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キーワード「海南島」を含む投稿一覧

  • 地域別・台湾、海南島

    2020/08/28
    16:55

    台湾で最も古い日本軍慰安所の記録は

    1937年12月です。

    これは大本営が計画した

    広東上陸作戦を中止したため、

    準備した部隊を台湾に上陸させたので、

    あわてて慰安所を作ったといわれています。

     

    ● 「ああ戦友 台湾歩兵第連隊第1連隊第1中隊史」 

                 小野茂正 編

     (上海の)激しい戦闘の後で女に飢えており、

     暴行、強姦、殺人などヘイチャラ・・・・

     当局は一策として駐留予定地域の多くの農家を

     一夜のうちに明け渡すように命令し、

     大工が徹夜作業で翌日は急ごしらえの

     お粗末な慰安所が出来上がった。・・・・

     女は新竹州、台中州、高雄州の

     大勢の商売女を急遽半強制的に狩り集めた

     内地人、朝鮮人、台湾人の女たちであった・・・・

     

    その後は台湾内よりも、

    中国や南方に慰安婦が送り出されていきました。

    当時、台湾は朝鮮と同じように

    日本の植民地だったため、

    東南アジア等国外に徴集・連行された例が多いのですが、

    台湾現地の日本軍駐屯地で強姦にあった例も沢山あります。

     

    資料の重複を防ぐため

    国の関与に関してはここでは述べませんが、

    「軍の要請に基いて台湾総督府が

    必要人数を州知事、庁長に割り当て、

    郡守、警察署長が業者の選定にあたり、

    業者に女性たちを集めさせ・・・・」

    という事は朝鮮の場合と同じだと思われます。

    人数については確実ではありませんが、

    日本政府の調査資料

    (女性のためのアジア平和国民基金、1997年)では、

    1938年11月から1940年1月までで260人となっています。

    これは最低の人数でしょう。

    注:260人が働かされた場所は

      上海9名、残りは華南です。 

      わずか1年2ケ月の集計です。 

      それ以降の南方への

      戦線 拡大を考えると、

      10倍以上と考えられます。

     

    台湾の民間団体が1992年に調査した記録があります。

    ● 台北市婦女救援社会福祉事業基金会の

         1992末までの調査で、

     確実に慰安婦だったことが

     証明されたのは48名です。

    注:同会が1999年に出版した

      「台湾慰安婦報告」では

      生存者51名になっています。

     ◎どのような経緯で慰安婦になったか          

      騙された者      22名

        (食堂のウェイトレス、

        酌婦、看護婦、洗濯、炊事)

      強制連行された者  10名

      役場からの割当て    5名

    承知して応募した者 3名

     ◎年齢は       

      16~20歳    24名

      21~25歳    16名

            以下省略

     ◎慰安婦として集められた時期  

      1938~1939年   5名

      1940~1941年   7名

      1942~1943年    28名

      1943~1945年   6名

      不明        2名

     ◎働かされた場所(重複あり)  

      海南島       14名

      インドネシア    12名

      フィリピン     8名

      ビルマ         8名

      広東省         8名

      シンガポ-ル      4名

        他         3名

     

    この調査は台湾人女性(中国人)対象の調査で、

    原住民女性は含まれていませんが、

    1996年には原住民女性への調査も実施され、

    16人が名乗りを上げました。

    2002年現在の調査では

    1,200人以上が慰安婦にされたという

    記録になっています。

     注:2002年5月、平壌でのシンポジウムで

       王清峰さんの報告)

     

    台湾でも国会(立法院)で

    日本の参議院に提出された法案を

    支持する声明が全会一致でなされました。

     

    ● 「慰安婦」問題の早期解決を求めた台湾立法院決議  

         200年10月8日(全会一致)

     1. 第二次世界大戦中、日本は

      その植民地と占領区で

      欺瞞や誘拐などの方法で無数の女性を招集し、   

      強制的に従軍慰安婦にして、

      軍隊に性的サ-ビスを提供させた。   

      日本政府はこの事実を認めたが、

      繰り返し無数の女性の名誉と尊厳を傷つけ、   

      日本政府の名で謝罪と補償を拒否し、

      被害者に一生癒せぬ障害を蒙らせた。

     2. 日本政府はいまだにサンフランシスコ条約と

      戦後の2国間平和条約で   

      すでに補償問題を解決したとし、   

      非公式な「アジア女性平和国民基金」を通じて

      元慰安婦にささやかな慰撫を与えることに止まった。   

      今年5月に・・・・業務は締め切ったが、   

      台湾人元慰安婦と一部の韓国籍元慰安婦が

      まだその慰撫金を受領しておらず、   

      この問題を解決するには

      日本の国会に提出している法案を通過させるしかない。

    以下省略

     3. 元慰安婦の生存者は

      すでに7~80歳の高齢で、   

      ともに生きている間に補償問題が解決でき、

      その人権が真に尊重されることを希望している。

         以下省略

     

    [地域別・海南島]

    1939年に日本は海南島を占領しますが、

    3ケ月後には慰安所の設置が始まりました。

    設置に関しては、

    陸軍省、海軍省、外務省で計画を進めますが、

    実際には台湾総督府を通じて、

    海南島に進出した台湾拓殖(株)に

    慰安所設置と慰安婦の徴集を依頼しました。

    このことは前のほうで詳しく述べました。

    西野瑠美子氏の1997年までの調査では、

    慰安所の数は62ケ所、

    人数は最低でも1,300人以上が確認されています。

    海南島の南側、三亜市にあった

    慰安所のことが少しわかっています。

    地元の老人の話では、

    三亜市の、三亜、崖城、楡林の3角地区に

    10数件の慰安所があったといわれています。

    地区と名前は一致しませんが、

    将校用の「華南荘」、兵隊用の「崖泉荘」にそれぞれ30人ほど。

    工兵隊用の「中島慰安所」、将校用の「桃荘」、

    兵站陽の「海荘」「南恩光慰安所」「欧家園」

    ・・・・の名前が証言で出てきます。

     

    ●  原住民、黎族の黄有良さん  

       1926年生れ 証言

     15歳のある日田圃から家に帰る途中、

     7~8人の日本兵が後ろから追いかけてきて

     私を止め、その場で私の服を脱がしました。

     私は抵抗し、助けを求めましたが、

     皆日本軍が恐く助けに来てくれる人はいませんでした。

     その場で2人の日本兵が私を犯しました。

     その時から彼らは時々家に来て、

     両親がいるかいないかも、夜も昼も構わず、

     家の中でも外でも、欲しいままに私を強姦しました。

     時には村人の家に逃げ隠れしましたが、

     私がいないと両親を殴るので

     耐えられず家に戻ったこともあります。

     その後彼らは私を兵舎で働くようにしました。

     仕事は炊事と洗濯でした。

     それに彼等は好きなように私を陵辱しました。

     その兵舎には私と同じ様な女性が他に11人いました。

     4年目になった時、

     トラックで藤橋という町に連れて行かれ、

     同じ様な事をさせられました。

     そこにいた10数名の女性は皆歳の若い娘でした。

     ある女の子は3~4人の日本兵に

     慰安所の中で輪姦されて大出血しました。

     それを見てとても恐かったです。

     

    つづきを読む

  • 海南島(台湾拓殖会社)

    2020/08/21
    10:13

    台湾では陸軍省、海軍省、外務省など

    国家機関が率先して慰安所設置をしています。

     

    ● 台湾拓殖会社の資料

     1939年に日本は海南島を占領しますが、

     すぐに陸軍省、海軍省、外務省で

     慰安所設置の計画をします。

     そして台湾総督府を通じて海南島に進出した

     台湾拓殖(株)に慰安所設置と慰安婦の徴集を

     依頼しました。

     台湾拓殖という会社は外務・大蔵・陸海軍など

     各省の協力を得て設立された

     半官半民の国策会社です。

     台湾拓殖では

     直接そのような仕事をするのはまずいので、

     子会社の福大公司に任せる事にしました。

     

    ● 海南島海軍慰安所の件  昭和14年4月4日 

    社長、副社長、部長、課長の印またはサインあり

    右に関し台湾総督府 

    木原調査部長より高山理事に対し

    左記人員供給派遣方依頼ありたり

      芸妓      10人

      芸妓兼娼妓   30人

      娼妓      50人

        計     90人

           中略

    然るに右慰安所資金供給を

    我が社にて取り扱うこと

    種々面白からざるに付、

    差し当たり福大公司別口会計として

    左記事項と共に福大を通じ取扱いのこと

     

    ● 帝国議会説明資料 業務概要  昭和14年12月14日 

     台湾拓殖株式会社 海南島に於ける事業

     (イ)建築事業

      (1)・・・・当社は現地三省

       (注:陸軍省、海軍省、外務省)連絡会議の要望により   

       台湾総督府の下命ありたるにより

       爾来海南建物公司を設立し当該事業に着手し・・・・

      (2)事業の進行状態   11月31日現在

    工事名

    構造

    面積

    施行社

    海軍人夫収容仮宿舎

     

     同  附属家屋

    海軍調査団厩舎及番人小屋

    海軍慰安所

     

     以下省略

    木造掘立造平屋建

    屋根ル-フィング葺

      同

      同 屋根板葺

    木造平屋建■小屋

    屋根ル-フィング葺

    56坪

     

    23坪

    53坪

     

    307坪

    田村組

     

      同

      同

     

      同

    注:この海南島資料では

      軍や政府の意向を受け民間業者が工事を行い、

    しかもその民間会社も国家機関と同じですから、

    みっともないので下請けにさせているのです。    

    帝国議会に説明している位ですから、

    国自体の行為として良いでしょう。

     

     

    つづきを読む

  • 海南島

    2020/07/22
    16:47

    当時南京や重慶に対する長距離爆撃に成功した海軍は、

    航空兵力の拡充を国や国民にアピ-ルしていました。

    将来のアメリカを見据えた海軍は中国で爆撃の訓練もしていました。

    従来日本軍では海軍の出番が少なく予算の多くを陸軍が占めていました。

    しかし長距離爆撃のアピ-ルに成功した海軍は

    急速に予算の拡充に成功しました。

     

    ●臨時軍事費の変化

      年度

    臨時軍事費

     (陸・海合計)

    海軍臨時軍事費

    航空兵力関係

    第72回帝国議会(1937年)

    202,267万円

    39,995万円

    19,874万円

    第73回帝国議会(1938年)

    488,659万円

    116,530万円

    42,004万円

    第74回帝国議会(1939年)

    465,000万円

    93,955万円

    43,945万円

    第75回帝国議会(1940年)

    446,000万円

    84,000万円

    36,763万円

               注:1938年(昭和13年)に急速に増加しています。

    将来の対米戦争を視野に入れた日本軍は

    南方進出の重要拠点として海南島を押さえることにしました。

    位置的にマレ-半島やインドネシアに向かう重要拠点で、

    援蒋ルート(注:中国国民党のへの支援ル-ト)としても、

    シンガポ-ルから英米の物資を運ぶ拠点でもありました。

    さらに、香港(英国領)、フィリピン(アメリカ領)、

    中国南部が長距離爆撃機や零式戦闘機の渡洋範囲でもありました。

     

    海南島は面積が台湾くらいの島です。

    1940年頃の人口は約250万人です。

    位置的に重要な地点で、

    日本としても日本としても

    南方進出の重要拠点と見られていたため、

    さらに対米戦争を考えて軍事予算の増額に成功した

    海軍としては積極的に海南島攻略を考えていたようです。

     

    1939年1月13日の御前会議で海南島政略が決定され、

    2月10日に陸海軍両軍で占領を開始しました。

     

    ●大陸命第265号   1939年1月19日付  原文カナ

     大本営は南支那に対する航空作戦及び

     封鎖作戦の基地設定のため海南島要部の攻略を企図す

      注:南方侵略に対する航空や封鎖のための

        基地設定と言う限定した目的だった

     

    海南島占領は陸軍が飯田支隊

    (台湾混成旅団を中心とした部隊、飯田祥次郎少将)と

    海軍は第5艦隊(司令長官近藤信竹中将)の合同で行なわれました。

    この作戦は陸軍では「甲作戦」、海軍では「Y作戦」と呼びました。

    その後は海軍主導で作戦は進められていきました。

    この占領に対して、

    当時海南島を勢力範囲としていた

    フランスは厳重に抗議しました。

    2月13日に有田八郎外務大臣は

    「領土的野心はない」と回答しましたが、

    3月30日になると海南島と

    新南洋群島の領土宣言を一方的に発表し、

    各国に日本の南方侵略の警戒心を与える事になりました。

    占領時には中国の正規軍は既に撤退し、

    海南島には保安団や共産軍のゲリラ部隊が

    わずか1万人位残っている程度でした。

    それに対して日本軍は7,892人でした。

    (1941年12月現在)

     

    海南島では少数ながら抗日ゲリラが活発に活動していたため、

    海軍主導で「Y作戦」というゲリラ掃討作戦を行ないました。

    Y作戦は時期によって、Y1からY9まであります。

    ●海軍の地上作戦

     Y1作戦  占領開始

     Y2作戦  1940年3月~4月

     Y3作戦  1941年2月~3月

     Y4作戦  1941年8月

     Y5作戦  1941年11月~42年1月

     Y6作戦  1942年6月

     Y7作戦  1942年12月~43年6月

     Y8作戦  1943年12月~44年12月

     Y9作戦  1945年

     

    ●嶋田繁太郎支那方面艦隊司令長官の日記 

        1940年6月に視察 Y2作戦の頃  原文カナ

     海南島は海軍の思うとおりに指導されあり

     比較的短時間に着々治安上がり

     中部山岳方面の外は一通り平定す

     殊に2月より5月にわたりしY2作戦の効果大にして

     討伐道路も相当通し天然資源の状況もあきらかとなれり

     更にこの種の討伐を行い敵将

     王毅を伐取らば明朗となるべし

     鉱物の調査は進みしが

     農業にて本邦必需の熱帯資源の

     試作研究を一掃積極的に行なうの要切なり

     

    海南島占領の本来の目的は先に述べたように

    各地に進出する基地作りでしたが、

    それと同時に豊富な鉱物資源と

    農産物の獲得も大きな目的の一つでした。

    その為にも一刻も早い治安の安定が必要だったのですが、

    農産物の無理な収奪、鉱山その他の強制的労働、

    中国の三光作戦にも似た掃討作戦・・・・と、

    完全に住民を敵にするような強引な政策をとったため、

    かえってゲリラの勢力を完全には掃蕩できませんでした。

     

    ●海南警備府戦時日誌  1944年7月 原文カナ

     各管区に於ける共産匪は

     其の勢力の扶殖伸展に執拗なる策動を続けあり・・・・

     

    どの様な作戦をしたのか、Y5作戦の資料を見てみます。

    ●Y5作戦開始の命令 原文カナ

     海南部隊はY4作戦成果を拡充し

     占拠地及び未占拠地の残敵兵力を

     速やかに捕捉掃滅すると共に 

     人心の収攪、敵性物資の獲得等の総合作戦を実施、

     普く我の武威を浸透残敵再建の余地無からしめ

     以って対南方作戦基地たる本島の治安を急速に確立せむとす

     

    ●Y5作戦の成果

     敵に与えたる損害  遺棄死体  1,540

               捕虜       262

               投降者     91

               焼却家屋   10,379

               押収籾   41,000石

     注:1万戸以上の家を焼き払い、

          4万石もの籾を奪っています。

         まさに三光作戦です。

     

    ●Y5作戦が終了した翌月の戦時日誌

        2月1日から2月28日分

      遺棄死体   143

      射刺殺    293

      射殺       31

      刺殺     162

      人員処分     18

      土民刺殺     91

      捕虜       173

      焼却家屋     1,197

     注:Y5作戦が終わり、次のY6作戦が始まる前の数字です。

         平常時の1ケ月でも1000戸以上の家を焼き払い、

       600人以上の人を殺している事が分かります。

         遺棄死体だけが戦闘で死んだ数で、

      他は捕まえてから殺していますから、

      捕虜或いは民間人ということになります。

     

    ●Y5までの作戦を反省して、

        Y6作戦では「あまり家屋を焼かないように」となりました。

     ・・・・処理を考慮し敵性家屋といえども

     その焼却破壊は極力これを避け・・・・

     作戦一段落せば一般民衆に対する宣伝宣撫工作を活発にし・・・・

     

    それでもあまり変化はなくY7作戦に入ります

     

    ●Y7作戦の総合戦果  

       遺棄死体  2,635           

       射刺殺  6,748           

       捕虜      924           

       帰順   2,677           

       焼却兵舎  4499

     

    ●海南島占領から1942年末(Y7作戦途中)までの戦果一覧表

      遺棄死体(射刺殺を含む)    28,863人

      奪った武器(小銃、猟銃を含む)   6,302

     注:占領時の計算ではゲリラの数は約1万人でした。

        それが3万人近くも殺されています。

         その割りに奪った武器の数が少ないのは、

         一般住民を殺害した証拠でしょう。

     

    「海南島と民間企業」

    海南島は重要拠点であるため、

    掃討作戦と並行して、

    飛行場、港湾、道路などを整備し、

    軍事基地化を進めるため

    企業と協力して鉱山や電源等の開発を進めました。

     

    ● 海南島の日本企業

    会社名

    仕事

    石原産業

    田独鉄鉱山

    日本窒素

    石碌鉄鉱山

    三菱鉱業

    那大錫鉱山、羊過度嶺水晶鉱山

    浅野セメント

    抱披嶺石灰山

    西松組

    日本窒素関係の工事

    鉱山資源は豊富で、

    日本が占領した1939年~45年に

    日本窒素が開発していた石碌鉄鉱山が有名で、

    品位60~65%の赤鉄鉱の埋蔵量が

    2億トンと推定されていました。

    これらの多くの事業では大量の労働者を必要としました。

     

    「強制連行と強制労働」

    日本が香港を占領した後、

    人口が増えすぎて人々の困窮を極めていました。

    日本軍は人口疎散政策ととりましたが、

    その一環として青年たちを集めて

    海南島に労働者として送り込みました。

    さらに中国本土からも労働者が強制連行されてきました。

    始まりは

     1941年9月   上海から    約3,000人

     1942年2月   香港からの第一陣  483人

    それ以降香港から大量の労働者が海南島に連行されたのです。

     

    ●他の地区からの労働者

     海南島で強制労働を強いられたのは、

     他には、 地元先住民族、台湾人、朝鮮人、

     イギリスやオ-ストラリア軍の捕虜などがいます

     

    香港から船に押し込まれて

    4日間の航海で海南島に着いた時には

    多数の人が死んで海に捨てられ、

    残りの半数は病人であったという資料もあります。

    1943年7月までに香港経由で連行された人数は、

    合計20,565人(内、看護婦等特殊工員 3,002人)です。

    島での労働は幽閉状態で鉄鉱採掘、

    道路建設、空港建設などの労働を強制され、

    終戦後香港に帰れたのは

    1/3以下だったといわれますがよく分かりません。

     

    「朝鮮からの受刑者連行」

    1939年から朝鮮の刑務所に服役中の

    受刑者を南洋諸島の基地建設に

    強制労働させることを決定しています。

    これを受けて朝鮮各地10ケ所以上の刑務所から

    受刑者が海南島に連行されました。

    「南方派遣報国隊」という名称です。

    海南島への第1次派遣が出発したのは

    1943年3月30日で、第7次派遣で終了したようです。

    受刑者は隊員として日の丸の腕章を付け、

    「諸君は一人一人が日本精神を堅持すること、

    即ち一切を大君(天皇)に捧げまつる心を持って欲しい・・・」と

    送り出されました。

    連行された受刑者は2,000人から3,000人と言われ、

    半数以上が死亡したものと思われます。

    働かされた所は、三亜地区と石碌地区の2ケ所でした。

    朝鮮人の報国隊は海南島以外にも連れて行かれています。

    また海南島には「台湾報国隊」も連れてこられたようですが、

    資料が不足しています。

     

    「証言や資料」

    ●河野司氏 敗戦当時、日本窒素の総務次長

     石碌鉱山関係者の犠牲者だけで数万人くらいあった

    ●崔能さん  香港から海南島に連行された

     1942年3月、日本軍に狩り出されて海南島に連れて行かれた。

     私の仕事は楽な方で、運よく帰れたけど、大勢の人たちが死んだ。

     重労働だったので殺されたようなものだよ。

     戦争が終わって香港に戻ってみると、

     父は工場を没収され、飢えて栄養失調で死んでいた。

     母も飢えて戦後間もなく死んでしまったよ。

     兄も弟も同じ運命で死んだ。

     私は孤児になってしまった。

     残されたのは父の持っていた軍票だけだったが、

     日本は50年もたつのに返してくれない。

     私は今でも日本を恨んでいるよ。

    ●藤間忠顕「台湾及海南島視察記」より

       ・・・・隊員たち(朝鮮人)は

     朝の起床点検食事が終わると同時に朝礼をし、

     皇国皇民の誓詞を斉誦し部隊の訓示を受け

     ・・・・最近鮮内(朝鮮内)においても

     多数の病死者を出して居るのであるから、

     特に気候風土の異なった

     現地において多少の増加を見るのは当然であろう。

    ●宋龍雲さん 第1次で連行され1944年に帰国

     朝鮮人を殺すのを私たちは見たが、見せられたんだ!

     地面を大きく掘った穴の廻りに殺す人間を座らせて頭を下げさせる。

     日本人が軍刀で頸を斬ると、

     喉のところが切れないでつながっていて、 

     頸が落ちるのでその衝撃で身体ごと穴に落ちていった。

     犬死よりもひどかった。

     遺体は木と木の間に積み上げ揮発油をかけて燃やした。

    ●孫恵公さん 現地の黎族

     日本軍は1,000人以上の朝鮮の政治犯を

     収容所で殺害し南丁の丘に埋めた

    ●周亜細さん 現地の黎族

     日本の兵隊が男達を木にぶら下げて殴って殺した。 

     殺された人たちがぶら下がっていた姿を見た。 

     死んだ人たちは埋められた。

     

    敗戦のとき、日本軍は秘密の工事と虐殺を隠すため、

    1,000人以上の労働者を殺害し埋めました。

    そこは今でも「南丁千人坑」といわれています。

    香港や朝鮮からの労働者に限らず、

    海南島での犠牲者、人種、氏名は

    ほとんど調べられていません。

     

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