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キーワード「兵補」を含む投稿一覧

  • インドネシアの兵補

    2020/07/23
    11:52

    1942年3月9日、

    オランダ軍の降伏でインドネシア各地を占領した日本軍は、

    当初50,000人以上の兵力で軍政を敷きました。

    しかし1942年6月のミッドウェイ海戦で大損害を受けた後、

    アメリカの攻撃に備えるため、

    ジャワから日本兵がどんどん前線に送られました。

    その結果インドネシアには戦闘部隊8,000人と、

    後方部隊や軍属が17,000人位になってしまいました。

    5,000万人近い人口を抱えるジャワの統治に無理が生じました。

    またオ-ストラリアからの

    攻撃にも備えなければならなくなました。

    さらに日本兵が大量に戦死する事を防ぐため、

    現地インドネシア人を組織して兵補とする計画が作られました。

    これがヘイホ(兵補)です。

    兵補制度は1943年に正式に法制化されました。

    全兵器が使用できるように訓練され、

    日本軍の補助部隊として組織されました。

     

    ●大本営参謀総長の指示  1942年6月

     南方要塞においては、

     日本軍の任務達成を容易ならしむるため

     所要の武装団体等を育成する事を得・・・

     

    ●兵補規定 陸亜密2626  

    1942年9月23日 陸軍省制定 原文カナ

    第1章 省略

    第2章

     第3条 

      兵補は帝国臣民に非ざる男子にして

      兵補志願者中最高指揮官の規定する採用試験に   

      合格する者より之を採用す

    第3章  身分取扱及び階級

     第6条 

      兵補の身分は軍属に準じて之を取扱うものとす

     

    ●兵補規則施行細則 1943年4月22日 南方軍発令

        注:これによって兵補の採用は公式になった。

          正確な資料がないので要点のみです)

    第1条 日本国民ではない18歳から30歳までの男子

    第2条 募集担当は南方軍の各軍(ジャワは第16軍)

    第3条 採用は4月と10月の年2回

    第5条 試験は3月と6月

    第10、11条 教育期間は約6ケ月、

        日本兵を教育するための手引をそのまま使用

    第12条 軍人勅諭に従う

    第15条 日本の軍人、軍属に対して敬礼する義務

    第17条 休暇は軍人休暇令を適用

    第19条 兵補の身分は軍属と同等とされ、入隊時宣誓も軍属と同じ

    第20条 階級は日本兵の階級名を一部変えて使用

     兵補と日本兵の階級名称対照及び昇級までの実務期表

    日本兵

    兵補

    昇級までの期間

    曹長

    一等班長

    -

    軍曹

    二等班長

    2年

    伍長

    三等班長

    1年

    兵長

    組長

    1年

    上等兵

    上等兵補

    6ケ月

    一等兵

    一等兵補

    6ケ月

    二等兵

    二等兵補

    6ケ月

    注:兵補の採用から日本の降伏まで約2年だった為

      上等兵補より進級した兵補は少なかった。

    第21条 原則として兵舎に居住

    第25,27条 昇級の期間や手続きは日本兵と同じ

    第41条 武器は銃剣1丁は小銃1丁

    第43条 衣服は日本の下士官以下と同じ、左胸に日の丸をつける

    第44条 給料は軍属と同等

     兵補給与基準金額表(月額)

    階級

    最高

    普通

    最低

    一等班長

    一等級

    1200

    850

    700

    二等級

    800

    750

    600

    三等級

    450

    350

    250

    四等級

    420

    320

    220

    二等班長

    一等級

    400

    300

    200

    二等級

    350

    250

    150

    三等級

    300

    220

    110

    三等班長

    250

    200

    100

    組長

    200

    150

    80

    上等兵補

    150

    100

    60

    一等兵補

    120

    90

    40

    二等兵補

    100

    60

    30

    注:給与の最高額の地域は、ビルマ地域、

      普通地域は、マレ-、ボルネオ地域、タイ、

            仏領インドシナ、オ-ストラリア北辺地域

      最低地域は、ジャワ、スマトラ地域

     

    兵補規定の第6条には

    「・・・・軍属に準じて・・・・」となっています。

    規定細則を見る限り、

    実際には組織の編成、武装、訓練、階級、給与等

    どれをみても日本軍の一部です。

    日本兵の心得である軍人勅諭や戦陣訓も

    日本語のまま暗記させられました。

    まさに実質は天皇の承認を経た正規軍そのものでした。

    ですから日本軍兵士に対する恩給等の補償を

    兵補に適用することは当然のように思われます。

     

    ●参考までに

     オランダの場合、1971年2月8日、

     元オランダ植民地軍の軍人に対して

     月額873ギルダ-から2,142ギルダ-の

     恩給を支給する事にしました。

     

    兵補の給料は建前上は日本軍兵士と同じように、

    階級に応じて支払われていましたが、

    内容は  

      1/3が強制的に郵便貯金として天引きされ、

      1/3は郷里の両親に送られ、

      残り1/3は軍票で支払うというものでした。

    本人に支払う分でも色々な名目で天引きされたようです。

     

    ●スマトラの郵便貯金通帳には

     現地語と日本語で下記のように書かれています。 原文カナ

    「郵便貯金通帳」

     1 郵便貯金預入金の払い戻しについては

        大日本帝国がこれを保証します

     2 郵便貯金預入金には毎年利子を附します

     3 預金通帳に余白が無くなったとき又は亡失したとき或は毀損、

        汚染の為不判明となったときは

        郵便局に新通帳を請求して下さい

     4 この貯金通帳は大切に保管してください

     5   其の他詳しい事は大切に保管して下さい

    「預金預入及び払戻しに就いての注意」

     1    郵便貯金の一度の預入額は25銭以上です

     2    郵便貯金の即時払戻には必ず2円50銭を残して下さい

     3    高額の払戻には前日迄に郵便局に予告して下さい

     4    記号番号金額氏名等の文字は特に正確に記載して下さい

     5    代理人を以て払戻の際は詳く記載して下さい

     

    1/3ずつ、貯金、送金、軍票ですが、

    その通り実行されたのでしょうか?

    まず貯金ですが、

    日本が負けた時点で貯金通帳は紙屑ですから、

    お金は戻ってきませんでした。

    次に送金ですが、大多数は送金されていませんでした。

    最後に軍票ですが、

    支給されていても敗戦で紙屑になってしまいました。

    ましてビルマに派遣された兵補には支給すらされていません。

    つまり兵補たちは日本軍軍人として真面目に働いたのに

    一銭もお金を貰っていないのです。

    まるでサギです。

     

    兵補の正確な数は不明ですが、

    インドネシア全体で1944年に15,000人、

    日本の降伏時に50,000人近くといわれています。

    降伏時のジャワ島だけで、

    日本兵15,000人、

    兵補25,000人、

    郷土防衛義勇軍37,000人となっています。

    日本軍は兵力のほとんどを

    インドネシア人に頼っていた事になります。

     

    ●元兵補中央協議会に登録された数 

     1991年3月時点25,000人   

      配属の内訳 

       ジャワ島             8,441人

       ボルネオ、セレベス、ハルマヘラ  12,100人

       ビルマ              2,800人

       タイ、シンガポ-ル        1,750人

     注:この協議会はその後

       「元兵補従軍慰安婦連絡協議会」と名前を変えました。

     

    インドネシアで最大の激戦地はモロタイ島だった為、

    戦後1974年に日本政府は元日本兵の

    遺骨収集と忠魂碑建立を行ないました。

    勿論、日本兵の為だけで

    現地の人のことを考えたわけではありません。

    実はモロタイ島では兵補が801人戦死しています。

      (注:行方不明も含む)

    しかし日本の遺骨収集団は

    インドネシア兵補の事は全く無視して、

    これら兵補の遺骨まで全部日本に持ち帰って

    千鳥が淵戦没者墓苑に納骨してしまいました。

    この事で日本に対する不満が高まり、

    元兵補の権利を守る運動が散発的に発生し、

    1985年に元兵補中央協議会に集約されたのです。

     →モロタイ島にいた某中隊では

      720人の内、日本兵55人、兵補が665人でした。

     

    日本の敗戦後、1945年8月18日、

    第7方面軍直轄軍司令官会議は

    「原住民軍隊解散命令」を発令し、

    兵補は解散となりました。

     

    ●解散命令に基づく参謀長指示  1945年8月18日

    1 義勇軍(兵補)の解散(解除)に当り、

       解散せる「原住民」は各々その郷里に帰還せしむるものとする。

       給与に関しては

     イ.岡集団(注:第7方面軍)兵補義勇軍給与特例

       及び昭南ジョホ-ル地区原住民軍隊整備規定に定めた

       解除手当ての外、退職賞与として給料月額3ケ月以内を支給することを得

     ロ.帰郷旅費として前項特例並びに規定に定むる

       渡切航旅篭料及び旅行雑費を渡切するものとす

       更に米、塩、砂糖10日以内を携行せしむることを得

     ハ.現在装着せる被服(但し階級章・標識等は除く)は

       そのまま支給することを得

     

    8月20日には第16軍は

    「軍は情勢の推移に応じ兵補を解散せんとし」という命令を出しました。

    ●上記に基づく参謀長指示

    給与に関して

     1 兵補解除に方りて公付すべきものは、

      イ.退職手当として俸給月額の6ケ月分

    ロ.被服、個人支給の分全部(寝具共)のほか、民需用衣料2着分

    ハ.食糧、米、砂糖、塩 各10日分

    ニ.需品、個人支給の分及び兵補用として

      部隊に保存しあるもの全部(日用品は1回分)

     

    このようにして兵補にはある程度の

    手当てを支給されて解雇されたはずでした。

    しかし実際にはジャワ島では公式な解雇通知も出されないまま、

    8月18日から各出身地に戻され、

    その後現在にいたるまで何の連絡もないのです。

    勿論手当てはもとより何も貰っていません。

    1991年8月に東京で開かれた

    「アジア太平洋地域戦後補償国家フォ-ラム」に出席した元兵補たちは、

    帰国前に声明を出しました。

     

    ●声明

     ・・・・その後の手続きとして正式な文書による

     解雇通知が出されるのが当然の措置である・・・

     多くのインドネシアの青年たちは、

     日本軍の皇民化教育で、

     アジアの指導者としての日本を信じて、

     日本の軍人と同じような気持ちで戦ったのでしょう。

     そして敗戦で日本に裏切られてしまったのです。

    ●元兵補の証言

     ・・・・私たちは天皇陛下のために死をかけて戦ったのです。

     当時は日本人もインドネシア人も

     区別なく、戦闘に参加し、死んでいきました。

     日本が戦争に負けた事を知らされた時、

     私たちは日本人と共に泣きました。

     そしてそれぞれの村に帰るように部隊長から言われました。

     その後、私たちには解雇通知もなく、

     給料から天引きされた貯金も支払われていません。

     一体どうなっているのでしょうか。

     日本は私たちの存在を忘れてしまったのですか。・・・・

     

    最後に参考として兵補の歌を2つ書きます。

    原語はインドネシア語で兵補たちが歌わされた歌です

     

    「兵補の歌」

    日本の英雄、インドネシアの若人

    力強く立ち上がれ、武器を取って

    鉄のような精神と鋼鉄のような心をもって

    連合軍を打ちのめすまで闘おう

    アジアの守護神、日本兵のように

    力強く進め

     

    精神は燃え立ち、胸に炎は燃え広がる

    我らを力づけ、魂を犠牲にして

    アジアをまもる闘いに参加しよう

    大東亜の幸福を勝ちとるために

    アジアの守護神、日本兵のように

    力強く進め

     

    力強く勇敢なインドネシアの若人

    喜んで、崇高なる広がりを破壊する

    祖国全土を覆っている

    燃えさかる嵐に逆らって

    アジアの守護神、日本兵のように

    力強く進め

     

     「兵補をたたえる」マーチ  啓民文化指導所

    1 聞け、聞け、喜びの歌

       国民全体が君をたたえている

       聞け、聞け、ニュ-スを聞け

       兵補こそ英雄、われらの模範

    2 聞け、英雄の靴音のとどろきが

       戦場にこだまして

       ひとりひとりの少年に

       民族を守れと呼びかけるのを

    3 聞け、聞け、国がたたえる

       英雄たる君の犠牲がわれらと

      大日本をして、敵を打倒させる

      すべてのアジアの繁栄ののため

     

     

     

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  • インドネシアのロ-ムシャ・労務者

    2020/07/23
    11:22

    1943年になると軍への労務提供、

    特に拡大した戦線の防衛工事に

    強制的にロ-ムシャが連行されました。

     

    ●労働力を集める手段として、

     最初は青年団や警防団が組織され

     勤労奉仕隊に組み込まれていきましたが、

     1943年には県や州ごとに「労務協会」が設置され、

     日本軍から各行政機関に強制的に割り当てされるようになりました。

    ●1943年7月、

     ジャワの第16軍とマカッサルの海軍当局との間で

     「労務供給に関する陸海軍現地細目協定」が締結され、

     10月には南方各軍労務主任者会議が開かれて

     労務者の強制募集が始まりました。

     

    強制的に徴用された「ロ-ムシャ」は、

    ジャワ以外のニュ-ギニアや

    ビルマの泰緬鉄道に連行されただけでも、

    日本側資料で20数万人、

    インドネシア資料では30万人とされています。

    そのうち約70,000人が死亡したといわれます。

    ロームシャ、兵補、慰安婦・・・・

    その他色々な名目で強制連行された人数まで入れると

    インドネシア資料では410万人となっています。

     

    戦況が悪化してくると、

    日本軍はインドネシアの独立を匂わせながら、

    アメリカからの攻撃を防ぐために

    日本軍の補助として「兵補」の制度を作りました。

    兵補については次の項目で説明します。

     注:ヘイホと言う言葉も現地に残っています。

       兵補は4~5万人が採用され、

       ビルマやニュ-ギニアの戦線に15,000人が送り込まれた。

       しかし実態はよく分かっていません。

     

    ロ-ムシャやヘイホ等で農村の

    耕作人口が減ったにもかかわらず、

    日本軍による米の強制供出が強化され、

    そのためにジャワのスマラン病院だけで、

    1943年には4ケ月で168人、

    1944年には2ケ月で199人が餓死しています。

     

    ロームシャに関する証言を2つ

    ●E・J・Hコーナ- 思い出の昭南博物館 から

    博物館と私たちが住む小さな家との間にある

    バラックには、数百人のジャワ人が詰込まれているのに、

    彼らの渇きを癒すための水道の蛇口は1つしかなかった。

    夜になると、せきとたんを吐く声が絶え間なく聞こえてきた。

    私は耳に脱脂綿をつめ、ばんそこうでふさいたが、

    それでも寝られなかった。

    どぶねずみが死体を貪り食らって繁殖していった。

    ハエも死体に群がった。

    まるで地獄絵、地獄とはこのようなものであろうかと

    道行く者は身震いした。

     

    ●アミルディン・ジュマディ  1985年4月22日 証言

    ロ-ムシャたちの状態は非常に深刻でした。

    そのほとんどが痩せ細っていて、私が見たところ、

    樹の皮で急所を隠すだけの人もいました。・・・・

    彼らがどうやって食べているのか私には分かりませんでした。

    私たちでさえ食事に事欠く時代だったからです。

     

    労務者の人数に関して日本側が調べた調査があります。

    日本側の資料ですから実際よりはかなり少ないでしょう。 

    またほとんどが強制と考えてよいと思います。

    ●1944年11月、日本軍の労務者分類調査

    分類

    人数

    兵補

    15,271人

    義勇軍

    36,067人

    常用労務者(女性 450,998人)

    1,356,271人

    臨時労務者(女性 69,345人)

    738,844人

    技能者(女性 12,605人)

    277,153人

    勤労士

    200,085人

    合計

    2,623,691人

     

     

    アジア各地ではどこでも同じでしたが、

    日本軍が占領した所ではすべて

    「ケンペイタイ」と言う言葉が残っている位、

    憲兵は恐れられていました。

     

    ●バルカ・アルガニス・バスウエダンさんの証言 

    1975年8月22日

    私が覚えている事は、恐らくケンペイタイが

    あまりに乱暴だったからでしょう。

    人々が日本に協力する事を恐れていた事です。

    それで、自分から進んで日本のために

    仕事をしようとする人はいませんでした。

    当時は、怖がる人の方が多かったのです。

    ですからみんな日本に協力して利を追うよりも

    自分の命を大切にしようとしていました。

    なぜなら、何か間違いを犯したら

    日本の罰則では死刑になると思っていたからです。

    日本軍が入ってきた時にはすでに役所で働いていた人たちは、

    そこから移ることが出来ませんでした。

    ちょっとした過ちでも平手打ちでしたので、

    みんなは特に体罰を恐れていました。

    バゲロ-(馬鹿野郎)と言って頭を叩くのです。

    私がケンペイタイと聞くと震え上がってしまうのは、

    私の親友が彼らの暴力を受けて怪我をして、

    障害者になってしまって以来のことです。

     

    ●アミルディン・ジュマディさんの証言 1985年4月22日

    忘れられない出来事としては、

    プルンパン地区近くの川辺で、何の罪かは知りませんが、

    日本人が7人に首斬りの刑を執行したことがあります。

    多分ケンペイタイだったと思います。

    おおぜいの人が見物していましたが、

    私は遠くから対岸から見ていただけでした。

    なぜなら、悲しくて恐ろしかったからです。

    日本人はその7人を埋めるための穴を用意していたそうです。

     

    敗戦が近くなると、インドネシア住民が

    アメリカ軍に通じているのではないかと疑いを持った日本軍は

    見せしめに住民を虐殺しています。

     

    ●ポンティアナ(ボルネオ島西海岸)  

     1973年から翌年にかけて 1,500人の住民を処刑

    ●ババル島(チモ-ル島の東)

     横暴な日本軍に対して弓矢と山刀だけで

     抵抗し山に立てこもった島人に対して、

     3回の討伐作戦を行ない、

     逮捕したり説得に応じて投降してきた住民を

     銃殺、刺殺しました。

     海軍を守備隊が引上げた後、

     森林内から戻ってきた住民は90人ほどでした。

     もともと700~800人の地域でしたから、

     600~700人が虐殺されたと思われます。

     さらに連行された10~20人の女性は慰安婦にされています。

    注:この事件は1994年2月19日、

      テレビ朝日系「ザ・スク-プ」で放映されました。

      事件に関与した元日本兵は証言で、

      山中に避難していた女性・子供を含む住民を誘い出し、

       無抵抗の状態で殺した事を認めました。

     

    敗戦後のBC級裁判では、

    インドネシア地域で延べ1,000人あまりの

    日本軍人・民間人が有罪とされました。

    しかし、ほとんど連合軍つまり欧米人に対しての罪名で、

    現地住民に被害を与えた事に対する

    裁判は少なかったとされています。

     

     

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