事件を小さく見せようとする人は、
当時の南京の人口を20万人と主張します。
しかし常識的に考えてみて
大きな中国の首都、
国際都市南京の人口が20万ということは
常識外です。
実は南京城内の約1/8の面積の
「国際安全区」に避難した軍民の数が
20万から25万だったのです。
実際の南京の人口は
城部で100万人以上、
近郊で130万人以上、
合わせて230万人以上と言われています。
 
当時の日本の新聞にも
南京市民100万と書かれています。
正確な人口は分かりませんが、資料から推察します。
 
◎南京特務機関(日本側)の南京市政概要から
 1937年
  3月末  
   1,019,667人 200,810戸 首都警察庁調べ    
      南京城区の人口
 1938年
  2月末    
   200,000人  
    南京市自治委員会と特務機関が推計 
    安全区の人口
 1939年9月 日本軍特務機関調査
   戦前は100万そのうち、25万は漢口に
   25万は上海に
   5万は香港に
   現在は4~50万どまりなり
 
◎南京憲兵隊管轄区内治安回復状況に
   関する報告(意訳) 1938年2月19日及び28日
   華中派遣憲兵隊・大木繁司令官から関東軍司令官宛書類
   注:2014年中国吉林省公文書館で発見された文書
 南京陥落前南京地区の人口 113万人
   南京陥落後      34万5000人
   人口が        78万5000人減った
 
◎行政機関の調査
   注:この行政機関とは
     南京陥落後ですから
     日本の傀儡政権のことです。
 38年10月末 329,488人    82,195戸  南京市自治委員会調べ
 39年10月末 552,228人  132,403戸  南京特別市調べ
 41年3月末   619,406人  140,439戸  南京市政府調べ
 
◎金陵大学社会学教授 ルイス・スマイスの当時の調査
 戦争勃発前の南京城区  100万人
 37年11月初旬(陥落の直前) 50万人
 近郊4県半     120~135万人 
     高淳県と六合県の半分を除く。
 全部入れると 推計150何人以上
 
◎南京城区100万人と
 近郊150万人を合わせると、 
 南京全体としては250万以上が
 住んでいたと思われます。(笠原十九司氏推計))
 
◎ジョン・H・D・ラ-ベ報告書
  注:ジーメンス社社員のラーベは
    1938年2月22日に南京を離れましたが、
    その後6月8日にヒットラ-総督に
    報告書を提出しています。                  
    その内容です。
 ・・・南京の人口は、
 私が7月(注:南京攻略の前1937年保養地に出発した)
 出発したときには、約135万人でした。
 その後、8月中旬の爆撃で、
 その内数十万人が街を離れました。
 しかし外国大使館とドイツ人の顧問は
 まだ全員が残っていました。
 ・・・・(国際安全区に関して)われわれは
 25万人の難民からなる「人の蜂の巣」のなかに
 住むことになっていました。
 最悪の場合として
 予想したより5万人多かったのです。
 われわれは食べるものを全く持たない
 65,000人の極貧者を25のキャンプに泊まらせ、
 彼らに1日当り1600袋、
 1人あたり生米茶碗1杯しか
 与えられませんでした。
 困窮が増し、私が地区の保護のために行なった
 要請に対する日本側からの回答が無かったので、
 私は11月25日に総統宛に
 次のような電文を送りました。
 「南京の党地区グル-プの役職者で、
 当地の国際委員会の委員長である下記の者は、
 政府が非闘員のために
 中立地区を作ることに同意を与えるよう、
 総統による日本政府への的確な
 おとりなしを要請いたします。
 さもなくば、南京をめぐる
 来るべき戦闘で20万人以上の
 生命が危険にさらされるのです。
      ドイツ的挨拶をもって
      南京在住ジ-メンス代表ラ-ベ」
 
  注:この文書にある「国際安全区の25万人の難民
  ・・・・予想したより5万人多かった」の
  文言をとらえて一部の人は
  南京全体の人口と主張しているのです。
  注:ラ-ベは日本の同盟国である
    ドイツのヒットラ-総統に
    暴虐な日本軍を戒めるように
    何度も要請しています。