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キーワード「人口疎散政策」を含む投稿一覧

  • 波8604部隊

    2020/08/11
    16:35

    1938年9月20日、

    一応日本国内で組織された部隊です。

    第21軍(通称波集団 司令官古荘幹郎)が

    広東を占領した翌年、

    1939年5月に広東で正式に編成されました。

    当初の部隊員は約800人でしたが、

    最盛期には1200人以上に増大したといわれています。

    部隊は接収した広州市の

    中山医科大学(中山大学医学部)に本部を作りました。

    そこは1941年12月の第二次世界大戦が始まると、

    英国領香港に近い為重要な場所になりました。

    それまで香港には日本軍による侵略から逃れた

    中国大陸の難民が多数避難していました。

    日本軍では香港占領後、

    増えていた香港の人口を何とか減らすために

    人口疎散政策をとりました。

    そのときこの8604部隊は難民を細菌によって殺害したようです。

    「部隊の概略図」

    大学の北門と東門の間に

    巨大なネズミ飼育場があった。

    コンクリ-ト2階建ての長さ50メ-トルもある

    建物が5棟並んでいた。

    ここに50万匹のラットが飼われていた

     SCN_0094 細菌部隊8604図

      

    「部隊の組織」

    部隊長 初代 田中巌軍医大佐

           佐藤俊二軍医大佐 

           昭和18年 栄1644部隊長に 、19年少将になる

     第1課 細菌研究

      課長 溝口軍医少佐

        課員は約80人、内将校が10人、中国人労務者7人

       庶務係

       研究係

       検索係 係長佐藤大尉
           丸山茂
       培地係

       消毒係

       動物係

     第2課  給水担当

      課長 井口衛生少佐

     第3課  伝染病の予防と治療

      課長 小口軍医少佐

     第4課 ペスト菌の培養と病理解剖

      課長 渡辺軍医中佐 敗戦時 朝鮮軍の軍医部長

     第5課  薬剤の研究と供給

    経理部

     総務課 課長 熊倉衛生少佐

    所属不明の勤務者

     井上睦夫 昆虫班

     馬場大尉 獣医 ネズミの飼育の責任者


    この部隊でもかなりペスト用の

    ネズミやノミを飼育していました。

     

    ●1943年4月、参謀本部で開かれた「ホ号打合」から。

                 金原業務日誌による。

     イ、餅(ネズミ)月1万ケ。月産10kg(注:ノミの生産)

          7~8は発生率不良。 5、6、9、10が良し。

     ロ、2月は補給現在迄2万。

     ハ、エヂプトぬまねずみの2代目を作り、粗暴性緩和す。

       飼育馴化しあり。自変種にかわりつつあり。

     ニ、葡萄糖を利用する等2/3の節用をなしあり。


    「中国側資料による細菌戦」

    ●大東亜戦争陸軍衛生史より

     波8604部隊は海南島安定県に

     15人を送ってペストの調査をした。

     

    ●1939年6月1日 中国鉄道運輸指令

        銭宗沢から重慶衛戌司令部に宛てた電報

     敵(日本軍)は漢奸(裏切り者)を

     難民に偽装させて、コレラ、腸チフス、

     ペストの細菌を入れた魔法瓶を持たせ、

     広東、広西、雲南、四川に潜入させ、

     わが軍陣地の飲用水の水源に混入させている。

     

    ●1939年10月 顧祝同が蒋介石に宛てた電報

     敵(日本軍)は細菌戦、化学戦の専門家30人余り

     山西、湖北、広東などに派遣して指導に当たらせている。

     

    ●広東省楽昌県の蔡満天からの手紙

     私は当時まだ学生でしたが、

     抗日軍に志願して樂昌で訓練を受けていました。

     1941年の5月から6月にかけて

     日本軍は漢奸(日本軍に協力する中国人)に避難民を偽装させ、

     楽昌県の県城内外に潜入させました。・・・・

     ところがその漢奸たちは水ガメや食べ物の置いてある所、

     あるいは井戸にこっそりと細菌を投げ入れたのです。

     大勢の人が中毒したり死んだりしました。

     私の知る限り、日本軍はコレラ、肺結核、

     マラリア、痢疾などの細菌を使いました。

     伝染性が強く、すぐに流行し、死亡率も高かったです。

     当時楽昌県にはそれらの病気の

     特効薬はありませんでした。

     3個中隊が訓練中でしたが、

     どの中隊にも患者が数十人いました。

     コレラは死ぬのが特に速く、

     3時間を越すことはありません。

     ほかの病気はもっと長くかかりました。

     私も被害者の一人で、

     楽昌第83病院で治療を受けました。

     かなり重く、もう少しであの世へいくところでした。

     幸いアメリカから運んできた薬で助かりました。・・・・

     毎晩聞こえるのは被害者を埋葬する時の爆竹の音でした。・・・・

     4~5キロはなれたところへ行くと、

     見渡す限り新墓でした。

     

    ●公衆衛生の専門家 陳安良教授の証言

     1942年に、私は中国軍政部軍医署

     第8防疫大隊で働いていた。

     当時、日本軍機が広東省北部の翁源一帯に

     ムギ粒を散布し、それにノミが混じっていたが、

     培養基がなかったので何の細菌かは分からなかった。

     抗日戦争中、淅江省衢州市では

     日本がやったペスト菌が発見された。

     日本軍は1941年に湖南省の常徳の上流で

     ゼラチン状物質を投下したが、

     後にコレラ菌が検出された。

     抗日戦争中、広東省の廉江、湛江一帯に

     ペスト菌があり、ペストがしばしば流行した。

     

    「証言」
    ● 丸山 茂 1917年生れ 1993年証言

     私は昭和14年(1939)、広東(現・広州)の

     南支那派遣軍防疫給水部隊に配属されました。

     部隊が編成された昭和14年5月頃、

     「なんか珍しいことやってるよ」って兵隊たちが言うんです。

     「なんだ、なんだ」と部隊北側にあった

     酒保の下にあるプールに行きました。

     プールにはホルマリンが入っていたのでしょうか、

     その中に死体が漬けてありました。

     女の死体もありました。

     渡辺という中佐が兵隊に死体を上げさせて、

     執刀しました。

     そして頭をノコギリで切ったりしていました。

     渡辺中佐は「これが肝臓だ」とか言っておりました。

     次に香港難民の細菌による大量殺害について、

     私が知っていることをお話します。

     軍は香港から広東市に来る難民を

     市内の治安を保つために、灘石頭(注:南石頭の事)の

     収容所に入れておきましたが、

     収容所が限界になったため

     南スホ(注:南支那派遣軍防疫給水部の事)に

     細菌による殺害を命じました。

     責任者のMははじめ収容所内の4ケ所の井戸に、

     チフス菌だとかパラチフス菌だとか、

     そこらにざらにいる細菌を投込んだらしいんです。

     しかし効果はなかったそうです。

     中国人は生水を飲まないし、

     食糧も煮たり炒めたりしたものしか

     食べなかったからです。

     難民は増える一方なもんですから、

     あわてて部隊長が東京の軍医学校に相談したわけですね。

     そうしたら一番効果があるものを

     飛行機で送ってきたわけです。

     それがゲルトネル食中毒菌、

     モスキ-型の軍医学校で作った菌株なんです。

     ゲルトネル菌は20%位の死亡率だと

     いわれているんですが、

     軍医学校の菌株はもっと強いものです。

     絶大な効果があったようです。

     ゲルトネル菌を撒いたその日の夕方から

     患者が出て、死亡者がどんどん出始めたそうです。

     死亡者は役人がどっかに

     運び出して埋めたらしいんですが、

     しまいには埋める場所がなくて、

     死体を重ねて埋めて、

     死体にかける土もなくなったと・・・・

     Mはゲルトネル菌を飲用湯に投入したそうです。

     一般に腸系の細菌は熱に弱いので、

     43度ぐらいに下がった時に投入したそうです。

     また憲兵から聞いた話では、

     収容所の残った難民200人を北江上流の

     敵の勢力圏に移送したそうです。

     その人たちはゲルトネルの保菌者です。

     保菌者にお金、食糧、衣服を持たせて敵地に放ったのです。

     つまり細菌戦です。


    ●井上睦夫 病理班で生体解剖に従事 

         1996年埼玉県庄和高校生徒の聞き取り

     ・・・・死んでいない者も解剖しました。

     額の所を撃たれていますので、

     治っても助かるということはまずありません。

     そういうのはまだ体も温かく血液も動いています。・・・・

     病理班には死体は多い時で1日に4体も5体も来ました。

     1日に解剖し切れませんでした。・・・

     1日にせいぜい3体ぐらいだと思います。・・・・

     解剖しきれない遺体は冷蔵庫に入れて保管しておいた。

     洗面器ほどの大きさの氷を遺体の腹の上に置いてきました。

     それも私たちの役目でした。・・・・

     病理で解剖したものは、

     地下室の水槽に浸けてありました。

     解剖室は、円形の座席のついた講義用になっている

     医学部の部屋で、その中央に解剖台があった。

     その地下室が遺体水槽になっていました。

     その中に遺体は浸けてあります。

     標本はかめや大きな瓶に頭や臓器等

     ホルマリン浸けにしたものがたくさんあって、

     その数は100本には満たないが、

     50本以上は確かにあったと思います。

     その中のいくつかは中国の方だったとは思いますが、

     具体的な数字はわかりません。

     地下室にはプ-ルのようなものがあって、

     そこにホルマリンを入れました。

     そこに番号札を付けた死体を泳がせておくわけです。

     死体の受け取りが来ると、

     番号を探し出した後、裸のままその中にはいって、

     死体をかかえて来ていたのですが、

     それがあまりにも気持ち悪いのです。

     そのうち長い竿に鈎のような金具を付けて、

     そこに死体を引っ掛けて引き寄せるようになりました。


    ● 馮慶章 当時難民収容所で数年過した

     ・・・・広州が陥落してまもなく、

     かいらい省政府は

     広東省救援委員会南石頭難民収容所を作りました。

     所長は劉念端でした・・・・

     難民収容所は・・・条件が非常に悪く、

     1人1日に味付けガユが20ccしかなかった。・・・・

     そのころ収容所で流行ったざれ歌に

     こういうのがありました。

     「カゴの鳥は高くは飛べない。

     味付けガユを食わなきゃ空きっ腹、

     食えば食ったで腹痛み、病気になっても薬はない、

     死んだら最後、骨まで溶かす池に放り込まれる」

     一ぺんに何百人も死にました。

     かいらい政府が派遣した人が

     収容所の外の無縁墓地に運んで、

     いい加減に埋めます。

     毎日のように2~30人死にました。

     少ない日でも6~8人は死にました。・・・

     1942年の春と夏は、香港が陥落したあと、

     難民が大勢、船で次々と収容所に運ばれてきました。

     3000人から4000人ぐらいいました。・・・・

     地元の難民とは別々にされました。・・・・

     日本人は難民に強制的に予防注射を打ちましたが、

     打たれたあと、高い熱を出し、痙攣を起こし・・・・

     何日も起きられませんでした。

     この時はもう死体を溶かす池が2つできていて、

     死んだ人やもうすぐ死にそうな人は

     みんなこの池に放り込まれました。

     池は深さ4mぐらいで、正方形でした。

     コンクリ-トで、・・・・

     死体が一杯になると薬の水を入れて蓋をしました。

     10日から15日たって蓋を開けたとき、

     夜のことが多かったのですが、

     ものすごい臭いがしました。

     日本人がしょっちゅう収容所にやってきて

     働き手を募集して若い者を運びました。

     外で仕事をするということでしたが、

     実際は検疫所に連れて行ったのです。

     何日かはいい物を食べさせて少しふとってきたころ、

     真っ暗な部屋に入れて蚊やノミに食わせるんだそうです。

     そのうちだんだん痩せてきて死んでしまいます。

     次々と収容所から出て行った難民は帰って来ません。・・・・

     1945年に日本が降伏する前、

     国民党が収容所を接収する直前には、

     残っていた難民はほんのわずかしか残っていませんでした。・・・・

     何千人もいた難民は散り散りになり、

     うやむやになったのです。


    ● 梁檬 住民

     日本軍が1938年10月に広州を占領してまもなく、

     南石頭に検疫所と珠江船舶検査所を作った。

     そこには日本軍の憲兵隊が駐屯した

     南石頭村の西側には特別検査所ができて、

     1940年ごろ、私たちの南石頭村で盛んに蚊を集めた。

     毎朝6時ごろには2、3人の日本人が

     勝手に村民の家に入り込んで、

     そっと蚊帳をめくっては血を吸った蚊を

     1匹1匹つかまえ、持ってきたガラスの小ビンに入れて帰った。

     日本人が毎日のように村に来るので

     落ち着いて暮らせなかった。

     ある時、無理やり村民の耳を切って血をとったり、

     注射器で血を抜いたりして試験をした。

     人を捕まえて検疫所へ入れ、

     足の肉を切って血をとったという話も耳にした。

     この時は逃げ出したのが2人いた。

     村の東南に昔の砲台を

     懲戒場にしたところがあったが、

     日本軍はそこを広州難民収容所にした。

     日本軍が難民をトラックに乗せて

     何台も収容所に入って行くのを見た。

     名前は難民収容所だったが、

     実際はひそかに人を殺していたのだから“収命所”だ。

     毎日大勢が死んだ。

     死体運びに6人いたが、運びきれなかった。

     その後、収容所の中に死体処理池が作られ、

     難民の死体を次々に放り込んだ。

     その臭いは臭くてどうにもたまらなかった。

     どんなに腹が立っても何も言えなかった。

     難民は毎日、食事を作る時に

     日本兵が薬物をまぜるので、

     配られた飯がノドを通らず

     腹をすかしているほかなかった。

     それも日本軍の陰謀だ。

     

    つづきを読む

  • 香港の人口疎散政策

    2020/07/22
    11:33

    1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃と同じころ、

    広東省広州に待機していた日本の

    支那派遣軍第23軍は、香港攻略を開始しました。

    作戦開始命令の軍機電報は「ハナサク・ハナサク」という暗号でした。

    参加した部隊は第8師団歩兵第228連隊と第229連隊です。

    香港攻略作戦は、1940年7月

    参謀本部第2課の瀬島龍三大尉が作った

    「香港作戦概要」が元になっています。

     注 瀬島龍三氏は戦後日本政界・財界の黒幕として活躍しました。

    1941年12月25日、

    香港のイギリス軍が降伏すると、

    日本の主力部隊はジャワ方面に移動し、

    独立歩兵第67大隊、68大隊、69大隊、香港砲兵隊が守備につきました。

    12月29日、

    ペニンシュラホテル内に香港軍政庁を発足させ、

    翌1942年1月19日、

    大本営直轄の香港占領地総監部が組織され、

    磯谷廉介中将が総督に就任して占領行政の準備に入りました。

    2月20日には香港島セントラル地区の中国上海銀行を

    接収して正式に香港占領地総監部が出来ました。

    「九龍軍政指導計画」によると、

    軍政の目的は、

    「香港の軍事基地化と重慶政権(国民党)覆滅のための政治的謀略」で、

    抗日分子の摘発による敵性の払拭が中心で、

    軍票の発行もその一環として定められました。

     

    「人口疎散政策と迫害」

    当時は日本による中国侵略の戦火を逃れて

    多くの中国人が中国から香港に避難していました。

    イギリスの植民地であったため安全だからです。

    抗日ゲリラも香港を基地に中国で活躍していました。

    そのため日本軍が占領したときは

    人口が200万人以上に膨れ上がったといわれています。

    人口が増え過ぎたため

    食糧の不足やゲリラの暗躍が懸念されたため、

    日本軍は人口を強制的に減らす事にしました。

    これを疎散政策といいました。

     

    ●港九地区に於ける人口疎散実施要領      

        1941年12月24日  原文カナ

    香港、九龍地区に於ける軍作戦並びに

    治安維持上取りあえず九龍地区に於ける下層階級、

    なかんずく浮浪者を他に強制的に移住せしむるものとす

    但し我が軍事基地たらしむる為の技術及び労働力は之を確保するものとす

    疎散させる方法としては次の3つの種類に分けました

     身元が分かっていて故郷へ帰る者

    1 自費疎散  自費で中国や満州に帰る

     失業者・極貧者・犯罪者は

    2 慫慂(免費)疎散  

      強制だが食事、旅費、宿泊は提供する

    3 強制疎散  強制的に追い出す

     

    しかしどの方法にしても強制であることには変わりありません。

    戦火の中国本土に送り返されたり、

    無人島に置き去りにされたり、

    集団で海に突き落とされたり、

    殺されたりしました。

     

    その結果1943年9月末までに、

    973,000人が移動させられました。

    中国各派の抗日分子に対しては

    3,000人近い中国人やインド人を密偵に使って摘発をしました。

    疑わしきは処罰という方針でしたから

    多くの市民が犠牲になりました。

    摘発の方法としては

    人口総精査(国勢調査)の結果も利用されました。

    結局、香港の人口は1945年には

    50万~60万人にまで減少しました。

    食糧ですが、日本の攻撃を予想していた香港政庁は

    大量の米を備蓄していましたが、

    すべて日本軍に押えられました。

    なんとか米を分けてくれるように

    13人の住民代表が請願に行きましたが、

    逆に総督命令で斬首刑になりました。

    そのような中でも日本軍とコネがあれば楽に暮らせたし、

    また日本軍は裕福な中国人を利用して

    私腹を肥やしたそうです。

     

    ●「日本軍政期の香港経済」から  

       元中華民国衛生部長 李樹芬氏の回想

    ・・・・占領期には賄賂が必要であり、

    かつ公然と行なわれていた。・・・・

    日本人の占領地統治は混乱、無秩序であって、

    汚職事件は下僚また上司を見習って次々と行なわれ、

    果てることがなかった。・・・・

    ある海軍軍人および船員は

    ベトナムから米を密輸しヤミ市で売りさばいていた。

    朝鮮人を阿片売買、売春の手先とし、

    政府専売管理処にはわずかなコミッションを

    下っ端職員に与えて公金の大部分を横領した。

    大陸浪人と軍閥関係者は結託して各商店から保護費を取り、

    応じなければいやがらせ、妨害を働き、強奪した。

    各行政機構がそれぞれ職権を利用して汚職を働いた。

    衛生署職員の不正は3ケ月ごとに住民を脅迫してコレラ予防注射をさせ、

    その都度料金を取る事であった。・・・・

    もっと大掛かりな汚職をやった日本人は変名で香港企業を買収した。

     

    疎散政策や住民迫害に関する資料や証言や資料を続けます。

    ●香港淪陥史 より

    午前9時各家の人々は日本軍の規定によって

    主人を先頭に家の戸口の前に一列に並ばされ、

    軍の検査を受けるために待たされた。・・・・

    戸籍を取り出し、家族一人一人の名前を呼ぶ・・・・

    その後、兵が家に立入って検査をするが、

    部屋の中をひっくり返し、

    誰かをかくまっていないかを確かめると、

    金目の物を掴むと出て行った。

    病人の老人が家の中で寝ていたりすると、表まで引っ張り出し、

    挙句の果てに階段から突き落として殺してしまったり、

    出産直後の母子が寝ていると同じように表に放り出した。

    遠方に出かけて不在の人がいたりすると、

    逃げた抗日分子だとして一

    家を連れ去り拷問のあげく殺したり、

    婦女は強姦されたりした。

    またこの間に不注意で表を出歩いていたりすると、

    射殺されたりした。

    少なく見積もっても調査中に殺された人は

    2,000人にのぼるという。

     

    ●同じ香港淪陥史 より

    1943年3月、日増しに深刻化する食糧不足の解決のために、

    町で多くの市民を捕らえ、

    船で東沖に連れ出して海に投げ込んだりした。

    この間、強制的に駆逐された中国人は毎日1,000人に及んだ。

     

    ●謝永光さんの話 「戦時日軍在香港暴行」の著者

    日本は謝っても、金を払っても、

    精算し切れないひどい事をやった。

    香港を占領しなくても海上を封鎖すれば

    イギリス軍は降伏したのに、

    必要のないことをやって犠牲者を出した。

    人口150万を無理に減らそうとして、

    強制疎開をさせた。

    道をわずか100か200メ-トル位の間隔で封鎖して、

    その間にいた男や女を捕まえると

    無人島に連行して捨てたりもした。

    当然だが、親を失った子どもは飢えて死んだ。

    まるで地獄だった。

    道路の脇のゴミの中に子どもの頭があったとか、

    人骨が捨てられていたとか・・・・

     

    ●呉溢興さん (香港索償協会主席)

    1999年12月11日、戦争犯罪と戦後補償を考える

    国際市民フォ-ラムでの発言

    ・・・・香港の人口は1941年以前には

    160万人であったが、

    1945年秋には60万人足らずになっていた・・・・

     

    ●鏡和さん(現在日本の会社と取引があるため仮名)

    日本軍が香港に入ったばかりの頃でしたよ。

    日本軍が徴発した乗用車が路上でストップしてしまった。

    車から降りた将校は、

    通りかかった30歳位の中国人に

    車を後ろから押すように言いつけた。

    中国人が断ると大声で怒り出し、

    道路にひざまずいて謝っているのにピストルで撃ち殺してしまった。・・・・

    別に罪を犯したわけではないのに・・・・

    もう一つは、米の配給を受けようと待っていた時でした。

    日本兵が海岸の桟橋に、

    中国人を後手に縛って座らせると、

    銃剣で突き殺して海に捨てたんです。・・・・

    戦後、日本と仕事上の取引をするようになった時には心の中が複雑でした。

    しかし商売が大事なので、

    不愉快な過去を押し殺して今までやってきました。

    ところが無神経な日本人がいましてね。

    中国大陸で中国人を殺した体験をぽろっと口にするんです。

    商売をうまくやるために本心を押えて我慢しましたよ。・・・・

    あの時代の事は決して忘れませんよ。

     

    ●錢福注さん

    ・・・・親から、日本兵に会ったら

    丁寧にお辞儀をするように躾けられましたよ。

    それから日本兵とすれ違ってしまった時には

    「どんなに怖くても、絶対に走るな」と厳しく教えられていました。

    撃たれるからです。・・・・

    日本軍の印象ですか?・・・・

    言葉は悪いが、殺人鬼ですね。・・・・

    あれから50年もたつんで大分薄らいでいるけど、

    日本軍についての恐れと憎しみは

    完全に消し去る事は出来ませんよ。

     

    ●陳炳財さん

    ・・・・叔父と叔母は日本軍に殺されてしまった。

    箱を選んでいる時、

    日本軍は車で走りながら2人を銃撃して殺した。

    面白半分に殺したんですよ。

    叔父夫婦には14歳と6歳の子どもが2人いたけれど、

    その従兄弟たちも行方不明になり、

    今でも生きているのか死んでいるのか分からない。

    多分殺されたんだろうから、叔父の家は全滅したわけですよ。・・・・

    1944年に父が死んでしまった。

    もう頼る人がいなかったんで、とてもひもじい思いをしたよ。

    芋の澱粉なんかはいいほうで、食える物は何でも食ったよ。

    町には飢えて倒れた人が、あっちにもこっちにも転がっていた。

    まだ生きている人もいたのに、

    ゴミを集めるトラックが来て、

    死体と一緒くたにして持っていった。

    見たわけではないけど、

    死にそうな人の尻の肉を食ったという噂もあった。

     

    ●C・ダルマダさん イギリス籍で抗日義勇軍に入り捕虜になった

    ・・・・私は大尉だったけど、

    捕虜についてのジュネ-ブ条約に違反して、

    強制労働に狩り出された。

    いまさら日本人に言ってもしょうがないけども、

    当時の日本兵は残酷だった。

    たやすく人を殺した。

    なぜ、あんな簡単に人を殺したのか理解できない。・・・・

    町の人たちが潮干狩りにやってきた。

    その時に、貝を取っていたおばあさんを射殺してしまった。

    特に理由がなかったから面白半分にやったのだろうと思う。・・・・

    カナダの赤十字から収容所の捕虜に毎月食糧を送って来たが、

    私たちに配られたのは3年間にたった2箱半だった。

    解放されて倉庫を見ると5万箱も残っていた。

    もっと早く支給すれば飢えて死んだ人も助かったかもしれない。・・・・

    日本人に言いたいことは、他人の命でも、

    かけがえのないものなのだから大事にして欲しい。

    どこの国の人であろうが、人間の生命を大事に考えて欲しい。

     

    戦後のBC級裁判の英国法廷では主として

    香港憲兵隊の裁判が行なわれ、

    123人が起訴され、25名が処刑されています。

    内8名の憲兵隊関係者の罪名は「住民虐待致死」です。

     

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