日本の細菌戦

1940年の細菌戦
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最終更新日:2014/12/20 10:50

1940年から日本軍は浙江省各地で細菌攻撃を行っています。

衢州市  10月4日

寧波市  10月22日(27日とも言われる)

金華市  11月27日~28日

主として上記の3ケ所ですが、それらの周辺に被害は拡大しています。

細菌攻撃は必ずしも上記日付だけで行われたわけではなく、

また攻撃地点から感染が周辺に伝播していったため、ばらばらの時期に流行が起きています。

攻撃地区は浙江省の7ケ所です。

まず浙江省を中心とした地図です。この年以降の細菌戦にも役に立つ地図です。

SCN_0089 せっ江省関係図

 

「浙江省衢州市(衢県)」

麦粒,トウモロコシ,大豆,綿と共に飛行機からペストノミを投下しました。

11月12日から高熱,リンパの腫れ,嘔吐,出血の患者が続出。

県衛生院の検査の結果ペスト桿菌が発見されました。

県,省政府,重慶政府は直ちに各種防疫活動を行ないましたが感染は広がって行きました。

その後日本軍は1942年8月31日にもさらにペスト,チフス,赤痢菌を散布して撤退しました。

その被害者は1940年 ペストによる死者21人

1941年 ペストによる死者274人

1942年 ペストの死者2000人 赤痢の死者 1000人

その後も病気は広まり

1950年までに315人が罹患し、305人が死亡したといわれます。

   注:色々な集計があるので人数は参考です。

内 296人が腺ペストといわれています。 (以上中国側資料から)

 

*被害者証言 黄権運さん

1940年10月4日の朝9時頃だった。日本軍機が1機、低空でこの町の上空へ飛んできた。

その後、あたりには麦やトウモロコシと一緒にノミがいっぱい散らばっていた。

私が見たノミは大きくて黒ずんでいたが、皆死んでいた。

中には、鶏のえさにするために持ち帰った者もいた。

しばらくして指示が出て衢江の川舟に避難した。

舟の中で2ケ月間生活しなければならなかった。

 

*中国「東南日報」 1940年11月22日

「衢県でペスト発見-死者すでに十余人」

衢県西門の柴家巷、県西街、水亭街で19日突然ペストが発生、死者はすでに十余人にのぼる。

この一帯は人口が密集しているので、当局はペスト発生後、特に気を配っている。・・・・

ペスト菌汚染地区の住民は蔓延を防ぐため船に移すことになろう。

症状の重い患者は目下わずか3名で、ペストがこれ以上広がることはないものと見られる。

 

「浙江省鄞県寧波市」

1940年10月27日、午前7時頃と午後2時頃の2回、日本軍機が寧波市開明街に飛来。、

1回目はビラ(「日本は豊かで食糧援助が出来る」と記載)を撒き、

午後には大量の小麦・麦つぶなどと共にペストノミを投下した。

この時、開明街上空は一時淡黄色の霧に覆われた状態となった。

夜半、にわかに雨があり屋根の麦つぶや赤色をしたノミを流して天水ガメに大量に浮いた。

多くの住民が飛行機の投下とノミを目撃している。

10月30日、開明街滋泉豆腐店の頼夫婦が死亡。以後連日死亡者が続出。

11月4日、華美病院(現・寧波第2病院)丁成立院長は

患者のリンパ腺から菌を分離し動物実験でペストであると断定。

この日隔離病院を3ケ所設ける。

(黄可泰寧波市医科学研究所所長及び12人の聞き取り調査から)

死亡者 106名(姓名,住所,死亡期日が分かっている人数のみ)

内,家族全部が死に絶えたのが12家族。

開明街一帯は、政府によって封鎖され、焼却されたが

1960年代まで人が住むことがなく「ペスト街」と呼ばれました。

 *2002年東京地裁判決から

出動期間  1940年7月~12月

出動場所  杭州~寧波

出動人員  100名

現地指揮官  石井四郎大佐、大田澄大佐

使用細菌  ペスト

撒布方法  上空から撒く雨下作戦

死亡者   109名

 

 *被害者証言  黄可泰 寧波市医学化学研究所 前所長

1940年10月27日,午前7時頃と午後2時頃日本軍機が飛来。

1回目は「日本は豊かで食料援助が出来る」と書いたビラを撒き,

午後には大量の小麦粉・麦つぶ等と共にペストノミを投下した。

薄黄色のモヤが発生し、屋根瓦でパラパラ音がしたので、住民は驚き怯えました。

ノミは紅色をして、やや小太りで普通のノミとは違っていた。

後でわかったのですが、これは体内に億万個のペスト菌を保有しているノミでした。

人とネズミにたかるノミでカイファンカノミ(インドネズミノミ)といいます。

29日には発病者が現れ、31日から死亡者が続出した。

11月3日の報道では死亡者16人、6日までに47人にのぼった。

11月4日同市の華美病院でペストと断定。

11月30日汚染地区5000平方米115戸を焼払い一大廃虚となり,

そこは1960年代まで人が住まずペスト広場と言われた。

その後の調査では姓名・住所・死亡時期が分かっているだけで106人が死亡しました。

 

 *被害者証言   銭貴法さん 開明街の酒屋に勤めていた

1940年10月、日本軍機が低空で開明街に飛来し、小麦や小麦粉を撒いた。

屋根にサッサッと落ちる音がした。その中にノミがいた。

ノミは水かめにもたくさん浮かんでいた。

私も発病し、高熱が出て、足の付け根のリンパ腺が腫れた。

手術をしてしばらくは歩けなかったが助かった。

私と同じ隔離施設に運ばれた人たちは次々に棺桶で運ばれていった。

体は痙攣し、エビのように固まって死んでいった。

肢体はみな黒ずんでいた。

 

*日本軍人証言  川島清 731部隊第4部細菌製造部長

(1949年12月25日、ハバロフスク裁判公判記録から)

注:検事の質問は()内に簡単にして、証言を中心に書きます。

◎(1940年の派遣隊について)石井中将は中国の医学雑誌を見せてくれました。

 それには1940年における寧波一帯のペスト流行の原因について述べられていました。

 彼は私にこの雑誌を見せた後、寧波一帯で第731部隊の派遣隊が飛行機からペスト菌を投下し、

 これが伝染病流行の原因となった事を話しました。。

◎かれはこの派遣隊の工作は成功したと考えていました。

◎(この地図で細菌戦の実施は?)はい、確認します

◎まさに私が記号をつけた地図です。

 

*日本軍人証言  西俊英軍医中佐  731部隊教育部長

(1949年12月26日、ハバロフスク裁判公判記録から)

私は、1940年の中国中部への第731部隊派遣隊の活動に関する記録映画を見ました。

まず映画には、ペストで感染された蚤の特殊容器が飛行機の胴体に装着されている場面がありました。

ついで飛行機の翼に撒布器が取付けられている場面が映され、

さらに特別容器にはペスト蚤が入れられてあるこという説明がありまって、

それから4人或いは5人が飛行機に乗りますが、誰が乗るのかわかりません。

それから飛行機が上昇し、飛行機は敵方に「向かって飛翔しているという説明があり、

次いで飛行機は敵の上空に現れます。

次いで飛行機、中国軍部隊の移動、中国の農村などを示す場面が現れ、

飛行機の翼から出る煙が見えます。

次に出てくる説明からこの煙が敵に対して撒布されるペスト蚤であることが判って来ます。

飛行機は飛行場に帰って来ます。

スクリ-ンに「作戦終了」という文字が現れます。

ついで飛行機は着陸し、人々が飛行機に駆け寄りますが、これは消毒者で、

飛行機を消毒する様子が上映され、その後、人間が現れます。

まず飛行機から石井中将が姿を現し、ついで碇少佐、その他の者は私の知らない人です。

この後「結果」という文字が現れ、中国の新聞及びその日本語翻訳文が上映されます。

説明の中で、寧波付近で突然ペストが猛烈な勢いで流行し始めたと述べられています。

最後に、終わりの場面で中国の衛生兵が白い作業衣を着て

ペスト流行地区で消毒を行っている様子が上映されています。

正にこの映画から、私は寧波付近で細菌兵器が使用された事を知る様になりました。

 

*日本軍人証言 731部隊少年隊 石橋直方  (1994年証言)

私たちがハルビンを出発したのは、1940年7月26日だったと思う。

ボイラ-室の前の引込線から、汽車に乗った。

総勢40名。部隊名は「奈良部隊」。

この部隊編成の責任者の総務部庶務課主任の飯田奈良一の名前をとってこう名付けられた。

8月6日には、浙江省杭州市の筧橋に到着した。

ここが、寧波や衢州への細菌攻撃の基地になったところだ。

ここへくる途中、南京の1644部隊(当時は多摩部隊と呼んでいたが)へも寄った。

翌日南京からと海路ハルビンから各40名が合流。

8月の末には、「国民党航空学校」には、多摩部隊も入れて200名くらいの隊員が集まった。

自分は得衛生兵の見習いだったので、細菌戦の仕事には就かなかったが、

9月になるとハルビンからペストノミの空輸が始まった。

ある日、空輸してきたノミを爆撃機に積み替える時に、

失敗をしてノミが逃げ出すことがあって大騒ぎとなった。

あわてて殺虫剤を撒いたので滑走路の芝が枯れてしまったのを覚えている。

その爆撃機が寧波へ攻撃に行ったことは後で聞いた。

ここが寧波作戦の基地になっていたことは口には出さないが皆わかっていたことだ。

 

*日本軍人証言   731部隊航空班 沖島袈裟春  (1993年証言)

1940年の夏の暑い時だった。

おおよそ200名くらいいたと思うが、隊員が集合して杭州の「国民党航空学校」で、

寧波へ向かう爆撃機に菌液を積んだことがある。

ドラム缶に入った菌液を、ホ-スで飛行機の胴腹に取り付けてあるボンベへ注ぎ込むのだ。

自分がやったのは1回だけだが、それが寧波へ攻撃にいくことはなんとなくわかっていた。

菌液はペストかコレラ菌のどちらかだと思う。

その爆撃機が寧波で細菌を撒いたことは後で聞かされた。

増田美保中佐がもっぱらやったようだ

 

*日本軍人証言  731部隊航空班   松本昭一   

1940年8月ハルビンから重爆撃機に8人乗って杭州の「国民党航空学校」に着いた。

200人ぐらいがすでに居た。

寧波や衢州への攻撃に使ったのは97式軽爆撃機で2人乗り。

翼の下に2メ-トルくらいの細長い容器が取り付けてあり、

その容器の中は10層に区切られていて、

それぞれに小麦、ノミ、フスマなどの穀物が混ぜて入れてある。

それを投下点に着くと、パイロットが爆弾を落とすときと同じようにレバ-を引く。

すると容器の前と後ろがパカ-っと開いて自然の風圧で中のノミと穀物が吹き出す。

その様子は、翼から煙が出ているようだった。これを低空からやりました。

じっさいに操縦して細菌を投下したのは、増田美保中佐と平沢欣少佐だった。

ある攻撃作戦の時、容器の後ろが開かなかったため前も閉めて、杭州の飛行場に引き返した。

ところが飛行場に着いたとたん、容器の後ろが開いてしまって、

大量のノミが飛行場に飛び出して、大騒ぎとなった。

あわてて消毒したがラチがあかず、結局飛行機ごと燃やしてしまったこともあった。

菌液の場合は、太さ50センチ長さ360センチくらいの太いパイプを4本束ねて、

その先に圧搾空気のボンベが取り付けてある。

そのパイプに腸チフス菌を詰め込んで、97式の重爆撃機に載せ、目的地に着くと、

胴体から機外へワイヤ-で繰り下げ、そして圧搾空気ボンベを作動させると

4本のパイプに詰め込んである菌液が一挙にパ-っと噴出する。

まさに霧をまいた状態になる。

ところが、在る作戦で、ボンベが誤作動して1本分の菌が機内で吹き出してしまった。

乗り込んだ6人は全員腸チフスに罹った。

一番大量に菌液を吸い込んだ同期の鈴木公司はしばらくしてなくなってしまった。

 

*日本軍人供述  田村義雄 731部隊傭人(1954年9月8日中国での供述)

1940年7月上旬から11月上旬までコレラ菌,パラチフス菌,チフス菌の生産に携わった。

この期間生産されたのはチフス菌,パラチフス菌,コレラ菌,ペスト菌,脾脱疽菌で,

その合計270Kgは飛行機で南京及び華中地区に運ばれ,

731部隊の柄沢十三夫ひきいる遠征隊が攻撃を実行した。

 

当時の中国の新聞を見てみます。

*時事広報  1940年11月6日

「愈県長・省衛生処技正と寧波入り」

ペスト撲滅の先頭に立つ

省防疫隊は明日にも到着

昨日の死者、伝染病院で11名、汚染地区で9名

皮膚ペスト患者は治療中

鄞県愈済民県長は、省で開かれた専員、県長会議に出席していたが、

鄞県政府からの電報で当地にペストが発生したとの報告を受け、

速やかに県政府に戻り、撲滅運動の先頭に立つよう要請された。

愈県長は、昨日朝、省衛生処技正王毓榛第3科科長とともに寧波に到着した。

本日はさらに2人の衛生処技正も到着する予定。

省防疫隊の30人余は、明日にも薬品を持って寧波に到着し、ペスト撲滅作業に従事する。

昨日は、ペスト汚染地区の患者と、非汚染地区に脱出した患者とを合わせ計20人にものぼった。

一方、汚染地区の範囲はまだ拡大していない。・・・・

甲南病院では死者11人

汚染地区から脱出し9名が死亡

皮膚ペスト相次いで発見

防疫治療に漢方医も参加

学校は休校、旅館は休業

各鎮で予防策を講じる

 

*時事広報  1940年11月7日

「鄞県のペスト、防疫に望み」

防疫処、昨日発足

1週間で死亡47人

省防疫隊、本日到着

   以下省略

 

*寧海民報  1940年11月14日

(寧波発)寧波市東後街一帯で、今月初めにペストが発見されたが、

ペストは瞬く間に広がり、すでに多くの人が亡くなっている。

防疫処発足後、近く汚染地区を封鎖し、付近の人々を隔離し、ペストの予防注射を打つことになっている。

省の防疫班および中央防疫班が相次いで任務につき、寧波と奉化の間の交通は先日遮断された。

 

「浙江省金華市」

1940年11月27日 28日上空よりペスト菌散布
             死亡者 160名

中国の新聞を見てみます。

*寧海民報  1940年12月4日付

敵機、金華上空でペスト菌を撒布

[金華発]敵機は連日、本県上空で度々白い煙を放出していたが、

(11月)27日午後には白色の物体をも投下した。

本県のペスト防除活動を視察していた省衛生処の陳処長がこれを目撃し、

許県長にただちに捜索するように要請した。

28日の空襲の際も、2機が南門の外で同様な白煙を撒布した。

白煙には魚の卵状の顆粒があり、車夫陳宝慶の人力車の幌の上に落ちた。

広合順皮革廠の職員がそれを集めて化学検査のため民衆病院へ送った。

病院職員沙士昇氏はグラム染色法でグラム陰性桿菌を検出した。・・・・

顕微鏡による鑑定で、その形態が確かにペスト桿菌に似ていることで見解が一致した。

以下省略

 

[吉林省農安県]

1940年6月~11月にかけて農安県城16ケ所でペストが発生しました。

551名が発病し、471名が死亡しました。

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