南京ではあまりにもレイプ事件が多く発生したため現地軍は困っていました。
そのために慰安所の設置が急がれたのです。
資料を見ていただきます。
「慰安所の設置に関して」
●1937年12月11日 飯沼守上海派遣軍参謀長 日記
・・・慰安所の件方面軍より書類来り実施を取計ふ・・・
●同年12月19日 同上日記
・・・迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す・・・
●12月28日 上村利道上海派遣軍参謀副長 日記
・・・軍隊の非違愈々多きが如し。
(参謀部)第二課をして各隊将校会報を招集し
参謀長より厳戒する如く手続きをなさしむ・・・
南京慰安所の開設に就いて第二課案を審議す・・・
中支那派遣軍の最後の総司令官だった岡村寧次大将が
戦後講演した内容にも強姦の事が出て来ます。
●岡村寧次 1954年4月18日 偕行社での講演
・・・・軍司令官着任後まず某師団長を訪問したところ、
同師団長は「私の師団の将兵は戦闘第一主義に徹し、
勇剛絶倫なるも掠奪、強姦等の非行を軽視し、
団結心強きも排他心も強い。
南京事件は前師団長時代のことであるが
相当暴行をしたことは確実である云々」と、公平率直に報告した。・・・・・
当時各師団は数十名の慰安婦を同行していた。
兵站の重要なる一機関になっているが、
強姦予防のために上司も黙認という有様であったのである。
日露戦争時代には慰安婦の同行は無かったが強姦も無かったのである。
我が陸軍では、昭和7年春第一次上海事変の際、
海軍に倣って、公然慰安婦を設けたのが最初である。
その当時極めて少数であったが、この慰安婦同行を始めてからは、
全くこの犯罪が無くなったのを記憶している。
然るに昭和12年の今日慰安婦を同行しても、
なお多くの強姦する者を続出するのである。・・・・
注:この講演の内容は従軍慰安婦が軍の関与であるとはっきり認めている内容です