日本の細菌戦

1945年、細菌戦の中止 と日本軍資料
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最終更新日:2015/04/04 11:57

 [浙江省雲和県]

1945年4月14~15日、撤退を前にした日本軍は、

ペスト菌を持ったノミを混ぜた綿、あめ、ビスケット、おもちゃなどを雲和県に投下し、

その後間もなくして、雲和の県城、貴渓、象山、赤石等の町や村でペストが発生しました。

不完全な統計でも義最者は1075名といわれています。

 

*大塚備忘録から

1月8日

局長より

宮崎第1部長-石井少将の件

大臣決済

1、ほ号作戦はやらぬ

2、原材糧で促進する

3、謀略的使用をなす事あり

   300kg-現在で出来る

局長

300キロ作らせる様発進するが可と思う

これが為主計、薬剤官を附けてくれと云うからやる

機構 ほ号の整備、補給

小出

現在の機構と人員では300キロは出来ぬ

満州 150キロ  餅22.5万、21万9千補給

満州で白餅1.0万

注:細菌戦が中止になったのです。

   しかし謀略的実施は中止されず増産は続けられました。

7月24日

(発疹チフスの診断液を作る為にネズミ増産の要望が出された時)

神林医務局長

ホ号は全面的に中止

注:大臣決済は1月8日ですが、実質的にはこの頃が細菌戦の完全中止の時期だと思われます

 

 *証言 松本正一  731部隊航空班

1945年8月11日だったと思うが、上官から証拠はただちに隠滅せよとの命令があったので、

格納庫、飛行機など全部燃やした。

それから、帰国のために残しておいた飛行機で瀋陽に行き、

そこで玉音放送を聞いて敗戦を知った。

 

そしてサイパンやグアム島に対する最後の最近攻撃の為約20人の部隊が出動しましたが

船が途中で撃沈され失敗しました。

また連合軍が上陸するのを待って沖縄や小笠原に細菌攻撃する案が出たりしましたが

これは実行に移されませんでした。

日本軍が守ってくれると信じ,結局切り離された沖縄は,

1994年1月の731部隊展でこの事実を知らされ

2重に裏切られたと大きなショックを受けたと報道されています。

 

又米国本土に対する細菌特攻作戦も計画されました。

「PX作戦」と呼ばれ陸海軍合同プロジェクトでした。
水上飛行機2機を搭載する水中空母と言う大型潜水艦を使用し,

米国の海岸で飛行機からペスト.コレラを散布し,乗組員も細菌を抱えて上陸すると言うものでした。

しかし細菌が足りなかった事と梅津美治郎参謀総長の反対で実現しませんでした。

 *サンケイ新聞 1977.8.14

「細菌を戦争に使えばそれは日米戦という次元のものから,

人類対細菌といった果てしない戦いになる。人道的にも世界の冷笑を受けるだけだ…

そして細菌戦そのものが中止となるのです。

1945年1月8日 大臣の決裁 ホ号作戦はやらぬ(大塚備忘録)

 

ここで長かった細菌戦は中止となりました。

戦後細菌戦に関する資料をすべて押収、独占したアメリカの科学者の次のような言葉があります。

「科学者としては,やりたい研究や実験は山ほどある。

しかし道徳や良心がある為にどうしても出来ない事がある。

しかし日本軍はその出来ない事をやってくれた。

その大変貴重な資料は絶対他国には渡せなかった..」

私たちの日常生活で使われる言葉に、「悪法も法である」「上の命令だ」「国の為会社の為」「皆で渡れば怖くない」

と言うような言葉があります。

そこには個人の自立した道徳観,良心はありません。

戦争や事件が起こったその場になってからでは道徳や良心は力がないかも知れません。

そうならないように政治や社会や環境や教育に,

自立した道徳や良心をもって日常の思考と行動をする。

この積み重ねが社会の悪化を防ぐ一つの方法だと思います。

 

最後に旧西ドイツのヴァイゼッカ-大統領の1985年敗戦記念日の演説より

過去の事実をなかったことにするわけにはいきません。過去を見ようとしない人の眼には,

現在も見えなくなります。非人道的な行為を心に刻もうとしない人は,そうした危険をおかしやすいのです。

人間はなにをしかねないのか….これを私たちは自らの歴史から学びます。

 

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