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  • キーワード「松井石根」を含む投稿一覧

キーワード「松井石根」を含む投稿一覧

  • 南京軍事法廷 2

    2021/02/20
    10:33

    この南京の裁判の特徴は中国政府の寛大政策にあります。

    前項にも書きましたが「怨みに報いるに徳をもってす」という考えを

    実行したことにあります。

    政府の司法行政部が提出した戦犯は

    調査の段階でかなり絞って少なめにし、それでも59名でした。

    結局それらの戦犯の氏名も公表せず

    裁判にかけたのは上記4人だけだったのです。

     

    これだけ大変な事件を起こした場合

    もし逆に日本やアメリカだったらどうだったでしょうか?

    もっと多くの処刑が行われたでしょう。

    象徴というか見せしめのために少数に絞って起訴するならば、

    当然事件時点の日本軍総責任者の松井石根が

    裁かれなければならないでしょう。

    しかし松井は東京裁判での調べが始まっているし、

    アメリカ軍との協力関係もあって見送られたのでした。

     

    当時中国の新聞には

    松井の南京への引渡しを求める主張が掲載されました。

     

    ● 中央日報 社説「松井石根は南京で処罰すべきである」

                1946年7月29日

     南京大虐殺のような血の負債を、

     一度も清算できず、

     あるいはただ東京戦犯裁判において清算するだけで、

     南京で裁くことができないのならば、

     死んだ犠牲者たちの怨嗟の声を鎮めることはできない。

     たとえ日本がすでに武器を捨てて投降したにせよ、

     一種の象徴的な清算手段をとらなければならない。

     その適切な清算方法は、

     被害国の南京において首謀者を公開裁判にかけ、

     公明正大に処罰することである。

     そうしなければならないのは、

     第一に南京大虐殺の首謀者が、

     南京市民の前で処刑されるのでなければ、

     虐殺され命を失った25万以上の同胞の

     天界の霊を慰めることができない。

     また犠牲者の家族、親戚、仲間の怒りを静めることができない。

     第二に、南京大虐殺の首謀者を

     我々の裁判官が主体となった南京軍事裁判で裁けなかったならば、

     抗日戦勝利の軍民の感慨は光輝のないものになってしまう。

     第三に、血の負債はもとより

     一つ一つの負債に対して返済を求める必要はないが、

     ただし象徴的な償いをさせなければ、

     すなわち松井石根が南京に来て

     南京大虐殺の血の負債もかなわないならば、

     異民族が今後も我々を惰弱とみて恐れないであろう。

     このことこそ最大の損失である。

     極悪の大罪の首魁を懲罰することによって、

     我々が決して異民族による大虐殺を

     甘受しない民族であることを表明し、

     首魁を直接懲罰できない我々の国家ではないことを表明する必要がある。

     

    100人斬り競争で有名な向井敏明と野田毅の起訴状も見てみます。

     

    [向井敏明と野田毅の起訴状]       

    向井敏明と野田毅は、ひとしく日本人であり、

    ともに敵第16師団富山大隊に服務していた。

    向井敏明は砲兵(歩兵砲)小隊長、野田毅は副官に任じた。

    “七七事変”(盧溝橋事件)後、

    被告らは部隊とともに中国に上陸、

    民国26年(1937年)12月5日、江蘇省句容県に入城の時、

    向井は我が中国人を89名、野田は78名を殺した。

    同年12月11日南京攻略戦の際、

    被告らは紫金山麓において、さらに150人を殺す競争をおこない、

    向井は106名、野田は105名を殺した。

    抗日戦勝利後、連合軍総司令部より逮捕、護送されて本法廷で審理する。

    右の事実は、敵従軍特派員の浅海・光本および浅海・鈴木らが

    目撃した状況を東京に電送し、各紙に連続して掲載、

    万人に報道し、勇壮を名誉とした。

    極東国際軍事法廷中国検察官事務所が押収した

    「東京日日新聞」によってその照合、考査が可能であり、

    同記事に掲載された被告らの写真とも符合している。

     

    南京の裁判について当時の朝日新聞報道を見てみます。

    ● 47年3月12日 見出し「谷中将に死刑判決」

     南京大虐殺事件の主犯としての責を問われた

     南京占領当時の第6師団長谷寿夫元中将は

     10日、国防部軍事法廷で死刑の判決を下された。

    ● 47年12月20日 見出し「南京虐殺者に死刑」

     南京大虐殺事件で110人斬り競争をした

     元中島部隊所属の小隊長向井敏明、元副官野田毅、

     それに300人斬りの田中軍吉元大尉の3戦犯は、

     18日南京軍事法廷でおのおの死刑を宣告された。

     南京虐殺事件の共犯として起訴された他の者は、

     特別反証を提出することができたが、

     この3戦犯は反証を提出できなかった。

     

    参考までに7ケ国によって行われたBC級裁判で、

    起訴された日本軍人と無罪判決について書きます。

    一番迷惑をかけた割には思ったほど起訴の人数は少なく、

    しかも40%近い軍人が無罪になっています・・・・

    やはり将来の友好と安全のために

    少人数を見せしめ的に処刑するといった政策のあらわれでしょう。

    この事実を私たち日本人は覚えておく必要があります。

    なお中華人民共和国はBC級裁判を行わず

    軍時裁判をしましたので枠外に書きました。

    国起訴の人数無罪数無罪率
    アメリカ145318812.9
    イギリス97811611.9
    オ-ストラリア94926728.1
    オランダ1038555.3
    フランス2303113.4
    フィリピン169116.5
    中国88335039.6

      注:中華人民共和国は撫順と太原で軍時裁判を行いました。

         起訴 収容1109名 無罪1017名 死刑0名 無罪率91.7%

      注:BC級裁判は日本国内では横浜だけですが、全部では60ケ所で開かれました。

     

    つづきを読む

  • 極東国際軍事裁判 3

    2020/10/09
    11:43

    1948年11月に判決が下されました。

    膨大な判決のうち

    南京事件に関するものを書きます。

     

    [判決文] 第八章 通例の戦争犯罪 

            11月11日 朗読

    1937年12月の初めに、

    松井の指揮する中支那派遣軍が

    南京市に接近すると、

    100万の住民の半分以上と、

    国際安全地帯を組織するために

    残留した少数のものを除いた

    中立国人の全部は、この市から避難した。

    中国軍は、この市を防衛するために、

    約5万の兵を残して撤退した。

    1937年12月12日の夜に、

    日本軍が南門に殺到するに至って、

    残留軍5万の大部分は、

    市の北門と西門から撤退した。

    中国兵のほとんど全部は、

    市を撤退するか、武器と軍服を捨てて

    国際安全地帯に避難したので、

    1937年12月13日の朝、

    日本軍が市に入ったときには、

    抵抗は一切なくなっていた。

    日本兵は市内に群がって

    さまざまな残虐行為を犯した。

    目撃者の一人によると、

    日本兵は市内を荒らし汚すために、

    まるで野蛮人の一団のように

    放たれたのであった。

    目撃者達によって、

    市内は捕らえられた獲物のように

    日本人の手中に帰したこと、

    同市は単に組織的な戦闘で

    占領されただけではなかったこと、

    戦いに勝った日本軍は、

    その獲物に飛びかかって、

    際限のない暴力を犯したことが語られた。

    兵隊は個々に、または2~3人の小さい集団で、

    全市内を歩きまわり、

    殺人・強姦・略奪・放火を行なった。

    そこには、なんの規律もなかった。

    多くの兵は酔っていた。

    それらしい徴発も口実もないのに、

    中国人の男女子供を無差別に殺しながら、

    兵は町を歩きまわり、

    遂には所によって大通りや裏通りに

    被害者の死体が散乱したほどであった。

    他の1人の証人によると、

    中国人は兎のように狩りたてられ、

    動くところを見られたものは誰でも射撃された。

    これらの無差別の殺人によって、

    日本側が市を占領した最初の2,3日の間に、

    少なくとも1万2000人の非戦闘員である

    中国人男女子供が死亡した。

    多くの強姦事件があった。

    犠牲者なり、それを護ろうとした

    家族なりが少しでも反抗すると、

    その罰としてしばしば殺されてしまった。

    幼い少女と老女さえも、

    市内で多数に強姦された。

    そして、これらの強姦に関連して、

    変態的な嗜虐的な行為の事例が多数あった。

    多数の婦女は、強姦されたのちに殺され、

    その死体は切断された。

    占領後の最初の1ケ月に、

    約2万の強姦事件が市内に発生した。

    日本兵は、欲しいものは何でも、住民から奪った。

    兵が道路で武器を持たない

    一般人を呼び止め、体を調べ、

    価値のあるものが何も見つからないと、

    これを射殺することが目撃された。

    非常に多くの住宅や商店が侵入され、掠奪された。

    掠奪された物資はトラックで運び去られた。

    日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、

    これらに放火したことがたびたびあった。

    最も重要な商店街である太平路が火事で焼かれ、

    さらに市の商業区域が

    一劃々々とあいついで焼き払われた。

    なんら理由らしいものもないのに、

    一般人の住宅を兵は焼き払った。

    このような放火は、数日後になると、

    一貫した計画に従っているように思われ、

    6週間も続いた。

    こうして、市内の約1/3が破壊された。

    男子の一般人に対する組織立った大量の殺戮は、

    中国兵が軍服を脱ぎ捨てて

    住民の中に混りこんでいるという口実で、

    指揮官らの許可と思われるものによって行われた。

    中国の一般人は一団にまとめられ、

    後ろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機

    関銃と銃剣によって、

    そこで集団ごとに殺害された。

    兵役年齢にあった中国人男子2万人は、

    こうして死んだことがわかっている。

    ドイツ政府は、その代表者(ラ-ベの事)から、

    「個人ではなく、全陸軍の、

    すなわち日本軍そのものの暴虐と犯罪行為」について

    報告を受けた。

    この報告の後のほうで、「日本軍」のことを

    「畜生のような集団」と形容している。

    城外の人々は、場内のものよりもややましであった。

    南京から200中国里以内のすべての部落は、

    大体おなじような状態にあった。 

           中略

    南京から避難していた一般人のうちで、

    5万7千人以上が追いつかれて収容された。

    収容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、

    遂には多数の者が死亡した。

    生き残った者のうちの多くは、

    機関銃と銃剣で殺された。

    中国兵の大きな幾団かが城外で

    武器を捨てて降伏した。

    かれらが降伏してから72時間のうちに、

    揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、

    かれらは集団的に射殺された。

    このようにして、

    右のような捕虜3万人以上が殺された。

    こうして虐殺されたところの、

    これらの捕虜について、

    裁判の真似事さえ行われなかった。

    後日の見積もりによれば、

    日本軍が占領してから最初の6週間に、

    南京とその周辺で殺害された

    一般人と捕虜の総数は、

    20万以上であったことが示されている。

    これらの見積もりが誇張でないことは、

    埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が

    15万5000人に及んだ事実によって証明されている。

    これらの団体はまた死体の大多数が

    後ろ手に縛られていたことを報じている。

    これらの数字は、日本軍によって、

    死体を焼き棄てられたり、

    揚子江に投げ込まれたり、

    またはその他の方法で処分されたりした

    人々を計算に入れていないのである。

    日本の大使館員は、陸軍の戦闘部隊とともに、

    南京へ入城した。

    12月14日に、一大使館員は、

    「陸軍は南京を手痛く攻撃する決心を

    なし居れるが、大使館員は

    其の行動を緩和せしめんとしつつあり」と

    南京国際安全地帯委員会に通告した。

    大使館員はまた委員に対して、

    同市を占領した当時、

    市内の秩序を維持するために、

    陸軍の指揮官によって配置された憲兵の数は、

    17名にすぎなかったことを知らせた。

    軍当局への抗議が少しも効果のないことが

    わかったときに、

    これらの大使館員は外国の宣教師たちに対して、

    宣教師たちの方で日本内地に

    実情を知れわたらせるように試み、

    それによって、

    日本政府が世論によって

    陸軍を抑制しないわけには行かなくなる

    ようにしてはどうかといった。     

    後略     

     

    [判決 第十章]  

    第十章 松井石根 昭和23年11月12日 朗読

        中支那方面軍松井石根と

        外務大臣広田弘毅が

        南京事件として死刑の判決を受けました。

        (要点のみ箇条書きに整理しました)

    ● 南京事件を実行した者と

     共同謀議であったかどうかについては

     裁判所は認定しない

    ● 南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、

     占領されたのは無抵抗の都市であった。

     それに続いて起こったのは、無力の市民に対して、

     日本の陸軍が犯した最も恐ろしい

     残虐行為の長期にわたる連続であった。

     日本軍人によって大量の虐殺・

     個人に対する殺害・強姦・掠奪

     及び放火が行われた。

    ● 残虐行為が広く行われたことは、

     日本人証人によって否定されたが、

     いろいろな国籍の、また疑いのない、  

     信憑性のある中立的証人の反対の証言は、

     圧倒的に有力である。

    ● この犯罪の修羅の騒ぎは、

     1937年12月13日に、こ

     の都市が占領されたときに始まり、  

     1938年2月お初めまでやまなかった。  

     この6~7週間の期間において、

     何千という婦人が強姦され、

     10万人以上の人々が殺害され、  

     無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。

    ● この恐ろしい出来事が最高潮にあったとき、

     すなわち12月17日に、

     松井は同市に入城し、  

     5日ないし7日の間滞在した。  

     自分自身の観察と幕僚の報告とによって、

     かれはどのようなことが起っていたか

     知っていたはずである。

    ● 本裁判所は、何が起こっていたかを

     松井が知っていたという

     充分な証拠があると認める。  

     これらの恐ろしい出来事を緩和するために、

     かれは何もしなかったし、  

     何かしたとしても、

     効果のあることを何もしなかった。

    ● 同市の占領の前に、

     かれは自分の軍隊に対して、

     行動を厳正にせよという命令を確かに出し、  

     その後さらに同じ趣旨の命令を出した。  

     現在わかっているように、

     またかれが知っていたはずであるように、  

     これらの命令はなんの効果もなかった。

    ● これらの出来事に対して

     責任を有する軍隊を、かれは指揮していた。  

     これらの出来事をかれは知っていた。  

     かれは自分の軍隊を統制し、

     南京の不幸な市民を保護することに

     義務を持っていたとともに、  

     その権限も持っていた。  

     この義務の履行を怠ったことについて、

     かれは犯罪的責任があると認めなければならない。

     

    判決文が言い渡された日の翌12日と13日に

    判決文の要旨が新聞に発表されましたが、

    その時の新聞記事です。

     

    ● 朝日新聞 11月12日      

     占領後の約一ヶ月の間に

     約二万の強姦事件が発生し、

     男子に対する大量殺人は、

     中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に

     混りこんでいるという口実で行われ、

     兵役年令にあった中国人男子二万人が

     こうして死んだほか

     捕虜3万人以上が殺された。

     後日の見積もりによれば、

     日本軍が占領してから最初の六週間に

     南京とその周辺で殺害された

     一般人と捕虜の総数は20万以上であった。

     武藤は、南京進撃の期間中松井とともにおり、

     この市の入城式と占領に参加した。

     世界で巻き起こされた世論の圧迫の結果として、

     日本政府は松井とその部下の将校

     約80名を召還したが、

     かれらは遂に処罰されなかった。

     

    ● 朝日新聞 13日から 

     松井石根大将の判決「南京の残虐行為/この1因で絞首刑」      

     中支那方面軍を率いて、

     かれは1937年12月13日に南京市を攻略した。

     修羅の騒ぎは、1937年12月13日に、

     この都市が占領されたときに始まり、

     1938年2月の初めまでやまなかった。

     この6,7週間の期間において、

     何千人という婦人が強姦され、

     10万以上の人々が殺害され、

     無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。

     これらの恐ろしい出来事が

     最高潮にあったときに、

     すなわち12月17日に、

     松井は同市に入城し、

     5日または7日の間滞在した。

       (中略)

     本裁判所は、何がおこっていたかを

     松井は知っていたという

     十分な証拠があると認める。

     これらの恐ろしい出来事を緩和するために

     効果のあることは何もしなかった。

     かれは自分の軍隊を統制し、

     南京の不幸な市民を保護する

     義務をもっていたとともに、

     その権限をもっていた。

     この義務の遂行を怠ったことについて、

     かれは犯罪的責任があると認めねばならぬ。

     

     

     

     

    つづきを読む

  • 第二次上海事変から全面戦へと拡大 1

    2020/09/04
    16:28

    大山中尉殺害事件は1937年8月9日です。

    その後事件はどのように拡大し、

    事変になったのか時間の流れで見ます。

    非常に手っ取り早く事が進むのがわかります。

     

    8月10日から書きます。

     

    ● 8月10日 

     呉海兵集団の呉第2特別陸戦隊が出航、

     13日から上海での戦闘開始

     

    ● 8月10日(同日)  

     海軍軍令部は「大山事件対処方針と時局処理方針」を決定

     

    「大山事件対処方針と時局処理方針」

    要旨

     大山事件の解決は将来この種事件の

     根絶を期する方針とし、

     左記要求事項の充足を目途として

     交渉するを要す。

     而して支那側当事者に於て

     解決実行に対し誠意を示さざるに於ては、

     実力を以て之を強制するも

     敢えて辞せざる決意あるを要す。

    要求事項

     1. 事件責任者の陳謝及処刑

     2. 将来に対する保障

    (1)停戦協定地区内に於ける

      保安隊員数、装備、駐屯地の制限

    (2)右地区に於ける陣地の防衛施設の撤去

    (3)右の実行を監視すべき日支兵団委員会の設置

    (4)排抗日の取締励行

     

    ● 8月10、

     軍令部や伏見宮総長から

     海軍省に陸兵派遣の要請が出されたが、

     米内海軍大臣は和平交渉が進行中のため

     陸軍派兵は見送る方針を表明した

     

    ● 8月12日 

     上記海軍の要求事項を受けて

     中国国民党は中央常任委員会を開催し、  

     蒋介石軍事委員会委員長は

     「承認することは不可能」

     「戦闘準備の命令」を出しました。

     

    ● 8月12日(同日)  

     海軍軍令部総長伏見宮から

     長谷川清第三艦隊司令長官に

     機密電報による指示がされた。

     ◎機密電報

    1. 第三艦隊司令長官は

     敵総攻撃し来らば上海居留民保護に

     必要なる地域を確保すると共に  

     機を失せず航空兵力を撃破すべし

    2. 兵力の支出に関する制限を解除す

     

    ● 8月12日(同日)  

     軍令部第一部長の近藤中将から

     第三艦隊司令長官宛に

     陸軍の派兵に関する機密電報が出された。

     ◎機密電報

      陸軍出兵は未決定なるも出兵の場合は

      2個師団同時派兵のことに協定しあり。

      但し陸軍の前進攻撃行動開始は

      概ね動員20日後なるに付、

      其の間海軍陸戦隊の戦闘

      正面は成るべく之を拡大することなく、

      陸軍派兵を待つ如く考慮あり度。

       注1:陸軍の準備は

           20日要するということです。

             このことでも海軍が事前準備を

          していたことがこれでも分かります。

       注2:石原莞爾中将回応答録から

           今次の上海出兵は海軍が

           引きずって行ったものといっても

           差し支えないと思う・・・・

           私は上海に絶対に出兵したくなかったが、

           実は前に海軍と 出兵する協定がある・・・・

     

    ● 8月12日(同日)  

     第三艦隊司令長官は

     南京等への空襲命令を発令し、

     第1連合航空隊、第2連合航空隊は

     出撃待機を整えた。

     

    ● 8月12日(同日)  

     長谷川第三艦隊司令長官は

     陸軍派兵をの緊急要請をした。

     首相、海相、陸相、外相の

     緊急4相会議が開かれ、

     陸軍の上海派兵が決定された。

     

    ● 8月13日   

     長谷川清第三艦隊司令長官は東京に

     「此の際、速やかに陸軍派兵促進緊要なり

     と認む」と打電した。

     軍令部から「本13日陸軍派兵決定せり、

     派兵時機兵数等に就いては追って通知す」の

     電報が上海に打電された。

     

    ● 8月13日(同日)  

     長谷川清第三艦隊司令長官から

     次の命令が出された。

     (命令)

     明14日空襲を実施する場合

     航空部隊の任務行動を左の通予定す

     1.敵情  

       第三艦隊機密第558及561番電の通

     2.空襲部隊は全力を挙げて

      敵航空基地を急襲し、

      敵航空兵力を覆滅すべし。 

      此の場合飛行機隊の行動は

      特に隠密を旨とし

      高高度天象の利用に務るものとす。

     3.空襲目標

      第2空襲部隊 

       第2航空戦隊 南京・広徳・杭州

      第3空襲部隊(台湾部隊) 

       第1連合航空隊鹿屋隊 南昌

      第8・第1航空戦隊及第1水雷隊飛行機  

       虹橋

      第1空襲部隊 

       第1航空戦隊及第3空襲部隊(大村部隊)

      第1連合航空隊木更津隊を

       使用し得る場合は追って令す。

     4.飛行隊の進発及攻撃時期は特令す。

     内容:此の際、速やかに陸軍派兵促進緊要なりと認む

     

    ● 8月13日 

     日本での閣議では派兵に消極的だった

     石原作戦部長の意見は抑えられた。

     

    ● 8月14日 10時頃、

     中国軍は先制攻撃を開始し、

     中国空軍は第3艦隊旗艦「出雲」や

     陸戦隊本部、日本人学校を攻撃した。   

     先制攻撃されて長谷川長官は怒り、

     嵐の中にもかかわらず出撃を命令した。

      注:実は12日に出撃命令を出し、

        13日に攻撃する予定が嵐のため

        14日に延期されたのです。

          先制攻撃するつもりが先にされてしまったのです。

     

    ● 同日  

     政府は名古屋の第3師団及び

     善通寺の第11師団の出兵を決定した

     

    ● 同日     

     臨時閣議で消極的だった米内光政海相も

     「出雲」を攻撃されたことから

     「不拡大方針」の放棄を主張し、

     南京占領の提言も始めました。 

     上海への陸軍の派遣を決定しました。

     

    ● 同日  

     軍令部は次の海軍声明を発表した。

     ◎本14日午前10時頃、支那飛行機10数機は

      我艦船、陸戦隊本部及総領事館等に対し

      爆撃を加うるの不法を敢えてし、

      暴戻言語に絶す。  

      帝国海軍は今日迄隠忍を重ね来りしが、  

      今や必要にして且有効なる

      あらゆる手段を執らざるべからずに至れる・・・・

     

     ● 同日  

     中国軍の暗号を解読して攻撃を

     予想していた海軍は、渡洋爆撃を開始しました。

     

    ● 同日  

     「軍令部は大海令第13号」を発令

     1. 帝国は上海に派兵し、

      同地に於ける帝国臣民を保護するとともに

      当面の支那軍を撃破するに決す

     2. 第3艦隊司令長官は・・・・

      所要の地域を確保し、

      同方面における敵陸軍

      及中支那に於ける敵航空兵力を

      撃破すると共に所要海面を制圧し、

      必要に応じ敵艦隊を撃破すべし・・・・

     注:海軍は政府や陸軍よりも先に

       不拡大方針を止めて全面戦争を準備したのです。

       つまり7月12日の海軍軍令部

       「対支作戦計画内案」の第二段階に突入したのです。      

          海軍の計画通りに仕掛けが成功したのです。

         

    ● 同日 夕方、

     広徳及び杭州の飛行場爆撃

     

    ● 8月15日 南昌及び南京の飛行場爆撃

     

    ● 8月15日(同日)  

     午前1時半、近衛内閣は下記の

     帝国政府声明を発表した。

     ◎帝国政府声明

       事変発生いらいしばしば

      声明したるごとく、

      帝国は隠忍に重ね事件の不拡大を方針とし、  

      つとめて平和的かつ局地的に

      処理せんと企図し・・・・

      (南京政府は)兵を集めて

      いよいよ挑発的態度を露骨にし、  

      上海においてはついに、

      我に向って砲火を開き、

      帝国軍艦に対して爆撃を加わうるにいたれり。  

      かくのごとく支那側が帝国を侮辱して

      不法暴虐いたらざるなく、  

      全支にわたる我が居留民の

      生命財産危殆に陥るにおよんでは、  

      帝国としてはもはや隠忍その限度にたっし、

      支那軍の暴戻を膺懲し、

      もって南京政府の反省を促すため、

      今や断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり。

     注:暴戻-ぼうれい、ぼうるい・・・

       残酷で人道に外れている事

          膺懲-打ち懲らしめる事

     

    ● 同日  

     国民党政府は総動員を下令し

     蒋介石は自ら陸海空の総司令官に就任し、 

      中国共産党は「抗日救国十大綱領」を

     宣言し全面戦争は開始されたのです。

     

    ● 同日 

     上海派遣軍が編成され、

     予備役の松井石根大将を指揮官として   

     名古屋の第3師団、善通寺の第11師団

     (天谷支隊を除く)の派遣命令が出ました。   

     その任務の範囲は「海軍と協力して

     上海付近の敵を掃滅し上海並びに

     その北方地区の要線を占領し

     帝国臣民を保護すべし」いう

     限定されたものでした。

      注:米内海相や軍部に追従していった

        近衛首相の様子を批判している

        外交官もいました。

        石射 外務省東亜局長の日記を見ます

     

    ◎石射猪太郎 外務省東亜局長の日記から

     8月13日 

      上海では今朝9時過ぎから

      とうとう打ち出した。

      平和工作一頓挫である。・・・・ 

      海軍もだんだん狼になりつつある

      同14日 

      海軍は南京を空爆すると云う。

      とめたが聴きそうもない。 

      陸戦隊は日本人保護なんかの使命は

      どこかに吹きとばして今や本腰に喧嘩だ。 

      もう我慢ならぬと海軍の声明

      同16日 

      豊田軍務局長も事態を知るが故に

      停戦を欲して居るのだが、 

      海軍部内の昂奮に手が出ないようだ

        同31日 

      近衛首相の議会草稿を見る。

      軍部に強いられた案であるに相違ない。 

      支那を膺懲とある。 

      排日抗日をやめさせるには

      最後までブッたたかねばならぬとある。 

      彼は日本をどこへ持って行くというのか。 

      アキレはてた非常時首相だ。 

      彼はダメダ

     

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  • 東京裁判とパル判事

    2020/07/06
    13:46

    東京裁判でインド代表のダラビノッド・パル判事が判決に反対した事から、

    南京事件を否定する人は裁判が不当だったと主張しています。

    パル判事は法に厳正で、

    どんな圧力を受けても自分の信念を曲げない立派な法律家です。

    実はパル判事は南京の事件を全面的に認めています。

    その上でその全ての刑事責任を松井一人に負わせることに反対したのです。

     

    ●パル判事の発言 

      東京裁判資料 洞富雄編「南京大虐殺事件資料集」から

    本件に「おいて提出された証拠に対し言い得るすべてのことを念頭に置いて、

    宣伝と誇張をでき得る限り斟酌しても、

    なお残虐行為は日本軍そのものが占領した或る地域の一般民衆、

    はたまた戦時俘虜に対し犯したるものであるという証拠は圧倒的である。

    問題は被告(松井石根)に、かかる行為に関し、

    どの程度まで刑事責任を負わせるかにある

     

    ●同上

    本官がすでに考察したように、

    証拠に対して悪く言うことのできる事柄をすべて考慮に入れても、

    南京における日本兵の行動は凶暴であり、

    かつベイツ博士が証言したように、

    残虐はほとんど3週間にわたって惨烈なものであり、

    合計6週間にわたって、続いて深刻であったことは疑いない。

    事態に顕著な改善が見えたのは、

    ようやく2月6日あるいは7日過ぎてからである。

    弁護団は、南京において残虐行為が行なわれたとの事実を否定しなかった。

    彼らは単に誇張されていることを訴えているのであり、

    かつ退却中の中国兵が、相当数残虐を犯したことを暗示したのである。

     

    そしてその上で松井の無罪を主張した理由をこう述べています

    ●本官は松井大将としては本件に関連し、

    法的責任を故意かつ不法に無視したとみなすことは出きない。・・・・

    彼としては当然、両軍の司令官ならびに軍紀風紀を維持し

    処罰を加える任務を帯びている他の高級将校に依存しうるのであった・・・・

    本官の判断では、市民に関して南京で発生したことに対し、

    同人を刑事上責任ある者とするような不作為が同人にあったことを証拠は示していない

     

    つまりパル判事南京の虐殺を否定しているのではなく、

    松井石根一人に罪を押し付けることに反対しているだけなのです。

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  • 拡大派と不拡大派

    2020/07/05
    11:10

    当然ですが陸軍内部では

    第二次上海事変を拡大するか拡大しないかと論争が続いていました。

    拡大派としては、

    杉山元陸相、田中新一軍事課長、武藤章作戦課長、永野佐比重支那課長等が中心で、

    中国軍の実力を軽視し、断固として一撃を加えれば早く終わる、と主張していました。

    司令官に任命された松井石根大将は拡大派で、

    南京まで戦争を拡大したかったようです。

    彼は南京まで行くつもりだったので8月18日の送別会で不満を表明し、

    参謀本部から注意されています。

     

    ●参謀本部総務部長中島鉄蔵少将から上海派遣軍飯沼守少将への注意 (飯沼守日記から)

     作戦命令も勅語も手続きは同様にて、作戦命令も勅語と同様のものにて、

     これを批判するごときは不謹慎なれば、よく言うておいてくれ

     

    それでも松井はその後も不満を漏らしています。

    ●参謀本部首脳との会合での発言

     国民政府存在する限り解決できず・・・・

     蒋介石下野、国民政府没落せざるべからず・・・・

     結末をどこにすべきやの議論あるも、

     だいたい南京を目標としてこのさい断固として敢行すべし、

     その方法はだいたい5~6師団とし、宣戦布告して堂々とやるを可とす・・・・

     

    不拡大派は石原莞爾作戦部長が中心で

    「対ソ連を目標にした軍備拡張のため、

    中国とはあまり深入りしないほうが良い」と主張していました

     

    ●石原莞爾中将回応答録から

     ・・・・然るに責任者の中には満州事変があっさり推移したのと同様、

     支那事変も片付け得るという通念をもつものもいました。・・・・

     事変がはじまると間もなく傍受電により

     孔祥肌煕は数千万ドルの武器注文をどしどしやるのを見て、

     私は益々支那の抵抗、決意の容易ならざるを察知いたしました。

     即ちこの際、戦争になれば私は之は行くところまで行くと考えたので、

     極力戦争を避けたいと思い、又向こうも避けたい考えであったようです。

     さらに今日のようになったのは真に残念であり、

     又非常なる責任を感ずる次第であります。

     

    ●同じく石原莞爾中将回応答録から

     今次の上海出兵は海軍が引きずって行ったものといっても差し支えないと思う・・・・

     私は上海に絶対に出兵したくなかったが実は前に海軍と出兵する協定がある・・・

    注:1937年7月11日の北支作戦に関する陸海軍協定のこと

     

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