日本の細菌戦

1942年の細菌戦
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最終更新日:2015/01/24 12:21

1942年4月18日、アメリカ軍はB25爆撃機で東京・名古屋等に空襲を開始しました。

驚いた日本軍は、爆撃終了後、B25が戻った中国の飛行場を破壊する計画を立てました。

これが浙贛(注:字が難しいので以降「浙かん」にします)作戦です。

*戦史叢書 昭和17・18年の支那派遣軍  防衛庁防衛研究所戦史室

浙かん作戦は「せ」号作戦ともいわれ、

昭和17年4月18日のいわゆるド-リットルの日本本土空襲隊が、

着陸を予定していた衢州飛行場を始め浙江省の敵飛行場を覆滅するため、

急遽、第13軍は約6ケ師団をもって5月中旬杭州付近から、

第11軍は約2個師団をもって5月末南昌付近からそれぞれ攻勢を開始し、

遠く江西省東部まで進攻し、衢州、玉山、麗水等の飛行場を覆滅し、

浙かん線を打通するとともに、軌条その他各種軍需資材を押収、後送し、

8月半ばから反転を開始し、9月末に終わった作戦である。

*第13軍第22師団砲兵第52連隊第2中隊の歩み  から

作戦目的は浙かん鉄道沿線の敵兵力の撃滅。

衢州、玉山、麗水等飛行場の壊滅。

蛍石等の鉱物資源の獲得。

 

この作戦の期間は1942年5月~9月末です。

第1期  4月30日~5月29日

杭州、紹興、寧波を結ぶ線から蘭谿あたりまで侵攻

第2期  5月30日~6月15日

6月7日に衢州を占領。あとにここに現地司令部を置いた

第3期  6月16日~8月14日

最南端の広豊・広信まで侵入し駐留

第4期  8月15日~9月30日

反転作戦

*第13軍作命第176号、第179号

軍は8月×日主力を以て反転を開始し、

随時反撃の態勢を保持しつつ一挙に衢県附近に兵力を集結せんとす

・・・・・×日を8月19日と定む

*大陸命666号

金華要塞を確保せよ

 

日本軍は5,000人の部隊で金華、永康、縉雲、麗水から雲和まで侵行しましたがうまくいきませんでした。

その後ここで日本軍は細菌戦を実施しました。

*2002年8月、東京地裁判決から

出動期間  1942年7月~8月

出動場所  杭州~金華

出動人員  60名

現地司令官  石井四郎少将、村上隆中佐

使用細菌  ペスト・コレラ・炭疽菌

撒布方法  穀物に混入して撒く

死亡者数  2,386人

この細菌戦は秘密の作戦だったため、

知らされていなかった通常の日本軍は汚染された地域に踏み込み多くの被害を出しました。

日本軍の1万人がコレラ・赤痢・ペストに感染し、1200人以上の兵士が死亡しました。

*日本軍人証言  川島清 731部隊第4部細菌製造部長  (1949年12月25日、ハバロフスク裁判公判記録から)

長くなるため国家検事の尋問は省略して答弁のみ書きます。尚原文はカナです。

◎1942年6月第731部隊長石井中将は、部隊の幹部を集めて、近々中国中部派遣隊が編成され、

 これは細菌兵器の最良の使用方法の研究に当るはずであると我々に語りました。

 この派遣隊は、日本軍参謀本部の命令によって編成され派遣されたものでその主要な目的は、

 いわゆる地上汚染方法、即ち地上における細菌の伝播方法の研究でした。

 ついで、中国中部に特別隊を派遣することを命じた関東軍司令官の命令が出ました。

 その命令に基づいて、第731部隊長石井中将は、部隊の幹部を集めて、

 実際上如何にこの派遣を行うかについて打合せをし、

 その際この派遣隊工作の実施計画の作成は、第2部長村上中佐に命ぜられました。

 この特別隊の人数は、100名から300名までになる予定でありました。

 そして、ペスト菌、コレラ菌、パラチブス菌が使用されました。

 6月の末から7月の初めまで、派遣隊は数班に分かれて、

 飛行機及び汽車で南京「栄部隊」に派遣されました。

 派遣隊の細菌工作は、中国中部における日本軍の浙かん作戦と平行して行われる筈でした。

 作戦の時期は7月の末と指定されました。

 しかし、日本軍の戦略的退却を意味していた浙かん作戦の実施が若干遅れたことに鑑み、

 この細菌作戦は8月の末に行われました。

 第731部隊のこの中国中部派遣は「栄」部隊を基地とし、同部隊に拠点を創設しました。

 細菌作戦は、玉山、金華、浦江の諸都市付近一帯で行われた筈でありました。

 この作戦が終了した後、中国人に対してペスト菌、コレラ菌、パラチブス菌が

 撒布方法によって使用された事を私は知る様になりました。

 ペスト菌は蚤によって伝播され、

 他の細菌はそのままの型で貯水池、井戸、河川等々の汚染によって伝播されました。

 細菌作戦が全く計画的に実施され、完全に成功したことを知っていますが、

 この作戦の結果に関する詳細は、私には不明であります。

 作戦が成功したことは石井中将の言によって知っています。

◎(第4部の役割は)第4部は第731部隊の派遣隊に細菌を確保せよという任務を受け、

 これらの細菌は130kg準備され、飛行機で中国中部に送られました。

◎(細菌の種類は)我々はパラチブス菌と炭疽のみを製造しました。

◎(梅津大将の命令書を自分で読んだか?)はい、読みました。

 

*日本軍人証言  榛葉修  栄1644部隊九江支部 国民党戦犯裁判資料

42年6~7月浙江省金華付近を中心に、コレラ、チフス、ペスト、赤痢を撒布した。

中国軍の撤退は大変速やかで、日本軍は撒布地域へ入りその地に宿営した。

そして付近の水を飲用した結果多数の者が感染し、伝染病にかかった

その結果杭州の日本陸軍病院は、日本軍兵士の伝染病患者で一杯で毎日3名から5名は死んでいた。

8月には病院の内も外もアンペラを広げて数千人を収容していた。

患者10000人以上死者1700人以上出してしまいました。

 

*日本軍人証言  通常部隊の歩兵  嵐兵団歩兵第120連隊史

注:一般の日本兵は細菌戦を中国の作戦だと思っていたようです。

目指す衢州方面は、ペスト・コレラなどの悪疫が猖蕨獗を極めているとのことで、

三種混合注射とかホ-ソウの接種を繰り返し受け、

ほとんどの兵隊は化膿高熱で戦争前に病魔との闘いであった。・・・・

悪疫の流行に加えて敵の毒物謀略

(飲料水、飲食物に毒物を入れて飲食者の毒殺を計る)に対する警戒が幾度か報ぜられ、

弾丸で死ぬか毒で死ぬか、戦々兢々、食事に箸をつける前に

色、匂い、味、煮炊きしたものかどうかなど吟味もまた戦争の一片であった。・・・・

敵と戦い、水と戦い、そして「ペストあり」の貼り紙に驚かされながら、

最終目的衢州に肉薄したのは6月の中ごろであった。

 

*作戦各期の日本軍人死亡数  第13軍司令部浙贛(せ号)第4期作戦経過概要

戦病者 戦傷者 戦死者
第1期 829 723 281
第2期 983 1350 484
第3期 5291 609 442
第4期 4709 85 77
合計 11,812 2,767 1284

注:病気で死んだものも戦死者に一部含まれる

  戦闘より病気のほうが圧倒的に多い 

 

*日本軍人証言  古都良雄  731部隊員  ハバロフスク公判資料から

私が参加した派遣隊の業務は、何かといいますと、

貯水池、河川、井戸、建物をチフス菌及びパラチフス菌によって汚染するという細菌攻撃でありました。

第731部隊は第4部で大量生産したこれら細菌をこの派遣隊に送りました。

細菌は、ペプトン用のビンに詰められていました。

これらビンは「給水」と表書きした箱に詰められていました。

これらは飛行機で南京に送られました。

私は細菌を充填した水筒を井戸、湿地、住民の住居に投げ込むことに参加しました。

当時そこには総数約3000人の中国軍の捕虜の収容所が2つあり、3000個の特製饅頭が製造されました。

饅頭の製造に派遣隊員が参加し、注射器で細菌が注入されました。・・・・・・

(命令で製造したビスケット)は卵形のものと細長い形の2種類ありました。

それは小麦粉で作られ、饅頭同様、細菌で汚染されました。

それはこのビスケットがどんなビスケットかをあらかじめ警告された兵士に渡され、

兵士は垣根の下、木の下、休憩地に置き忘れたかのように置きました。

その数は300個ないし400個であります。

 

[雲南省]

*証言  被害調査員  陳祖梁

1942年5月初め日本軍は「昭和17年ホ号作戦」に基づいて

雲南省昆明、滇西、保山を細菌戦第一重点目標にした。

柳瀬大尉が操縦する731爆撃機が昆明に細菌戦を行う一方で、

5月4日、日本爆撃機54機が保山を爆撃し、3~4百の爆弾、細菌弾を投下した。

数日後再び、保山付近の施旬の賑やかな町に細菌弾を投げた。

日本軍が投下してから数日後、保山、施旬にコレラが爆発的に流行し始めた。

たった2ケ月の間に保山でコレラに罹って死んだ人は6万人、施旬ででは1万以上に達した。

コレラは保山、施旬、昆明への道路に沿って蔓延していった。

そして雲南58の県市でコレラが流行発生した。

コレラの患者は12万人以上、死者は9万人以上だった。

日本軍は滇西を占領後、駐屯した防疫給水部はネズミを収集し、細菌を培養し、生体実験をおこなった。

撤退する前の日、感染したネズミを放ち細菌戦をおこなった。

これにより滇西16県でペストが流行し、死んだ人は焼く45万になり、

この2つの細菌戦で雲南では13~14万の民衆が殺された。

 

 [浙江省雲和県]

1942年8月26日、 日本軍飛行機が2日間にわたって爆撃をしました。

その時かなり不発弾が多かったのが不思議がられていましたが,

実はそれらが細菌弾だということは後でわかってきます。

翌年から市内各地でネズミの異常行動や死骸が見られるようになりペストが発生してきました。

懸命の防疫活動や汚染地域の焼却にも拘らず被害は拡大し、赤痢や脳膜炎等も発生してきました。

1945年夏には飛行機で綿花,あめ,ビスケット,おもちゃなどを投下し

これによって肺ペスト、敗血症型ペスト、皮膚型ペスト等が流行しました。

被害 浙江省防疫センタ-の統計によると

雲和県では1943年から1945年でペスト等伝染病の

発生地点は183ケ所 患者2740人  死亡者1045人

又,雲和県の資料では、ペスト患者745人  死亡者537人ともなっています。

 *証言  李洪波

7月に地上戦に失敗した日本軍は、

8月26~27日、雲和市街及び近郊への空爆を開始し、

同時に5平方キロの市街地に多量の細菌爆弾を投下しました。

明け方の朝霧の中3機の日本軍機が爆弾を落としましたが、

不思議なことにこれらの爆弾は衝撃を受けたのにもかかわらず爆発しませんでした。

恐らく細菌爆弾だったからだと思われます。

浙江省防疫センタ-の統計によると、

1940~1945年でこの県でペストが発生した地点は183ケ所、

ペスト。赤痢を含む伝染病感染者は2,740人、

死亡者は1,045人となっています。

また1943年~1945年でペスト患者745人、死亡者537人とも報告されています。

間もなくして雲和県の町ではいたるところでネズミが死ぬなど異常な現象が多く現れた。

その後ペストが流行しました。

 

[浙江省麗水市]

あまり知られていませんでしたが、1997年からの「明らかにする会」の調査で

麗水での細菌戦が少しずつ知られてきました。

1942年から始まりましたが、期間が長いので一つの項目にします

季刊戦争責任研究第27号の手塚愛一郎論文を引用します。

麗水での細菌戦

細菌名

村数

 

1942年

1943年

1944年

1945年

1946年

1947年

合計

ペスト

87

発生

365

360

975

47

10

5

1762

死亡

352

351

927

47

7

3

1687

チフス

10

発生

120

28

14

162

死亡

120

28

13

161

コレラ

21

発生

126

21

47

1

195

死亡

120

19

45

1

185

炭素

27

発生

32

47

40

10

129

死亡

28

30

32

10

129

パラチフス

1

発生

4

4

死亡

1

1

合計

101

発生

647

456

1076

58

10

5

2252

死亡

621

428

1017

58

7

3

2134

注:使用された細菌の種類が多いことが特徴です。

  日本の敗戦後にも被害が出ていますが、潜伏後の再流行だと思われます。

麗水各地の被害の内容

*天寧寺での被害

天寧寺は城関鎮から車で20分ほど、現在は市街地の外れの一角になっている。

麗水飛行場の北側に位置し、日本軍はこの幹線通りを使い麗水から撤退した。

天寧寺には、1942年9月まで日本軍が駐屯していた。

日本軍の撤退とともに、高熱やリンパ腺が腫れ、悪寒をともなう病気が発生した。

それまで天寧寺ではこうした症状の病気はなく、

症状から見てペストによる細菌戦が行われたと考えられる。

ペストは9月に発生し、12月まで流行が続き、天寧寺、官屋基、和尚崗等で計62名が死亡した。

この3つの村の当時の人口は140名程度であるから人口の半数近くが犠牲になっている。

*水東村での被害

水東村は、麗水飛行場の東部にあり、車で10分足らずの距離にある。

すぐ近くには現在の麗水駅がある。

水東村には42年、日本軍が撤退したことがあり、村人は日本軍の侵攻とともに山に逃げた。

日本軍の撤退後、下痢、嘔吐、けいれんなどをともなう悪性の伝染病が発生して、70名余りが死亡した。

当時の人口は400名余りである。

水東村には村の入り口と出口に2つの井戸があり、

村人は村の中心を流れる河川の水を生活用水として使っていた。

コレラと思われる伝染病は、この河川沿いを中心に発生している。

*青林村での被害

青林村は麗水飛行場の東北にあり、やはり車で10分~20分ぐらいの距離である。

日本軍は駐屯していなかったが、連日のように日本軍が入ってきて食料を略奪していった。

国民党軍は青林村にあった廟を弾薬庫として使っていたため、

日本軍は抗日の村と考えていたのではないかという。

日本軍は撤退するとき青林村を焼き払っていったが、

その後にはビスケットやごはんの固まり、調理済みの豚肉等が置き去りにされていた。

ごはんのかたまりを持ち帰り、子どもに食べさせたところ、

翌日から下痢と嘔吐を繰り返し、2週間後に死亡した

田にも高熱や下痢の症状で村全体で60名余りが死亡した。

また、近くの畑等で作業をしていたところ、足等に潰瘍ができたという

炭素菌被害ではないかと思われる証言もある。

*小木渓周辺の被害

小木渓は城関鎮から車で1時間弱の距離である。

この周辺には1942年と44年の2回、日本軍が来ている。

高熱、けいれん、リンパ腺の腫れなどペストと思われる伝染病が発生したのは、

小木渓だけが42年、その他の麻地脚、朱田背、白嶺脚、大坑口等の地域はそれぞれ44年である。

小木渓では、22名、他の地域では25名が死亡している。

*前垟での被害

42年日本軍が侵入したとき、国民党軍前垟を通って雲和に撤退した。

前垟に日本軍が駐屯し、42年8月に撤退した。

その後、10月までペストと思われる伝染病が流行した。

      以下省略

 

[浙江省玉山市]

浙かん作戦は9月末で作戦を終了し、金華に向けて撤退しました。

その時に細菌を撒布して撤退しため被害が出ました。

それが、玉山、江山、広豊です。

8月19日,日本軍の撤退時にペスト・コレラ・パラチフス・炭疽・マラリアと思われる菌を散布し,

井戸に投げ入れ,空より投下しました。
                死亡者 300人

*被害者証言  祝腮菊さん

日本軍は玉山から撤退する時、井戸に細菌の入った灯油缶2個を投げ込んだ

この井戸を使っていた村人の大半が嘔吐、下痢、身体中に潰瘍が出来て死んだ。

同じ時、日本軍機はノミも大量に落とした。

私の家族は13人のうち10人が死んだ。

*証言 元 衛生兵 古郡良雄

玉山周辺でチフス菌とパラチフス菌の入った水筒を貯水池,河川,井戸,家屋に投込んだ。

また3000人の中国兵捕虜に細菌入りまん頭を食わせて釈放。

細菌入りのビスケット等を日本兵が置き忘れたかのように木の下、休憩地などにばらまいた

 

[浙江省江山市]

1942年8月、日本軍は江山市を撤退する時、7つの集落にコレラ菌入りのモチやマントウを配ったり道に置きました。

野良仕事に出て不在の家には、道端にカゴに入れて置いた。

これを食べた村人は激しい嘔吐と下痢に苦しみ老人や子どもを中心にして100人近い人が死んだ。

また日本軍は井戸に細菌入りの瓶を投げ込んだり、米に細菌を付けたりした。

死亡者 82人

*証言 江山市路陳村 鄭蓮妹

8月退却時にここを通った日本軍は,さも自分たちが置忘れていったかのように,

月餅の沢山入った竹籠を置いて入ったのだ。

村人は食べるものが少なかったので,持帰って食べた。

私の家では食べた3人がその夜次々と腹痛に襲われ,

翌日の夕方下痢と嘔吐で苦しんだ母が死んだ。

それから叔父も弟も死んだ。

当時この村の人口は25人だったが,10人以上も死んだ。

*証言 同じく  頼清泉

日本軍が江山から撤退する時に,中国人を手先に使って,米のおむすびを配った。

街に出ていた母はそれを3人の子供たちに食べさせた。

子供思いの母は自分が食べないで子供に食べさせたのです。

そして母は助かり,私の兄弟(9歳,7歳,4歳)は死んでしまった。

私はその時日本軍の使役をしていて留守だった。

*被害者証言  鄭蓮妹さん

私の家の前の道ばたに餅がたくさん入った竹カゴが置いてあった。

当時、村人は食べるものが少なかったので皆で分けて食べた。

私は口に入れたが、嫌な臭いがしたのですぐに出した。

食べた叔父、母、弟たちは激しい下痢と嘔吐で苦しんで死んだ。

 

[浙江省常山県]

1942年日本軍が撤退時コレラ菌等を散布しました。

1943年に死亡者 1506人

2次感染で1944~1946に死者 5000人

 

[江西省広豊市]

1942年8月19日  日本軍撤退時にペスト菌散布しました。
             死亡者 数十名

*被害者証言  祝秀菊

1942年8月、日本軍は撤退する時にペスト菌を撒いた。

町の中心街の東街田里では数十人がペストで死んだ。

私の夫も腋の下のリンパ腺が大きく腫れ、

高熱で苦しんだ末に死んだ。

 

[浙江省義烏市崇山村]

ここは直接の攻撃ではなく、前年の義烏市の伝播による発生だと思われますが、

9月に飛行機で撒布したという証言もあります。

1942年9月ペストが大発生し、多くの村民が死亡しました。

1998年5月の調査時点では、この時の約3ケ月で396人が死亡していたことになっています。

1940年の衢州市への細菌戦から見ると3次感染でしょう。

10月中旬に南京の1644部隊が村に入り、村民に注射をしたり、人体実験を行いました。

日本軍は村に火を放ち財産もろとも焼却しました。

 *証言  応国元  義烏市地方疫病防止弁公室主任

1942年11月16日、日本軍がペスト防疫という名目で

トラック2台、100名ぐらいでやって来ました。

日偽軍(日本に協力する中国軍)も出動して

崇山村を包囲して機関銃によって無防備な一般村民を銃殺しました。

民家にガソリンをかけて、あるいは薪や枯れ草に火をつけて燃やしはじめ、

民衆を家から駆り出しました。

焼却した民家は400軒あまり、死亡者数400にんほど、これは義烏県史による記録です。

この焼き打ちの前にペスト感染がありました。

 

*被害者証言  王栄良  崇山村元書記

1942年9月になって白い煙を吐く飛行機が村の上空を西から東へ村の上空を飛んだという人もいます。

何日かして死んだ鼠が見つかるようになりました。

最初に死んだのは王化樟です。9月5日です。発病して4日で死にました。

      (注:中国の旧暦です。西暦では10月14日です)

我々のむらでは19世帯で発病し、その全員が死亡し、毎日死体が家の外に出されました。

私の家族11人のうち8人がペストで死んだ。

全員が腕の付け根、首のリンパ腺が腫れ、高熱で苦しんで水をくれ、水をくれと叫びながら死にました。

叔父は頭からすっぽり白い服を着た日本兵に注射を打たれました。

日本軍は10月(旧暦)頃、家に火を放って燃やしました。

 

*被害者証言  王潤華

当時、私も発病しリンパ腺が腫れあがり高熱で苦しんでいました。

しかし、父親から林山寺に連れて行かれると

腹を切られるという話を聞いていましたので敢えてペストにかかたと言わないでいました。

 

*日本兵証言記録  第86連隊H軍医

南京防疫本部から将校以下の調査団が来隊。

護衛の兵隊までペスト防疫衣という白装束、眼だけ出しゴム長を履いて部落へのり込んだ。

病人はみな鼠蹊部のリンパ腺が手のひら大に腫れている。

調査隊は新しい墓地から死体を掘り出し、

顕微鏡下にペスト菌を見たときは何ともいわれない恐怖感に襲われた。

部落は焼却し、調査隊は意気揚々と南京へ引き上げた。

 

*日本兵証言記録 近喰秀大 栄1644部隊第1課

医学と心理学のかけ橋に関する回想「防疫医学第19巻第11号 1972年」から

昭和17年10月中旬、中支浙江省義烏県松山部落(注崇山村のこと)に不明疾患の爆発的発生があり、

急速に拡大の傾向が見られているとの報告に接した。

わたくしはその頃南京の防疫本部に勤務していたが、

軍命により急いで臨時防疫隊を編成し現地に赴いたのである。・・・・

部落民の総数は約3,000名で、

この1週間以内に不明疾患に100名近く罹患し、30名近く死の転帰をとったということであった。

路地をはさんで各家の戸は堅く閉ざされ、

扉の上や周囲の壁には煤や朱色の手形の印が塗りつけられ、

所々に疫神と書かれていた。

静寂で陰気な雰囲気につつまれて、何処からともなく選考の臭と煙の流れとが漂ってきた。

 

 *日本兵日記 林篤美  中支那派遣軍軍医  1942年分

11月7日

高山中尉の調査せる情報によると、

義烏西南10キロメ-トル松山(注崇山村のこと)付近にペスト患者発生しある模様にて、

本朝8:30出発、4中隊より長以下5名の護衛をもらう。12:00松山着。・・・・

種々と調査せるに、細菌1ケ月間に高熱、リンパ腺腫脹を伴い、

2~7日にて死亡する流行病あること確実にして、略々ペストと認められる。

住民の先導にて1民家の農民の細君を診る。

左側鼠頚部及び股リンパ腺鶏卵大腫脹あり、2週間前より痛みありと。

11月11日

・・・・夕刻、突然南京防疫給水本部より近喰大尉、伊藤大尉等約20名来隊。将校3名、将校宿舎泊。

ゴタゴタする。

11月16日

10:00~11:00診断。

下士候隊に妙な××の患者を発見。

花柳病は全く否定す。

現在の状況にてはpestを疑うこととし、発生家屋を遮断する。

午後2~4時、防疫会議。

第3防疫給水部長山下大尉来隊。

会議の結果、結局松山部落は焼却することに決定。

本日正午、松山村に発生せる不明伝染病は「ペスト」と決定す。

師団軍医部原少佐来隊せらる。

 

 

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