日本政府や国民は知らなかったか

メディアの言論が統制されていましたから日本国民が知らなかったのは当然の事です。

しかし日本政府は現地の外交官から報告を受けて全部知っていました。

国際安全区の委員長ラ-ベは毎日のように報告書を日本大使館に提出し、

大使館では本国の外務省に打電しています。

ただ政府は軍部の暴走を止めることができなかったのです。

ラ-ベの報告書はゆっくり読んでください。

 

 *ラーベの報告書 報告書の番号はNo.426まであり、最後は翌年2月5日です。

  最後に書いてある名前はラ-ベに訴えた人の名前です。

154 1937年12月26日午後4時、13歳の少女が陳家巷6号で、3名の日本兵に強姦された(王)

158 12月27日夜11時~12時の間、3人の日本兵が司令部から検査に派遣されたと称して、

  自動車に乗って大学の正門から入ってきた。門衛は脅かされて警報を出す事が出来なかった。

  また女性を捜すのに無理矢理つきあわされた。

  3人の娘がこの兵隊たちに強姦された(その中の一人は11歳になったばかりである)。

  その中の一人は拉致されて行った。(ベイツ)

159 12月26日、この日は3~4人一組の兵隊が数組、延べ7度も宣教師資格訓練学校に押し入ってきた。

  数え切れない略奪でわずかに残っていた衣服、食品と現金も奪われてしまった。

  彼らは6名の女性と12歳の少女を強姦した。

  夜、12~14人で組んだ沢山の兵隊が4度も押し入り、20人の女性を強姦した。

177 1月2日15時、シュペ-リングとフィッチ先生が呼ばれて寧海路13号の家へ向った。

  4人の日本兵がそこへ押し入って略奪と強姦を行おうとしていた。

  日本兵たちはシュペ-リング先生が黒い卍の腕章を着けているのを見ると

  “ドイツ人だ、ドイツ人だ”と叫びながら逃げ去った(シュペ-リング)

178 1月3日、現在大学病院に入院している一人の女性が次のように報告している。

  1937年12月30日、彼女は他の5人の女性と一緒に銅銀巷6号の家から、

  日本の軍官の衣服を洗って欲しいと騙されて連れ出された。

  日本兵は彼女たちを西の郊外の建物に連れて行った。

  彼女らは状況からみて日本軍の病院だろうと判断した。

  ここで、確かに昼間は衣服の洗濯をさせられたが、夜は毎晩彼女たち全てに強姦が繰り返された。

  年令の高い女性では一晩に10回~20回、若くてきれいな女性は40回の多きにのぼった。

  1月2日、2人の日本兵がこの女性患者をへんぴな校舎のところへ連れ出し、

  銃剣で10回彼女突き刺した。

  4回は彼女の頚で頚肉は刺されて脊髄に達するほどに切れている。

  1回は手の関節を、1回は顔を、4回は背中を突き刺している。

  この女性はおそらく回復できるであろうが、しかし頚は曲がらなくなってしまった。

  2人の日本兵は彼女が死んだものと思って彼女を放置した。

  別の日本人が見つけ、あまりにひどい彼女の様子をみて中国の友人たちのもとへ送り届けた。

  これらの中国達がその後病院へ送り届けたのである。   (ウイルソン医師)

185 1月9日朝、クレ-ガ-とハ-ツは、一人の中国平民が一人の日本軍将校と一人の日本兵に引き立てられて、

  安全区の中にある山西路のそばの池で処刑される情景を見た。

  クレ-ガ-とハ-ツがそこへ着いたとき、

  この男性は薄氷を割った池の中に腰まで浸かってよろよろと立っていたが、

  将校の命令に従って、日本兵は一つの砂袋の後ろに腹ばいになって射撃を開始した。

  第一発は男性の肩に当たり、第二発は外れ、第三発で彼は射殺された。(クレ-ガ-、ハイツ)

  我々は日本軍隊の合法的な処刑に対して抗議する権利は当然持っていない。

  しかし上で見たような処刑方式は疑いもなく不当であり、残酷である。

  またこの機会にもう一度、日本大使館の先生方と個人的な談話で

  いつも取り上げている問題について述べておきたい

  死体によって池が汚染されるため、安全区内の水源は大々的に減少した

  或いは破壊されたと言える。

  長期にわたって水が不足する時期には、

  こういう状態がきわめて危険であることをとりわけ指摘しておきたい。

  特に市の水道管はほとんど回復していないのだから。

190 1月14日、難民一家が大学付属中学から自分の家に戻った。

  途中で登録証を貰い、自分の家の門に貼った

  これがあれば日本兵の騒動を受けなくてすむと言われている。

  しかし家に戻って1時間もしないうちに、5人の兵隊が彼らの住居に、男を追い出し数名の女子を強姦した。

  1月15日この家の人は再び中学に戻って住むようになった。 (ベイツ)

210 1月21日の夜間、高家酒館44号で2名の日本軍兵士が女性を探し求めていたが、

  幸いにもこの家の女性たちは一昨日金陵大学付属中学に行ってしまっていた。

  この2名の兵士は人から煙草と金銭をゆすった。

  この家のひとは大変貧しかったので、彼らは隣の家に入った。

  そこで、彼らは2名の女性を見つけ、なんと夫の目の前で彼女たちを強姦した。

  1月22日、この2名の兵士は更に2名の仲間を連れてこの家の前でにやにやしながら立っていた。(ゾ-ン)

211 1月25日の午後、鼓楼病院は一人の女性を収容した。

  彼女は夫と安全区の宣教師訓練学校付近の藁葺き小屋に住んでいた。

  12月13日、日本兵は彼女の夫を拉致して行った。

  彼女も城南の某所に連れて行かれ、そこで拘禁されて、毎日7~10回も強姦された。

  夜になって少しばかり休ませるだけであった。

  彼女は既に病気に罹り、状態が非常に悪くなっていたので、5日前になってようやく釈放された。

  彼女は既に3つの性病:梅毒、淋病、下疳に罹っている。

  非常に悪質で、すぐに伝染する病気である。

  彼女は短期間中にこの病気に罹ってしまった。

  彼女は解放されるとすぐに安全区に戻ってきた。(ウイルソン)

  この若い女性は、安全区の茅葺小屋から日本兵に拉致され、城南に38日間も閉じこれました。

  その間、毎日7~10回も輪姦された。

  そのため、彼女は3種類のもっとも悪質な性病にかかってしまっただけではなく、

  陰部の大部分がひどくただれてしまったので、日本兵はようやく彼女を釈放した。

  というのは、彼女はもはや彼らの性欲のはけ口としては役に立たなくなったからである。

  彼女は1938年1月26日に教会病院(鼓楼病院)に送られてきた。

  この写真はそれから数週間後に撮ったものである。(注:原書には写真があります)

  彼女が日本兵に拉致されたその日に、

  彼女の夫(警察官である)も日本軍に連れて行かれたが、

  その後は杳として行方が知れない。

  その他に連れて行かれた数千人と同じようにすでに殺されたと断定できる。

 

この様な報告書がNo.426まで続いているのです。

現在でもその報告書は外務省に保管されているはずですが、どうなっているのでしょうか。