだよ。

あんなに驚いたことはないね。

なんでも、だまされて連れてこられたそうだ」彼がその娘から聞いてきたところによると、

19歳から20歳くらいの朝鮮の女が、タイピストやウエイトレスや事務員の名目で何百人も国に狩り出され、

御用船に乗せられて来てみると、タイピストどころか慰安婦だったといのである。

どの娘も高等教育を受けたちゃんとした家の生娘で、それが集団で連れてこられたそうなのだ。

 

「樋口三代吉日記」 1938年4月 揚子江崇明村で警備に付いていた頃

4月11日-6 今日あたりから崇明にも廟鎮にもP屋が出来るはず。「おい、きれいなク-ニャンが15人ばかり

大隊本部に入ってったよ」と報告しにきた者がいたが、兵隊も金を出す段になると、行き渋るだろう。

4月11日-7 人を殺そうと思えばいくらでもその機会はある。ク-ニャンを犯そうと欲すれば、

いくらでもその機会は与えられる。

内地では絶対に禁止されている極端な快楽が戦地では半ば公然と、しかもただで許されているのだ。

上も下も荒んだ気持ちの鬱を専らここで晴らしている感がある。

4月12日-1 兵隊は半ばヤケになっている。今度戦闘があったらばりばりやってやる。

その代わり、今より徹底的に強盗もやる。

強姦もやる。殺人もやる。火付けもやる。

どうせ命も捨てる人間、という気持ちが非常に強い。

兵隊は戦争にあきあきしているが、頭の悪い自己の功名心にのみ燃えている師団長級の者は、

一戦でも余計に頑張って自分の功績を増やそうと思っているらしい。

 

「東 征雄(仮名)」証言 1915年8月生まれ 第16師団歩兵第33連隊代3大隊

2000年6月南京事件での証言

・・・・みんな襟章を外して物を奪うのさ。

腹へってくたくたになっても女を見るといきり立って捕まえよった。・・・・

部隊のもんはみんなやっとったわ

。黙認じゃ。

女は殴って、殴って半殺しにしたわな。抵抗されるからじゃ。

若い女は腰振って入れさせんようにするからじゃ。

嫁(既婚者)はやりやすかったわな。

恥ずかしいからこれ以上勘弁してください。・・・・

抵抗するから殴りつけたんじゃ。

させたもんは殺しはせんかったが、させんもんは殺したわな。

慰安所の娘は、ピ-屋から軍需工場や看護婦にするというて騙されて連れてこられた言うとったわな。・・・・

前線に徴用され、将校にやられた後、慰安所に払い下げられた言う話も聞いとるわな。

兵隊には立派な事を言いながら、こんな将校もおったわな・・・・

若いもんばっかりじゃ、女が欲しいわな・・・・

支那の女は臭いが違うとった。

台湾は台湾の臭い、朝鮮は朝鮮の臭いがあった。

食べ物の違いじゃろか?(強姦した中国の女は)10人じゃきかんわさ。

30人ぐらいじゃろか。

ようは覚えておらん。

それは勘弁してく・・・・

日本は「神国」じゃ、何してもええと思うとった。・・・・

大東亜戦争の時、スマトラでオランダ人の女とも寝たよ。

慰安所やのうて捕虜収容所やった。・・・・

日本が負けて帰る時、その2~30人の女から「首実験」されたわな。

悪いことした奴はどれかちゅうことですわ。

わしは髭剃ったりしてばれんかった。ひやひやした。・・・・

今そん時の支那人が夢に出てきよる。

70歳になってからじゃ。気が弱くなったせいかねえ。

人を殺したとは言うても、他のこと(強姦)は誰にも言うとりゃあせんよ。

戦友会でも言わん・・・・

 

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