日本の細菌戦

1941年の細菌戦
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最終更新日:2015/01/03 11:02

1941年は前年の作戦の結果をふまえ様々な改善をする時期でした。

そして9月16日大本営から常徳に対する攻撃命令が出ました。

 

[湖南省常徳]

1941年11月4日 731部隊と栄1644部隊(南京の部隊)が合同で実施しました。

日本軍機が1機、早朝5時頃低空飛行し、常徳市市中心部に,

粟、麦、綿などと共にペストノミを投下しました。

投下地点は市の中心の関廟街、鶏鴨港でした。

直ちに投下物を検査し、防疫対策がとられました。

約1週間後に11歳の少女が死亡。

遺体解剖の結果ペストと判明したが、早期の対策をした為ペストは沈静化しました。

しかし翌年春、ネズミから2次感染は始まりました。

2次感染、3次感染を含め公式記録では死者100になっています。

 

2002年8月、東京地裁判決から

出動期間  1941年11月

出動場所  南昌~常徳

出動人員  40~50名

現地指揮官  大田澄大佐、碇常重大佐

使用細菌  ペスト

撒布方法  上空から撒く雨下作戦

死亡者数  7,463人

 

*中国側証言 広徳病院検査技師 汪正宇

投下物の一部がすぐ広徳病院に届けられ

検査の結果真性ペスト桿菌,疑似ペスト菌が発見された。

11日から高熱,そけいリンパ腫,敗血症等で死者が出始めた。

直ちに大規模な防疫活動を実施し,

一旦鎮静化したが数ケ月後から2次感染などで患者,死者が相次いだ。

 

 *日本軍人証言  川島清 731部隊第4部細菌製造部長

(1949年12月25日、ハバロフスク裁判公判記録から)

注:長くなるため国家検事の尋問は省略して答弁のみ書きます。

    尚原文はカナです。

  質問は簡単に()内に入れます。

◎まず私が第731部隊に勤務していた時期に就いて述べます。

 この期間を通じて第731部隊の派遣隊が中国中部における中国軍に対して兵器として

 殺人細菌を使用したことが1941年に1度、1942年にも1度ありました。

◎第1回目は、私が述べました様に、1941年の夏でした。

 第2部太田大佐が何かの拍子で中国中部に行くと語り、その時私に別れを告げました。

 帰って来て間もなく,彼は私に中国中部洞庭湖近辺にある常徳市附近一帯

 飛行機から中国人に対してペスト蚤を投下した事について語りました。

 その様にして彼が述べたように、細菌攻撃が行われたのであります。

 その後太田大佐は、私の臨席の下に第731部隊長石井に、

 常徳市附近一帯に第731部隊派遣隊が飛行機からペスト蚤を投下した事

 及びこの結果ペスト伝染病が発生し、若干の患者が出たということに関して報告しました。

 さてその数がどの位かは私は知りません。

◎(派遣隊の人数に就いて)40人~50人位です。

◎(地域の汚染方法について)ペスト菌を非常な高空から飛行機で投下する方法であります。

◎(爆弾投下なのか蚤の撒布か?)撒布によってであります。

 

[浙江省義烏市]

細菌戦は直接攻撃したときだけに被害が出るわけではありません。

攻撃した地域で一旦流行が収束したように見えても、

伝播が次々と広がり他の地域で数年たってから流行することがあります。

そのような例が浙江省義烏市です。

前年に浙江省衢州市で行われた細菌戦が130km離れた義烏市伝播したものと思われます。

1941年の秋に義烏市の市街地でペストが流行り始め約200名の人が死亡したといわれています。

そして義烏市の周辺の村々にも流行は広がり1944年まで続いたといわれています。

*被害者証言  陳知法さん

まず兄が熱を出し、リンパ腺が腫れ、喉が渇き、亡くなりました。

その後、父が発病して亡くなりました。

私は同じ家に住んでいましたが別の部屋にいました。

この病気に罹ったら、みんな怖くて医者にかかりませんでした。

兄も父も埋葬するだけで葬式はしませんでした。

埋葬は母が葬儀屋を呼んで1人で行いました。

私の家のまわりでも30人ぐらいの人が亡くなりました。

伝染すると怖いですから、誰も見ませんでした。

私の家は貧乏でしたから、その後の生計は母がたてていました。

 

[浙江省行政資料]

*浙江省第4区行政監査兼保安司令署上申す

字第273号民国 1942年1月22日発

  注:1942となっていますが内容は1941の事です。

概要 本区義烏と東陽2県のペストの予防を治療及び近隣各県の防疫の状況を申上げます。

 詮議の上、何卒よろしくお願い致します。

本区の義烏県市街区北門で、昨年(注1941年)10月8日にペストが発生した。

本署は通知を受け、直ちにペストが蔓延しないよう、義烏県には適切な予防と対策を行い、

かつ近隣各県には緊急に防疫に努めるよう電報で命令すると共に人員を派遣し指導に当たった。

以下、これらの県のペストの発生と防疫の状況について申上げます。

1 義烏

当県市街区北門13保で昨年10月2日に5匹のねずみの死骸が発見され、

その後毎日大量のねずみの死骸が発見されるようになり、

8日には住民2人が急死した。・・・・・

防疫経費不足のため、防疫計画にそった適切な対策を実行することができず、

又民衆の防疫知識不足のため、伝染病発生地域はにごとに拡大し、・・・・

昨年の12月の末までに118名の死者が出た。・・・・

今月5日に蘇渓鎮徐界嶺のペストが蔓延している地域の住宅20数戸全部を焼却し、

現在ではペストの勢いは弱まりつつある

2 東陽

当県の山岳地帯(魏山区)では、昨年11月25日にペストが発生し、

最初は八担頭村1村だけだったが、村の橋の所まで蔓延した。

その原因は、当地のものが義烏でペストにかかり逃げ帰り、

次から次へと感染したもので、昨年12月末までに40名が亡くなった。

   以下省略

3 金華  省略

4 蘭谿  省略

5 浦江  省略

 

*浙江省第6区行政監察専員公署・保安司令部 代電

                民国30年(1941年)8月25日 部字8号

事由 有毒細菌を撒布する敵の挑発に関する命令の伝達

各県県長、第1、2中隊長へ  黄省主席末廻勤電によると、

軍令部電報が、「報告によると、敵の特務機関長宮崎少将

近々第1、第2両特務隊60人を召集して有毒細菌撒布を組織し、平吉少尉が率いる。

隊員の多くは華人と台湾人で、夜間船で寧波に行き、それぞれ有毒細菌を撒布する。

同隊はペスト菌、腸チフス菌、コレラ菌、ジフテリア菌などを携帯する。

隊員は商人に扮し、上海~寧波間の偽造イエズス会身分証明書を携えているとの事である。

これを注意深く摘発するよう命じられたい」

とのことなので、それぞれに打電するほか、所轄の県機関が一体となって

摘発にあたることが肝要であるとの命令を伝達するということであった。

注:宮崎少将は1940年12月2日に着任した上海特務機関長宮崎繁三郎のことで、

  第13軍特務部との共同作戦を行う情報担当者である。

 

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