軍慰安所の監督や統制は、
現地司令官の管理部や後方参謀、
兵站の慰安係り、
師団・連隊の副官や主計将校、
憲兵隊が担当しました。
● 今村均 回顧録 当時第5師団長 大将
1940年2月中旬、編成されて間もない
南寧の第22軍司令部に、
約15名の業者に連れられた
150名の慰安婦が到着した。
そこで、第22軍司令部の管理部長は、
集まっていた第5師団長と各旅団長に対して、
「軍管理部で家屋の都合はつけたが、
遠くの近衛師団に配分する慰安婦については
旅団でやって欲しい」と述べた。
第5師団では、軍管理の慰安所の
利用法について師団副官に研究させ、
軍管理部と相談の上、
1人1日1枚の切符制で利用することにした。
直営慰安所は軍が全面的に
管理するのは当然ですが、
民営の場合でも軍慰安所と名前が付けば
軍は厳しく監督・統制をしています。
そしてその責任者は現地軍の指揮官でした。
さらに軍慰安所の制度を作って
運営したのは陸軍や海軍の中央の指示、
つまり国の指示ということになります。
以下でそれらの資料を見てみます。
● 常州駐屯間内務規定
独立攻城重砲兵第2大隊
1939年3月(原文カナ、意訳)
第59
方針
緩和慰安の道を講じて
軍紀粛清の一助とすることにある
第60
設備
慰安所は日華会館南側囲壁内に設け、
日華会館附属建物及び下士官、兵に区分する
下士官、兵の出入り口は南側表門とす
衛生上に関して楼主は消毒設備を置くものとす
各隊の使用日を次のように定める
星部隊 日曜日
栗岩部隊 月、火曜日
松村部隊 水、木曜日
成田部隊 土曜日
阿知波部隊 金曜日
村田部隊 日曜日
その他臨時駐屯部隊の使用に関しては別に示す
第61
実施単価及び時間
1. 下士官、兵
営業時間を午前9時より午後6時までとす
2. 単価
使用時間は1人1時間を限度とす
支那人 1円00銭
半島人 1円50銭(注:朝鮮人慰安婦のこと)
内地人 2円00銭(注:日本人のこと)
注:中国人が自主的に応募する訳はないので、
強制連行でしょう。
以上は下士官、兵とし、将校(准尉を含む)は倍額とす
(防毒面を附す) 注:コンド-ムのこと
第62
検査
毎週、月曜日及び金曜日とし、
金曜日を定例検黴日とす
検査時間は午前8時より午後10時までとす
検査主任官は第4野戦病院医官とし
兵站呼び病院並びに各隊医官はこれを
補助するものとす
検査主任官はその結果を第三項部隊に
通報するものとす
第65
監督担任 監督担任部隊は憲兵分遣隊とす
付加事項
1. 部隊慰安日は木曜日とし、当日は各隊より
使用時間に幹部をして巡察するものとす
2. 慰安所に至る時は各隊ごとに引率すること
3. 毎月15日は慰安所の公休日とす
● 軍人倶楽部利用規定
独立歩兵第13旅団中山警備隊
1944年5月〔原文カナ、意訳〕
第2条
本規定中第一軍人クラブは食堂を、
第二軍人クラブは慰安所とする
第4条
部隊医官は軍人クラブの衛生施設その他・・・・
衛生に関する業務を担任する
第5条
部隊主計官は軍人クラブの経理に関する業務を担任する
第12条
軍人クラブの営業時間は10:00より24:00とする
第14条
料金は前払いとする
第17条
軍人クラブの利用は軍人軍属に限るが、
第1軍人クラブのみ将校同伴者は許可する
第2軍人倶楽部利用時間表 |
区分 | 兵 | 下士官・軍属 | 将校・准士官 |
利用時間 | 自 09:30 至 15:30 | 自 16:00 至 20:00 | 自 20:30以降 営業時間内 |
第2軍人倶楽部料金表 |
| 30分仕切 | 1時間仕切 | 後半夜仕切 | 終夜通し |
将校 准士官 軍属 下士官 兵 | 11,00 9,00 6,00 | 17,00 11,00 9,00 | 40,00 | 後半夜仕切料金と 24時迄の時間花代 を加えしもの |
備考 本料金は儲備券払いとする
注:中華民国の中央銀行・儲備銀行発行の紙幣
● 野戦重砲兵第14連隊の記録
季刊戦争責任研究第87号
松野誠也論文から
野戦重砲兵第14連隊は
第2時上海事変の時第10軍の
野戦重砲兵第6旅団隷下の連隊です。
南京陥落後翌年の1月から
上海郊外に駐屯しました。
そして1月27日に慰安所を開設しました。
開設を急いたためでしょうか
27日にはとりあえず「仮規定」作成しましたが、
あまり守られなかったらしく
31日に正式な「取締規定]を制定しています。
注:完全に軍が管理し
単に運営のみ業者に
任せていることが分かります。
慰安婦の料金に中国人の金額があります。
この時期に中国人女性が
応募するはずがないので
強制連行だったと思われます
◎特種慰安所仮規定(原文カナ)
1. 当分の間特種慰安所を左記の通り実施す
2. 開業 1月27日
3. 使用区分を別紙の通り定む
但し毎月15日は定休日とす
4. 営業時間を定ること左の如し
兵 自 午前10時
至 午後5時
下士官 自 午後6時
至 午後8時
5. 遊興料左の通り
日本人 1回約20分 1円50銭
中国人 1回約20分 1円
6. 遊興部隊は午前9時下士官1名を
差出し慰安所の取締並に
遊興料の徴収に任ずるものとす
7. 防毒具を受領の上遊興すべし
但し料金は日貨、軍票の外取扱をなさず
8. 慰安所内には左記の者の外出入りを禁ず
委員 新井大尉
同 野見山軍医
各部隊長、舎営日直将校、巡察将校、軍医
但し接客ある場合は其の室内に入る事を禁ず
以下 省略
◎特殊慰安所取締規定(原文カナ、途中省略あり)
第1条
本規定は北橋鎮特殊慰安所の
取締を規定す
第2条
上海県警備区城内の慰安所設置は
松江支部長の認むる
舎営司令官に非らざれば
設置することを得ず
第4条
特殊慰安所の設備に要する経費中
宿舎は舎営司令官に於て準備し
其の他の経費は使用者の負担とするも
舎営司令官に於て所要の
便宜を与ふることあり
第5条
専任将校は軍部の都合に依り
営業者に退去を命じ又は
営業場の制限をなすことを得
第6条
営業者は舎営司令官専任将校の
許可あるに非ざれば
営業を廃止し又は全部若しくは
一部の休業をなすことを得ず
第16条
営業者は家屋修理、改造、装飾等を
なさんとするときは専任将校に届出すべし
現地軍の資料です。
● 歩兵第68連隊第三大隊本部
陣中日誌第7号(1938年2月1日~2月28日)」
季刊戦争責任研究 第89号 松野誠也論文から
歩兵第68連隊(岐阜・鷹森孝大佐)は
上海派遣軍第三師団に所属し、
1937年8月23日呉淞に上陸。
かなり苦戦を強いられ戦死者が多く、
10月には第4次補充までしています。
(野戦重砲兵第15連隊永井仁左右回顧録より)
その後南京戦に参加し、
1938年1月に鎮江に駐屯しました。
1月12日の日誌に
「・・・・午後5時慰安規定の件第3師団
参謀部より電話を受く・・・」とあります。
以下その内容です
☆鎮江慰安所規定(原文カナ)
一.緩和慰安の道を講じ軍紀粛清の
一助となさんとするするに在り
二.実施要領
1. 慰安所の開設許可及監視監督は
鎮江駐屯司令官の方針に基き
憲兵隊之を行ふものとす
2.各警備司令官は右に関し
憲兵隊長を援助するものとす
三.各隊は左の区分により
慰安所を利用することを得
将校 午後5時(日曜は午後1時)より午後12時迄
下士官 午後5時より午後9時迄
兵 午前10時より午後5時迄
四.軍属並に身分証明を有する日本人は
午後5時より午後12時迄利用することを得
五.娼婦の身体検査は花柳病検査を
毎週金曜日に又第一金曜日は花柳病検査の外
一般身体検査を実施するものとし
毎週金曜日は午後5時迄毎月15日は休業とす
六.慰安所の衛生施設は身体検査担当医官の
監督指導により常に完全ならすむるものとす
但し其費用は総て営業主の負担とす
七.身体検査担当医官は身体検査の結果
並に衛生施設に関し所要の事項を
鎮江駐屯地司令官に報告すると共に
憲兵隊長に通報するものとす
八.憲兵隊隊長は慰安所の状況並に
娼婦の身体検査に基き必要なる事項を
各部隊に通報するものとす
九.身体検査担当医官の分担を左の如く定む
慰安所 | 身体検査担当区分 |
第3、6、7、8慰安所 | 第4野戦病院 |
第1,2,3慰安所 | 兵站司令部医官 |
第4慰安所 | 軍砲兵隊医官 |
十.慰安所配置図の如し
注:上の図を見ると日本人以外に
朝鮮人や中国人が多くいます。
特に中国人の場合は強制連行意外には考えられません
十一.慰安単価を左の如く定む
種類 | 将校 | 下士官 | 其の他 |
日本人 | 3円 | 1円50銭 | 同上 |
支那人 | 2円50銭 | 1円 | 同上 |
但し1時間の単価とし将校は1時間を
増す毎に2円とし2時間以上の利用は
他の迷惑を及さざる場合のみとす
十二.慰安所の利用及慰安所に於ける注意事項左の如し
1. 慰安所を利用せんとするものは
先ず切符売場に至り切符を求め
案内を待つものとす
2. 慰安所内に於て飲食するを禁ず
3. 飲酒酩酊者は立入りを禁ず
4. 現金の支払及時間を厳守す
5. 無切符にて慰安所内に入り又切符に指定しある部屋以外に立ち入るべからず
6. 女は総て有毒者と思惟し防毒に関し注意するを要す
7. 娼婦に対し粗暴の好意あるべからず
●独立山砲兵第三連隊
「森川部隊特種慰安業務に関する規定」
昭和14年11月14日 原文カナ・意訳
(上記松野誠也氏が防衛庁防衛研究所図書館で発見)
森川部隊(連隊長森川清大佐)は
昭和14年湖北省武西西方の葛店に
警備隊として駐屯しました。
その時、葛店に2ケ所、隣の華容鎮に2ケ所の
慰安所を開設しています。
その業務規定です。
更に、業務委員の名簿もあります。
まさにこの資料も軍自らが慰安所に関与した証拠といえます。
1. 本規定は森川部隊警備地域内特種慰安業務に関し規定す
2. 特種慰安所開設の趣旨は
将兵殺伐の気風を緩和しもって
軍紀振作の一助たらしむるにありて、
これが奨励又は宣伝に堕するの行為は厳に取締を要す
3. 警備地域内の慰安業務を実施するため
委員を任命す
其の差出及び任務分担表は附表第1の如し
4. 警備隊長は慰安業務を監督指導するものとす
5. 慰安所及び食堂付近の警戒並びに
軍紀風紀の取締は華容鎮及び
葛店警備隊長の担任とす
6. 慰安所は葛店及び華容鎮にこれを設く
7. 特種慰安所に要する経費は一切経営者の負担とす
而して経営者は左の諸項目を確実に実施すべし
設置の趣旨に反し又は諸規定の履行不確なるものは
営業を停止し或いは退去を命ず
以下省略
附表第1 森川部隊特種慰安業務委員 |
任務 | 差出部隊 | 官名 |
慰安に関する業務の全般の統制 | 連本 | 村上大尉 |
第1第2慰安所及食堂の経営指導 | | 中島少尉 内田中尉 原口准尉 |
第3第4慰安所及食堂の経営指導 | | 古賀中尉 福田中尉 |
慰安婦の検査及衛生施設の指導 | | 軍医各々 |
解説:金銭的な経営だけ民間業者にまかせて、
他の一切は軍が仕切っています
この形態の慰安所が最も多かったようです。
● 日本軍天津防衛司令部の例
治安戦や掃蕩戦をしている前線部隊から、
慰安婦派遣の要請が防衛司令部にくると、
防衛司令部から「天津特別市政府」に対して
慰安婦供出命令が出されます。
市長は警察局に対し依頼し、
警察局は天津特別市楽戸連合会に
妓女の供出を入りする手順になっていました。
注:天津特別市政府
日本軍の特務機関によって作られた
傀儡政権、
克敏の華北政権(華北政務委員会)のもとで
北京、青島とともに特別市とさせた。
注:楽戸連合会
当時天津には登録された妓女(公娼)が
約3,000人いたといわれている。
妓女を雇っていた妓院の経営者が
日本軍の指導で組織した連合会。
1936年に出来た。
◎1945年4月11日
天津防衛司令部から出された命令
山東省の日本軍駐屯部隊に
慰安婦を送るための命令です。
その時の高森副官の訓示は
☆このたび日本軍を慰労するために行く事は
大東亜聖戦の全面勝利に協力するものであり、
一地域の利害にこだわってはならない。
速やかに手配せよ」
(内容)
(一)慰労地点
山東省呂県第1437部隊
(二) 慰労人数
25名(体が健康で、
容姿が秀麗であることをもって合格とする)
(三) 期限
3ケ月(8月1日から10月末)
1. 妓女本人は毎月小麦粉2袋、
家族に対しては(5人を限度とする)1名、
月ごとに雑穀30キロ(1キロ20元から40元)を
いずれも天津で配給する
2. 妓女本人の食事、宿泊、衣類、化粧品、
日用品、医薬品等はすべて軍隊から無料配給する
3. 花代
兵士は1回10元、
下級士官は20元、
高級士官は30元
(毎回1時間以内に限る)
(四)旅費
軍隊が支給する