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キーワード「慰安婦募集広告」を含む投稿一覧

  • 地域別・マレ-シア、シンガポ-ル、インドネシア

    2020/08/30
    11:27

    「マレ-シア」

    1992年10月、

    カトマンズで「日本の戦争犯罪国際調査委員会」が開かれ、

    そこに出席したマレ-シア与党

    「マレ-国民組織」のムスタファ・ヤ-コブは、

    帰国後新聞などを通じて情報提供を呼びかけました。

    その結果3,500人から回答が寄せられ、

    その多くは日本軍による虐殺、

    虐待や強制連行だったといわれています。

    その中から慰安婦にさせられたと

    5人の女性が訴え出ました。

    同じころやはり与党の「マレ-シア華人協会」も

    調査を開始し、

    3人が名乗り出、

    12人の存在が明らかになりました。

    しかしマレ-シアの日本大使館や

    マレ-シア政府からの圧力(?)で調査は中断されました。

    ですからマレ-シアにおいては調査が進んでいないのですが、

     

    訴えた女性からの手紙を入手した

    早稲田大学の中原道子教授の聞き取り調査から

    2人の証言を書きます。

     

    ● Pさん 当時15歳 スランゴ-ル州のスルダンに住んでいた。

     1942年4月、昼食の支度中に

     押し入った日本兵によってつかまった。

     家族は抵抗して怪我をした。

     弟はトラックで連行され2度と戻らなかった。

     Pさんは、台所で両親の目の前で次々と強姦された。

     まだ初潮前だった。

     それからトラックで連行され、

     クアラルンプ-ルのアンパンにあった

     大きな家に連れ込まれた。

     怪我と強姦で頭からも性器からも出血していた。

     そこで1ケ月ほど毎日何人もの兵隊に強姦された。

     その後ジャラン・プ-ドゥの

     タイ・セン・ホテルに移され毎日強姦された。

     さらにゴ・カンと言う、

     日本人は六軒屋と呼んでいた慰安所で

     日本の敗戦まで強姦され続けた。

     戦後村に帰ると「汚らしい裏切り者」と唾をかけられた。

     戦後は何も語らずにそっと養女と暮らしていたが、

     呼びかけで手紙を書いた。

     字を書けないために、

     始めて養女に打ち明けて代筆してもらった。

     

    ● ロザ・リン・ソウさん 

       1994年11月、

       マレ-シアで初めて実名で名乗り出た。

     離婚していて、2人の子どもがいた。

     1人はまだ乳飲み子だった。

     1943年、夜中に日本兵の手で引きずり出された。

     子どもはもぎ取られた。

     トラックでビルマ街の

     トンロック・ホテルに連行された。

     ホテルには日本軍慰安所の看板がかかっていた。

     その慰安所には30人ほどの

     女性が閉じ込められていた。

     女性たちは1日昼と夜の2回食事を与えられた。

     忙しい時は1日30人もの兵隊に強姦された。

     ベッドに横たわったまま、服を着る暇もなかった。

     妊娠した女性はいつの間にか

     姿が見えなくなるので、

     殺されるらしいという噂だった。

     ロザ・リンさんは妊娠したが

     必死に頼み込んで病院に行った。

     女の子を出産した後、

     慰安所には戻らずに終戦を迎えた。

     

    マレ-半島で慰安所の開設、管理、募集を

    担当したのは兵站部でした。

    第25軍兵站に勤務していた「B」氏からの聞き取りです。

     

    ● B氏の証言

     1942年1月2日、マレ-半島の上陸地点

     シンゴラにいた兵站の将校以下3名から

     バンコク出張を命じられた。

     任務の一つは慰安婦募集だった。

     バンコクで日本企業の駐在員に頼んで

     23人の娼婦を集め、

     性病検査で合格した3人を連れて帰り、

     2月始めにハジャイとシンゴラに慰安所を開設した。

     3月31日にペラ州タイピンに入ると、

     先行していた兵站支部が

     将校用と兵士用の慰安所を開設していた。

     5月23日、クアラルンプ-ルに入った。

     「六軒屋(華僑の家6件)」と「つたのや」をはじめてとして

     16軒の慰安所を開設した。

     

    「シンガポ-ル」

    シンガポ-ルでは日本軍による華人虐殺が一段落した後、

      (大東亜共栄圏の泰緬鉄道・マレ-半島シンガポ-ルに

      詳しく書いてあります)

    1942年3月5日の「昭南日報」に慰安婦募集の広告が出ました。

    昭南日報は日本軍が現地新聞を接収して

    1942年2月21日に刊行を始めた中国語の新聞で、

    完全に日本軍の宣伝用新聞です。

    ●  広告

      各民族(各種)の接待婦数百名を募集する。

      年齢17歳から28歳ごろまでの者は皆応募してよい。

      採用された者は、

      毎月の報酬少なくとも150ドル(毎月休息1日)

      このほか応募の時に本人に3ドル、

      その紹介者には2ドルを与える。

      応募受付はビ-チ・ロ-ドのラッフルズ・ホテルに設ける。

      娼婦(暗業)の経験者も応募してよい。

       注:広告主は不明ですが、

         ラッスルズホテルは

         軍が管理する将校用のホテルで、

         しかも新聞が軍の宣伝用ですか ら、

         軍直接の計画と見て良いとおもいます。

     

    シンガポ-ルの慰安所については、

    パン・ミンイエン氏の

    レポ-トが1993年に発表されました。

    (Straits Times 1993.8.30)

    そのレポ-トには下記の5ケ所に

    慰安所があったと書かれています。

     ◎ブクム島  

      インドネシア人慰安婦がいて、

      汚れた身体で故郷に帰るよりは

      外国で死んだほうが良いと言っていた。

       注:ここはシンガポ-ル島から

         南方約5Kmにある島で、   

         海軍が使用していた可能性があります。

     ◎セント-サ島  

      現在は島全体がリゾ-トアイランドになっている。

     ◎ケーンヒル・ロード  

      現在ケーンヒルホテルが建っている一角に 

      有刺鉄線で囲まれた慰安所があった。 

      ここは多くが朝鮮人で、

      日本人のような服を着ていた。

     ◎タンジョン・カトン・ロ-ド

     ◎ブキャット・パソ-  

      現在の晋江会館が慰安所として使われていた。

     

    「インドネシア」

    インドネシアでも慰安所、強姦所・・・・等

    色々なタイプの性暴力が報告されています。

    他の例と同じで、

    慰安婦だった女性がなかなか

    名乗り出ないため長い間はっきりしませんでした。

    1992年7月、地元日刊紙「スワラ・ムルデカ」が、

    元慰安婦「トウミナ」さんの悲惨な経験を

    発表したのが初めてです。

    その後調査研究が進みました。

    1995年8月にマルディエムさんが

    日本の民間団体のフォ-ラムで初めて証言しました。

    地元のインドネシア兵補協会

    (現、ジョグジャカルタ法律扶助協会LBH)が

    全国134支部を通じて

    慰安婦被害者の登録作業をしていましたが、

    1996年3月に終了し、

    22,234人の登録を発表しました。

    もう亡くなった人もいるでしょうし、

    恥ずかしくて名乗り出ない人もいるでしょうから、

    実際には数倍の女性が被害にあったかもしれません。

    英国の都南アジア司令官の

    BC級裁判の犯罪捜査ファイルから少し見てみます。

     

    ● 1943年7月に

     ジャワのカリジャティ飛行場近くに慰安所が開設され、  

     常時15人の少女が日本兵の相手をさせられ、  

     毎週性病検査を受けていたが、

     病気になると新しい少女と入れ替えた。

    ● ジャリのマランで1943年11月に

     17歳から30歳までの沢山のユ-ラシアン、

     メナド、ジャワの女性たちが家から連行され、  

     医師の検査を受けてから

     スプレンディッドホテル、

     プレイスホテルやサマ-ンウェグの

     ヨ-ロッパ人の家に設けられた慰安所に入れられた。

    ● 1944年1月25日、

     マゲラン近くの民間人抑留所から

     16歳から20歳までの少女6人と、

     既婚女性7人が連行され  

     マゲランの慰安所に入れられた。

     

    最近発見された資料もあります。

    吉見義明氏と内海愛子氏が

    アメリカ公文書館や

    オ-ストラリア戦争記念館で収集したものです。

     

    その資料はオランダ軍情報機関・NEFIS

    (本部、オ-ストラリアのブリスベン)が

    作成した「NEFIS訊問報告」です。

    その中から日本軍慰安婦に関する部分を少し転用します。

     

    ● NEFIS訊問報告 1944年10月29日

       業者に地元女性の選別を認める

       許可証を憲兵隊が発行していた例

     1943年に、ソロ(中ジャワ)で、

     徴募された多くの村娘たちが、

     日本軍将校用として、

     ルッシェホテルにいるのが目撃された。

     ソロのある華人は、

     村長たちAssistant Wedanasを通じて村々から

     少女達を選別することを保証する許可証を

     憲兵隊から交付されていたと述べた。

     少女たちはゾロで1日1ギルダ-の仕事だと言われて、

     誘われたが、彼女たちは一旦そこに行くと

     2度と帰ってこなかった。・・・・ 

      (情報源:1944年5月から8月の間に。

      ビアク島、ヌムフォル島、他で米軍により

      解放された20名のジャワ人で、

      全員兵補だった)

    ● NEFIS訊問報告 1944年12月31日

       日本軍が慰安所に直接関与していた例

     50名の日本人女性が日本海軍の軍人、

     軍属専用慰安婦として、

     スバラヤ(東ジャワ)から船で運ばれてきた。

     彼女たちはチュン橋付近の長い低層の建物に

     住まわされていたが、

     この建物は民間人が入るのを阻止し、

     女性たちが逃げるのを防ぐため、

     鉄条網で囲まれ、海軍の警備兵がいた。

      (情報源:ニビシから マレ-人、

      15歳男性、沈没した日本船から生還)

    ● NEFIS訊問報告  1945年5月5日 

        拉致された例            

     1944年11月、テルナタ島占領後間もなく、

     日本人は売春を目的とする若い女性たちの

     集積・配分センタ-を作った。

     2つの大きな売春宿が作られ、

     メナド人、ジャワ人、華人、

     ユ-ラシアンを含む様々な人種の女性たちが、

     ハルマヘラ、アンポンやその他の地域へ送られた。

     地元の若い女性は強制的に徴集された。

     独身の女性だけがふさわしいとされた。

     

    川田文子氏はインドネシアにおける

    慰安所の形態を次の6つに分類しています。

     1. 人口の過密なジャワ島から他の島々に

      連行された女性が監禁された慰安所

     2. 日本軍駐屯地近くに住む女性たちが

      軍人に拉致されるなどして作られた慰安所

     3. 営外居住の将校らが女性を自分の宿舎に囲い、

      その将校官舎を慰安所として兼用した

     4. 日本の植民地であった朝鮮、台湾の

      女性が連行され監禁された慰安所

     5. オランダ人抑留所から

      若い女性が連行され監禁された慰安所

     6. インドネシア女性がフィリピン、ビルマ、

      シンガポ-ルなど他の国に連行され、

      監禁された慰安所

     

    アンポンに配属された将校、坂部康正の記録では、

    戦後インドネシアに残された

    日本人混血児は、

    30,000人と称せらると書かれています。

     

    インドネシアでは珍しくヨ-ロッパ人女性が

    慰安婦にされていますので、

    次の項目で単独に書きます。

     

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