このシリ-ズでは防疫給水部隊の事を書いているので、
少し外れるかも知れませんが、
関連があることなので書きます。
人体実験は731部隊を始めとした
防疫給水部隊だけで行なわれたわけではありません。
前線や駐屯地にあった病院でもかなり行なわれています。
中国側の調査によると
生体解剖、殺害直後の解剖、人体実験について、
114件の事例があり、被害者は214人になっています。
調査が進めばもっと増えると思われますし、
中国だけではなく、南方の戦線でもかなりあるはずです。
● 中国側の調査に登場する陸軍病院の名前は
ハルビン陸軍病院 満州医科大学 掖河陸軍病院
密山陸軍病院 虎林陸軍病院 富錦陸軍病
新京第二陸軍病院 承徳陸軍病院 天津陸軍病院
保定陸軍病院 済南陸軍病院 原平鎮陸軍病院
大同陸軍病院 東寧第一陸軍病院 その他
● 証言 湯浅 謙 陸軍軍医 1916年生れ
私は東京の下町生れで
慈恵医大を1941年に卒業しました。
専門は内科です。
翌年の2月には、山西省の路安に派遣され、
そこの陸軍軍医として、
伝染病科と病理実験を担当することになったのです。
その陸軍病院は現地の中学校を接収し、
病院長以下80名位の軍医、看護婦、衛生兵で、
100名近くの日本軍傷病兵を収容して治療していました。
忘れもしない1942年3月中旬のこと、
病院長から「今日は手術演習があるから来い」と言われました・・・・
解剖の前、隣にいた平野中尉に
「一体この人たちは、死ななけりゃならないことを
しているのでしょうか」と聞いてしまったのです。
すると彼は「パロ(八路軍)は、皆殺しさ」と
笑いながら笑いながら答えたのです・・・・
手術が始るとすぐに盲腸を取りました。
正常な盲腸は腫れていないから
小さくて取りにくく、1回、2回切っても駄目で,
3回切ってやっとミミズのような
ひゅるひゅるとした盲腸を見付けたというのを覚えています。
それから腕を切る。
切断だとスパッと切るんですが、
血がぴゅ-っと噴き出す。
それを止めておいて、
後でノコギリで骨を切断するのです。
そうやって足も切る。
また弾丸の摘出や腸をつなぐ練習をする。
10人ぐらいの軍医でやりました。
そして胸の方は胸部貫通銃創が課題です。
出血で窒息しますから
切開器をぐっと喉頭部に刺すと、
ぱ-っと空気とともに血が吹き出す。
真っ赤な血です。
気管を鳥の毛でもって払い、
カニュ-レを入れると、
喉がひゅろひゅろいいます。
気管切開の練習ですね。
そうしているうちに手術は終って
部隊の軍医たちや看護婦は帰るわけです。
お百姓さん風の男はもう息が絶えていました。
それを衛生兵が、あっちこっち穴を掘って放り込みました。
もう1人はまだハアハアと最後の息をしていました。
それで病院長が心臓内注射の練習だと言って、
心臓へ注射器で空気を入れる。
空気を入れてもまだハアハアと呼吸が止らないんです。
見ているわけにはいかないので、
兵隊に教えられて全身麻酔に使った
クロ-ルエチルを2~3cc注射すると死んでしまいました。
2回目の手術演習では、
憲兵隊からもらい下げてきた
2人の中国人を生体解剖しました。
演習の課題としては、腸管の切開と縫合、
喉頭部の気管切開、睾丸の摘出などをやりました。
生きている中国人を殺したのです・・・・
こうして私は3年6ケ月の間、7回にわたって
14人の中国人を生体解剖し、殺害しました。
注:湯浅さんとは会合でお会いしたことがあります。
泣きながら告白をしていた姿が印象に残っています。
● 村山三千子さん 陸軍看護婦 東京新聞2006年8月13日
1943年10月、ソ連国境に近い
旧満州の東寧第一陸軍病院に
医師と衛生兵、看護婦が集められた。
手足を鎖で縛られた20代の中国青年2人を、
憲兵が手術室の前まで連行してきた。
いがぐり頭、黒い中国服。共産党の青年だと直感した。
2人は手術台を見ても毅然としていた。
医師は青年に麻酔をかがせて意識を失わせ、
生きたまま頭から足の先まで解剖していった。
村山さんは助手を務めた。・・・・
「言葉に出来ないくらいの後悔があります。
でもその時は、憎しみと敵対心だけでした」
● 張丕卿 中国人で満州医科大学の解剖室で働いていた
日本人は解剖後いつもそのままの状態で帰ってしまうため、
一切のあとかたづけは翌日出勤後、
私や劉学棋、西村某らが行なった。
そのとき私の眼に映ったのは、
被害者は頭部がのこぎりで切り開かれ大脳を摘出され、
背部中央にものこぎりで深い溝がつき脊髄は取り出され,
胸腔も腹部も開いて心臓、肝臓、脾臓、肺、腎臓、腸も
すべて研究材料として一部を切り取られており、
両眼さえもえぐり出されて、
全身のうち1ケ所として完全な部分がなくなったありさまだった。
死体の上、解剖台上、床のいたるところ
その跡も生々しく鮮血がしたたり、
皮膚の色も硬さも生きている人間と変わるところがなかった・・・・
● 渡辺はつ 看護婦 1993年証言 海南島での生体解剖について
・・・・海南島の定安の同仁会の診療所に勤務しました・・・・
海軍からの伝令が届きました。
私たちが案内されたのは、
大学の講義教室のように席が段々になっていて、
中央に演壇がある広い部屋でした。
演壇の上に30~40歳ぐらいの2人の“匪賊”の男性が、
戸板のようなものの上に大の字に寝かされていたのです。
段々になっている席には100人程の人が座っていました・・・・
生体解剖でした。
2人の匪賊のうちの1人が生きたまま解剖されたのです。
「アイゴ-、アイゴ-」という叫び声が聞えてきました。
麻酔もせずに軍医は、
戸板に縛りつけた“匪賊”をメスで切っていきました。
その体から、胃や他の内臓を取り出していったのです。
縛られている体がピクピクしていたのを覚えています。
「アイゴ-、アイゴ-」という叫び声は強烈でした。
その朝鮮人は30分ぐらい
生きていたのではないかと思います。
何が目的だったかわかりませんが、
こうしたことは前任地でもあったと聞いています。