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キーワード「宣戦布告」を含む投稿一覧

  • 第二次上海事変から全面戦へと拡大 2

    2020/09/07
    11:59

    日本軍による南京政府攻撃が決まったことから、

    在南京の日本大使館館員や日本人居留民は

    下関(シャ-カン)から船、列車を

    乗り継いで青島に避難しました。

    引き上げる日本人に対して、

    中国人から危害が加えられないようにと

    国民政府は特別列車を用意し、

    40名の護衛用の憲兵や2人の外交部の係官まで

    随行させて丁重に扱っています。

    青島に着くまでの停車駅でも

    厳重な保護を与えています。

     注:もし立場が逆で日本だったら、

       またその後の南京での日本軍の暴行を考えると、     

       国民政府がきちんとした

       紳士的な政権だった事が分かります。

     

    ◎証言 庄司得二「南京日本居留民誌」から 1940年

     停車場構内の柵外には黒山のような人集まり、

     列車をさして何事か語り合いおるも

     ホ-ム内には人影なし。

     停車すると同時に護衛の憲兵ただちに

     列車の外側に並列し柵内を警戒しおる

     巡捕にて二重の警戒線を張り、

     列車付近に一人として群集を寄せつけず、

     厳重警戒をしおれり。

     その後停車のたびごとに注意しおりたるに、

     いかなる小駅にても同様にて、

     実に行き届きあれり

     

    ● 8月17日 

     近衛内閣は不拡大方針を

     次のように変更する決定をした。

     1. 従来執り来たれる不拡大方針を抛棄し、

      戦時態勢上必要なる諸般の準備対策を講ず

     2. 拡大せる事態に対する経費支出の為、

      来9月3日頃臨時議会を召集す

     

    この頃陸軍では中国での戦争を

    拡大するのかしないのかの

    意見が分かれていました。

    不拡大派の石原莞爾作戦部長は

    対ソ連を目標にした軍備拡張のため、

    中国とはあまり深入りしないほうが良いと主張していた

    ◎石原莞爾中将回応答録から

     然るに責任者の中には

     満州事変があっさり推移したのと同様、 

     支那事変も片付け得るという

     通念をもつものもいました。・・・・

     事変がはじまると間もなく傍受電により

     孔祥肌煕は数千万ドルの

     武器注文をどしどしやるのを見て、

     私は益々支那の抵抗、決意の

     容易ならざるを察知いたしました。

     即ちこの際、戦争になれば

     私は之は行くところまで行くと考えたので、

     極力戦争を避けたいと思い、

     又向こうも避けたい考えであったようです。

     さらに今日のようになったのは真に残念であり、

     又非常なる責任を感ずる次第であります。

    ◎同じ石原莞爾中将回応答録から

     今次の上海出兵は海軍が

     引きずって行ったものといっても

     差し支えないと思う・・・・

     私は上海に絶対に出兵したくなかったが

     実は前に例ががある・・・・

     

    拡大派には、杉山元陸相、田中新一軍事課長、

    武藤章作戦課長、永野佐比重支那課長などがいて、

    中国軍の実力を軽視し、

    断固として一撃を加えれば

    早く終わると主張していました。

    石原莞爾が言う海軍との間に結ばれた協定は

    1937年7月11日の「北支作戦に関する陸海軍協定」で、

    その中に帝国居留民の保護を

    要する場合においては、

    青島および上海付近に限定して

    陸海軍の協力することがきめられていました。

     

    そして近衛首相も広田弘毅外相も

    拡大派に同調していたため

    上海事変は拡大していきました。

     

    ところで、戦争ではなく事変と呼んでいますが、

    事変とは戦争ではない小さな揉め事です。

    この時期の戦争を全て事変とした理由は

     1.  簡単に中国軍にを打撃を与えて

      早く終わると思っていた

     2.  正式に宣戦布告をする大義名分がなかった

     3. 石油、鉄をはじめ多くの物資を

      アメリカから輸入していたため、

      小競り合いだという名目にしておきたかった

     4.  ハ-グの陸戦に関する条約を逃れるため

     

    そして軍としては戦争としないで事変として

    ハ-グ条約を逃れることになりました。

     

    ● 8月5日の陸軍次官通牒「陸支密第198号 

       交戦法規の適用に関する件」(原文カナ)

     現下の情勢に於いて帝国は

     対支全面戦争を為しあらざるを以って

     「陸戦の法規慣例に関する条約

     其の他交戦法規に関する諸条約」の具体的事項を

     悉く適用して行動することは適当ならず

    注:都合が悪いからハ-グ条約などは

      守らないようにするということです。

     

    さらにその後、

    11月に外務、陸軍、海軍の3省で

    宣戦布告の利害得失を検討して、

    布告しての正式戦争はマイナスが多いと

    判断されました。

     

    天皇の意思としては

    青島にも不穏な動きがあることから、

    戦線を拡大しないで(事変のまま)

    上海、青島を重点的に打撃を与えて

    早く終わらせたかったようです。

     

    ● 8月18日 

     天皇の「御下問」  

       軍令部総長、参謀総長(閑院宮)宛て(原文カナ)

     戦局漸次拡大し上海の事態も

     重大となれるが青島も不穏の形勢に在る由   

     斯くの如くにして諸方に兵を用ふとも

     戦局は永引くのみなり   

     重点に兵を集め大打撃を加えたる上にて

     我の公明なる態度を以て   

     和平に導き速に時局を収拾するの方策なきや   

     即ち支那をして反省せしむるの方途なきや

     

    このように天皇や軍中央は

    上海に限定された作戦のはずだったのですが、

    上海派遣軍の松井石根大将は

    内心南京まで行くつもりだったので、

    8月18日の送別会で不満を表明し、

    参謀本部から注意されています。

     

    ◎参謀本部総務部長中島鉄蔵少将から

     上海派遣軍飯沼守少将への注意(飯沼守日記から) 

     作戦命令も勅語も手続きは同様にて、

     作戦命令も勅語と同様のものにて、 

     これを批判するごときは不謹慎なれば、

     よく言うておいてくれ

     

    それでも松井はその後も不満を漏らしています。

    ◎参謀本部首脳との会合での発言

     国民政府存在する限り解決できず・・・・

     蒋介石下野、国民政府没落せざるべからず・・・・

     結末をどこにすべきやの議論あるも、

     だいたい南京を目標として

     このさい断固として敢行すべし、 

     その方法はだいたい5~6師団とし、

     宣戦布告して堂々とやるを可とす・・・・

     

    ● 8月23日 

     第3、第11師団は呉淞鎭南方、

     第11師団は揚子江の川沙鎭付近に

     強行上陸をしました。

     それでもかなりの苦戦をしたため

     青島用に待機していた天谷支隊が9月1日に、 

     台湾守備隊中心の重藤支隊が9月7日に上陸しました。

     

    それでも圧倒的な兵力の不足は

    予想されていたので、

    8月21日陸海軍の統帥部は検討の上

    2つの案を天皇に奉答しました。

    ◎上奏内容

    1.航空兵力で敵の軍事施設、軍需工業中心地、政治中心地等を爆撃して

     敵国軍隊および国民の戦意を喪失させる

    2.華北で北京、天津地方を占領し、上海を確保し、中国沿岸を封鎖する

    天皇としてはそれよりも兵力不足が問題だとしてまずは増兵を望んでいたようです。

    ◎昭和天皇独白禄・寺崎英成御用掛日記 より

     当時上海の我兵力は甚だ手薄であった。

     ソ連を怖れて兵力を上海に割くことを嫌っていたのだ

     2ケ師団の兵力では

     上海は悲惨な目に遭うと思ったので、

     私は盛んに兵力の増加を督促したが、

     石原はやはりソ連を怖れて満足な兵力を送らぬ・・・・

     

    天皇は再三増兵を督促していました。

    9月6日参謀総長を召して再度意思を伝えました。

    直ちに参謀本部は検討し、同日午後参内し

    天皇に「上海に第9、第13、第101師団及び

    台湾守備隊を増派することに内定」と上奏しました。

    整理すると、

     

    ●8月25日 

     首相・陸相・海相・外相の4相会議で、   

     宣戦布告はしないが、

     それに変わる勅語を出すことが決定された。

    ●9月2日   

     閣議で「北支事変」の呼称を

     「支那事変」に変えることが決定され、     

     全面的な日中戦争になった

     

    ●9月4日   

     第72臨時議会開院式で

     昭和天皇の勅語が発表された。

     (勅語)

      中華民国深く帝国の真意を解せず、

      みだりに事をかまえ、

      ついに今次の事変を見るにいたる。

      朕これを憾とす。

      今や朕が軍人は百艱を排して

      その忠勇をいたしつつあり、

      これ一に中華民国の反省を促し

      すみやかに東亜の平和を

      確立せんとするにほかならず。

      朕は帝国臣民が今日の時局に鑑み、

      忠誠公に奉じ、和協心を一にして

      賛襄もって所期の目的を達成せんことを望む

     

     

    ● 同日    

     杉山陸軍大臣は既に全面戦争であるとの

     訓示を出した。(現代文に要約)

     (訓示)

      ・・・・今回の事変はその原因は

      南京政府の従来からの国策から生じたものである。

      すなわち抗日排日がこのところ

      顕著になりそれに容共政策が加わって

      激成したものである。

      これは過去我が帝国が経験したこととは

      全く異なるものである。

      すでに全面戦争に移行したことを

      深く覚悟しなければならない・・・・             

     注:国家としては事変であると言いながら

       陸軍大臣は全面戦争であると訓示

     

    ●9月5日  

     前日から始まった臨時議会で

     近衛首相は次のような施政方針演説をおこなった。

     ◎演説 

      今日このさい、帝国として採るべき手段は、 

      できるだけすみやかに支那軍に対して

      徹底的に打撃を加え、 

      彼をして戦意を喪失せしめる

      以外にないのであります。 

      かくしてなお支那が容易に反省をいたさず、 

      あくまで執拗なる抵抗を続ける場合には、 

      帝国としては長期にわたる戦いも

      もちろん辞するものではないのであります。 

      惟うに東洋平和の確立の大使命を

      達成するがためには、 

      なお前途に幾多の多難が

      横たわっているのでありまして、 

      この難関を突破するためには、 

      上下一致堅忍持久の精神をもって

      邁進するの覚悟を要すると

      思うのであります。・・・・

     

    ● 9月6日   

     天皇は参謀総長を召して

     再度増兵の意思を伝えた。

     

    ● 9月7日   

     拡大派武藤章作戦課長を中心に

     大部隊の上海派遣が決定された。

     

    ● 9月11日 

     上海に5ケ師団の派兵遣が決定し、

     石原莞爾は辞任を決めた。

     

    ● 9月23日 

     石原は退陣し後任に

     下村定少将が就任しました。

     

    ● 9月28日 

     増派に反対していた石原莞爾は

     更迭される形で関東軍参謀副長になり、   

     石原は「ついに追い出されたよ」の

     言葉を残して満洲に去って行ったのです。

     

     

    つづきを読む

  • 日本軍の捕虜政策

    2020/07/25
    17:33

    泰緬鉄道、バタ-ン半島、サンダカン・・・・

    昭和に入ってからの日本軍は

    捕虜にかなりの虐待行為をしています。

    それ以前の戦争では日本軍は

    どの様に捕虜を扱ったのでしょうか?

    各戦争の宣戦布告を天皇の詔勅や勅令、

    その他から見てみます。

    原文は全てカナです。

     

    ●日清戦争

    ◎宣戦の詔勅    明治27年(1894年)8月1日

     ・・・・朕茲に清国に対して戦を宣す

     朕が百僚有司は宜く朕が意を体し

     陸上に海面に清国に対して

     交戦の事に従ひ以て国家の目的を

     達するに努力すへし

     苟も国際法に戻らざる限り各々権能に応じて

     一切の手段を尽くすに於て

     必ず遺漏なからむことを期せよ

    以下省略

    内閣総理大臣 伯爵伊藤博文

    遞信大臣   伯爵黒田清隆

    海軍大臣   伯爵西郷従道

    内務大臣   伯爵井上馨

    陸軍大臣   伯爵大山巌

    農商務大臣  子爵榎本武揚

    以下省略

     

    ●帝国内に居住する清国臣民に関する勅令  

       明治27年(1894年)8月5日

     帝国内に居住する清国臣民は・・・・

     帝国内従来居住を許されたる場所に於いて

     身体財産の保護を受け、

     向後も引き続き居住し、

     且つその地に於いて

     平和適法の職業に従事する事を得・・・・

    注:このように天皇としては、

      国際法を守り中国人を

      保護するような考えを示しています。

      事実この戦争で、

      清国兵1,970人を捕虜にしましたが、

      再び日本軍を相手にして

      武器を取らないと宣誓させて

      全員釈放しています。

     

    ●日露戦争

    ◎宣戦の詔勅 明治37年(1904年)2月10日

     朕茲に露国に対して戦を宣す

     朕が陸海軍は宜しく全力を極めて

     露国と交戦の事に従うべく

     朕が百僚有司は宜く各々

     其の職務に率ひ其の権能に応じて

     国家の目的を達するに努力すべし

     凡そ国際条規の範囲に於て

     一切の手段を尽くし

     遺算なからしむことを期せよ・・・・

    以下省略

    内閣総理大臣兼

    内務大臣   伯爵桂太郎

    海軍大臣   男爵山本権兵衛

    農商務大臣  男爵清浦奎吾

    大蔵大臣   男爵曽禰荒助

    外務大臣   男爵小村寿太郎

    陸軍大臣   寺内正毅

    以下省略

    注:日清戦争と同様に

      国際法を守る事が書かれています。

      大本営に法学者が出向き、

      日清戦争の時よりさらに

      国際法を守ろうとしています。

      陸軍の俘虜取扱規則では

      「俘虜は博愛の心をもって之を取扱い

      決して侮辱虐待を加ふべからず」と書いてあります。

      ロシア兵の捕虜は79,367人でしたが、

      日本軍の倍の給料を払って優遇し、

      戦後全員送還されました。

     

    ●第1次世界大戦

    ◎独逸国に対する宣戦の詔勅   

          大正3年(1914年)8月23日

     朕、茲に独逸国に対して戦を宣す。

     朕が陸海軍は宜しく力を極めて

     戦闘の事に従ふべく

     朕が百僚有司は宜しく職務に率循して

     軍国の目的を達するに努むべし、

     凡そ国際条規の範囲に於て、

     一切の手段を盡し、

     必ず遺算なからしむ事を期せよ。

     朕は、深く現時欧州戦乱の秧禍を憂い

     専ら局外中立を確守し以て

     東洋の平和を保持するを念とせり。

    以下省略

    内閣総理大臣兼

    内務大臣    伯爵大隈重信

    農商務大臣   子爵大浦兼武

    外務大臣    男爵加藤高明

    陸軍大臣    岡市之助

    海軍大臣    八代六郎

    大蔵大臣    若槻禮次郎

    文部大臣    法学博士一木喜徳朗

    司法大臣    尾崎行雄

    以下省略

    注: やはりこれまでと同じように

      国際法を守ることが明記されています。

      この詔勅で日本はドイツに宣戦布告し、

      青島を始め南方のドイツ軍拠点で

      4,000人以上のドイツ兵を捕虜にしました。

      ドイツ兵は日本各地6ケ所の

      捕虜収容所に収容され、

      かなり人道的処遇を受けたといわれています。

      各種スポ-ツ、散歩、外出、講演会、

      ギャンブル、コンサ-トまで許されたそうです。

      そして1920年1月に4,200名が送り返されました。

      このせいでしょうか、

      その後ドイツは日本に好意を持ち、

      文化交流が進んだともいわれています。

     

    ●第2次世界大戦

    ◎米国及英国に対する宣戦の詔勅   

       昭和16年(1941年12月8日)

     朕茲に米国及英国に対して戦を宣す

     朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し

     朕が百僚有司は勵精職務を奉行し

     朕が眾庶は各々其の本分を盡し

     億兆一心国家の総力を挙げて

     征戦の目的を達成するに

     遺算なからしむることを期せよ

    以下省略

    内閣総理大臣兼

    内務大臣陸軍大臣 東條英機

    文部大臣     橋田邦彦

    国務大臣     鈴木貞一

    農林大臣兼

    拓務大臣     井野碩哉

    厚生大臣     小泉親彦

    司法大臣     岩村通世

    海軍大臣     嶋田繁太郎

    外務大臣     東郷茂徳

    逓信大臣     寺島健

    大蔵大臣     賀屋興宣

    商工大臣     岸信介

    鉄道大臣     八田嘉明

    注:これだけの内容で

      国際法には一切触れていません。

     

    日本が明治以降経験した4つの戦争の詔勅のうち、

    最初の3つは国際法の遵守が書かれていますが、

    最後の第2次世界大戦だけは

    一切国際法には触れていないのです。

    このことは国家の中で

    軍部が力をつけて政治をないがしろにし、

    天皇は軍部に逆らえなくなっていったからかも知れません。

    いずれにしても昭和期に入って

    日本軍は急に残酷になってしまったのです。

    最近では「戦争だから仕方がなかった・・・・

    戦争だから何をやってもよかったんだ・・・」と

    主張する人もいますが、

    少なくとも以前は

    日本も紳士的(?)な戦争をしていたのです。

     

    第2次世界大戦後、

    何故急に捕虜を冷遇するようになったのか?

    その理由を考えてみます。

    1 日本の内部で内閣(政府)より

       軍部の発言力が強くなってきた

    2 その軍部が「捕虜の人道的処遇」が優遇し過ぎると考えた

     ☆第1次世界大戦後の「俘虜収容所長会同に於ける

          陸軍大臣口演」要旨  原文カナ、意訳

      捕虜の給食は我が軍隊と同じくらいを

      最大限と考えているが、しかし我が軍隊に比べ

      遥かに良好の給食を与えるものがあるが

      良くない事である。・・・・

    3 国際法に抵触しないように、

       特に中国では宣戦布告しなかった。

       事変であれば戦争ではない。

       戦争でなければ何をしても国際法に抵触しない・・・・

    4 外交よりも軍事的配慮を優先した。

     

    このような理由があったと思われます。

     

    当時の捕虜の処遇に関する国際条規は次の通りです。

    1 ハ-グ条約「陸戦の法規慣例に関する条約」

       付属の「陸戦の法規慣例に関する規則」

    2 赤十字条約「戦地軍隊における

       傷病者の状態改善に関する条約」

    3 ジュネ-ヴ条約「俘虜の待遇に関する条約」

     

    これらの条約の内、ジュネ-ブ条約には

    日本は批准していませんでした。

     

    1929年のジュネ-ブ条約では

    「戦地軍隊における傷者及び

    病者の状態改善に関する条約」と

    「俘虜の待遇に関する条約」が

    46ケ国で話し合われました。

    勿論日本も参加はしています。

    しかし日本の陸軍、海軍、外務省の立場は

    「俘虜に法典案の如きは、本邦は

    欧米諸国と生活様式を異にするをもって、

    精彩なる規定は実行不可能なり」とするものでした。

    結果として「傷者、病者の条約」には批准しましたが、

    「俘虜の待遇の条約」には批准しなかったのです。

     

    中国への侵略戦争の時期には

    事変として捕虜への配慮はしていませんが、

    太平洋戦争は戦争ですから

    天皇の詔勅はどうあれ

    当然捕虜に関する条約が絡んできます。

     

    1941年のアジア太平洋戦争開戦直後に

    日本の捕虜の待遇改善に関する

    基本方針が発表されました

     

    ●1941年12月12日、武藤章陸軍省軍務局長の通牒 原文カナ

     本次戦争に伴う俘虜は

     国際法に準拠し至当なる待遇をいたし度。

     その収容所は現地に開設の上、

     現地司令官の管理に属せしむる如く

     現行俘虜収容所条例その他改正の予定に付、

     収容位置、収容の方法に関し

     研究準備を進め置かれた度

     

    この通牒の「国際法」とは上記3つの

    どれを示すのか不明ですが、と

    にかく国際法を守ると言っています。

     

    同じ12日に赤十字国際委員会は交戦各国に

    「ジュネ-ブ条約」を適用するかどうかの

    照会電報を打っています。

    この照会に対して日本政府は

    「俘虜情報局」を設置し、

    捕虜・民間抑留者に関する情報を

    赤十字国際委員会に提供する事に同意しました。

     

    さらに12月27日にアメリカは

    捕虜の取扱に関する「ジュネ-ブ条約」を

    日本人捕虜と抑留者に適用するから、

    日本側も適用するように要望してきました。

     

    これに対して日本政府は

    1942年1月28日、次のように回答しています。

     1 赤十字条約の締結国として同条約を遵守している

     2 ジュネ-ブ条約を批准していないので

        同条約の拘束を受けないが、

       米軍捕虜に対しては同条約の規定を準用する

     

    日本はその日の内に、

    イギリス、カナダ、オ-ストラリア、

    ニュ-ジ-ランドにも

    同じ内容の通知をしています。

    しかしながら軍内部がバラバラで、

    なかなか具体的な方針が決まらず、

    結局その約束はあまり実行されなかったのです。

     

    1942年4月に、

    捕虜は予想以上の25万人にも達したため、そ

    の扱いに困り、5月に基本方針が決められました。

     

    ●俘虜処理要綱 1942年5月5日 原文カナ

    1 白人俘虜はこれを我が生産拡充並びに

       軍事上の労務に利用する如く、

       逐次朝鮮、台湾、満州、支那等に収容し、

       当分の間その目途立たざる者は

       現地に於いて速やかに

       俘虜収容所を開設し之に収容す

    2 白人以外の俘虜で抑留の要なき者は

       速やかに宣誓解放したる後、

       なるべく現地において之を活用す

        注:軍事上の労務はジュネ-ブ条約違反です

          捕虜を一旦釈放したように見せかけて、

          労働させるのは法の網の目をくぐる行為です

          国際法をどの様に遵守するのかが書かれていません。

     

    そして1942年11月には

    俘虜管理部長の懇談要旨が出されています。

    ●極秘 参謀長(外地を除く)、大臣直轄部隊長の

       一部等会同席上 俘虜管理部長懇談要旨

         昭和17年11月陸軍省印刷 原文カナ、意訳

    1 俘虜取扱の根本方針は

       人道に反せざる限り厳重に之を取締り、

       且つ之に課するに労務を以ってし、

       極力我が国生産拡充に利用するにあり  以下省略

    2 俘虜関係機関に就いて   省略

    3 俘虜収容所及びその収容人数に就いて

       大東亜戦争に於ける俘虜総数は約30万にして、

       その内、米、英、豪、蘭の俘虜は12万余を算せしも、

       その後病死、溺死等により減少し、現在数は約11万6千なり

    注:開戦後約1年で4,000人以上が病死、溺死になっています。

         病死はともかく溺死とは殺害されたものと思われます。

    4 俘虜監視員に就いて

       俘虜取締に任ぜしむる為、

       朝鮮人及び台湾人約4千2百名を徴用し・・・・

       各俘虜収容所に充当せられたし。

       右要員の身分は軍属にして・・・・

              以下省略

     

    どの様な事が上層部で決められても、

    実際には捕虜に対する虐待が多く、

    俘虜情報局長官・上村幹男中将の

    困った様子は局長会報の中に伺えます。

    ●局長会報

     4月18日 

      なるべく早く軍政下に入れ、

      条約上の正当なる取扱をなす方がよろしい。

      若い将校などは、

      俘虜などどうでもよいではないかといい。

      下士官兵など常に彼等を軽蔑している。・・・・ 

      とにかく国際的反響を顧慮して

      慎重に扱わなければならぬ

     7月15日 

      比国に於いて白人が・・1,561名死亡せりという。

      マレ-、ジャワを加えれば相当の数に達すべし。 

      これらの人員、人名はその本国に通知する要あり。 

      注意せざれば悪宣伝の材料となる

     9月5日   

      日露戦争の時の露捕虜は8万余ありしが、

      病死せるは僅かに36名なり。 

      然るに今回の戦争において

      米人俘虜2万4千中、既に2千名の死者を出せり。 

      将来問題の種となるべし。

     

    この様に俘虜情報局では国際法を守り、

    捕虜の待遇をきちんとする事に

    気を使っているようですが、

    肝心の陸軍大臣・東条英樹が

    捕虜を軽視する発言を繰り返しています。

    ●1942年5月2日 

     局長会報の席で香港・上海の捕虜逃亡事件の

     報告を受けて

     直ちに捕らえて衆人の前で死刑にせよ。

     やり方手緩い

    ●同年5月30日 

     善通寺師団を視察した後の訓示

     俘虜は・・・・厳重に取締り・・・・

     誤れる人道主義に陥り

     又は又は収容久しきに亘る結果、

     情実に陥るが如きことない様注意を要します。

     又我国現下の情勢は1人として無

     為徒食するものあるを許さないのであります。

    ●6月3日

     局長会報の席で

      (局長)

       俘虜に何か仕事をさせる。

       例えばその技術を生かし、

       学芸、農業の指導をさせ

      (陸相)

       学芸とは何か。

       音楽でもやらせるのか。

       音楽など不可。

      (局長)

       将来・・・・俘虜問題が中心になる。

       所長の指導によりやらせる方法を・・・・

      (陸相)

      看板はどうでも良い。

      目的は日本の戦争目的遂行に

      即応せしむることだ。   

      彼らの道楽心を満足させるなどと

      いうことはよろしくないし、

      又無為徒食も不可だ。

    ●7月22日 

     連合国政府が自国捕虜にに対して

     差し入れしたいと要望があった時

     現地では日本兵が苦労しておるのに、

     いくら本国から送ってきたといっても、

     捕虜に贅沢をさせる必要はない。

     

    そしていざ戦争に負けると、

    捕虜や住民に対する虐待の責任に付いて

    責任のなすり合いが始まりました。

     

    ●東京の俘虜収容所所長から各地の収容所に対する電報

    敗戦の直後、8月20日には東京の俘虜収容所所長から、

    東南アジア各地の収容所に緊急電報が打たれました。

    その内容です。

     「俘虜及び抑留者を虐待し、

     或いは甚だしく俘虜より

     悪感情を抱かれある職員は、

     この際速やかに他に転属或いは

     行方を一斉に晦ます如く処理するを可とす。

     又、敵に任するを不利とする書類も、

     秘密書類同様、用済みの後は必ず廃棄の事」

        注:虐待したり捕虜から悪い感情を

          持たれている者は逃げろ・・・

          と言う指示です。

     

    ●田中信男第33師団長の部下に対する発言

     「おまえらのやった事は、

     一切お前らで責任を取れ、

     上には絶対に迷惑を掛けてはならんぞ」と言い、

    注:部下は反発心を持ったそうです。

        (歩兵第215連隊戦記から)

     

    ●J・ミッチェル氏の証言  

           イギリス軍義勇兵として香港で捕虜になった

     ・・・・戦争が終わった時に感じたのは、

     日本人の無責任さですね。

     私たちを殴ったり虐待していた

     日本人の管理者達は、

     戦争が終わったとたんに

     どこかに姿を隠してしまった。

     あの時は怒るというよりもあきれました。

     残酷な虐待をしておきながら、

     自己責任を感じないのは

     どうしてでしょうか?

     今でも疑問です。

     

    さらに責任を台湾人、朝鮮人軍属に押し付けています。

    ●陸軍大臣下村定の通達

       「俘虜取扱関係連合軍側訊問に対する

       応答要綱に関する件」 1945年9月18日

     ・・・・俘虜収容所の編成素質(特に台・鮮人)

     教育等の実体を一般部隊等と関連対比して

     能くその因て来る所以を明にす・・・・

         注:敗戦後1ケ月に、弁明のために出した通達です。

           台湾人や朝鮮人は教育等が行き届かず、

           つまり素質が悪かった為であると言え・・・・ 

           という内容です

     

    また、証拠隠滅のために台湾人、

    朝鮮人の監視員を抹殺しようとしたのです。

    敗戦直後にタイとビルマで

    このことは計画されましたが、

    軍上層部からの無電で中止になりました。

     

    捕虜や民間抑留者の死亡統計を見てみます。

    ●東京裁判の記録から、

     日本軍に捕まった欧米捕虜の記録です。

    国名

    捕虜数

    死亡数

    死亡率

    アメリカ

    21,580人

    7,107人

    33%

    イギリス

    50,016人

    12,433人

    25%

    オ-ストラリア

    21,726人

    7,412人

    34%

    オランダ

    37,000人

    8,500人

    23%

    カナダ

    1,691人

    273人

    16%

    ニュ-ジ-ランド

    121人

    31人

    26%

    合計

    132,134人

    35,756人

    27%

      注:参考までにナチスドイツや  

        イタリアの捕虜になった連合軍兵士の例を示します。

         捕虜数  235,473人

         死亡数    9,348人

         死亡率   4%

     

    ●日本軍に捕虜になた連合軍兵士と、

     その内オ-ストラリア兵の移送先と死亡数です。

    田中利幸 POW研究会調査資料

     

    泰緬鉄道建設

    サンダカン

    日本国内

    連合軍捕虜(オーストラリア含)

    約65,000人

    約2,500人

    約30,000人

      死亡数

    約12,000人

    約2,500人

    約3,000人

    オーストラリア捕虜のみ

    約9,500人

    1,793人

    約2,800人

      死亡数

    2,646人

    生存者 6人

    191人

     

    ●アメリカのみの記録  

        米国捕虜協会発表 1998年4月27日

     捕虜の数36,260人  死亡数3,851人  死亡率38.2%

          注:参考までに

            ドイツ軍の捕虜になった米軍の死亡率 1.2%

     民間抑留者の数13,996人 死亡数1,536人 死亡率11%

          注:参考までに

            ドイツ軍の捕虜になった場合は死亡率 3.5%

     

    ●参考までにナチスドイツやイタリアの

     捕虜になった連合軍兵士の例を示します。

        捕虜数  235,473人

        死亡数    9,348人

        死亡率   4%

     

    こうして見るとナチスドイツの方が

    はるかに人道的な軍隊だった(?)ように見えます。

    日本軍の場合これ以上に

    アジア人特に中国人を

    大量に虐殺している筈ですが、

    その統計はありません。

     

    つづきを読む

  • 大東亜共栄圏

    2020/07/17
    16:20

    このレポ-トの目的は戦後私たちが

    あまり知らなかった事実を中心に書くことにあります。

    そして事実に基づく歴史認識を

    私たち日本人の共通認識にしたいと思っています。

    現在でもそう呼ぶ人がいますが、

    昔は大東亜戦争と呼んでいました。

    大東亜共栄圏を作るための戦争ということでそう呼んだのです。

    アジアの資源を目的に中国への侵略を開始したのですが、

    欧米諸国の猛烈な反発を受け、

    日本は経済封鎖までされていました。

    そこで中国侵略で疲弊した国家経済を建て直すために、

    強引に東南アジアに新たな資源を求める計画をたて、

    さらに中国を支援する何本ものル-トを絶とうとしたのです。

    しかし戦争を仕掛ける理由がありません。

    当時東南アジアの多くはアメリカ、フランス、

    オランダ、イギリスといった西欧強国の植民地でした。

    そこで日本は西欧からアジアを解放し

    天皇の威光のもとでアジアの共栄圏を作るんだ、

    そしてそのための戦争なんだという大義名分を掲げました。

    これが「大東亜共栄圏」構想です。

    そのせいでしょうか、

    日本人には今でも戦後東南アジアの諸国が独立できたのは

    日本のおかげである・・・・と信じている人がいます。

    日本が侵略した結果、偶然戦後独立出来た例もあります。

    これは放火をして全焼したから後で綺麗な家が建った。

    放火のおかげだろうと主張するようなものです。

     

    実際に日本軍が大東亜と言われる地域で

    どの様な戦争をしたのでしょうか?

    まず戦争とは言ってもアジアの国々とは

    宣戦布告をしていませんから戦争ではなく

    一方的に侵略をしたのだということ、

    約3年半の間、宣戦布告をしていないアジアが

    戦場だったのだということを踏まえていてください。

     

    ◎本当にアジア解放のための戦争だったのか-

     アジアの人々の将来を思って戦ったのか?

    ◎日本軍が中国で行なった虐殺と同じ事が

     アジアでは無かったのか?

    ◎日本は大東亜共栄圏という美辞麗句の通りの戦争をしたのか?

    ◎そして各国の独立に貢献し、戦後感謝されているのだろうか?

    ◎これらのことを考えるために、

     戦争の中で起きた忌まわしい事件を

     幾つか取り上げて考えて見たいと思います。

     

    そしてそれらの事件を私たち日本人が知る事で、

    アジアの人たちの本当の気持ちが、

    つまり日本や日本人を本音ではどう見ているのかが

    理解出来るのではないかと思います。

     

    「大東亜共栄圏の構想 」

    満州事変の立役者といわれた陸軍の石原莞爾は、

    欧米列強の覇道に対決するものとして

    「東亜連盟」という構想を唱えました。

    目的として日本は欧米と戦争しても勝てない。

    だから東亜連盟の名のもとに

    アジアが一体となって欧米と戦争をする。

    その為の「アジア民族解放戦争」をするという考えでした。

     

    大東亜という呼び方が具体的に政治の場に登場するのは、

    1940年(昭和15年)7月に

    第2次近衛内閣が決定した「基本国策要綱」です。

     

    ●基本国策要綱

     皇国の国是は八紘一宇とする肇国(注:国の始まり)の

     大精神に基き世界平和の確立を招来する事を以って根本・・・・

     皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする

     大東亜秩序を建設するに在り・・・・(原文カナ)

     ◎八紘一宇  

      「日本書紀」で神武天皇の即位の時に述べたとされる。

      四方と四隅合わせて八紘(世界の事)

      つまり天下を一つの宇(家)とする。

      つまり全世界を天皇の下に一つにまとめるという思想。

      現代でも西村眞吾前防衛次官のように 

      「大東亜共栄圏、八紘一宇を地球に広げる」等と発言する人がいます。

     

    時の外務大臣松岡洋右は

    8月1日の記者会見で次のように述べています。

     

    ●東京毎日新聞 1940年8月2日

     私は年来皇道を世界に宣布することが

     皇国の使命であると主張してきた者でありますが・・・・

     我が国現前の外交方針としては、

     この皇道の大精神に則り、

     まず日満支をその一環とする

     大東亜共栄圏の確立を計らなければなりません。・・・・

     更に進んで我に同調する友邦と提携、不退転の勇猛心を以って、

     天より課せられたる我が民族の理想と使命の達成を期するべきものと・・・・

     

    同時に「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が発表され、

    日米関係の悪化を認め、

    東南アジアへの武力行使という

    戦争を予想した政策を発表しました。

     

    ●「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」 1940年7月 原文カナ

     帝国は世界情勢の変化に対処し内外の情勢を改善し

     速やかに支那事変の解決を促進すると共に

     好機を捕捉し対南方問題を解決す。

     支那事変の処理未だ終らざる場合において、

     対南方施策を重点とする態勢転換に関しては

     内外諸般の情勢を考慮して之を定む。

     

    1940年9月には「皇国ノ大東亜新秩序建設ノ為ノ生存権」で

    大東亜の範囲を決めました。

     

    ●大東亜の範囲

     日本、満州、支那、日本の委任統治領南洋諸島

     フランス領インドシナ(ベトナム)と太平洋諸島、

     英領マラヤ(マレ-半島)、ボルネオ、ビルマ、インド、

     英自治領オ-ストラリア、ニュ-ジ-ランド、

     オランダ領東インド(インドネシア)、タイ

     

    大東亜共栄圏という言葉が正式に登場するのはこの頃からです。

    挙国一致、大政翼賛の時代で言論統制も厳しい時代でしたから、

    上から下まで大東亜戦争は「聖戦」であるという

    大義名分で戦争に突入しました。

    中には本当にアジア民族解放を信じて戦った軍人もいたようですが!

     

    「 大政翼賛」 

    全てが天皇を中心に日本中が心を一つにして

    大東亜戦争に進んでしまいました。

    反対勢力が無く異論を唱えると非国民扱いされる時代でした。

    このような体制を大政翼賛体制と言います。

    1940年(昭和15年)10月に

    国民統合組織として大政翼賛会が出来ました。

    既成政党を解散し、各種報国会や大日本婦人会を傘下にして、

    国民全てで天皇を中心にして戦争に向かう体制を取ったのです。

    言論の統制も厳しかった為、

    本来民主的な立場にいるはずの人たちや、

    敗戦後民主的な活動をした人たちが

    当時は大東亜戦争を賛美する文章を書いていました。

    一旦全体主義になってしまうと、

    異なる意見は徹底的に弾圧されますから

    仕方がないことなのでしょう。

    現代社会、特に最近は気をつけなければならないことです。

     

    ●大東亜文学者大会 大会宣言      

     昭和17年11月5日(日本学芸新聞 昭和17年11月15日)

     ・・・・大東亜戦争の勃発はわれ等

     東洋の全文学者に根源よりの奮起を促し、

     東洋再建の牢固たる決意を齎(もたら)したり・・・・

     温かき親愛の下に東洋の大生命を

     世界に顕揚すべく鋭意実行を期す・・・・

     しかしてこれが成否はひとえに

     大東亜戦の勝利にかかれり、

     われ等アジアの全文学者、

     日本を先陣とし、生死を一にして

     偉大なる日の東洋に来らんがため力を尽さむ。

     

    ●詩人 佐藤春夫の詩「大東亜戦史序曲」

     天の一方、天孫の再臨の聖地のあたり

     皇道の明星ありて世紀の朝にかがやき

     大東亜に愛の秩序の暁を約するを

     

    ●三好達治の詩

     大東亜共栄圏の 青空は僕らの空

     日の丸ひるがへる空

     何人の汚すもゆるさず

     大東亜共栄圏の 青空は僕らの空

     

    ●浅沼稲次郎 論文   戦後の社会党委員長  

       「実業之世界」1940年9月号   

     ・・・・今や事変は満三年を経過し、

     御稜威(注:天皇の威光)の下、

     皇軍将兵諸士の奮闘努力によって戦果非常にあがり、

     汪精衛を中心とする更生支那の建設を見、

     東亜新秩序建設その緒につき、

     国民の一人として感謝感激に耐へざる所であるが、

     昨年9月欧州第2次動乱の突発、

     独伊の圧倒的勝利は旧き欧州秩序をして

     新秩序に置きかへらしめ、

     世界の歴史は特に転換せしめられんとして居る。

     そして欧州情勢の進展は、

     東亜新秩序の建設に当っても幾度か神機が到来しつつある。

     いまこそ、我が日本は東亜新秩序建設を

     阻止する一切の勢力の亜細亜より退陣を求め。

     大東亜共栄圏確立に邁進すべきである。

     

    これに対して個人的日記ですが批判的なことを書いている人もいます。

     

    ●永井荷風 日記「断腸亭日乗」 

    1941年6月15日

     ・・・・今回の戦争は日本軍の

     張作霖暗殺及び満州侵略に始まる。

     日本軍は暴支鷹懲と称して支那の領土を侵略し始めしが、

     長期戦争に窮し果て俄かに名目を変じて

     聖戦と称する無意味な語を用ひ出したり。

     欧州戦乱以降英軍振はざるに乗じ、

     日本政府は独伊の旗下に随従し

     南洋進出を企図するに至れるなり。

     然れどもこれは無知の軍人ら猛悪なる壮士らの

     企るところにして一般人民の喜ぶに非らず。

    注:暴支鷹懲-ぼうしようちょう、

      暴戻な支那を懲らしめるという意味

     

    永井荷風は個人的な日記だから

    批判的な事を書けたのかもしれません。

    思ったことを口に出せないくらい世の中でした。

    なんとなく発言しづらい・・・・

    まだ大丈夫だと思っている内に・・・・

    いざ反対しようとしたら、

    法律でがんじがらめになっていて、

    挙国一致の大政翼賛社会になっていたのです。

    最近の日本を見ていると、

    憲法改正、日の丸・君が代の強制、盗聴法、・・・・

    丁度その頃の雰囲気になっているような気もしないではありません。

     

    「東南アジアへの南進政策」

    1940年ヨーロッパではドイツの攻撃で

    フランスとオランダが降伏しました。

    その時をチャンスとして日本の南進政策が始まりました。

    オランダへは外務大臣の有田八郎が蘭印

    (オランダ領インド、インドネシアの事)ノ資源を

    日本に供給する事を要求しました。

    これに対しては在オランダ公使の

    石射猪太郎が反対を唱えています。

     

    ●石射公使の反対意見

     オランダが国家存亡の関頭にたちつつある際、

     貴殿御訓令の執行は、 

     あたかも臨終の床に

     借金の催促に行きたるの感あり・・・・

     

    しかし、オランダは結局重要戦略物資13品目を

    日本に供給する事を受け入れました。

    フランスに対しては、

    参謀本部は中国への補給路を遮断するために、

    仏印北部(フランス領インドシナ、ベトナムの事)に

    強引に武力進駐をしました。

    そして1941年7月、

    仏印から中国への輸送停止(援蒋ルートの遮断)、

    日本軍の通過と飛行場使用をフランスに認めさせました。

    さらにイギリスにたいしても

    対中国援助を中止させました。

     

    ●援蒋ルート

     侵略をした日本軍と戦っていた

     蒋介石率いる国民党軍を支援するため

     欧米各国は通称「援蒋ルート」と呼ばれたル-トで

     中国に多くの物資を送っていました。

     日本軍としてはそのル-トを遮断する事が

     南方進出の目的の一つでした。

     援蒋ルートは色々ありました

     ◎ベトナムから  

     ◎ビルマから  

     ◎香港から

     

    「ABCD包囲網 」

    日本の南進政策に対し各国は厳しく対処し、

    通商条約、石油条約の破棄、

    或いは日本資産の凍結等の処置をとりました。

    当時の日本人は、せっかく善意で大東亜の事を考えているのに、

    各国から不当な圧迫を受けていると思い、

    だから戦争になったと主張しました。

    日本に経済制裁をした主要な国は、

    アメリカ(A)、イギリス(B)、中国(C)、オランダ(D)の国でしたので、

    頭文字をとってABCD包囲網と呼びました。

    現代でも太平洋戦争の原因はABCD包囲だと考えている人がいます。

    しかしアメリカは1941年8月まで

    ガソリン類を日本に輸出しているので、

    日本の南進政策と戦争開始決定の方が

    早く決まっていたようです。

     

    「戦争開始」

    1941年9月6日、政府、大本営首脳が

    天皇臨席の御前会議で「帝国国策遂行要領」が決まりました。

     

    ●帝国国策遂行要領

     帝国は現下の急迫せる情勢

     特に米英蘭等各国のとれる対日工作、 

     ソ連の情勢及び帝国国力の弾発性(弾力性)等に鑑み、

     「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」中、

     南方に対する施策を左記より遂行す

     1 帝国は自存自衛を全うするため、

        対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に

        概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す。

        以下省略

     

    10月29日、

    参謀総長裁可のもとに

    「対英米蘭戦争帝国陸軍作戦計画」が完成し、

    11月5日の御前会議で決定されました。

    12月1日の御前会議で開戦が決定され、

    大海命が聯合艦隊司令長官山本五十六に対し出されました。

      注:天皇から海軍に対する直接命令、陸軍へは大陸命

     1 帝国は、12月上旬を期して、米英蘭に対し開戦する事を決す

     2   聯合艦隊司令長官は、

       在東洋敵艦隊及び航空兵力を撃滅するとともに、

          敵艦隊東洋方面に来攻せば、これを攻撃すべし

     3 聯合艦隊司令長官は、南方軍総司令部と協同して、

        速やかに東亜における米英蘭の主要根拠地を攻撃し、

        南方要塞を占有確保すべし

     

    翌、12月2日、

    大本営は「ニイタカヤマノボレ1208」という

    戦争開始の暗号電報を全軍に打電しました。

    12月8日に攻撃を開始しろ、と言う意味です。

     

    海南島から出発した侘美宏少将率いる侘美支隊は、

    12月8日早朝2時15分にマレ-半島のコタバル攻撃を開始し、

    イギリス軍との戦闘の中で上陸を開始しました。

      注:侘美支隊は第25軍第18師団(久留米)

        第56連隊を主力とする部隊です。

     

    コタバル上陸はハワイの真珠湾攻撃より1時間前です。

    ですから戦争開始は一般に言われている

    ハワイではなくマレ-半島だったのです。

     

    2日後の12月10日、

    大本営政府連絡会議は、

    この戦争をこれ以降の中国地域の戦争も含めて

    「大東亜戦争」と呼ぶ事に決めました。

    ●12月12日、内閣情報局の説明

     大東亜戦争と称するは、

     大東亜新秩序建設を目的とする

     戦争なることを意味するものにして、

     戦争地域を大東亜に限定する意味にあらず

     

    東南アジアを攻撃した日本軍の体制は次の通りです

     ◎フィリピン    第14軍 司令官 本間雅晴中将

     ◎ビルマ         第15軍 司令官 飯田祥二郎中将

     ◎インドネシア   第16軍 司令官 今村均中将

     ◎香港       第23軍 司令官 酒井隆中将

     ◎マレ-シア    第25軍 司令官 山下奉文中将

     

    ●1941年12月8日の開戦日の日本軍の動きを時間経過で見てみます。

    2時15分  侘美支隊  マレ-半島コタバルに上陸開始

    3時19分  機動部隊(南雲艦隊・南雲忠一中将) 真珠湾攻撃開始

    4時    近衛師団吉田支隊  バンコック南方海岸に上陸開始

    4時12分  第5師団の一部  タイ南部のシンゴラ海岸に上陸開始

    5時38分    シンガポ-ルのセレタ-飛行場を空襲

    7時46分  海軍第4航空戦隊   ミンダナオ島ダバオを空襲

    7時50分  海軍陸戦隊   ルソン海峡バタ-ンに上陸

    8時    第23軍   香港の攻撃開始

     

    「大東亜の国々と占領目的」

    戦争開始前の1941年11月20日には、

    開戦前にもかかわらず大本営政府連絡会議では

    早くも「南方占領地行政実施要領」が決定されました。

    ●実施要領の要点

     1 占領地に対しては差し当たり軍政を実施し治安を回復する

     2 重要国防資源の急速獲得

     3 作戦軍の自活確保

     

    この内容を言い変えると、

    国防資源の獲得が目的で、

    その為に早く治安を回復し、

    さらに軍隊は本国を頼らずに

    現地で何とか自活しろ・・・・ということです。 

    そしてその後に続く文章には、

    この為に現地住民に重圧がかかっても我慢させる、

    住民の要求は占領目的の範囲内を限度とし、

    独立運動を早めに誘発する事は避ける・・・・と

    書かれています。

    占領地における陸軍と海軍の分担も決まっていました。

     

    ●1941年11月26日付「占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定」

     陸軍担当地域  香港、フィリピン、英領マラヤ、

             英領ボルネオ、ビルマ、蘭印スマトラ、ジャワ

     海軍担当地域  その外郭地域

     

    当面の目標としては大きな目的の

    重要国防資源の需要を満たすように戦争を遂行し、

    かつ「大東亜共栄圏自給自足体制を確立」することを目標に、

    南方を甲地域と乙地域に分けました。

     

    ●1941年12月12日 関係大臣会議決定「南方経済対策要綱」

     甲地域(軍政を実施するところ) フィリピン、

         英領マラヤ、英領ボルネオ、蘭印(インドネシア)

     乙地域(現地政権と協同するところ) 仏印(ベトナム)、タイ

     

    1942年1月、

    東条英機首相は帝国議会で演説し「大東亜戦争指導要綱」を発表しました。

    ●大東亜戦指導要綱 1942年1月22日 朝日新聞

     ・・・・大東亜戦争指導の要綱は、

     大東亜における戦略拠点を確保するとともに、

     重要資源地域を我が管制下に収め、

     もって我が戦力を拡充しつつ・・・・

     米英両国を屈服せしむるまで戦い抜く・・・

     大東亜防衛のため絶対必要なる地域は、

     帝国自らこれを把握措置し、

     その他の地域に関しては、各民族の伝統文化に応じ、

     戦局の進展に伴いそれぞれ適当なる措置に出づる・・・・

     比国(フィリピン)に関しては、将来同島の民衆にして、

     帝国の真意を了解し「大東亜共栄圏」建設の

     一翼として協力し来る場合においては、

     帝国は欣然として彼らに独立の栄誉を与えんとするものである・・・・

     

    1942年10月12日の大本営陸軍部の

    「南方占領地各地域別統治要綱」では、

    マラヤ、スマトラは資源だけではなく、

    軍事的にも必要であり「南方経営の核心地帯」とされました。

     マラヤ      経済・交通の中枢

     ビルマ      重要資源の一部補給源、対インド政策の謀略の基地

     フィリピン    重要資源の一部補給源

     北ボルネオ    重要資源特に石油の一部補給源

     ジャワ      重要国防資源、一部補給源、

              南経済自給の為交流資源の供給地

     

    オランダ領インドは翌年独立容認に変更され、

    ビルマとフィリピンは1943年8月に形だけの独立が許されました。

    1945年3月にはアンナン・トンキン(ベトナム)、

    ラオス、カンボジアの3国を独立させました。

     

    「大東亜会議」

    1943年11月5日、東京で大東亜共栄圏に参加している

    国々の首脳を集めて2日間の会議が開かれました。

    今で言うとサミットのようなものです。

    日本が勝手に侵略して作った傀儡政権ばかりで、

    世界に向かって存在と成果をアピ-ルする事が目的だったようです。

    ●参加した国は

     大日本帝国    総理大臣     東条英機

     満州国      国務総理     超景恵

     中華民国(南京)   行政院長     汪兆銘

        注:蒋介石の国民政府とは別に日本が作った傀儡政権です

     タイ国      内閣総理大臣名代 ワンワイタヤコ-ン

     フィリピン共和国 大統領      ホセ・ラウレル

     ビルマ国     内閣総理大臣   バ-・モ-

     オブザ-バ-

      自由インド仮政府  主席  S・チャンドラ・ボ-ス

     

    会議の後、日本政府が用意した「大東亜共同宣言」が発表されました。

    ●大東亜共同宣言 (原文カナ)

     1 大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保、

        道義に基づく共存共栄の秩序を建設す

     1   大東亜各国は相互に自主独立を尊重し

       互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す

     1   大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し

       各民族の創造性を伸暢し大東亜の文化を昴揚す

     1 大東亜各国は互恵の下、緊密に提携し

        其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す

     1 大東亜各国は万邦との交誼を篤うし

        人種的差別を撤廃し普く文化を交流し進んで

        資源を解放し以って世界の進軍に貢献す

     

    非常に理想的な言葉が並んでいます。

    実際に占領地ではどのような事があったのでしょうか。

    これ以降は戦争の経緯より

    戦争中に起きた事件中心に書いていきます。

     

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