ヘッダーグローバルナビゲーション

おしえて!ゲンさん!

  • トップページ
  • お知らせ
  • このサイトについて
  • ご利用規約
  • サイトマップ
  • ホーム
  • キーワード「大宅壮一」を含む投稿一覧

キーワード「大宅壮一」を含む投稿一覧

  • 日本の報道 2

    2020/10/09
    14:01

    戦争中の報道が真実ではない以上

    どうしても当時現地に派遣された

    文化人や記者の文章や、

    戦後の回想録が中心になります。

    当時「東京音頭」で大ヒットしていた

    詩人の西条八十が雑誌「主婦の友」と

    読売新聞から派遣されて、

    1937年12月17日の入城式の日に

    南京に入っています。

    その時の見聞録が「主婦の友」の

    1938年2月号に掲載されています。

     

    その内容です。

    ● 皇軍奮闘の跡を弔ふ (一部現代語に直しました)   

     ・・・・大通りは、大体浄められているが、

     横町には支那兵や軍馬の屍体がいっぱいだ・・・

     馬の屍体が横たわっている。

     皮が剥がれている。

     お臀が半分ぐらい切り取られている。

     飢えた籠城の支那兵どもが喰べたのだらうか・・・・

     南京入城式。○○の陸海軍の精鋭が、

     歓喜に頬を赤くほてらせながら、

     粛々中山門から入って、

     国民政府の門前まで

     蜿蜒長蛇の列を見せたときだ。

     その列の末尾に、

     カ-キ色の軍服めいた服装をした、

     新聞記者の一団。

     言いあわせたように白い布で包んだ

     箱を背負って進んでくる。・・・・

     (その後は揚子江の中州の銃撃について書いています)

     ・・・・パンパンパン・・・・と

     もの凄い機関銃の音がした。

     わたしは士官次室(ガン・ル-ム)のスト-ヴの前で、

     うとうと居眠りしていたのだが、

     びっくりして目を覚ました。

     「先生、面白いです。早く甲板へ」

     年若い戎兵がどなった。

     飛び出すと、艦橋の機銃が吼えている。

     また、パンパンパン・・・・

     夕ぐれ5時、南京を出て間もない、

     右舷近くに見える八卦島という所だ。

     灰褐色に枯蘆に覆われた所だ。

     そのうえへ砲煙がうねうねと渦巻いている。

     「南京から筏で遁げて来た残兵が

     約○○あそこにいるんです。ご覧なさい」

     そばの少尉殿が眼鏡を貸してくれた。

     なるほど、居る、居る。枯芒の丘の前後に、

     真黒くうようよかたまっている。

     「奴等、向岸へ一刻も早く渡りたがっているんです。

     ほら、ジャンクに乗っているでしょう」

     なるほど、正規兵の軍服を着たのが、

     ジャンクに乗ってまごまごしている。

     そのうち、また吼えた機銃の煙リが、

     ちょうどジャンクの上で炸裂した。

     上の黒い人群は一瞬にしてへたばってしまった。

     「あそこには食べ物があるんでしょうか」

     「多少人家がある筈です。

     だが○○もの人間が上陸ったら、

     もう何もないでしょう」

     「じゃ、結局飢死ですね」

     「そう餓鬼地獄のような光景を

     やっているでしょう。

     時々まだ発砲したりするので、

     近々陸軍が上陸して掃蕩をやる筈です。」

     これは艦長の話だった。

     機銃は声を収めた。

     長江の黄昏、

     来しかたの南京の空は、美しい夕焼けだ。

     今日入城の歓喜に酔った兵士たち。

     あの荒寥たる廃墟の中で、

     どんな祝杯をあげているのだろう。・・・・

    その時西条八十は同時に詩も書いています。

    ● さらば上海    

     悪夢の都をさまよいて    

     見るべからざるものを見ぬ    

     十日の旅の血地獄に    

     身も魂も疲れたり       

     年の瀬せまるクリスマス       

     共同租界の百貨店       

     燈火明く照り彩えて       

     サンタ・クロスは踊れども    

     窓の下には避難民    

     見るも冷たき石道に    

     相抱きつつ、幾百ぞ  

     死人のごとく眠るなり       

     幾万千の屍を       

     底に沈めし長江ぞ       

     夜のジャンクの舷に       

     青木燐火は燃ゆるなり

       以下省略

     

    漫談家の井口静波は講談社から

    派遣されて上海から南京に行ってます。

     

    その記録です。 

    ● 「少女倶楽部」 38年3月号   

     翌朝、いよいよ南京の

     北部にあたる下関に着きました。

     あたりには敵兵の死体が重なり合って

     ころがっていて、まだ戦争の跡

     なまなましいものがありました。

     私たちは敵兵の死体を踏み越えて、

     敗残兵を掃蕩している

     日本の兵隊さんたちの姿を強く感じながらも、

     危険な道を避け避け、

     南京中央にある国民政府に辿りつきました。

     

    後の政治家、橋本登美三郎は

    1937年12月16日の東京朝日新聞に

    次のように書いています。

     ◎我が軍が捕虜とし又は殲滅した兵数は

      六万を下らぬと推察されて居る

     

    当時東京日日新聞の鈴木二郎記者の

    戦後の回想録を見てみます。

    鈴木記者は上海から南京までを取材し、

    当時日本で有名になった

    「百人斬り」の記事も書いていました。

    これは戦後に書いた文章です。

     

    ● 鈴木二郎の回想

       「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」から 

       「丸」1971年11月号      

     明けて14日、

     私たちはふたたび中山門に取って返した。

     そこでわたしははじめて不気味で、

     悲惨な、大量虐殺にぶつかった。

     25メ-トルの城壁の上に、

     一列に並べられた捕虜が、つぎつぎに、

     城外に銃剣で突き落とされている。

     その多数の日本兵たちは、

     銃剣をしごき、気合をかけて、

     城壁の捕虜の胸、腰と突く。

     血しぶきが宙を飛ぶ。

     鬼気迫るすさまじい光景である。

     そこにわたしはまた、

     私を突き殺そうとした兵の

     (注:鈴木記者は前日この兵士に殺されそうになった)、

     形相とまみえることになり、

     しばらくその惨劇を見ながら

     ぼうぜんと立ちすくんでいた。

     ふりおろされた死のツルハシ、

     神経の凍る思いで、その場を去り、

     帰途にふたたび「励志社」の門をくぐってみた。

     さきほどは気づかなかったその門内に、

     一本の大木があり、

     そこに十余名の敗残兵が、

     針金でしばりつけられていた。

     どの顔も紙のように白く、

     肌もあらわにある者は座り、ある者は立って、

     ウツロな目で、わたしをジッと見つめた。

     そのとき、数人の日本兵がガヤガヤとはいってきた。

     2~3人がツルハシをもっていたので工兵と知れた。

     そばに立っているわたしには目もくれずに、

     その中の一人が、その大木の前に立つと、

     「こいつらよくも、オレたちの仲間をやりやがったな」

     とさけぶや、やにわに、ツルハシをふりあげて、

     この無抵抗の捕虜の一人の頭めがけて、

     ふりおろした。

     鋭く光ったツルハシのさきが

     “ザクッ”と音をたてて刺さり、

     ドクッと血がふきだした。

     それを見たあとの数人は、

     身をもがいたがどうすることも出来ず、

     ほかの兵の暴力のなすがままになってしまった。

     まさに目をおおう瞬時の出来事だった。

     この捕虜のなかには、

     丸腰の軍装もあったが、

     市民のソレとわかるようなものもいた。

     ソレを見たわたしは、

     とめるすべもなく逃げ出した。

     それから16日に南京を去るまで、

     城内の取材にあたった。

     光華門につうじる道路の両側に延々続く、

     散兵壕と見られる中は、

     無数の焼けただれた死体で埋められ、

     道路に敷かれた丸太の下にも、

     死体が敷かれていて、

     腕、足の飛び出している。

     ありさまは、まさにこの世の地獄絵である。

     その上を戦車は容赦なく、

     キャタピラの音をひびかせて

     走っているのを見て、

     死臭、硝酸の臭いとともに、

     焦熱地獄、血の池地獄に立つ思いがした。

     自らが“獄卒”の立場と、

     ある錯覚に陥るほどだった。

     城外北方、揚子江の対岸、浦口と対する

     水陸交通の要衝である下関の場合は

     さらになまなましく

     日本兵の急迫に逃げ場を失った数千の兵、

     市民がここで、機関銃の掃射で殺され、

     まさに血の海、死体の山となり、

     さすがに広い揚子江の黄色い流れも、

     赤い血によどんで、多数の死体がただよっていた。

     倉庫の密集するこの地の、ここかしこに、

     刺殺する兵の姿も見られて、

     恐るべき死の街と化していた。・・・・

     いまにして、現場記者として、

     ようやくこの一片の“証言”を書く

     勇気を持ったのであるが、

     「南京大虐殺」としてのちに世界の耳目を

     おどろかせる“状景”があったとは、

     当時硝煙と死体、そして血煙のなかにあった

     私としては、責任感と興奮、“戦争”という

     行為に見る「是認」感覚、神経・・

     国際戦争法規への無知などにより、

     恥ずかしいことながら気がつかなかった。

     したがって、南京虐殺目撃以前、

     つまり上海、南京間の従軍一ヶ月の間にも

     しばしば“虐殺”を目撃しているのであり、

     たび重なるムゴイ戦闘、戦場での

     多くの死体と血の臭いに、

     神経がマヒ状態にあった事は確かであるが、

     目の前に多数の日本軍戦死者の姿を

     見るたびにわきおこる敵愾心、

     復讐と神経の片すみに嗜虐的な

     ヒラメキがなかったとはいえない。

     

    名古屋市長の河村たかし氏が公の席で

    南京事件を否定する発言をしましたが(2012年)、

    その内容について東京都の石原知事は

    河村発言を支持し、

    その根拠として作家の石川達三氏や

    評論家の大宅壮一が「南京事件はなかった」と

    言っているとしています。

    石原氏の発言は事実と違います。

    石川達三氏については後で

    東京裁判のところで書きますが、

    大宅壮一氏に関しては

    名誉のためにに

    サンデ-毎日の記事を2つ掲載します。

     

    ● 昭和政界史 1951年 サンデ-毎日

     ・・・・それから私は、

     軍と共に南京に入城したのであるが、

     日本の軍人も新聞記者も、

     南京が落ちさえすれば、

     中国が降伏して

     戦争は終わるものと思い込んでいた。

     そのために実際よりも2,3日早く

     「南京陥落」の号外を出し、

     提灯行列が行なわれたりして、

     軍からひどく叱られた新聞もあった。

     軍事的にいって、上海や南京を

     陥落させる上に最大の貢献をしたのは、

     「皇軍百万杭州湾上陸」の

     アド・ヴァル-ンで有名な柳川兵団であるが、

     この部隊の通過したところは、

     その後絶対に宣撫不可能だといわれるほど、

     中国の民衆を痛めつけた。

     まったく「皇軍即蝗軍」」であった。

     また私は南京に近い中国砲兵学校のあたりで、

     大きな丘陵地帯に、何千と言う中

     国兵の死体が遺棄されているのを見た。

     ところで、その死体の一つ一つをよく見ると、

     いずれも軍服のポケットと、

     ズボンの股のところが鋭い刃物で

     ひき裂かれているのである。

     ポケットを裂いたのは、

     死者の所持品を掠奪するためであるが、

     ズボンの方は死者を陵辱する

     意図から出たもので、

     戦場における異常な

     変態心理の発現と見るほかはない。

    ● 大宅宅壮一の中共報告 

       サンデ-毎日臨時増刊 1966年10月20日号

     私はね、あそこまで先陣争い-

     各兵団が門を目ざし、

     ちょうどスゴロクの“上がり”みたいにね、

     だれが上がるか、

     同時に南京を占領することは

     大陸の戦争が終わることだというような

     考え方が強かったですね。

     兵隊の士気大いに上がり、

     猛烈な勢いで南京へと進んできた。

     私は毎日新聞の準特派員というか、

     毎日新聞の旗についていったんだが、

     私たちの属していた兵団がね、

     中山門にはいって惜しくも2着になったのかな。

     光華門にはいったのが第1着で、

     これが最初の“万歳”を唱えた。

     しかし、入城前後、入城までの過程において

     相当の大虐殺があったことは事実だと思う。

     30万とか建物の3分の1とか、

     数字はちょっと信用できないけどね。

     まあ相当の大規模の

     虐殺があったということは、

     私も目撃者として十分言えるね・・・・

     

    つづきを読む

  • インドネシア占領と大量動員

    2020/07/23
    11:04

    インドネシアは非常に広大な面積です。

    ジャワ島を中心にスマトラ、ボルネオ、セレベス、

    チモ-ルその他多くの島々と民族で成り立っています。

    そのほとんどがオランダ領で

    石油、ボ-キサイト、ニッケル、マンガン等の産地でした。

    日本はこれらの資源を「重要国防資源」として

    獲得するための一環としてインドネシアを占領したのです。

     

    1941年(昭和16年)11月18日、

    岩国にある海軍航空隊で、

    寺内寿一陸軍大臣と山本五十六海軍大臣、

    その他両軍の作戦関係司令官や幕僚が参加して、

    南方作戦に関する陸海軍協定が交わされ、

    協定は「占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定」

    (昭和16年11月26日決定)として同日陸軍大学校にて調印されました。

    まだ開戦前の事です。

     

    1941年12月に攻撃を開始した日本軍は

    次々とインドネシアの各島々を占領していきました。

    オランダ軍は1942年3月4日、

    バタビア(ジャカルタ)から撤退し、

    日本軍は協定によって陸軍がジャワとスマトラ、

    海軍がボルネオと東インドネシア地域の占領地統治を始めました。

     

    第16軍が3月1日に55,000でジャワ島に上陸を開始し、

    軍政が3月7日から始まりました。

     

    ●軍政の簡単な分担

     ・ スマトラは陸軍第25軍

     ・ ジャワは陸軍第16軍

     ・ その他の島は海軍の統治

     ・ 軍政の長官は軍司令官か艦隊司令長官がなり、

       全ての命令を出す権限を持っていました。

       各地の占領地には司令部があり、

       その中に軍政部(後に軍政監部)が置かれました。

       軍政監には軍・艦隊の参謀長がなりました。

     

    1942年12月8日、

    バタビアはジャカルタと改名されました。

    日本軍は侵攻作戦の途中で放送を通じて

    「日本はオランダの支配からインドネシア民族を

    解放するために戦う」と宣伝し、

    オランダ時代には禁止されていた

    民族歌(インドネシアラヤ)を流し

    民族意識を高揚させました。

    また民族旗(現在の国旗)も沢山準備しました。

    そのためオランダの植民地だったインドネシアの人々は、

    最初は日本を解放者として歓迎、信じました。

    日本に期待したインドネシアの人々は

    すぐにでも独立できるものと錯覚し、

    新政府の閣僚名簿まで作成して発表した新聞もありました。

     

    ●チャハヤ・ティム-ル紙 1942年3月13日

    首相   アビクスノ・チョクロスヨソ

    副首相  スカルノ

    外務大臣 スジョノ

     

    しかし日本軍は占領を完了すると次々と布告を出し、

    逆に全ての政党を解散させ、民族旗や民族歌を禁止し、

    日の丸や君が代を強制したため

    住民からの信頼は失われていきました。

     

    ●布告第1号 1942年3月7日 原文カナ

    第1条 

     大日本軍は同族同祖たる東印度民衆の

     福祉増進を図ると共に大東亜共同防衛の原則に準拠し

     現地住民と共に共存共栄を確保せんことを期し、

     差し当たり東印度の治安を確立し

     民衆をして速やかに安住楽業せしめんが為に

     東印度占領地域内に軍政を施行す

    第2条 

     大日本軍司令官は総督の職権を行使す

    第3条 

     占領地に於ける在来の行政諸機関、其職域権限

     及び諸法令の規定は軍政施行のため特に障害たらざる限り、

     差し当たり引き続き有効とす

    第4条 

     官民は大日本軍及び大日本官憲の命令を遵守すべし

     

    黄色線のところをみると、

    布告第1号ではまだ住民を尊重しているように見えますが、

    その後は矢継ぎ早に厳しい布告が出されるようになります。

     

    ●布告第2号  1942年3月8日

     結社・集会の禁止

    ●布告第3号及び布告第4号  1942年3月20日

     政治的な言論・言語・言動示唆・宣伝活動の禁止

     祝日等には日本国旗のみを掲揚する

    ●布告第16号  1942年5月25日

     言論・出版機関の自由な活動の禁止

     

    1943年5月の御前会議で

    ジャワ・スマトラ・セレベス・マライ・ボルネオは

    帝国領土にする事が決定されました。

    結局は独立させる気はなかったのです。

    スマトラから石油が供給され、

    ジャワからは米が日本に供給されるようになりました。

     

    ●米の供給

     米を日本に供給するためには、

     耕作面積の拡大が絶対命令でした。

     その為にジャワの森林が15,000ヘクタ-ルも

     伐採されたといわれています。

     それらの工事に多くの労務者が連行されました。

     1943年から米の強制供出が徹底され、

     30%を日本軍政監部に供出し、残りの30%は備蓄、

     残った米がジャワの人々の生活に回されました。

     しかしこれはあくまでも日本軍が発表した数字で、

     実際には大部分が軍に取られたという証言もあります。

     

    このように日本軍は民衆の活動を厳しく制限した上で、

    戦争協力の為に最大限に動員する政策をとりました。

     

    ●三亜(三A)運動

    占領直後最初の大衆運動で、三亜運動又は三A運動と呼ばれました。

     三亜とは  アジアの光日本!

             アジアの保護者日本!

          アジアの指導者日本!

    この運動はサムスディンというインドネシア人を

    表面的に立てていましたが、

    推進母体は日本陸軍の宣伝部でした。

     ☆宣伝部に所属した日本の文化人たち

      大宅壮一、阿部知二、横山隆一、

      武田麟太郎、松井翠声、北原武夫・・・・

     ☆大宅壮一氏は、大邸宅を接収して

      高級慰安所を2ケ所経営していたそうです。

      白馬会-オランダ系女性を置いた

      黒馬会-インドネシア系女性を置いた

     

    この運動では、凡ての住民に毎朝、

    皇居の方向に向かって身体を90度曲げて最敬礼し、

    天皇に敬意を表す事が義務付けられました。

     

    ●プ-トラ(住民総力結集運動)

    三亜運動は露骨に日本中心過ぎたため

    住民の共感をあまり得られませんでした。

    そのため次にインドネシア人の民族主義者を

    全面に出して大衆運動を組織する事にしました。

    1943年3月9日、

    ジャワ占領1周年記念日にプ-トラは組織されました。

    日本軍に協力させられた民族主義者は

    通称四葉のクロ-バ-と言われました。

    メンバ-はスカルノ、デワントロ、ハッタ、マンス-ルの4人で、

    プ-トラの会長にはスカルノが、

    副会長に他の3人が就任しました。

     

    日本軍は民族主義者をうまく利用しようとし、

    民族主義者は将来の独立のために日本を利用しようとし、

    うまく行く筈でしたが結局は成功しませんでした。

     

    ●ジャワ奉公会

    今度は日本人、混血民族、華僑、

    その他全住民を対象にした組織が出来ました。

    日本の大政翼賛会、満州の協和会、

    中国の新民会を真似して作った組織です。

    軍政監が総裁に、スカルノが中央本部長に就任し、

    日本からは大政翼賛会、国防婦人会、

    新民会等の指導者が職員に任命されました。

     ☆ジャワ奉公会の規約

    1  軍政奉仕の率先実施

    2  万民親和による軍政奉仕の指導

    3  防衛強化

    4  戦時生活態度強化

    5  人民救護補導

    6  他

     

    日本軍はジャワ奉公会を中心に

    「隣組」「婦人会」「青年道場」「青年団」「警防団」等を

    組織して大量動員を行ないました。

    その後、1943年10月には兵補(後述)、

    さらにより軍事的なペタ(ジャワ防衛義勇軍)が作られました。

    このペタは純然たる軍事組織で、

    終戦までに38,000人以上の人数になったといわれています。

    これらの組織の中でペタのような軍事的組織が

    戦後すぐのインドネシア独立の中心になったため、

    日本人の中にはインドネシア独立は

    日本のおかげだと主張する人がいますが、

    単にたまたまそうなっただけであって、

    インドネシアの人々が日本に支配されながらも

    独立のチャンスを狙っていたとするのが妥当だと思います。

     

    ●イディン・ワンサ・ウイジャヤの証言  1986年3月12日

    ・・・・多くの青年がセイネンダン、

    ヘイホそしてケイボウダンなどに入りましたが、

    そのことは私たちが親日だったということを

    意味しないと確信します。

    私たちはうわべだけ親日だったのです。・・・・

    ですから、日本に何か功績があるとすれば、

    彼らを軍隊式に鍛えただけです。

     

    大量動員ではさらに豊富な労働力を

    労務者(ロ-ムシャ)として強制労働に狩り立てたり、

    軍隊の補助として兵補にしました。

     

    つづきを読む

メインローカルナビゲーション

  • 原子力発電
    と放射線

  • 戦争・歴史

  • 健康

原子力発電と放射線

  • 原子力政策の始まりから
  • 元素とその変化
  • 放射線の危険性
  • 放射線被曝
  • 規準と用語
  • 福島の事故
  • 事故による健康被害
  • 指摘されていた危険性
  • チェルノブイリ事故について
  • 日本の原子力発電
  • 原発を始めた理由の検証
  • 原発の安全基準
  • 原発をめぐる法律
  • 経済効果と国民負担
  • 再生可能エネルギ-とPPS
  • 核燃料サイクル
  • その他
  • 最後に

戦争・歴史

  • 日本の細菌戦
  • 講演録:南京事件の真実は?
  • 報道の質
  • 朝日新聞の訂正記事と吉田清治証言
  • 日本国憲法の成立
  • 阿片政策
  • 沖縄戦
  • 三光作戦
  • 尖閣諸島
  • 大東亜共栄圏
  • 中国人強制連行
  • 日本の毒ガス戦
  • 防疫給水部(細菌戦部隊)
  • 軍による性暴力
  • 南京事件

健康

  • 健康食品と肝臓障害
  • 講演録:免疫と蛋白質~コラ-ゲン美容まで
  • 講演録 インフルエンザ
  • 講演録 最新デ-タ-から見る高血圧
  • 高齢者の薬と副作用
  • コレステロ-ルを含む食品の摂取制限
  • 自律神経と薬の作用
  • 副作用のある薬
  • 新型コロナウイルスと免疫
  • 食品や生活用品への警告や摘発
  • PM2.5
  • メタボ検診
  • 暮らしと健康アラカルト

キーワード

  • 歴史の教訓
  • サンフランシスコ条約
  • 河野談話
  • 陸軍刑法
  • 金原節三
  • 強姦
  • 軍需物資
  • 李秀梅
  • スマラン裁判
  • 国家無答責
  • 謝罪
  • 従軍慰安婦
  • NHK
  • 南京
  • 国際条約
  • 金学順
  • 挺身隊問題
  • 復命書
  • 誘出し
  • 夜襲
  • PX作戦
  • 米国本土に対する細菌攻撃
  • 小暮泰用
  • 沖縄や小笠原に細菌攻撃
  • 体当たり機
  • 竹内徳治
  • 償い金
  • 人質掠奪拉致
  • 米軍用慰安所
  • 抗体保有者
  • 阿片
  • 燃料棒のトラブル
  • 性奴隷
  • 人権侵害
  • 吉見義明
  • 恒久平和議員連盟
  • 国会図書館法
  • ILO
  • リンダ・チャベス
  • クマラスワミ
  • マクドゥ-ガル
  • 慰安所
  • 性病
  • UNTAC
  • 労務管理

フッターグローバルナビゲーション

© おしえて!ゲンさん! 〜分かると楽しい、分かると恐い〜