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キーワード「石射猪太郎」を含む投稿一覧

  • 国際委員会が日本・米国大使館に提出した報告書 1

    2020/10/09
    13:31

    南京安全区国際委員会は

    あまりにもひどい日本軍の暴挙を

    何とか食い止めようと、

    日本やアメリカの大使館に

    報告書を提出しています。

    色々なメンバ-の報告を

    委員長のジョン・ラーベがとりまとめて、

    その都度通し番号をつけて提出しました。

    外務省に送られた報告書は

    敗戦時の徹底した焼却処分のため残っていません。

    報告書の通し番号ですが、

    以前早稲田大学の洞富雄教授がまとめた

    資料集では英文翻訳として444項目でした。

    今回中国語版が完成し、

    その資料では426項目になっています。

    いずれにしても相当な量の報告書です。

    ここでは中国語版を日本語に

    訳したものを紹介します。

    報告書番号の1番は1937年12月15日

    つまり南京陥落後2日目から始まり、

    最後の426番は1938年2月5日まであります。

    よく戦争だから多少の殺害や強姦はしょうがない、

    どこの国でもあることだ・・・と言う人がいます。

    しかし南京戦の被害は

    主として南京戦が終了してから起きています。

    問題はこれらの報告は現地日本大使館では

    きちんと受け取り、日本の外務省に報告していた事です。

    外務省では政府や軍中央にきちんと報告していますから、

    当時の日本政府や軍は南京事件を

    全部知っていた事になります。

    政府や軍中央が現地軍を押さえ切れなかった、

    つまり現地軍は勝手気ままに

    やりたい放題していたことになります。

    勿論国民には一切知らされていませんでした。

     

    ● 石射猪太郎 外務省東亜局長 

       東京裁判での宣誓口述書    

     1937年12月13日頃、我軍が南京に入場する。

     其のあとを逐つて、

     我南京総領事代理(福井淳氏)も

     上海から南京に復帰した。

     同総領事代理から本省への最初の現場報告は

     我軍のアトロシティ-ズ(強姦・掠奪・放火を含む)に

     関するものであった。

     此の電信報告は遅滞なく東亜局から

     陸軍省軍務局長宛に送付された。

     当時、外務大臣は此の報告に驚き且心配して、

     私に対し早く何とかせねばならぬと

     御話しがあったので、

     私は電信写しは既に陸軍省に

     送付されて居る事、

     陸海外三省事務当局連絡会議の席上、

     私から軍当局に警告すべき事を大臣に御答へした。

     其の直後、連絡会議が私の事務室で行われ・・・・

     其の席上、私は陸軍省軍務局第一課長に対し

     右アトロシティ-ズ問題を提起し、

     苟も聖戦と称し皇軍と称する戦争に於いて

     これは余にもヒドイ、

     早速厳重措置をする事を申し入れた。

     同課長も全く同感で、右申入れを受入れた。

     其の後いくばくもなくして

     在南京総領事代理から

     書面報告が本省へ到着した。

     それは南京在住の第三国人で組織された

     国際安全委員会が作成した

     我軍アトロシティ-ズの詳報であって、

     英文でタイプされてあり、

     それを我南京総領事館で受付け、

     本省に輸送して来たものである。

    注:これが今回の報告書です

     私は逐一之に目を通し、

     其の概要を直ちに大臣に報告した。

     そして大臣の意を受けて、

     私は次の連絡会議の席上、

     陸軍軍務局第一課長に其の報告書を提示し、

     重ねて厳重措置方を要望したが、

     軍は最早既に現地軍に

     厳重に云ってやったとの話であった。

     其の後、現地軍のアトロシティ-ズは

     大分下火になった。

     翌1938年1月の末頃と記憶するが、

     陸軍中央は特に人を現地軍に派遣したあとで、

     其の派遣された人物は

     本間少将であることがわかった。

     それ以降、南京アトロシティ-ズは終止した。

     

    ● 岡崎勝男 東京裁判での宣誓口述書(原文カナ)

        岡崎氏は事件当時南京の

        無任所総領事として事件の処理をした。

     南京安全地帯国際委員会は、

     同市内において行われたと主

     張せられている暴行に関する報告を

     南京駐在の日本領事に行い、

     そして私が南京滞在中、

     同市内の事態についてほとんど毎日

     私の所へ話しに来ました。

     福田篤泰氏は当時、

     大使館付きの外交官補でありました。・・・・

     南京安全地帯国際委員会の報告は

     南京の日本領事館で受取りました時、

     その報告書の概要は電報で東京に送られ、

     報告書その物もまた郵便で

     東京の外務省に送られました。

     

    [報告書内容]

     この報告書は安全区の国際委員会の

     報告ですから、安全区内のことが中心になります。     

     そのためいわゆる大量虐殺には

     あまり触れられていません。

     強姦の被害が目立ちます。        

         注:最初の数字は報告書番号、

          日付は報告書を書いた日、

          番号と前後している事もあります。

          最後の人名はラ-ベに報告をした人です。

          名前がないのはラ-ベ自身です。

          読めない字は○にしました。

     

    1937年12月16日にまとめ、日本大使館に提出分

    1)12月15日、

     安全区衛生委員会第2区の6名の

     街路清掃工は、鼓楼にある住宅で、

     押し入ってきた日本兵に殺された。

     別の清掃工1人は、

     なんのはっきりした理由もなく、

     日本兵に銃剣で刺され重態である。

     この人たちは全員安全区の雇用員である    

    4)12月15日夜、

     7人の日本兵が金陵大学図書館ビルに押し入り、

     中国人の女性7人を拉致して行った。

     其の中の3名の女性はその場で強姦された。   

    6)12月14日、

     明らかに引率将校のいない

     日本兵30名が捜査を名目に、

     大学病院と看護婦の寝室に押し入った。

     病院の職員たちは組織的な略奪を受けた。

     盗まれた品物は:万年筆6本、現金180元、

     時計4つ、病院の包帯2巻、懐中電灯2つ、

     手袋2つと毛糸セータ-1枚である。  

    10)12月14日昼頃、

     日本兵が○銀巷のある家に押し入り、

     4名の若い女性を拉致していった。

     強姦された後、彼女たちは、

     2時間後に釈放された。  

    12)12月14日夜、

     11名の日本兵が○銀巷のもう1軒の家に

     押し入り、4名の中国女性を強姦した。

    15)12月15日、

     日本兵は漢口路の中国人民家へ押し入り、

     若い中国女性を強姦した後、

     3名の女性を拉致していった。

     その中2名の女性の夫が

     日本兵の後を追いかけていったが、

     この2名の男性はその場で日本兵に射殺された。

     前にのべたように、

     われわれ委員会の外国人メンバ-は

     以上の事実をすでに確かめている。

        提出報告書の署名:ルイスS.C.スマイス

    1937年12月19日にまとめ、日本大使館に提出分

    16)12月15日、

     銃剣で刺された1人の中国人が大学病院に来た。

     彼の話によれば、日本兵は

     彼と他5名の中国人男性を安全区から拉致し、

     下関へ弾薬を運ぶよう命令した。

     下関に着くと、彼ら6人は

     日本兵に銃剣で突き刺され、

     彼1人だけが幸いにも生き残って、

     金陵大学病院へ治療を受けに来たという。    

         (ウイルソン医師)

    18)12月15日、

     日本兵の一群が小桃園わきの

     金陵大学の建物に押し入り、

     30名の女性を強姦した。

     中には6回も輪姦された女性がいた。   

         (ゾ-ン)  

    20)12月16日夜、

     7名の日本兵がアメリカ大学(注:金陵大学)の

     建物に押し入り、窓ガラスを破り、略奪をした。

     大学側が時計と女性を差し出さないと、

     彼らは銃剣で何人もの大学職員を

     刺しまくって、怪我をさせ、

     さらに建物の中にいた女性多数を強姦した。  

         (ベイツ博士)

    43)12月17日、

     三元巷付近で2名の娘が

     多数の日本兵に輪姦された。 

         (王)

    45)12月17日、

     多くの女性が五台山小学校に

     強制的に拉致され、夜通し強姦され、

     翌朝やっと解放された。

         (王)  

    55)12月18日夜、

     450人の女性が助けを求めて

     我々のビルに逃げてきた。

     彼女たちは中庭の露天で一夜を過ごした。

     これまでに、その中の多くの女性が

     日本軍に強姦されている。  

         (フィッチ)

    62)12月18日、

     陸軍大学の難民収容所からきた報告によれば:

     12月16日、200名の男子が強制連行されていき、

     戻ってきたのはわずかに5名だった。

     12月17日と18日はまたそれぞれ

     26名と30名の男子が連れて行かれた。

     盗まれた品物は:現金、荷物、

     1袋の米、400セットの病院の布団。

     25才の中国男性が1人殺された。

     1人の老婆が激しく殴り倒され、

     20分後に死亡した。 

         (単渊寛)  

    64)12月18日、

     廣州路83号と85号の家には、

     540人の難民が住んでいる。

     12月13日から17日まで、

     この家は毎日三々五々群れをなす

     日本兵の略奪と脅かしを度々うけた。

     今日12月18日、そこで前代未聞の略奪が起った。

     若い女性が毎夜トラックで拉致され、

     強姦されて、翌朝になってようやく釈放された。

     現在までのところ30数名の婦人と

     若い女性が蹂躙され、

     女性と子供のなく声が夜通し絶えることがない。

     ここにおける状況はもはや言葉に言い尽くせない。    

         提出報告書の署名:ルイスS.C.スマイス

    1937年12月20日にまとめ、日本大使館に提出分

    72)12月19日、

     農科作物学部(注:金陵大学内)の

     労働者の1人が日本兵に10元奪われた。

     彼はすでに前の日に2.5元奪われていた。

     午後、部屋にいた2名の女性は日本兵に強姦され、

     夜になってさらに5名の婦人が日本兵に強姦された。   

         (高) 

    75)12月19日16時45分、

     ベイツ博士は平倉巷16号に

     大声で呼ばれて行った。

     この家に住んでいた難民は、

     数日前日本兵に追い出された

     (リッグス氏、スマイス博士とスティル氏が

     其の事件を目撃していた)。

     日本人はこの家のものをたった今

     奪い尽くしたばかりか、

     3階に火をつけたのだ。

     ベイツ博士は火を消そうとしたが、

     力及ばず、全焼してしまった。 

         (ベイツ)

    80)12月20日朝7時、

     マッカラムは大学病院から夜勤の帰り道で、

     大勢の女性と児童が

     大学へ逃げてくるのに出くわした。

     違う方向から来た3家族の人たちの

     話によると、彼らは昨夜家から追い出された。

     日本兵は家に火をつけて、焼いてしまった。   

         (マッカラム) 

    89)12月18日、

     日本兵は100人の難民がいる

     金陵大学農科作物系へ押し入り、

     屋外にいた女性を強姦しようとした。

     この家の主人は日本語が話せたので、

     妻子が屈辱を受けるに至らなかった。

    (第6区、第一難民収容所) 

    1937年12月21日にまとめ、日本大使館に提出分 

    101)12月21日午後3時、

     3名の日本将校が漢口路小学校の

     難民収容所の事務室に押し入り、

     職員が通訳を通して将校と

     話をしようとしたが、追い出された。

     将校は事務所で白昼堂々と2名の女性を強姦した。

         (鄭大成、難民収容所責任者)

    1937年12月22日にまとめ、日本大使館に提出分

    115)12月19日午後、

     五台山のアメリカンスク-ルで、

     日本兵が妊娠6ケ月半の19歳の妊婦を

     強姦しようとした。

     女性が反抗すると、

     日本兵は短刀や銃剣で彼女に切り付けた。

     彼女の胸と顔の切り傷は合計19ケ所になり、

     脚にも数箇所の切り傷がある。

     特に下半身には深い刀傷がある。

     胎児の心拍はすでに聞こえない。

     女性は目下大学病院に保護されている。  

         (ウィルソン医師)   

      注:この女性は李秀栄さんです。  

        1947年、李さんは南京の軍事法廷

        (戦犯裁判)の谷寿夫の公判で証言しました。     

        日本の作家村松俊夫氏が

        この被害者は別人であると誹謗する本

        「南京虐殺への大疑問」を出版したことから、

        李さんは村松氏と出版社の展転社を訴えました。

        1,2審勝訴、

        2006年に最高裁で勝訴が確定しました。  

        勝訴確定の前、

        2004年12月4日、86歳で亡くなりました。

    117)12月19日、

     金陵大学の蚕飼育場の

     難民収容所からの報告によれば、

     昨夜8時から深夜1時の間に、

     8名の女性が強姦され、

     その中の1人が刺されて怪我をした。

     さらに妻を保護しようとした男性4名も刺された。

     女性は拉致され、その後1人だけ帰ってきた。 

         (呉国京 第6区)

    123)12月22日、

     元郵便局職員である施望杰の

     今朝の報告によれば、

     郵便局に置いてある小包や

     手紙が入っている沢山の袋が

     日本兵に奪われた。 

         (スマイス博士)

    124)12月21日夜8時、

     宣教師資格訓練学校の難民収容所で、

     7人の女性が日本兵に強姦された。 

         (王明徳)

    1937年12月26日にまとめ、日本大使館に提出分

    138)12月22日、

     リッグスの住宅は今日再び略奪に遭い、

     そこにいた2名の女性が強姦された。

     夜になって、日本兵が再び押し入り、

     53歳の女性を強姦した。 

         (リッグス)

    139)12月13日、

     11歳の少女が父母と一緒に

     防空壕の入り口に立って

     日本人が進駐するのを眺めていた。

     1人の日本兵が銃剣で父親を刺し殺し、

     母親を撃ち殺した後、

     少女の腕を銃剣で激しく刺し、

     肘関節に傷を負わせた。

     この少女は他に兄弟姉妹もなく、

     1週間後になってようやく病院に送られてきた。 

         (ウィルソン医師)

    148)12月24日~25日夜、

     7名の日本兵が宣教師資格訓練学校

     難民収容所に押し入り、そこに一晩滞在した。

     25日朝9時と午後2時に、

     それぞれ4名と3名の日本兵が押し入り、

     衣服と現金を奪い、2人の女性を強姦した。

     その中の1人はわずか12歳だった。  

    154)1937年12月26日午後4時、

     13歳の少女が陳家巷6号で、

     3名の日本兵に強姦された

         (王)

    1937年12月30日にまとめ、日本大使館に提出分

    156)12月24日、

     日本兵は金陵大学農学院の

     アメリカ国旗を引き降ろした。

         (ベイツ)

    158)夜11時~12時の間、

     3人の日本兵が司令部から

     検査に派遣されたと称して、

     自動車に乗って大学の正門から入ってきた。

     門衛は脅かされて警報を出す事が出来なかった。

     また女性を捜すのに無理矢理つきあわされた。

     3人の娘がこの兵隊たちに強姦された

     (その中の一人は11歳になったばかりである)。

     その中の一人は拉致されて行った。

         (ベイツ)

    159)12月26日、

     この日は3~4人一組の兵隊が数組、

     延べ7度も宣教師資格訓練学校に押し入ってきた。

     数え切れない略奪でわずかに残っていた

     衣服、食品と現金も奪われてしまった。

     彼らは6名の女性と12歳の少女を強姦した。

     夜、12~14人で組んだ沢山の兵隊が

     4度も押し入り、20人の女性を強姦した。

         (ミルズ牧師)

    163)12月30日朝、

     4名の中国人が估衣廟を通りかかった時、

     日本兵に撃たれた。

     その場で一人が死亡した。

     もう一人もひどい傷を負った。

     今は大学病院にいるが、医師は

     治療できないのではないかと心配している。

         (ウイルソン医師)

     

    以下 次に続く

     

     

    つづきを読む

  • 極東国際軍事裁判 2

    2020/10/09
    11:50

    日本側の弁護人側証人の宣誓口述書を

    2人を掲載します。

     

    ● 石射供述書 外務省東亜局長石射猪太郎    

     (1937年)12月13日頃、

     我が軍が南京に入城する。

     その後を追って、我が南京総領事代理(福井淳氏)も

     上海から南京に復帰した。

     同総領事代理から本省への

     最初の現場報告はアトロシテ-ズ

     「それは南京に入城したわが軍による

     強姦・放火・掠奪というようなことを

     含んでおりました」に関するものであった。

     この電信報告は遅滞なく東亜局から

     陸軍省軍務局長宛に送付された。

     当時、外務大臣はこの報告に驚きかつ心配して、

     私に対し早く何とかせねばならぬと

     お話があったので、

     私は電信写しは既に陸軍省に送付されている事、

     陸海外三省事務当局連絡会議の席上、

     私から軍当局に警告すべき事を大臣にお答えした。

     この直後、連絡会議が私の事務所で行われ・・・・

     その席上、

     私は陸軍省軍務局第一課長に対し

     右アトロシテ-ズ問題を提起し、

     いやしくも聖戦と称し皇軍と称する

     戦争においてこれは余りにひどい、

     早速厳重措置をする事を切実に申し入れた。

     同課長もまったく同感で、右申入れを受け入れた。

     その後いくばくもなくして

     在南京総領事代理から書面報告が

     本省へ到着した。

     それは南京在住の第三国人で組織された

     国際安全委員会が作成した

     我軍アトロシテ-ズの詳報であって、

     英文でタイプされてあり、

     それを我南京総領事館で受付け、

     本省に輸送してきたものである。

     私は逐一これに目を 通し、

     その概要を直ちに大臣に報告した。・・・・・

     

    ● 岡崎勝男供述書   

        中国駐在の無任所総領事で

        南京での処理に当たった 原文カナ

     南京安全地帯国際委員会は、

     同市内において行われたと

     主張せられて居る暴行に関する報告を

     南京駐在の日本領事に行い、

     そして私が南京滞在中、

     同市内の事態についてほとんど毎日

     私のところに話しに来ました。

     福田篤泰氏は当時、

     大使館付の外交官補でありました。・・・・

     南京安全地帯国際委員会の報告は

     南京の日本領事館で受け取りました。

     その報告書の概要は電報で東京に送られ、

     報告書その物もまた郵便で

     東京の外務省に送られました。

     

    結局反論は反証の書証は僅か8通(内5通は却下)、

    証人は3人に過ぎなかったので、

    法廷はあっけにとられたまま

    (児島譲の回想録から)判決に進んだのです。

    現在よく言われる虐殺された人数ですが、

    実は虐殺の人数を決める事は

    検察側の目的ではありませんでした。

    東京裁判では

    非武装化した捕虜や一般市民が

    虐殺されたという事実を立証する事が目的で、

    100人なのか1万人なのか、10万人なのかといった

    数の問題ではなかったのです。

    ただし記録として推定総数はあります。

     ◎判決書には10万代の上位のほう     

     ◎判事の見解 総数20万人と思われる。

      多くの団体が埋葬した記録の総数15万5千人

     

    1946年4月30日付の朝日新聞に

    「第一級戦犯容疑者起訴状」が掲載されました。

     

    ● 起訴状の第二類殺人の訴因 付属書A [訴因45]

     被告荒木・橋本・畑・平沼・広田・板垣・

     賀屋・木戸・松井・武藤・鈴木及び梅津は、

     1937年(昭和12年)12月12日及び

     その後引き続き・・・・南京市を攻撃し、

     かつ国際法に反して該住民を鏖殺する事を

     日本軍に不当に命じ為さしめ、

     かつ許すことにより、

     不法に、目下その氏名及び員数不詳なる

     数万の中華民国の一般人及び武装を

     解除せられたる軍隊を殺害し、殺戮せり

     

    ● 付属文書A第二節中華民国の

        他の部分に於ける軍事的侵略  

     1937年12月13日頃、

     日本軍は南京を攻略し、

     数万の一般人を鏖殺し、

     かつその他非道なる行為を行いたり

     

    東京裁判のキーナン主席検事の

    冒頭陳述の要旨が朝日新聞に報道されています。

     

    ● 6月5日 朝日新聞 

     「残虐無比・南京事 到る處 人命無視の蛮行」      

     南京占領は俘虜、一般人、婦女子

     数万に対する組織的かつ残忍なる

     鏖殺、暴行並びに拷問及び、

     およそ軍事的必要を超えたる家

     屋財産の放埓無差別なる

     大量破壊を特徴として居る。

     この行為は普通「南京掠奪暴行事件」と

     呼ばれて居るが、

     近代戦史においてこれに匹敵する例はない。

     南京は日本人が彼等の侵略計画の一部として、

     その性質と規模において、

     殆ど信じ難いほどの残虐行為を遂行する事により、

     人民の戦意を破摧しようとした

     幾多の中華民国都市中の

     一つに過ぎなかったのである。

     この非人道的な戦闘型式は

     地理的分布および遂行のいずれもが

     極めて普遍的であった為に、

     事実上日本の軍事的侵略の

     凡ての場合を特色づけている。

     阿片が人民の士気を沮喪させ

     彼等の戦意を破摧する武器として

     且日本軍の資金調達の

     収入財源として使用せられた。

     パネイ号、レディバ-ド号

     その他の中立国艦船に対する攻撃も、

     人命及び財産に対する放恣にして

     無謀なる無視の追加的証拠として

     示されるであろう。

     

    ● 作家・石川達三氏の思い出 

        読売新聞1946年5月9日「語る石川達三氏」

        東京裁判に向けて           

        石川達三は昭和13年3月号の中央公論に

        小説「生きてゐる兵隊」を発表したが

        雑誌は発禁になり、

        石川氏は禁固4年執行猶予3年の刑を受けた。

     ・・・・かうして女をはずかしめ、

     殺害し、民家そのものを掠奪し、

     等々の暴行はいたるところで行われた。

     入城式におくれて正月私が南京に着いたとき、

     街上は死体累々大変なものだった。         

     大きな建物へ一般の中国人数千を

     おしこめて床へ手榴弾をおき、

     油を流して火をつけ焦熱地獄中で悶死させた。

     また武装解除した捕虜を連兵場へ

     あつめて実弾の一斉射撃で葬った。

     しまいには弾丸を使うのは

     もったいないとあって、

     揚子江へ長い桟橋を作り、

     河中へいくほど低くなるやうにしておいて、

     この上へ中国人を行列させ、

     先頭から順々に日本刀で首を切って

     河中につきおとしたり、

     逃げ口をふさがれた黒山のような

     捕虜が戸板や机へつかまって川を流れていくのを

     下流で待ちかまえた駆逐艦が

     いっせい射撃で片ッぱしから殺害した。  

     戦争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に

     逸脱するのはありがちのことではあるが、

     南京の場合はいくら何でも無茶だと思った。

     三重県からきた片山某という従軍僧は

     読経なんかそっちのけで殺人をして歩いた。

     左手に数珠を持って民家にとびこみ、

     にげまどう武器なき支那兵をたたき殺してあるいた。

     その数は20名を下らない。

     彼の良心はそのことで少しも痛まず、

     部隊長や師団長のところで自慢話していた。

     支那へさへ行けば簡単に人も殺せるし

     女も勝手に出来るという考えが、

     日本人全体の中に

     永年培われてきたのではあるまいか。

     ただしこれらの虐殺や愚行を

     松井司令官が知っていたかどうかは知らぬ。

     「一般住民でも抵抗するものは

     容赦なく殺してもよろしい」という命令が

     首脳部からきたという話を聞いたことがあるが、

     それが師団長からきたものか

     部隊長からきたものなのかそれを知らなかった。

     何れにせよ南京の大量殺害というものは

     実にむごたらしいものだった。

     私たちの同胞によってこのことが

     おこなわれたことをよく反省し、

     その根絶のためにこんどの裁判を

     意義あらしめたいと思う。

     

    1946年7月26日、

    目撃者としてロバ-ト・ウイルソン医師が

    法廷証言をしました。

    そのことについて読売新聞の社説です。

     

    ● 1946年7月31日 読売新聞社説(若干読み易くしました)      

     南京暴行事件は、当時従軍したものならば

     多かれ少なかれその事実を知っているであろう。

     「聖戦」といいながら侵略戦争を強行し、

     一時的な「勝利」ののちに行なわれた

     数々の蛮行を目撃しながら、

     しかもなお「皇軍」と言い、

     そのような蛮行が戦争には不可欠なものとして、

     高いヒュ-マニティにみづから目隠しをし、

     敢えて直面し得なかった

     われわれ報道陣の罪は決して軽いものではない。

     あのような蛮行を敢えてしながら

     「中国民衆を敵とするものにあらず」という声明を

     押しつけようとした無理は、

     その後のあらゆる対華施策の

     矛盾となってあらわれているのだが、

     何よりも中国民衆に対日敵意を植え付け、

     その敵意が十数世紀にわたる日華国交史に

     いまだかってみなかったほどの

     深刻無残なものとして尾を曳いた、

     われわれは南京暴行事件を中心とする

     軍閥蛮行の拭うことの出来ない

     歴史的罪悪を認めずにはおられない。

     

     

     

     

     

     

    つづきを読む

  • 日本側・政府・軍中央・識者も困っていた

    2020/09/29
    16:54

    この頃になると南京における

    日本軍の無法ぶりが日本国内も勿論

    皇族にも伝わってきました。

    (国民には知らされませんでしたが)

    政府や軍中央も困っていたようです。

    まず皇室関係から書き始めます。

     

    ● 三笠宮崇仁 1998年11月26日

       中国主席来日の宮中晩餐会で、

       中国主席江沢民外遊記録から

     旧陸軍軍官として南京に駐在した。

     自分の目で日本軍の暴行を見た。

     今に至るまで深く気がとがめている。

     中国の人に謝罪したい・・・・

     歴史の真相を始めから終わりまで

     若い世代の皇族に伝え、

     日中両国民の世代を超えた

     友好実現のために努力しなければならない 

     

    ● 三笠宮崇仁 THIS IS 読売 

       1994年8月号 インタビュ-に答えて     

     最近の新聞などで議論されているものを見ますと、

     なんだか人数のことが

     問題になっているような気がします。

     辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すこと

     と書いてあります。

     つまり、人数は関係ありません。

     私が戦地で強いショックを受けたのは、

     ある青年将校から

     「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして

     銃剣術の練習をするのがいちばんよい。

     それで根性ができる」という話を聞いたときでした。

     それ以来、陸軍士官学校で受けた教

     育とは一体何だったのかという

     懐疑に駆られました。     

     また、南京の総司令部では、

     満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。

     それには、広い野原に中国人の捕虜が,

     たぶん杭にくくりつけられており、

     また、そこに毒ガスが放射されたり、

     毒ガス弾が発射されたりしていました。

     ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。

     これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。

     しかし、日本軍が昔からこんなだったのではありません。

     北京駐在の岡村寧次大将などは、

     その前から軍紀、軍律の乱れを心配され、

     四悪(強姦、略奪、放火、殺人)厳禁と

     いうことを言われていました。

     私も北京に行って直接聞いた事があります。     

     日清、日露戦争の際には、小隊長まで

     「国際法」の冊子をポケットに入れていたと

     聞きました。

     戦後ロシア人の捕虜が

     日本内地に収容されていましたし、

     第1次大戦の時には

     ドイツ人の捕虜がたくさんん来ていました。

     彼らは国際法に基づいて

     保護されていましたから、

     皆親日になったのです。       

        以下省略

     

    ● 小川哲雄 三笠宮崇仁について 

       「日中戦争秘話」 から

     注:登場する総軍若杉参謀とは

       三笠宮崇仁親王の事です

     あれは昭和18年の春頃ではなかったか。

     総軍の若杉参謀から

     総軍司令部尉官将校に対し、

     次のような命令が下された。

     「支那事変が今に至るも解決せざる

     根本原因について思うところを述べよ」

     但し、3行30字以内とする。     

     文章は長ければ楽だが、

     短くすればするほど難しい。

     われわれ若手将校はあれこれと

     知恵をしぼって解答を書いた。     

     数日後、総司令部大会堂に

     尉官将官数百名が参集した。

     壇上には黒板を背にして若杉参謀が立たれ、

     左右に総軍司令官、以下参謀長、

     将官、佐官がずらりと居並んだ。

     陪席という格好である。     

     若杉参謀の講評がはじまった。     

     「支那事変未解決の根本理由に関する

     諸官の解答についてつぶさに目を通した」     

     参謀はその解答の代表的なものについて

     一枚一枚手にとって読み上げられた。       

       曰く、蒋介石の徹底した抗日教育       

       曰く、ソ連の延安を通ずる支援       

       曰く、英米の物的支援       

       曰く、ビルマル-トの打通       

       曰く、中国大陸の広大さ。

       等々   

     若杉参謀はその各々について、

     解説を加え、

     事変未解決の一つの

     原因であるかも知れない、とされながら、     

     「しかし、そのいずれにも本官は満足しない。

     諸官の解答は事変未解決の

     原因の一つだとしても、

     それは単に枝葉末節的、

     あるいは部分的原因にすぎない。

     いずれも本官の考える根本的原因には程遠い。

     諸官の解答は落第である。」

     若杉参謀は机の上に積み重ねた

     解答の中から1通の答案を取り出し、

     「但し、この解答だけは

     本官が期待した唯一のものである」    

     「沢井中尉、前えっ」     

     沢井中尉は私と軍事顧問部の

     同僚であり、大阪外語の出身であった。     

     「読みたまえ」    

     沢井中尉は自分の書いた答案を

     両手で目の前に掲げながら、

     大きな声で読み上げた。

     「支那事変未解決の根本原因は、

     日本人が真の日本人に徹せざるにあり」    

     沢井中尉が読み終わると、間髪をいれず、

     若杉参謀の声が語気鋭く講堂にひびいた。

     「その通り。事変未解決の根本原因は

     日本人が真の日本人としての

     行動をしていないからだ。

     略奪暴行を行いながら何の皇軍か。

     現地の一般民衆を苦しめながら

     聖戦とは何事か。

     大陸における日本軍官民の

     このような在り方で、

     いったい陛下の大御心に

     そっているとでも思っているのか。」

     若杉参謀の前に並ぶわれわれ尉官はもとより、

     左右に居ならぶ総司令官以下、将官佐官、

     ひとしく頭を垂れ、満堂粛として声がなかった。

     若杉参謀はさらに語をついで

     「わが日本軍に最も必要なことは、

     武器でもない、弾薬でもない。

     訓練でもない。これだ。」

     若杉参謀はくるりと後ろを向き、

     黒板に大書された。

     “反省、自粛”

     「自らをかえりみ、自らをつつしみ、

     自らの一挙一動、

     果たして大御心にもとることなきかを

     自らに問うことである」

         以下省略

     

    ● 徳川義親 「最後の殿様-徳川義親自伝」より

       侯爵徳川家19代目の当主

     日本軍に包囲された南京城の一方から、

     揚子江沿いに女、子どもをまじえた

     市民の大群が怒涛のように逃げていく。

     そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。

     中国兵をそのまま逃がしたのでは、

     あとで戦力に影響する。

     そこで、前線で機関銃をすえている

     兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。

     中国兵がまぎれこんでいるとはいえ、

     逃げているのは市民であるから、

     さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。

     それで長中佐は激怒して、

     「人を殺すのはこうするんじゃ」と、

     軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。

      注:部下の日本軍人を斬ったのです。

     おどろいたほかの兵隊が

     いっせいに機関銃を発射し、

     大殺戮となったという。

     長中佐が自慢気にこの話を

     藤田くんにしたので、

     藤田くんは驚いて、

     「長、その話だけはだれにもするなよ」と

     厳重に口どめしたという。

     

    ● 徳川義寛 1936年に天皇の侍従になった。

       「侍従長の遺言」から 

       友人の軍医から聞いた話として     

     昭和12年の南京占領の時、

     日本軍がひどいことをしたということは、

     私は当時から知っていました。

     中国人捕虜を数珠つなぎにして

     撃ち殺すとか・・。

     私の大学の友人で軍医だったのが、

     朝香宮さまのお供で現地へ行って

     見聞した話を、私は聞いていたからです。     

     松井さん(注:松井石根)は中国の勤務が長く、

     南京攻略後、

     「相手の死者も浮かばれまい」と、

     現地で日中両方の慰霊祭をやろうとした。

     ところが、下の師団長クラスに笑われ

     反対されたということでした。

     みな、「戦争なんだから

     そういうこともあっても・・・・」

     といった感じだったそうです。

     松井さんは日露戦争も経験していたから、

     日本の捕虜の扱いが日露の頃は

     丁重だったことをよく知っていた。

     しかし、南京では、

     上の言うことを下が聞かず、

     軍紀の抑えがきかなくなっていた。

     それで松井さんは後に

     熱海に興亜観音を造った。

     松井さんは立派だったと思いますね。

     南京虐殺があったとか無かったとか

     論争があるそうですが、

     当時も関係者の多くは事実を知っていたんです。

     陛下が知っておられたどうかはわかりませんが、

     折にふれて「日露戦争の時の軍とは違う」

     ということはおっしゃっていました。

     

    ● 法眼晋作 回顧録「外交の真髄を求めて」

       欧亜局長、外務事務次官

     電信専門の官補時代に

     もっともショックを受けたのは、

     南京事件であった。

     敗走する中国軍を追って

     南京を占領した日本軍が、

     筆舌を絶する乱暴を働いた事実である。

     あまりに乱暴狼藉がひどいので、

     石射猪太郎東亜局長が

     陸軍軍務局長に軍紀の是正を求め、

     広田外相も陸軍大臣に強く注意して自制を求めた。

     軍は参謀本部2部長・本間中将を

     現地に送って、ようやく事態は沈静に向った。

     戦後現在に至って、南京事件の事実を否定し、

     これがため著書を発行したり、

     事実無根との訴訟を起こす者も出てきた。

     また、被害者の数を問題にする者もいる。

     残虐行為は被害者の数が問題なのではない。

     私に理解できぬのは、

     この世界を震駭し、

     知らぬは日本人ばかりなりと言われた

     大事件を、如何なる魂胆かは知らぬが

     否定し、訴訟まで起こす者のいることで、

     このようなことはまことに

     不正命なことと言わねばならぬ。

     盗人猛々しいくらいの形容詞では足りぬ。

     歴史的事実はいかなるものであれ、

     事実として認めるほうが宜しい。

     さもなくば、日本は事実を秘匿し始めた、

     将来またやるかも知れぬ、

     と案じる外国人も出てこよう。

     この未曾有の事件を否定すればするほど、

     日本の恥の上塗りとなるくらいのことは、

     常識であると思う。

     

    ● 児玉誉士夫 随想・対談「われ かく戦えり」より 

       1949年、1973年再版

       注:戦後右翼の大物と言われた。

         直接南京には触れていないが。

     自分は日本を発つ前に

     外務省情報部長河相達夫氏を訪ねて、

     外地を旅するに必要な援助と注意を受けたが、

     その時河相が数枚の写真を見せて

     「これが天皇の軍隊がすることだろうか」

     と言って憤慨していたが、

     それは現地にある日本軍が

     中国の婦女に暴行を加えている、

     みるに堪えぬ写真であった。

     そのとき、ふと、これは中国政府が

     民衆に抗日思想を宣伝するための

     トリックではなかろうかと疑ったが、

     いろいろなできごとに直面してみると、

     この写真は真実であることを

     肯定せざるを得なかった。     

     当時、大同では「大同に処女なし」と

     いう言葉があったが、

     この言葉の意味は日本軍の

     恥辱を意味するものであった。

     また占領地の寺や廟に行ってみても

     仏像の首などが無残にとり毀され、

     その壁には「何年何月何部隊占領」

     などと落書きしてあった。

     人間が神や聖人でないかぎり、

     どこの軍隊でも若干の非行はあるとしても、

     当時、日増しに激化してきた

     中国の抗日思想の源が満州事変のみではなく、

     こうした日本軍の常識はずれの行為が

     さらにそれに拍車をかける結果になったのだと思う。

     

    ●当時の外務大臣広田弘毅の自伝から 

       日高信六郎の証言     

     しかし、何と言っても残虐事件の

     最大の原因の一つは、

     上層部の命令が徹底しなかったことであろう。

     たとえば捕虜の処遇については、

     高級参謀は松井さん同様心胆を砕いていたが、

     実際には、入城直後でもあり、

     恐怖心も手伝って無闇に殺してしまったらしい。

     揚子江岸に捕虜たちの死骸が

     数珠つなぎになって累々と

     打ち捨てられているさまは、

     いいようもないほど不愉快であった。

     しかし心がけのいい軍人も

     少なくなかったし、

     憲兵もよくやっていたが、

     入城式の前日憲兵隊長から聞いたところでは、

     憲兵隊員は14名に過ぎず、

     数日中に40名の補助憲兵が

     得られるという次第であったから、

     兵の取締まりに

     手が廻らなかったのは当然だった。

     そして一度残虐な行為が始まると

     自然残虐なことに慣れ、

     また一種の嗜虐的心理になるらしい。

     戦争がすんでホッとしたときに、

     食料はないし、燃料もない。

     みんなが勝手に徴発を始める。

     床をはがして燃やす前に、

     床そのものに火をつける。

     荷物を市民に運ばせて、用が済むと、

     「ご苦労さん」という代わりに射ち殺してしまう。

     不感症になっていて、

     たいして驚かないという有様であった。  

     

    ● 「亜細亜の烽火」 エドガ-・スノ-の書籍の翻訳

       1943年9月大東亜省総務局出版     

     南京虐殺の血なまぐさい物語は、

     今や世界に可也り聞こえている・・・・

     日本軍は南京のみで4万2千人を虐殺  

     

    ● 小川愛次郎 南満州鉄道上海事務所勤務 

       1938年7月27日「時局の動向と収拾策」(原文カナ)     

     虐殺放火が盛んに行なわれた。

     南京陥落直後だけでも市民中の

     男子狩り出されて機関銃の掃射を

     蒙ったもの万をもって数ふべく。

     市街の火災の多くは

     占領後日本兵の放火である。

     これらは・・・・殆ど悪戯的に行なわれて居る。

     全く軍紀の荒廃から来て居る  

     

    ● 中村豊一 在香港総領事 

       「時局解決に関する一考察」(原文カナ)

     彼らは(注:中国人の事)日本軍の

     進出に依りて国民党の暴政、

     軍隊の横暴より免れ得べしと

     期待し居りたるものもあるべし、

     然るに今次の日本軍隊の進出に当たりて

     意外にもその暴行ぶりは支那民衆の憤激を買い、

     彼等の日本軍に対する信頼の

     大なりしだけにその失望もまた

     頗る大なるものあり。

     これ等は内地及び現地に於いては

     事実隠蔽せられ居るも

     外国通信員及び南支に於ける

     出版物に於いては忌憚なく発表せられ居り。

     内地に於いては想像も及ばざるところなり

     

    ● 外務省東亜局長 石射猪太郎の日記から     

    13年1月6日 

     上海から来信、南京における

     我が軍の暴状を詳報し来る。

     掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。

     ああこれが皇軍か。

     日本国民民心の頽廃の発露であろう。

     大きな社会問題だ。

     

    ● 元教育総監 真崎甚三郎大将 日記       

    13年1月28日 

     軍紀風紀頽廃し、

     これを建て直さざれば真面目の戦闘に

     耐えずということに帰着せり。

     強盗、強姦、掠奪、

     聞くに忍びざるものありたり

     

    ● 畑俊六教育総監 日記       

    13年1月29日 

     支那派遣軍も作戦一段落とともに、

     軍紀風紀ようやく頽廃、掠奪、強姦類の

     まことに忌まわしき行為も

     少からざる様なれば、

     この際召集予後備役者を内地に帰らしめ、

     また上海方面にある松井大将も

     現役者にもって代わらしめ、

     また軍司令官、師団長などの招集者も

     逐次現役者をもって交代せしむるの必要あり。

     この意見を大臣に進言いたしおきたる

     

    ● 田中新一 陸軍省軍事課長の記録

       「支那事変記録 其の四」       

     38年1月12日、

     陸軍省局長会報 

     阿南惟幾陸軍省人事課長の報告

     軍紀風紀の現状は

     皇軍の一大汚点なり。

     強姦、掠奪たえず、

     現に厳重に取締りに努力しあるも

     部下の掌握不十分、

     未教育補充兵等に問題なおたえず

     

    ● 上記田中新一 阿南報告に答えて            

     陸軍内部おける多年の積弊が

     支那事変を通じて如実に

     露呈せられたものとみるべく、

     その百幣醞醸の深刻さには

     改めて驚かされる次第なり    

     

    ● 「支那事変より帰還する軍隊及び

      軍人の言論指導取締に関する件」

       陸軍次官から関係陸軍部隊宛の通牒 

       1939年2月(原文カナ)

      注:中国戦線から帰還した兵士が

        虐殺や強姦のことを自慢そうに言い立てるので、

        困った軍首脳が取締まる為に出したものです。

        その添付参考資料に

        「事変地より帰還の軍隊・軍人の状況」とあり

        自慢している例が書かれています。

     ☆○○で親子4人を捕へ、

      娘は女郎同様に弄んで居たが、

      親があまり娘を返せと言うので

      親は殺し、残る娘は部隊出発まで

      相変わらず弄んで、

      出発間際に殺してしまった。

     ☆ある中隊長は、

      「あまり問題が起らぬ様に金をやるか、

      又は用を済ました後は分からぬように

      殺して置く様にしろ」と暗に強姦を教えていた。

     ☆戦争に参加した軍人を

      一々調べたら、皆、殺人・強盗・強姦の

      犯人ばかりだろう

     ☆戦地で強姦位は何とも思わぬ。

      現行犯を憲兵に発見せられ

      発砲して抵抗した奴もある

     ☆約半年にわたる戦闘中に

      覚えたのは強姦と強盗位のものだ

     

    ● 広瀬豊中佐の談話  

       「黄河・揚子江・珠江―中国勤務の思い出」

       宇都宮直賢 から

     広瀬中佐は南京事件に際して、

     外国権益の侵害にたいする保障として

     陸軍省が南京に派遣、駐在させた将校です。

     カナダ駐在武官経験があるキャリアでした。

     1938年1月30日上海派遣軍附、3月2日派遣軍の参謀になる。

     「私が南京駐在の日本領事たちと

     現地ではっきりと見聞きしたところでも、

     多数の婦女子が金陵大学構内で暴行され、

     殺害されたことは遺憾ながら事実であり、

     実に目を蔽いたくなる光景だった・・・」

     

    ● 林部隊法務部「対住民犯ニ付テ(口演要旨)」(原文カナ)

        防衛省防衛研究所戦史研究センタ-資料室所蔵資料        

        季刊戦争責任研究第86号 松野誠也論文から

      この資料は「烈10353部隊」の

      関連する資料に綴じられています。

      「烈10353部隊」は第15軍(ビルマ方面軍)の

      第31師団、歩兵第58連隊のことです。

      通称林部隊とは第15軍のことを

      指しますので、

      第15軍の法務部の資料と思われます。

      この口演要旨の発表された時期は

      1943年12月~1944年2月と思われます。

      時期的に直接南京事件に触れている

      内容ではありませんが、

      例として話されています。

    第一 概観          

     掠奪及び強姦は外国に在りて

     古来戦場の習、

     戦争の常として極めて頻繁に行われ、

     時としては戦争目的の一つが

     掠奪に在りたることあり、

     又掠奪、強姦は将兵に対する

     論功又は報酬として

     欠くべからざるものと為され居たり、

     これに反して我が国にては

     古来の国内戦に於いても

     対住民犯は殆ど之をみず、

     住民は秋毫(しゅうごう・僅か)も犯すべからず

     と云うことは古来武将の信条の一つなりしなり、

     之我が国武士道に基づくものなるも

     一面武将は各種の方法を以て

     防止に力めたる事実を看守するを得

     外征の役たる日清、日露役も

     同様にして我が将兵の厳正なる態度は

     戦地住民はもとより

     広く世の賛嘆したるところなり

     シベリア事変、済南事変を経て満州事変も

     同様にして

     特に満州事変は長期にわたり

     大なる兵力を動かしながら

     対住民犯は真に寥々たるものにして

     軍の威信に暗影を投ずるが如きことなかりき、

     次いで支那事変に至り我が国としては

     空前とも言うべき対住民犯の発生を見、

     殊に事変初期南京陥落迄の間

     忌むべき犯行が各所に於いて頻々と行われ

     軍の威信を損じたるものありたるは

     遺憾に堪えず、・・・・

     昭和17年度南方軍全軍にては

     対住民犯に依り

     刑罰に処せられたる者330名、

     内掠奪罪168名、強姦罪107名を

     数ふることは将来に備え

     深き注意を要することなり。

    第二 原因          

     ・・・・殊に支那に於いては

     敵意を抱く住民に対する制裁、

     又は復讐の念より犯さるること少なからず・・・・       

    第三 態様          

     ト. 強姦は駐留中に多く作戦中

       又は進撃中少なきものと理解するは、

       必ずしも当らず、

       支那に於ける実例に依れば

       住民避難しあらざる地域を

       進攻中最も多発したり       

    第四 防止対策          

     二・リ、

      歴戦者、特に支那事変初期に於ける

      歴戦者には対住民犯の経験を有する者あり    

      これ等の者は誇張せる経験談等により

      他兵に悪影響を及ぼすところあり

     

    日本政府や軍が困っていたことは

    外国の新聞のニュ-スからも伺えます。

     

    ● ニュ-ヨ-ク・タイムス 

       1937年12月19日 ハレット・アベンド

     [日本軍、南京の行き過ぎを抑制] 

           上海発特別無線

     日本陸軍上層部は、南京入城を

     国家の不名誉なものにした

     略奪、暴行、殺戮を速やかに

     終息させるために、

     遅ればせながら厳しい

     懲戒手段をとりはじめた。

     たけり狂った部下が、

     数百人の非武装の捕虜、民間人、婦女子を

     でたらめに殺害するという衝撃的な不行跡が、

     中支那方面軍司令官松井石根大将には

     一切知られないようにするために、

     必死の努力がなされているものと思われる。

     ところが、この狡猾な老武将は、

     下級将校の中にはもみ消し工作に

     関与しているものがいることを、

     すでにうすうす気づいている様子である。

    日本の国民も、武勇と義侠の誉れ高い

     陸軍を長く誇りにしてきた。

     が、中国の大略奪集団が町を襲う時より

     ひどい日本兵の振る舞いが発覚した今や、

     国家の誇りは地に落ちてしまった。・・・・

     この衝撃的な事実を

     隠蔽しようとしても無駄である、

     と日本当局は沈痛に受け止めている。

     偏見やヒステリ-に満ちた

     中国人の言うことには、

     日本兵の蛮行を告発する根拠は見いだせなくても、

     忌まわしい事件の間じゅう市内に留まり、

     今なおそこにいて、

     絶え間なく続く暴行を書きとめている   

     信頼のおける米・独人の日記や覚書によって、

     日本兵の蛮行は告発されるだろう。・・・・

     日本陸軍は、

     いかなる外国人にも長期にわたって

     南京に入ってもらいたくなかったし、

     今後も許可を与えないだろう。

     だがすぐに内にいる外国人は

     外部との接触手段を見つけるであろう。・・・・

     南京占領という輝かしい戦いは、

     日本軍の戦史に栄光の記録として

     つけ加えられるのではなく、

     日本国がその極悪非道を必ず

     後悔するような歴史の1ペ-ジを

     書き直す事になろう。

     日本の政府機関のあらゆる部門に働く、

     信頼できる心ある役人達は、

     起こった事を過小評価しようとはしていない。

     それどころか彼らは多くの点において

     状況が世間一般に知られている以上に

     悪くなっていることに狼狽している。・・・・  

     

     

     

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  • 第二次上海事変から全面戦へと拡大 1

    2020/09/04
    16:28

    大山中尉殺害事件は1937年8月9日です。

    その後事件はどのように拡大し、

    事変になったのか時間の流れで見ます。

    非常に手っ取り早く事が進むのがわかります。

     

    8月10日から書きます。

     

    ● 8月10日 

     呉海兵集団の呉第2特別陸戦隊が出航、

     13日から上海での戦闘開始

     

    ● 8月10日(同日)  

     海軍軍令部は「大山事件対処方針と時局処理方針」を決定

     

    「大山事件対処方針と時局処理方針」

    要旨

     大山事件の解決は将来この種事件の

     根絶を期する方針とし、

     左記要求事項の充足を目途として

     交渉するを要す。

     而して支那側当事者に於て

     解決実行に対し誠意を示さざるに於ては、

     実力を以て之を強制するも

     敢えて辞せざる決意あるを要す。

    要求事項

     1. 事件責任者の陳謝及処刑

     2. 将来に対する保障

    (1)停戦協定地区内に於ける

      保安隊員数、装備、駐屯地の制限

    (2)右地区に於ける陣地の防衛施設の撤去

    (3)右の実行を監視すべき日支兵団委員会の設置

    (4)排抗日の取締励行

     

    ● 8月10、

     軍令部や伏見宮総長から

     海軍省に陸兵派遣の要請が出されたが、

     米内海軍大臣は和平交渉が進行中のため

     陸軍派兵は見送る方針を表明した

     

    ● 8月12日 

     上記海軍の要求事項を受けて

     中国国民党は中央常任委員会を開催し、  

     蒋介石軍事委員会委員長は

     「承認することは不可能」

     「戦闘準備の命令」を出しました。

     

    ● 8月12日(同日)  

     海軍軍令部総長伏見宮から

     長谷川清第三艦隊司令長官に

     機密電報による指示がされた。

     ◎機密電報

    1. 第三艦隊司令長官は

     敵総攻撃し来らば上海居留民保護に

     必要なる地域を確保すると共に  

     機を失せず航空兵力を撃破すべし

    2. 兵力の支出に関する制限を解除す

     

    ● 8月12日(同日)  

     軍令部第一部長の近藤中将から

     第三艦隊司令長官宛に

     陸軍の派兵に関する機密電報が出された。

     ◎機密電報

      陸軍出兵は未決定なるも出兵の場合は

      2個師団同時派兵のことに協定しあり。

      但し陸軍の前進攻撃行動開始は

      概ね動員20日後なるに付、

      其の間海軍陸戦隊の戦闘

      正面は成るべく之を拡大することなく、

      陸軍派兵を待つ如く考慮あり度。

       注1:陸軍の準備は

           20日要するということです。

             このことでも海軍が事前準備を

          していたことがこれでも分かります。

       注2:石原莞爾中将回応答録から

           今次の上海出兵は海軍が

           引きずって行ったものといっても

           差し支えないと思う・・・・

           私は上海に絶対に出兵したくなかったが、

           実は前に海軍と 出兵する協定がある・・・・

     

    ● 8月12日(同日)  

     第三艦隊司令長官は

     南京等への空襲命令を発令し、

     第1連合航空隊、第2連合航空隊は

     出撃待機を整えた。

     

    ● 8月12日(同日)  

     長谷川第三艦隊司令長官は

     陸軍派兵をの緊急要請をした。

     首相、海相、陸相、外相の

     緊急4相会議が開かれ、

     陸軍の上海派兵が決定された。

     

    ● 8月13日   

     長谷川清第三艦隊司令長官は東京に

     「此の際、速やかに陸軍派兵促進緊要なり

     と認む」と打電した。

     軍令部から「本13日陸軍派兵決定せり、

     派兵時機兵数等に就いては追って通知す」の

     電報が上海に打電された。

     

    ● 8月13日(同日)  

     長谷川清第三艦隊司令長官から

     次の命令が出された。

     (命令)

     明14日空襲を実施する場合

     航空部隊の任務行動を左の通予定す

     1.敵情  

       第三艦隊機密第558及561番電の通

     2.空襲部隊は全力を挙げて

      敵航空基地を急襲し、

      敵航空兵力を覆滅すべし。 

      此の場合飛行機隊の行動は

      特に隠密を旨とし

      高高度天象の利用に務るものとす。

     3.空襲目標

      第2空襲部隊 

       第2航空戦隊 南京・広徳・杭州

      第3空襲部隊(台湾部隊) 

       第1連合航空隊鹿屋隊 南昌

      第8・第1航空戦隊及第1水雷隊飛行機  

       虹橋

      第1空襲部隊 

       第1航空戦隊及第3空襲部隊(大村部隊)

      第1連合航空隊木更津隊を

       使用し得る場合は追って令す。

     4.飛行隊の進発及攻撃時期は特令す。

     内容:此の際、速やかに陸軍派兵促進緊要なりと認む

     

    ● 8月13日 

     日本での閣議では派兵に消極的だった

     石原作戦部長の意見は抑えられた。

     

    ● 8月14日 10時頃、

     中国軍は先制攻撃を開始し、

     中国空軍は第3艦隊旗艦「出雲」や

     陸戦隊本部、日本人学校を攻撃した。   

     先制攻撃されて長谷川長官は怒り、

     嵐の中にもかかわらず出撃を命令した。

      注:実は12日に出撃命令を出し、

        13日に攻撃する予定が嵐のため

        14日に延期されたのです。

          先制攻撃するつもりが先にされてしまったのです。

     

    ● 同日  

     政府は名古屋の第3師団及び

     善通寺の第11師団の出兵を決定した

     

    ● 同日     

     臨時閣議で消極的だった米内光政海相も

     「出雲」を攻撃されたことから

     「不拡大方針」の放棄を主張し、

     南京占領の提言も始めました。 

     上海への陸軍の派遣を決定しました。

     

    ● 同日  

     軍令部は次の海軍声明を発表した。

     ◎本14日午前10時頃、支那飛行機10数機は

      我艦船、陸戦隊本部及総領事館等に対し

      爆撃を加うるの不法を敢えてし、

      暴戻言語に絶す。  

      帝国海軍は今日迄隠忍を重ね来りしが、  

      今や必要にして且有効なる

      あらゆる手段を執らざるべからずに至れる・・・・

     

     ● 同日  

     中国軍の暗号を解読して攻撃を

     予想していた海軍は、渡洋爆撃を開始しました。

     

    ● 同日  

     「軍令部は大海令第13号」を発令

     1. 帝国は上海に派兵し、

      同地に於ける帝国臣民を保護するとともに

      当面の支那軍を撃破するに決す

     2. 第3艦隊司令長官は・・・・

      所要の地域を確保し、

      同方面における敵陸軍

      及中支那に於ける敵航空兵力を

      撃破すると共に所要海面を制圧し、

      必要に応じ敵艦隊を撃破すべし・・・・

     注:海軍は政府や陸軍よりも先に

       不拡大方針を止めて全面戦争を準備したのです。

       つまり7月12日の海軍軍令部

       「対支作戦計画内案」の第二段階に突入したのです。      

          海軍の計画通りに仕掛けが成功したのです。

         

    ● 同日 夕方、

     広徳及び杭州の飛行場爆撃

     

    ● 8月15日 南昌及び南京の飛行場爆撃

     

    ● 8月15日(同日)  

     午前1時半、近衛内閣は下記の

     帝国政府声明を発表した。

     ◎帝国政府声明

       事変発生いらいしばしば

      声明したるごとく、

      帝国は隠忍に重ね事件の不拡大を方針とし、  

      つとめて平和的かつ局地的に

      処理せんと企図し・・・・

      (南京政府は)兵を集めて

      いよいよ挑発的態度を露骨にし、  

      上海においてはついに、

      我に向って砲火を開き、

      帝国軍艦に対して爆撃を加わうるにいたれり。  

      かくのごとく支那側が帝国を侮辱して

      不法暴虐いたらざるなく、  

      全支にわたる我が居留民の

      生命財産危殆に陥るにおよんでは、  

      帝国としてはもはや隠忍その限度にたっし、

      支那軍の暴戻を膺懲し、

      もって南京政府の反省を促すため、

      今や断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり。

     注:暴戻-ぼうれい、ぼうるい・・・

       残酷で人道に外れている事

          膺懲-打ち懲らしめる事

     

    ● 同日  

     国民党政府は総動員を下令し

     蒋介石は自ら陸海空の総司令官に就任し、 

      中国共産党は「抗日救国十大綱領」を

     宣言し全面戦争は開始されたのです。

     

    ● 同日 

     上海派遣軍が編成され、

     予備役の松井石根大将を指揮官として   

     名古屋の第3師団、善通寺の第11師団

     (天谷支隊を除く)の派遣命令が出ました。   

     その任務の範囲は「海軍と協力して

     上海付近の敵を掃滅し上海並びに

     その北方地区の要線を占領し

     帝国臣民を保護すべし」いう

     限定されたものでした。

      注:米内海相や軍部に追従していった

        近衛首相の様子を批判している

        外交官もいました。

        石射 外務省東亜局長の日記を見ます

     

    ◎石射猪太郎 外務省東亜局長の日記から

     8月13日 

      上海では今朝9時過ぎから

      とうとう打ち出した。

      平和工作一頓挫である。・・・・ 

      海軍もだんだん狼になりつつある

      同14日 

      海軍は南京を空爆すると云う。

      とめたが聴きそうもない。 

      陸戦隊は日本人保護なんかの使命は

      どこかに吹きとばして今や本腰に喧嘩だ。 

      もう我慢ならぬと海軍の声明

      同16日 

      豊田軍務局長も事態を知るが故に

      停戦を欲して居るのだが、 

      海軍部内の昂奮に手が出ないようだ

        同31日 

      近衛首相の議会草稿を見る。

      軍部に強いられた案であるに相違ない。 

      支那を膺懲とある。 

      排日抗日をやめさせるには

      最後までブッたたかねばならぬとある。 

      彼は日本をどこへ持って行くというのか。 

      アキレはてた非常時首相だ。 

      彼はダメダ

     

    つづきを読む

  • 大東亜共栄圏

    2020/07/17
    16:20

    このレポ-トの目的は戦後私たちが

    あまり知らなかった事実を中心に書くことにあります。

    そして事実に基づく歴史認識を

    私たち日本人の共通認識にしたいと思っています。

    現在でもそう呼ぶ人がいますが、

    昔は大東亜戦争と呼んでいました。

    大東亜共栄圏を作るための戦争ということでそう呼んだのです。

    アジアの資源を目的に中国への侵略を開始したのですが、

    欧米諸国の猛烈な反発を受け、

    日本は経済封鎖までされていました。

    そこで中国侵略で疲弊した国家経済を建て直すために、

    強引に東南アジアに新たな資源を求める計画をたて、

    さらに中国を支援する何本ものル-トを絶とうとしたのです。

    しかし戦争を仕掛ける理由がありません。

    当時東南アジアの多くはアメリカ、フランス、

    オランダ、イギリスといった西欧強国の植民地でした。

    そこで日本は西欧からアジアを解放し

    天皇の威光のもとでアジアの共栄圏を作るんだ、

    そしてそのための戦争なんだという大義名分を掲げました。

    これが「大東亜共栄圏」構想です。

    そのせいでしょうか、

    日本人には今でも戦後東南アジアの諸国が独立できたのは

    日本のおかげである・・・・と信じている人がいます。

    日本が侵略した結果、偶然戦後独立出来た例もあります。

    これは放火をして全焼したから後で綺麗な家が建った。

    放火のおかげだろうと主張するようなものです。

     

    実際に日本軍が大東亜と言われる地域で

    どの様な戦争をしたのでしょうか?

    まず戦争とは言ってもアジアの国々とは

    宣戦布告をしていませんから戦争ではなく

    一方的に侵略をしたのだということ、

    約3年半の間、宣戦布告をしていないアジアが

    戦場だったのだということを踏まえていてください。

     

    ◎本当にアジア解放のための戦争だったのか-

     アジアの人々の将来を思って戦ったのか?

    ◎日本軍が中国で行なった虐殺と同じ事が

     アジアでは無かったのか?

    ◎日本は大東亜共栄圏という美辞麗句の通りの戦争をしたのか?

    ◎そして各国の独立に貢献し、戦後感謝されているのだろうか?

    ◎これらのことを考えるために、

     戦争の中で起きた忌まわしい事件を

     幾つか取り上げて考えて見たいと思います。

     

    そしてそれらの事件を私たち日本人が知る事で、

    アジアの人たちの本当の気持ちが、

    つまり日本や日本人を本音ではどう見ているのかが

    理解出来るのではないかと思います。

     

    「大東亜共栄圏の構想 」

    満州事変の立役者といわれた陸軍の石原莞爾は、

    欧米列強の覇道に対決するものとして

    「東亜連盟」という構想を唱えました。

    目的として日本は欧米と戦争しても勝てない。

    だから東亜連盟の名のもとに

    アジアが一体となって欧米と戦争をする。

    その為の「アジア民族解放戦争」をするという考えでした。

     

    大東亜という呼び方が具体的に政治の場に登場するのは、

    1940年(昭和15年)7月に

    第2次近衛内閣が決定した「基本国策要綱」です。

     

    ●基本国策要綱

     皇国の国是は八紘一宇とする肇国(注:国の始まり)の

     大精神に基き世界平和の確立を招来する事を以って根本・・・・

     皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする

     大東亜秩序を建設するに在り・・・・(原文カナ)

     ◎八紘一宇  

      「日本書紀」で神武天皇の即位の時に述べたとされる。

      四方と四隅合わせて八紘(世界の事)

      つまり天下を一つの宇(家)とする。

      つまり全世界を天皇の下に一つにまとめるという思想。

      現代でも西村眞吾前防衛次官のように 

      「大東亜共栄圏、八紘一宇を地球に広げる」等と発言する人がいます。

     

    時の外務大臣松岡洋右は

    8月1日の記者会見で次のように述べています。

     

    ●東京毎日新聞 1940年8月2日

     私は年来皇道を世界に宣布することが

     皇国の使命であると主張してきた者でありますが・・・・

     我が国現前の外交方針としては、

     この皇道の大精神に則り、

     まず日満支をその一環とする

     大東亜共栄圏の確立を計らなければなりません。・・・・

     更に進んで我に同調する友邦と提携、不退転の勇猛心を以って、

     天より課せられたる我が民族の理想と使命の達成を期するべきものと・・・・

     

    同時に「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が発表され、

    日米関係の悪化を認め、

    東南アジアへの武力行使という

    戦争を予想した政策を発表しました。

     

    ●「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」 1940年7月 原文カナ

     帝国は世界情勢の変化に対処し内外の情勢を改善し

     速やかに支那事変の解決を促進すると共に

     好機を捕捉し対南方問題を解決す。

     支那事変の処理未だ終らざる場合において、

     対南方施策を重点とする態勢転換に関しては

     内外諸般の情勢を考慮して之を定む。

     

    1940年9月には「皇国ノ大東亜新秩序建設ノ為ノ生存権」で

    大東亜の範囲を決めました。

     

    ●大東亜の範囲

     日本、満州、支那、日本の委任統治領南洋諸島

     フランス領インドシナ(ベトナム)と太平洋諸島、

     英領マラヤ(マレ-半島)、ボルネオ、ビルマ、インド、

     英自治領オ-ストラリア、ニュ-ジ-ランド、

     オランダ領東インド(インドネシア)、タイ

     

    大東亜共栄圏という言葉が正式に登場するのはこの頃からです。

    挙国一致、大政翼賛の時代で言論統制も厳しい時代でしたから、

    上から下まで大東亜戦争は「聖戦」であるという

    大義名分で戦争に突入しました。

    中には本当にアジア民族解放を信じて戦った軍人もいたようですが!

     

    「 大政翼賛」 

    全てが天皇を中心に日本中が心を一つにして

    大東亜戦争に進んでしまいました。

    反対勢力が無く異論を唱えると非国民扱いされる時代でした。

    このような体制を大政翼賛体制と言います。

    1940年(昭和15年)10月に

    国民統合組織として大政翼賛会が出来ました。

    既成政党を解散し、各種報国会や大日本婦人会を傘下にして、

    国民全てで天皇を中心にして戦争に向かう体制を取ったのです。

    言論の統制も厳しかった為、

    本来民主的な立場にいるはずの人たちや、

    敗戦後民主的な活動をした人たちが

    当時は大東亜戦争を賛美する文章を書いていました。

    一旦全体主義になってしまうと、

    異なる意見は徹底的に弾圧されますから

    仕方がないことなのでしょう。

    現代社会、特に最近は気をつけなければならないことです。

     

    ●大東亜文学者大会 大会宣言      

     昭和17年11月5日(日本学芸新聞 昭和17年11月15日)

     ・・・・大東亜戦争の勃発はわれ等

     東洋の全文学者に根源よりの奮起を促し、

     東洋再建の牢固たる決意を齎(もたら)したり・・・・

     温かき親愛の下に東洋の大生命を

     世界に顕揚すべく鋭意実行を期す・・・・

     しかしてこれが成否はひとえに

     大東亜戦の勝利にかかれり、

     われ等アジアの全文学者、

     日本を先陣とし、生死を一にして

     偉大なる日の東洋に来らんがため力を尽さむ。

     

    ●詩人 佐藤春夫の詩「大東亜戦史序曲」

     天の一方、天孫の再臨の聖地のあたり

     皇道の明星ありて世紀の朝にかがやき

     大東亜に愛の秩序の暁を約するを

     

    ●三好達治の詩

     大東亜共栄圏の 青空は僕らの空

     日の丸ひるがへる空

     何人の汚すもゆるさず

     大東亜共栄圏の 青空は僕らの空

     

    ●浅沼稲次郎 論文   戦後の社会党委員長  

       「実業之世界」1940年9月号   

     ・・・・今や事変は満三年を経過し、

     御稜威(注:天皇の威光)の下、

     皇軍将兵諸士の奮闘努力によって戦果非常にあがり、

     汪精衛を中心とする更生支那の建設を見、

     東亜新秩序建設その緒につき、

     国民の一人として感謝感激に耐へざる所であるが、

     昨年9月欧州第2次動乱の突発、

     独伊の圧倒的勝利は旧き欧州秩序をして

     新秩序に置きかへらしめ、

     世界の歴史は特に転換せしめられんとして居る。

     そして欧州情勢の進展は、

     東亜新秩序の建設に当っても幾度か神機が到来しつつある。

     いまこそ、我が日本は東亜新秩序建設を

     阻止する一切の勢力の亜細亜より退陣を求め。

     大東亜共栄圏確立に邁進すべきである。

     

    これに対して個人的日記ですが批判的なことを書いている人もいます。

     

    ●永井荷風 日記「断腸亭日乗」 

    1941年6月15日

     ・・・・今回の戦争は日本軍の

     張作霖暗殺及び満州侵略に始まる。

     日本軍は暴支鷹懲と称して支那の領土を侵略し始めしが、

     長期戦争に窮し果て俄かに名目を変じて

     聖戦と称する無意味な語を用ひ出したり。

     欧州戦乱以降英軍振はざるに乗じ、

     日本政府は独伊の旗下に随従し

     南洋進出を企図するに至れるなり。

     然れどもこれは無知の軍人ら猛悪なる壮士らの

     企るところにして一般人民の喜ぶに非らず。

    注:暴支鷹懲-ぼうしようちょう、

      暴戻な支那を懲らしめるという意味

     

    永井荷風は個人的な日記だから

    批判的な事を書けたのかもしれません。

    思ったことを口に出せないくらい世の中でした。

    なんとなく発言しづらい・・・・

    まだ大丈夫だと思っている内に・・・・

    いざ反対しようとしたら、

    法律でがんじがらめになっていて、

    挙国一致の大政翼賛社会になっていたのです。

    最近の日本を見ていると、

    憲法改正、日の丸・君が代の強制、盗聴法、・・・・

    丁度その頃の雰囲気になっているような気もしないではありません。

     

    「東南アジアへの南進政策」

    1940年ヨーロッパではドイツの攻撃で

    フランスとオランダが降伏しました。

    その時をチャンスとして日本の南進政策が始まりました。

    オランダへは外務大臣の有田八郎が蘭印

    (オランダ領インド、インドネシアの事)ノ資源を

    日本に供給する事を要求しました。

    これに対しては在オランダ公使の

    石射猪太郎が反対を唱えています。

     

    ●石射公使の反対意見

     オランダが国家存亡の関頭にたちつつある際、

     貴殿御訓令の執行は、 

     あたかも臨終の床に

     借金の催促に行きたるの感あり・・・・

     

    しかし、オランダは結局重要戦略物資13品目を

    日本に供給する事を受け入れました。

    フランスに対しては、

    参謀本部は中国への補給路を遮断するために、

    仏印北部(フランス領インドシナ、ベトナムの事)に

    強引に武力進駐をしました。

    そして1941年7月、

    仏印から中国への輸送停止(援蒋ルートの遮断)、

    日本軍の通過と飛行場使用をフランスに認めさせました。

    さらにイギリスにたいしても

    対中国援助を中止させました。

     

    ●援蒋ルート

     侵略をした日本軍と戦っていた

     蒋介石率いる国民党軍を支援するため

     欧米各国は通称「援蒋ルート」と呼ばれたル-トで

     中国に多くの物資を送っていました。

     日本軍としてはそのル-トを遮断する事が

     南方進出の目的の一つでした。

     援蒋ルートは色々ありました

     ◎ベトナムから  

     ◎ビルマから  

     ◎香港から

     

    「ABCD包囲網 」

    日本の南進政策に対し各国は厳しく対処し、

    通商条約、石油条約の破棄、

    或いは日本資産の凍結等の処置をとりました。

    当時の日本人は、せっかく善意で大東亜の事を考えているのに、

    各国から不当な圧迫を受けていると思い、

    だから戦争になったと主張しました。

    日本に経済制裁をした主要な国は、

    アメリカ(A)、イギリス(B)、中国(C)、オランダ(D)の国でしたので、

    頭文字をとってABCD包囲網と呼びました。

    現代でも太平洋戦争の原因はABCD包囲だと考えている人がいます。

    しかしアメリカは1941年8月まで

    ガソリン類を日本に輸出しているので、

    日本の南進政策と戦争開始決定の方が

    早く決まっていたようです。

     

    「戦争開始」

    1941年9月6日、政府、大本営首脳が

    天皇臨席の御前会議で「帝国国策遂行要領」が決まりました。

     

    ●帝国国策遂行要領

     帝国は現下の急迫せる情勢

     特に米英蘭等各国のとれる対日工作、 

     ソ連の情勢及び帝国国力の弾発性(弾力性)等に鑑み、

     「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」中、

     南方に対する施策を左記より遂行す

     1 帝国は自存自衛を全うするため、

        対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に

        概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す。

        以下省略

     

    10月29日、

    参謀総長裁可のもとに

    「対英米蘭戦争帝国陸軍作戦計画」が完成し、

    11月5日の御前会議で決定されました。

    12月1日の御前会議で開戦が決定され、

    大海命が聯合艦隊司令長官山本五十六に対し出されました。

      注:天皇から海軍に対する直接命令、陸軍へは大陸命

     1 帝国は、12月上旬を期して、米英蘭に対し開戦する事を決す

     2   聯合艦隊司令長官は、

       在東洋敵艦隊及び航空兵力を撃滅するとともに、

          敵艦隊東洋方面に来攻せば、これを攻撃すべし

     3 聯合艦隊司令長官は、南方軍総司令部と協同して、

        速やかに東亜における米英蘭の主要根拠地を攻撃し、

        南方要塞を占有確保すべし

     

    翌、12月2日、

    大本営は「ニイタカヤマノボレ1208」という

    戦争開始の暗号電報を全軍に打電しました。

    12月8日に攻撃を開始しろ、と言う意味です。

     

    海南島から出発した侘美宏少将率いる侘美支隊は、

    12月8日早朝2時15分にマレ-半島のコタバル攻撃を開始し、

    イギリス軍との戦闘の中で上陸を開始しました。

      注:侘美支隊は第25軍第18師団(久留米)

        第56連隊を主力とする部隊です。

     

    コタバル上陸はハワイの真珠湾攻撃より1時間前です。

    ですから戦争開始は一般に言われている

    ハワイではなくマレ-半島だったのです。

     

    2日後の12月10日、

    大本営政府連絡会議は、

    この戦争をこれ以降の中国地域の戦争も含めて

    「大東亜戦争」と呼ぶ事に決めました。

    ●12月12日、内閣情報局の説明

     大東亜戦争と称するは、

     大東亜新秩序建設を目的とする

     戦争なることを意味するものにして、

     戦争地域を大東亜に限定する意味にあらず

     

    東南アジアを攻撃した日本軍の体制は次の通りです

     ◎フィリピン    第14軍 司令官 本間雅晴中将

     ◎ビルマ         第15軍 司令官 飯田祥二郎中将

     ◎インドネシア   第16軍 司令官 今村均中将

     ◎香港       第23軍 司令官 酒井隆中将

     ◎マレ-シア    第25軍 司令官 山下奉文中将

     

    ●1941年12月8日の開戦日の日本軍の動きを時間経過で見てみます。

    2時15分  侘美支隊  マレ-半島コタバルに上陸開始

    3時19分  機動部隊(南雲艦隊・南雲忠一中将) 真珠湾攻撃開始

    4時    近衛師団吉田支隊  バンコック南方海岸に上陸開始

    4時12分  第5師団の一部  タイ南部のシンゴラ海岸に上陸開始

    5時38分    シンガポ-ルのセレタ-飛行場を空襲

    7時46分  海軍第4航空戦隊   ミンダナオ島ダバオを空襲

    7時50分  海軍陸戦隊   ルソン海峡バタ-ンに上陸

    8時    第23軍   香港の攻撃開始

     

    「大東亜の国々と占領目的」

    戦争開始前の1941年11月20日には、

    開戦前にもかかわらず大本営政府連絡会議では

    早くも「南方占領地行政実施要領」が決定されました。

    ●実施要領の要点

     1 占領地に対しては差し当たり軍政を実施し治安を回復する

     2 重要国防資源の急速獲得

     3 作戦軍の自活確保

     

    この内容を言い変えると、

    国防資源の獲得が目的で、

    その為に早く治安を回復し、

    さらに軍隊は本国を頼らずに

    現地で何とか自活しろ・・・・ということです。 

    そしてその後に続く文章には、

    この為に現地住民に重圧がかかっても我慢させる、

    住民の要求は占領目的の範囲内を限度とし、

    独立運動を早めに誘発する事は避ける・・・・と

    書かれています。

    占領地における陸軍と海軍の分担も決まっていました。

     

    ●1941年11月26日付「占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定」

     陸軍担当地域  香港、フィリピン、英領マラヤ、

             英領ボルネオ、ビルマ、蘭印スマトラ、ジャワ

     海軍担当地域  その外郭地域

     

    当面の目標としては大きな目的の

    重要国防資源の需要を満たすように戦争を遂行し、

    かつ「大東亜共栄圏自給自足体制を確立」することを目標に、

    南方を甲地域と乙地域に分けました。

     

    ●1941年12月12日 関係大臣会議決定「南方経済対策要綱」

     甲地域(軍政を実施するところ) フィリピン、

         英領マラヤ、英領ボルネオ、蘭印(インドネシア)

     乙地域(現地政権と協同するところ) 仏印(ベトナム)、タイ

     

    1942年1月、

    東条英機首相は帝国議会で演説し「大東亜戦争指導要綱」を発表しました。

    ●大東亜戦指導要綱 1942年1月22日 朝日新聞

     ・・・・大東亜戦争指導の要綱は、

     大東亜における戦略拠点を確保するとともに、

     重要資源地域を我が管制下に収め、

     もって我が戦力を拡充しつつ・・・・

     米英両国を屈服せしむるまで戦い抜く・・・

     大東亜防衛のため絶対必要なる地域は、

     帝国自らこれを把握措置し、

     その他の地域に関しては、各民族の伝統文化に応じ、

     戦局の進展に伴いそれぞれ適当なる措置に出づる・・・・

     比国(フィリピン)に関しては、将来同島の民衆にして、

     帝国の真意を了解し「大東亜共栄圏」建設の

     一翼として協力し来る場合においては、

     帝国は欣然として彼らに独立の栄誉を与えんとするものである・・・・

     

    1942年10月12日の大本営陸軍部の

    「南方占領地各地域別統治要綱」では、

    マラヤ、スマトラは資源だけではなく、

    軍事的にも必要であり「南方経営の核心地帯」とされました。

     マラヤ      経済・交通の中枢

     ビルマ      重要資源の一部補給源、対インド政策の謀略の基地

     フィリピン    重要資源の一部補給源

     北ボルネオ    重要資源特に石油の一部補給源

     ジャワ      重要国防資源、一部補給源、

              南経済自給の為交流資源の供給地

     

    オランダ領インドは翌年独立容認に変更され、

    ビルマとフィリピンは1943年8月に形だけの独立が許されました。

    1945年3月にはアンナン・トンキン(ベトナム)、

    ラオス、カンボジアの3国を独立させました。

     

    「大東亜会議」

    1943年11月5日、東京で大東亜共栄圏に参加している

    国々の首脳を集めて2日間の会議が開かれました。

    今で言うとサミットのようなものです。

    日本が勝手に侵略して作った傀儡政権ばかりで、

    世界に向かって存在と成果をアピ-ルする事が目的だったようです。

    ●参加した国は

     大日本帝国    総理大臣     東条英機

     満州国      国務総理     超景恵

     中華民国(南京)   行政院長     汪兆銘

        注:蒋介石の国民政府とは別に日本が作った傀儡政権です

     タイ国      内閣総理大臣名代 ワンワイタヤコ-ン

     フィリピン共和国 大統領      ホセ・ラウレル

     ビルマ国     内閣総理大臣   バ-・モ-

     オブザ-バ-

      自由インド仮政府  主席  S・チャンドラ・ボ-ス

     

    会議の後、日本政府が用意した「大東亜共同宣言」が発表されました。

    ●大東亜共同宣言 (原文カナ)

     1 大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保、

        道義に基づく共存共栄の秩序を建設す

     1   大東亜各国は相互に自主独立を尊重し

       互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す

     1   大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し

       各民族の創造性を伸暢し大東亜の文化を昴揚す

     1 大東亜各国は互恵の下、緊密に提携し

        其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す

     1 大東亜各国は万邦との交誼を篤うし

        人種的差別を撤廃し普く文化を交流し進んで

        資源を解放し以って世界の進軍に貢献す

     

    非常に理想的な言葉が並んでいます。

    実際に占領地ではどのような事があったのでしょうか。

    これ以降は戦争の経緯より

    戦争中に起きた事件中心に書いていきます。

     

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