日本の細菌戦

はじめに
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最終更新日:2014/12/13 12:09

この原稿は1997年に書いたものを基本にして、大幅に加筆しました。

 

731部隊を始めとしたいわゆる4つの細菌部隊の目的は

捕虜を使った実験だけをしていただけではありません。

実はこれらの残虐行為はそれ自体が目的ではなく,

細菌の毒力強化や,効果判定や,大量生産のシステムを作り上げるための研究として行なわれていたのです。

そして本当の目的は実際の戦争で細菌戦を実行する事でした。
もともと日本の軍事医学は非常に優れていました。

昔から世界のどの戦争でも,実際の戦闘で死ぬ人よりも伝染病その他の病気で死ぬ人の方が多かったそうです。

ところが日露戦争では日本軍の病死者が少ない事が世界の驚異となりました。

しかも日本軍はとても人道的で,多くのロシア人捕虜の病気や怪我を治療して

送り返した事が欧米諸国から賞賛されたと言うエピソ-ドが残っている位です。

 

しかし石井四郎率いる731部隊が登場してから戦争医学は人命を救う事から,

戦争の手段つまり細菌攻撃をする目的に180度変ってしまったのです。

資源の乏しい日本が大国であるソビエトやアメリカと戦争するためには

最も安上がりな生物兵器が必要だと言う石井四郎の意見が通ったせいです。

*関東軍司令官 山田乙三大将 ハバロフスク公判供述

・・・・731部隊は、主としてソビエト同盟並びに蒙古人民共和国及び中国に対する

 細菌戦の準備を目的として編成されたものである

* 元 731部隊隊員 軍属 篠塚良雄 証言

生体解剖ともなれば,確かに医者たちは自分の研究や野心を満足させるので喜々としてやる。

植付けた細菌がどの部位でどのような変化を与えているか大変興味をもって調べる。

しかしそれは731部隊の目的からすれば2次的なことだ。

本来は,そこで細菌の毒力がどれだけ強化されたかを調べ,

より強力な細菌をとり出すということだ。

したがって生体実験というものは、細菌の毒力、感染力の強化実験と言ってもよい。

生体解剖が必要なのは、死後の雑菌によって植付けた菌の毒力が低下しないためだ。

*大阪大学名誉教授 中川米蔵   1994年証言

私は昭和20年に京都帝国大学に入学した時、731部隊幹部である軍医の話を聞きました。

「医学と言うのは,病気を治したり,ケガを治したりするものではない。

日本は世界を相手に戦っている。

医学もまた兵器だ

 

そして細菌戦はその通り実行されました。

1938年に日本軍機による細菌爆弾の投下や井戸へのコレラ・チフス菌の投下などの記録がありますが、

裏づけの証拠や資料が不足しています。

 

確実なのは1939年のノモンハン事件がらです。

*証言  西俊英軍医中佐  731部隊教育部長  (1949年12月26日、ハバロフスク裁判公判記録から)

(注:検事の質問は短くして、答えを中心に書きます)

◎ハルハ河方面事件の際、石井部隊が細菌兵器を実用したことを知っています。

 1944年7月、私は孫呉の支部から平房駅の第731部隊教育部長に転任せしめられました。

 私は前任者園田中佐から事務を引き継ぎました。同日、園田中佐は日本に向けて出発しました。

 私は彼の書類箱を開け、ノモンハン事件、すなわちハルハ河畔の事件で、

 細菌兵器を使用したことについて書類を発見しました。

 そこには当時の写真の原版、この作戦に参加した決死隊の名簿、碇少佐の命令がありました。

 決死隊は将校が2人、下士官、兵役20名からなっていました。

 この名簿の下には血で認めた署名があったのを記憶しています。

◎(誰の署名か?)

 隊長碇の署名です。

 ついで碇の一連の詳細な命令、すなわち如何に自動車に分乗し、如何にガソリン瓶を利用するか等、

 さらに帰還するかについての指示が若干ありました。

 これら2つの文書から20人乃至30人からなる決死隊が河

 -私はハルハ河と思いますが-を汚染したことが明らかになりました。

 翌日私は、これ等の書類を碇少佐に手渡しました。

 私がこれ等の書類を碇に手渡した時、さてこの結果はどうであったのかと興味を持ちました。

 碇は黙ったまま書類を引取りました。

 この作戦が行われた事実は争う余地がありませんが、その結果に就いては、私は何も知りません。

*証言 元731部隊少年隊 千葉和雄、鶴田兼敏、石橋直方

1989年8月24日 朝日新聞  (要約)

「ノモンハン事件の戦場に川に、私たちの手で大量の腸チフス菌を流した」

ホルステン川の上流から病原菌を流し、下流のソ連軍に感染させる目的で,

ハルビン平房から軽爆撃機で輸送されて来た18リットルの石油缶22~3個に入った寒天状の腸チフス菌を

川にぶちまけた。

その際隊員の中に感染者が出て、死亡したものもあった。

腸チフス菌を川に投入すれば流されてすぐにも効力がなくなることぐらいは石井らも知らないはずはない。

あの作戦は細菌戦というよりも、私らの士気を高め、能力がどのくらいあるのかを調べる訓練のように思う。

 

その後中国各地で細菌戦を行ない,

最後には東南アジア、オ-ストラリア、アメリカまでが目標になってきます。
しかし戦後の東京裁判では日本は731部隊の事は免責され、

存在すら認めていなかったのですから,細菌戦も当然無かった事とされてきました。
ところが最近になって細菌戦の実体が少しづつ明らかになってきました。

 

まず1994年10月浙江省崇山村の農民たちが損害賠償を求める文書を

日本大使館に提出しましたが、日本政府は無視しました。

この動きがきっかけになって,

1997年8月11日にはその細菌戦で被害をこうむったとして

108人余りの内代表で4人の中国人が来日し日本政府を訴えました。

原告の108人は浙江省,湖南省の6ケ所の地域の人達です。

今回述べる細菌戦は主として満州の731部隊と南京の栄1644部隊との合同で行なわれたものです。
細菌戦による被害は1940年から出ていますが,

米軍による空襲が始った1942年4月からは、その米軍基地が
浙江省にあると判断した大本営は支那派遣軍に対し

同省附近の掃討戦を命令し浙かん作戦と称され,その一環として細菌戦が強化されたのです。

 

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