日本軍は南京占領に関して
厳しい規制を作りました。
厳しい規制を作ったのだから、日本軍が
虐殺のようなはひどいことをするわけは無い、
と主張する人が今でもいます。
いくら規制をしても守られなければ
意味が無いことです。
むしろ守られないどころか
軍の命令で殺害をしたという証言もあります。
● 独立攻城銃砲観測班長沢田正久
「仙鶴門付近で投降してきた中国兵の報告を
軍司令官にした際、直ちに銃殺せよ」、と命令された。
● 第38連隊副官児玉義雄
「師団副官の声で、師団命令として支
那兵の投降を受け入れるな、処置せよ」、
と電話で伝えられた。
軍の正式な資料を見ても、もともと日本軍は
捕虜を取らない方針でしたから、
結局は逮捕した者は殺してしまったことが分かります。
次は日本軍の正式資料、幹部や一般兵士の日記、
回想録や手記から見てみます。
13日の南京陥落直後に城内や周辺の
大規模な掃討作戦が行われました。
長江を渡って逃げようとした敗残兵や住民が
下関一帯に何万とウンカのように
集まっていたのでその地区での
殺害が多くなっています。
中国軍の南京防衛軍は司令官の唐生智が
徹底抗戦を命令していたため、
日本軍に完全包囲されてしまいました。
やっと12日に撤退命令を出しましたが、
とき既に遅く中国軍は崩壊しました。
住民のパニックと中国軍の敗走の混乱の中で
入城した日本軍は、
直ぐに敵の掃蕩命令を出しています。
● 丁集団(第10軍)命令(丁集作命甲号外)午前8時30分
1. 集団は南京城内の敵を殲滅せんとす
1. 各兵団は城内にたいし砲撃はもとより、
あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし、
これがため要すれば城内を焼却し、
特に敗敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す
● 国崎支隊(第5師団の一部)
歩兵第41連隊第12中隊
敗残兵掃蕩に関する戦闘詳報
中隊長の計画は図にあたり、
注:最初の捕虜を利用して
危害を加えないと約束して投降させた。
この嘘をつく事は先ほどと同じく
国際法違反です
午後7時30分より続々兵器を持参し
白旗を掲げて我が第一線に投降す。
中隊長は兵器と捕虜を区分しこれが
整理をおこなえり。
これよりさき支隊長に捕虜の処分、
兵器の処理の指示を受けしに、
武装解除後兵器は中隊とともに、
捕虜は後刻処置するをもってそれまで
同島において自活せしめよとの命令あり。
捕虜2350人。
● 上海派遣軍第9師団
第6旅団長秋山少将の指示
1. 遁走せる敵は、大部分便衣に
化せるものと判断せらるるをもって、
その疑いある者はことごとく
これを検挙し適宜の位置に監禁す
1. 青壮年はすべて敗残兵または便衣兵と見なし、
すべてこれを逮捕監禁すべし
● 第6師団熊本兵団戦史2
・・・・のみならず南京攻略戦では
南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当り、
敵兵と難民がごっちゃになって
第6師団の眼前を壊走した。
師団の歩砲兵は任務上
当然追撃の銃砲弾を浴びせ、
このため一帯の沼沢は
死屍で埋められたという。
これは明らかに正規の戦闘行為によるものである。
にもかかわらず中国側は虐殺として取扱っている。
注:これは1965年に戦史として
書かれたものですが、
逃げる難民と敗残兵を殺害したのですから、
当然の「正規の戦闘行為」ではなく、
国際法違反の虐殺です。
● 第6師団第13連隊 赤星義雄
熊本第6師団大陸出兵兵士の記録 から
(12月14日に獅子山砲台に行った時)
揚子江におびただしい数の
木の棒みたいななものが流れていくのを遠望し、
江岸に行ってみると、見渡す限り、
死体しか目に入るものはなかった。
川の岸にも、そして川の中にも、
それは兵士ではなく民間人の死体であった。
大人も子供も、男も女も、
まるで川全体に浮かべた“イカダ”のように、
ゆっくりと流れている。
上流に目を移しても、死体の“山”はつづいていた。・・・・
少なく見ても5万人以上、
そして、そのほとんどが民間人の死体であり、
まさに、揚子江は“屍の河”と化していたのだ。
● 第9師団 第9師団作戦経過の概要
(南京戦史資料集から)
(13~14日の城内掃討で)
7千余名の敗残兵を殲滅せり
● 第13師団 師団司令部
「戦闘に関する教示」(原文カナ)
第13師団戦闘詳報別紙及附図
多数の捕虜ありたるときは
之を射殺することなく武装解除の上、
一地に集結監視し師団司令部に報告するを要す。
又捕虜中将校は之を射殺することなく
武装解除の上、師団司令部に護送するを要す。
これらは軍に於いて情報収集のみならず
宣伝に利用するものに付、
この点部下各隊に徹底せしむるを要す。
但し少数人数の捕虜は
所要の尋問をなしたる上適宜処置するものとす。
● 歩兵第30旅団長 佐々木到一少将 私記
1938年1月5日 査問打ち切り、
この日までに城内より摘出せし敗残兵二千・・・・
城外近郊にあって不逞行為を
続けつつある敗残兵も逐次逮捕、
下関において処分せるもの数千にたっす
● 松井石根司令官に対するインタビュ-
吉田裕「南京事件と国際法」から
・・・・そういうような勢いで
捕虜も相当出来たけれども、
捕虜に食わせる物もない。
そういう状態で戦闘しつつ、
捕虜がでるから捕虜を始末する事が出来ない。
それでちょん切ってしまうということになった。
それで大したことではないのだが、
南京の東南方の鎮江との間の所で
1万余りの捕虜があったのだけれども、
そんなのは無論追撃中だから
戦闘中と見てもよろしい、
又捕虜となっても逃亡する者もあるし、
始末が付かぬものだから
シャ-シャ-と撃ってしまったのだ。
その死骸が川に流れた。
それから問題になったのだ。
だからその問題はいわゆる
半戦闘行動である・・・・
注:半戦闘行為と見なして1万の捕虜を
殺害した事は大したことではないという発言です
松井大将は一般市民に対する、
略奪や強姦は問題にしていたが、
捕虜義殺害には無関心のようでした。
国際法を考えていなかったということです。
このインタビュ-の松井石根は
南京攻略の際の最高指揮官で、
東京裁判で死刑になっています。
日記「松井日記」を残しています。
少しその日記から引用します。(研究家・板倉由明氏の論文から)
● 松井石根日記(原文カナ)
37年
12月15日
南京入城の両軍師団は、
城内外の残敵を清掃す。
敗残兵の各所に彷徨するもの
数万に達するとの事なるも未詳
12月16日
南京城内外掃蕩未完了。
ことに城外紫金山付にあるもの
相当らしく捕虜の数既に二万を超ゆ。
かくて明日予定の入城は尚
時日過早の感なきにあらざるも、
あまり入城式を遷延するも面白からざれば、
断然明日入城式祖を挙行することに決す
12月17日
中山門より国民政府にいたる間
両側には両軍代表部隊、
各師団長の指揮の下に堵列。
予はこれを閲兵しつつ、
馬を進め、両軍司令官以下随行す。
未曾有の盛事。感無量なり。・・・・
朝香宮軍司令官殿下
最もご健勝にご機嫌また麗しく、
ことに予の部下として軍司令官の職に
励みたまう誓旨の程感激に堪えず
12月20日
尚聞くところ、城内残留内外人は
一時多少恐怖の情なりしが、
我軍の暫次落付くと共に漸く安堵し来れり。
一時我将兵により少数の
掠奪行為(主として家具等なり)、
強姦等もありし如く、
多少は已む無き実情なり
12月21日
(下関を視察して)狼藉の跡のままにて
死体などそのままに遺棄せられ、
今後の整理を要するも・・・・
38年1月24日
その云うところ言動例により面白からず、
殊に掠奪等の事に関し甚だ平気の言あるは、
遺憾とする所由て厳に命じて
注:中島今朝吾第16師団長が
自ら掠奪をして、
日本に送っていた疑いがあり、
中島と会談した松井大将が
疑問を感じた内容です
2月6日
支那人民の我軍に対する恐怖心去らず、
寒気と家なきため帰来の遅るることもとより、
その主因なるも我軍に対する
反抗と云うよりも
恐怖不安の念の去らざること
その重要なる原因なるべしと察せらる、
即各地守備隊に付その心持を聞くに
到底予の精神は軍隊に徹底しあらざるは勿論、
本事件に付根本の理解と
覚悟なきによるもの多く、
一面軍記風紀の弛緩が完全に
回復せず各幹部またとにかく情実に流れ
または姑息に陥り軍自らをして
地方宣撫に当らしむることのむしろ
有害無益なるを感じ浩歎のいたりなり
● 上海派遣軍報道部長
木村松治郎大佐の日記から(原文カナ)
12月20より22日の抜粋
之と共に遺憾に堪えざるは
日本兵の略奪、強姦、家宅侵入事件の
数多きこと、
小生の滞在時にても巳に外支人の
領事館の訴え来しもの百件に及ぶ、
外国大使館(若干の例外あり)個人の住宅、
学校等に侵入し、なげかわしき乱脈振り・・・・
金陵大学女子部(六千人の女、避難)の如き特に然り
このように殺害の指示を出した証言があります。
勿論部隊長の人格や部隊の性質によって
虐殺に加わっていない部隊があることは当然です。
砲兵や騎兵、輜重兵は比較的少なく、
南京城内に入ったり掃討をした歩兵部隊が虐殺の中心になります。
● 第3機関銃中隊 牧原信夫上等兵日記
偕行社「南京戦史資料集」
12月14日
午前7時起床。午前8時半、
1分隊は12中隊に協力、
馬群方面の掃討に行く。
敵も食うに食なくふらふらと
出てきたそうだ。
直ちに自動車にて出発す。
しかし到着したときには小銃中隊だけで
310名位の敵の武装解除を終り
待っていたとのこと。
さっそく行って全部銃殺してかえってきた。
昨夜はこの地にいた小行李部隊も
敵の夜襲を受け戦死6名出たそうだ。・・・・・
今ひとつの悲惨な光景は、
とある大きな車庫のような建物に
150~160名の敵兵が
油のようなものをふりかけられて
焼死体となって、扉から一生懸命
逃れようともがいたまま倒れていた。
しかし、今は僕達いくら死体を見ても
何とも思わなくなった。
● 第16師団第66連隊第1大隊 戦闘詳報
偕行社「南京戦史資料集」
12月12日
最初の捕虜を得たるさい、
隊長はその3名を伝令として
抵抗断念して投降せば、
助命する旨を含めて派遣するに、
その効果大にしてその結果、
我が軍の犠牲をすくなからしめたるものなり。
捕虜は鉄道線路上に集結せしめ、
服装検査をなし負傷兵はいたわり、
また日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ、
さらに伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり
12日夜 捕虜は第4中隊警備地区洋館内に収容し、
周囲に警戒兵を配備し、
その食事は捕虜20名を使役し、
徴発米を炊さんししめて支給せり。
食事を支給せるは午後10時ごろにして、
食に飢えたる彼らは争そって貪食せり。
12月13日
午後2時 連隊長より左の命令を受く
旅団命令により捕虜は全部殺すべし。
その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺してはいかん
13日夕方
各中隊長を集め捕虜の処分につき
意見の交換をなさしめたる結果、
各中隊に等分に分配し、
監禁室より50名宛連れ出し、
第1中隊は露営地南方谷地、
第3中隊は露営地西南方凹地、
第4中隊は露営地東南谷地付近において
刺殺せしむることとせり。
但し監禁室の周囲は厳重に警戒兵を配置し
連れ出す際絶対に察知されざる如く注意す、
各隊ともに午後5時準備終わり刺殺を開始し、
おおむね午後7(6?)時30分刺殺をおわり、
連隊に報告す。
第1中隊は当初の予定を変更して
一気に監禁し焼かんとして失敗せり。
捕虜は観念し恐れず軍刀の前に
首をさし伸ぶるもの、
銃剣の前に乗り出し
従容としおるものありたるも、
中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。
特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。
注:この戦闘詳報では12日の時点では
国際法を守っているように見えます。
そして13日になると殺害が始まります。
結局は騙してて投稿させ、
殺害したことになります。
これは明らかに国際法違反です。
● 第16師団歩兵第30旅団
14日午前4時50分の命令(原文カナ)
各隊は師団の指示あるまで捕虜を受け付けるを許さず
注:受け付けないという事は
殺害するという意味です)
● 第16師団 中島今朝吾中将
師団長日記(原文カナ)
12月13日
1. かくて敗走するする敵は大部分
第16師団の作戦地境内の森林地帯に出て、
又一方鎮江要塞より逃げ来たるものありて、
到る処に捕虜を見、
到底その始末に堪えざる程なり。
1. だいたい捕虜はせぬ方針なれば、
片端よりこれを片づくることとなしたれども、
千、5千、1万の群集となれば
これが武装を解除することすらできず、
ただ彼らがまったく戦意を失い、
ソロソロ付いてくるから安全なるものの、
これがいったん騒せば困るので、
部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、
13日夕方はトラックの大活躍を要したり。
しかしながら戦勝直後のことなれば
中々敏速には出来ず、
かかる処置は当初より予想だに
せざりしところなれば、
参謀部は大多忙を極めたり
1. 後にいたりて知るところによりて、
佐々木部隊だけにて処理せしもの約5千、
太平門における守備の
1中隊長が処理せしもの約1300、
仙鶴門付近に集結したるもの
約7~8千人あり、なお続々投降しきたる。
1. この7~8千人、
これを片づくるには相当大なる壕を要し、
なかなか見当たらず、
一案としては百、ニ百に分割したる後、
適当の1箇処に誘着し、処理する予定なり。
1. この敗残兵の後始末が
概して第16師団方面に多く、
したがって師団は入城し投宿などと云う
暇なくして東奔西走しつつあり
12月14日
この日、尚城内の掃討未完。
これに加えて城外に分散したる部隊の
集結、敗残兵の処理等に大多忙を極む
● 第16師団 佐々木到一少将 私記
12月13日
この日、我が支隊(歩兵第30旅団)の
作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千に上り
その外、装甲車が江上に撃滅したもの、
ならびに各部隊の俘虜を合算すれば、
我が支隊のみで2万以上の敵は
解決されているはずである。
午後2時ごろ、
概して掃蕩を終わって背後を安全にし、
部隊をまとめつつ前進、和平門にいたる。
その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す。
激昂せる兵士は上官の制止を肯かばこそ、
片はしより殺戮する。
多数戦友の流血と10日間の辛惨を顧みれば、
兵隊ならずとも、
「皆やってしまえ」と言いたくなる。
白米はもはや一粒もなし、
城内にはあるだろうが、
俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか
我が軍にはない筈だった。
1月5日
査問会打ち切り、この日までに
城内より摘出せし敗残兵約二千、
旧外交部に収容、
外国宣教師の手中にありし
支那傷病兵を俘虜として収容。
城外にあって不逞行為を続けつつある
敗残兵も逐次捕縛、
下関において処分せるもの数千にたっす。
● 第16師団第20連隊第4中隊第2小隊
第3分隊長 増田六助日記
偕行社「南京戦史資料集」
12月14日
しばらくして委員会の腕章を
付けた支那人に「ニ-ツ- ナビン ユ-メ-ユ」と聞くと、
向こうの大きな建物を指差して
「多々的有」と答える。
その家に這入って見ると一杯の避難民だ。
その中から怪しそうな者
1000名ばかりを選び出して
最後に300人位の奴らを縛った。
金を出して命乞いする者もあったが、
金に欲の無い我々は十円札、
3枚5枚と重ねたままビリッ,ビリッと
引き裂きポイッと投げる。
また時計など出すのがあれは平気で大地に投げ付け、
靴のかかとで踏付けて知らん顔しておる。
夕闇迫る頃600人近くの敗残兵の
大群を引き立てて玄武門に至り
その近くで一度に銃殺したのであった。
● 第16師団第20連隊第12中隊 A・J中尉 陣中日誌
12月14日
野戦重砲の擁護にゆく
投降者200余名 死刑に処す
1匹 余自ら一刀両断
手ごたえ小気味よし
血を吸うた業物の切れ味格別なり
白旗を翻すもの次第に多く続々投降す
其の数2000以上 1万
● 第13師団(仙台)山田支隊 支隊長
山田栴ニ少将日記(原文カナ)
12月14日晴
他師団に砲台をとらるるを恐れ、
午前4時半出発、幕府山砲台に向かう、
明けて砲台の付近に至れば、
投降兵甚大にして始末に困る。
捕虜の始末に困り、
あたかも発見せし
上元門外の学校に収容せしところ、
14、777名を得たり、
かく多くては殺すも生かすも困ったものなり、
上元門外三軒屋に泊す
15日晴
捕虜の始末その他にて
本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す、
皆殺せとのことなり
各部隊食料なく困却す
16日晴
相田中佐を軍に派遣し、
捕虜の始末その他にて打ち合わせをなさしむ、
捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、
砲台の兵器は別とし小銃5千、
重機軽機(注:機関銃)その他多数を得たり
18日晴
捕虜の始末にて隊は精一杯なり、
江岸にて之を観察す
注:河岸で大量の銃殺が
おこなわれた日です。
それを観察したということです
19日晴
捕虜始末のため出発延期
午前総出にて努力せしむ
日付は遡りますが、
仙台の第15師団では
この山田支隊の編成が完了したときに、
萩洲師団長、畑参謀長を招いて
団隊長会議が開かれました。
その模様が日記に書かれています。
9月21日 畑参謀長口演
教育作戦準備
①教えつつ戦闘
②水濠の連続的通過
③準備の周到・・・・
⑨捕虜(現地処理を本則とす)
注:第13師団の参謀長が
9月の時点で捕虜は現地で殺せと
指示しているのです。
陸軍だけではなく
海軍でも揚子江で避難している
中国兵や住民を機関銃で殺害しています。
● 海軍第一掃海隊「南京遡江作戦経過概要」
海軍省事変関係掃海研究会記録
烏龍山水道より南京下関(12月13日)
13時22分前衛部隊出港、
北岸揚子江陣地を砲撃制圧しつつ
閉塞線を突破、
沿岸一帯の敵大部隊および
江上を舟艇および筏などによる
敗走中の敵を猛攻撃、
殲滅せるもの約1万に達し・・・・
15時30分頃下関付近に
折から城外進出の陸軍部隊に協力、
江岸の敗敵を銃砲劇しつつ
梅子州付近まで進出し、
掃海索を揚収す・・・・
終夜江上の敗残兵の掃蕩をおこないたり
● 南京・第2碇泊場司令部
梶谷健郎騎兵軍曹 日記
12月16日
午前2時ころ機関銃の音さかんに聞ゆ。
敗残兵の2千名は射殺されたり。
揚子江に面する下関において行わる。
五戦中部隊長、少佐とともに港内巡視をおこなう。
二番桟橋にて約7名の敗残兵を発見、
これを射殺す。
15歳くらいの子供もおれり。
死体は無数にありて名状すべからざるものあり。
17日
午前1時頃より約1時間にわたりて
敗残兵2千名の射殺あり、
親しくこれを見る。
まことにこの世の地獄にして
月は晄々と照り、物凄きかぎりなり。
10名ほど逃走せり。
● 海軍省教育局や上海戦従軍日誌には
海軍第11戦隊の記録があります。
☆沿岸一帯の敵大部隊および
江上を舟艇および筏などによる
敗走中の敵を猛攻撃、
撃滅せるもの約1万に達し・・・・
☆下関に追いつめられ、
武器を捨てて身一つとなり、
筏に乗りて逃げんとする敵を、
第11戦隊の砲撃により
撃滅したるものもの
約1万に達せりと云う ・・・