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キーワード「米の供給」を含む投稿一覧

  • インドネシア占領と大量動員

    2020/07/23
    11:04

    インドネシアは非常に広大な面積です。

    ジャワ島を中心にスマトラ、ボルネオ、セレベス、

    チモ-ルその他多くの島々と民族で成り立っています。

    そのほとんどがオランダ領で

    石油、ボ-キサイト、ニッケル、マンガン等の産地でした。

    日本はこれらの資源を「重要国防資源」として

    獲得するための一環としてインドネシアを占領したのです。

     

    1941年(昭和16年)11月18日、

    岩国にある海軍航空隊で、

    寺内寿一陸軍大臣と山本五十六海軍大臣、

    その他両軍の作戦関係司令官や幕僚が参加して、

    南方作戦に関する陸海軍協定が交わされ、

    協定は「占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定」

    (昭和16年11月26日決定)として同日陸軍大学校にて調印されました。

    まだ開戦前の事です。

     

    1941年12月に攻撃を開始した日本軍は

    次々とインドネシアの各島々を占領していきました。

    オランダ軍は1942年3月4日、

    バタビア(ジャカルタ)から撤退し、

    日本軍は協定によって陸軍がジャワとスマトラ、

    海軍がボルネオと東インドネシア地域の占領地統治を始めました。

     

    第16軍が3月1日に55,000でジャワ島に上陸を開始し、

    軍政が3月7日から始まりました。

     

    ●軍政の簡単な分担

     ・ スマトラは陸軍第25軍

     ・ ジャワは陸軍第16軍

     ・ その他の島は海軍の統治

     ・ 軍政の長官は軍司令官か艦隊司令長官がなり、

       全ての命令を出す権限を持っていました。

       各地の占領地には司令部があり、

       その中に軍政部(後に軍政監部)が置かれました。

       軍政監には軍・艦隊の参謀長がなりました。

     

    1942年12月8日、

    バタビアはジャカルタと改名されました。

    日本軍は侵攻作戦の途中で放送を通じて

    「日本はオランダの支配からインドネシア民族を

    解放するために戦う」と宣伝し、

    オランダ時代には禁止されていた

    民族歌(インドネシアラヤ)を流し

    民族意識を高揚させました。

    また民族旗(現在の国旗)も沢山準備しました。

    そのためオランダの植民地だったインドネシアの人々は、

    最初は日本を解放者として歓迎、信じました。

    日本に期待したインドネシアの人々は

    すぐにでも独立できるものと錯覚し、

    新政府の閣僚名簿まで作成して発表した新聞もありました。

     

    ●チャハヤ・ティム-ル紙 1942年3月13日

    首相   アビクスノ・チョクロスヨソ

    副首相  スカルノ

    外務大臣 スジョノ

     

    しかし日本軍は占領を完了すると次々と布告を出し、

    逆に全ての政党を解散させ、民族旗や民族歌を禁止し、

    日の丸や君が代を強制したため

    住民からの信頼は失われていきました。

     

    ●布告第1号 1942年3月7日 原文カナ

    第1条 

     大日本軍は同族同祖たる東印度民衆の

     福祉増進を図ると共に大東亜共同防衛の原則に準拠し

     現地住民と共に共存共栄を確保せんことを期し、

     差し当たり東印度の治安を確立し

     民衆をして速やかに安住楽業せしめんが為に

     東印度占領地域内に軍政を施行す

    第2条 

     大日本軍司令官は総督の職権を行使す

    第3条 

     占領地に於ける在来の行政諸機関、其職域権限

     及び諸法令の規定は軍政施行のため特に障害たらざる限り、

     差し当たり引き続き有効とす

    第4条 

     官民は大日本軍及び大日本官憲の命令を遵守すべし

     

    黄色線のところをみると、

    布告第1号ではまだ住民を尊重しているように見えますが、

    その後は矢継ぎ早に厳しい布告が出されるようになります。

     

    ●布告第2号  1942年3月8日

     結社・集会の禁止

    ●布告第3号及び布告第4号  1942年3月20日

     政治的な言論・言語・言動示唆・宣伝活動の禁止

     祝日等には日本国旗のみを掲揚する

    ●布告第16号  1942年5月25日

     言論・出版機関の自由な活動の禁止

     

    1943年5月の御前会議で

    ジャワ・スマトラ・セレベス・マライ・ボルネオは

    帝国領土にする事が決定されました。

    結局は独立させる気はなかったのです。

    スマトラから石油が供給され、

    ジャワからは米が日本に供給されるようになりました。

     

    ●米の供給

     米を日本に供給するためには、

     耕作面積の拡大が絶対命令でした。

     その為にジャワの森林が15,000ヘクタ-ルも

     伐採されたといわれています。

     それらの工事に多くの労務者が連行されました。

     1943年から米の強制供出が徹底され、

     30%を日本軍政監部に供出し、残りの30%は備蓄、

     残った米がジャワの人々の生活に回されました。

     しかしこれはあくまでも日本軍が発表した数字で、

     実際には大部分が軍に取られたという証言もあります。

     

    このように日本軍は民衆の活動を厳しく制限した上で、

    戦争協力の為に最大限に動員する政策をとりました。

     

    ●三亜(三A)運動

    占領直後最初の大衆運動で、三亜運動又は三A運動と呼ばれました。

     三亜とは  アジアの光日本!

             アジアの保護者日本!

          アジアの指導者日本!

    この運動はサムスディンというインドネシア人を

    表面的に立てていましたが、

    推進母体は日本陸軍の宣伝部でした。

     ☆宣伝部に所属した日本の文化人たち

      大宅壮一、阿部知二、横山隆一、

      武田麟太郎、松井翠声、北原武夫・・・・

     ☆大宅壮一氏は、大邸宅を接収して

      高級慰安所を2ケ所経営していたそうです。

      白馬会-オランダ系女性を置いた

      黒馬会-インドネシア系女性を置いた

     

    この運動では、凡ての住民に毎朝、

    皇居の方向に向かって身体を90度曲げて最敬礼し、

    天皇に敬意を表す事が義務付けられました。

     

    ●プ-トラ(住民総力結集運動)

    三亜運動は露骨に日本中心過ぎたため

    住民の共感をあまり得られませんでした。

    そのため次にインドネシア人の民族主義者を

    全面に出して大衆運動を組織する事にしました。

    1943年3月9日、

    ジャワ占領1周年記念日にプ-トラは組織されました。

    日本軍に協力させられた民族主義者は

    通称四葉のクロ-バ-と言われました。

    メンバ-はスカルノ、デワントロ、ハッタ、マンス-ルの4人で、

    プ-トラの会長にはスカルノが、

    副会長に他の3人が就任しました。

     

    日本軍は民族主義者をうまく利用しようとし、

    民族主義者は将来の独立のために日本を利用しようとし、

    うまく行く筈でしたが結局は成功しませんでした。

     

    ●ジャワ奉公会

    今度は日本人、混血民族、華僑、

    その他全住民を対象にした組織が出来ました。

    日本の大政翼賛会、満州の協和会、

    中国の新民会を真似して作った組織です。

    軍政監が総裁に、スカルノが中央本部長に就任し、

    日本からは大政翼賛会、国防婦人会、

    新民会等の指導者が職員に任命されました。

     ☆ジャワ奉公会の規約

    1  軍政奉仕の率先実施

    2  万民親和による軍政奉仕の指導

    3  防衛強化

    4  戦時生活態度強化

    5  人民救護補導

    6  他

     

    日本軍はジャワ奉公会を中心に

    「隣組」「婦人会」「青年道場」「青年団」「警防団」等を

    組織して大量動員を行ないました。

    その後、1943年10月には兵補(後述)、

    さらにより軍事的なペタ(ジャワ防衛義勇軍)が作られました。

    このペタは純然たる軍事組織で、

    終戦までに38,000人以上の人数になったといわれています。

    これらの組織の中でペタのような軍事的組織が

    戦後すぐのインドネシア独立の中心になったため、

    日本人の中にはインドネシア独立は

    日本のおかげだと主張する人がいますが、

    単にたまたまそうなっただけであって、

    インドネシアの人々が日本に支配されながらも

    独立のチャンスを狙っていたとするのが妥当だと思います。

     

    ●イディン・ワンサ・ウイジャヤの証言  1986年3月12日

    ・・・・多くの青年がセイネンダン、

    ヘイホそしてケイボウダンなどに入りましたが、

    そのことは私たちが親日だったということを

    意味しないと確信します。

    私たちはうわべだけ親日だったのです。・・・・

    ですから、日本に何か功績があるとすれば、

    彼らを軍隊式に鍛えただけです。

     

    大量動員ではさらに豊富な労働力を

    労務者(ロ-ムシャ)として強制労働に狩り立てたり、

    軍隊の補助として兵補にしました。

     

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  • ベトナム、200万人の餓死

    2020/07/18
    10:57

    ベトナムは日本では仏印と呼ばれていました。

    当時のベトナムはフランスの植民地で、

    トンキン(東京・北部)、アンナン(安南・中部)、

    コ-チシナ(交趾支那・南部)の3つに分かれていました。

    フランスはこの他にはカンボジアとラオスを支配していました。

     

    ベトナムを狙っていた日本軍は、

    1940年6月にフランス本国が

    ドイツに占領されたチャンスを捉えて、

    9月に強引に北部仏印(ベトナム北部)に軍隊を進駐させました。

    いわゆる「北部仏印進駐」です。

    日本軍がベトナムを必要とした理由の一つは

    ベトナムからの中国支援を阻止することでした。

     

    当時ベトナムからの支援ル-ト、

    いわゆる援蒋ルートは2つあると考えられていました。

     ◎ハイフォンからハノイを経て広西省へのル-ト

     ◎ハイフォンから東南鉄道で雲南省へのル-ト

     

    さらには東南アジアでの前進基地や

    戦争資源の確保や日本本土への米の供給も

    大きな目的でした。

     

    1941年7月、

    日本は立場の弱いフランスにつけ込こんで

    「日仏共同防衛協定」を強引に結んで、

    南部仏印にも進駐する事になりました。

    いわゆる「南部仏印進駐」です。

    この協定で日本軍はベトナムにおいて

    無制限に部隊の駐留が認められ、

    港や飛行場が自由に利用できるようになったのです。

    国力が低下していたフランスは

    渋々と日本軍の要求を受け入れたのです。

     

    現地ベトナムの人たちの立場からすると、

    元々の支配者のフランス、新参者の日本の

    両方から支配されるのですから大変です。

    二重支配・・・・

    特にフランスの黙認による日本軍による

    強制労働、食料の強制供出、軍事費強制提供・・・

    これらは人々の暮らしを苦しめました。

    米を日本本国に送るため過酷な供出が行なわれ、

    その上に田畑をつぶして軍用物資である

    黄麻やヒマを強制的に植えさせたことは、

    ベトナム農民にとって忘れられない暴挙であり、

    食料強制供出と共に多数の餓死者を出す原因にもなりました。

     

    ●1945年当時のベトナムの新聞から(ベトナム高校歴史教科書)

     ・・・・とりわけこの4年来、

     農民は多大な犠牲と搾取をこうむった。

     汗水をたらして得た米も口にする直前に、

     黙って空腹に耐え、

     他に差し出さなければならない絹や綿を織っても

     妻子は裸同然で寒さに耐えている。

     油や塩を製造しても、毎日味気ない糠入り粥をすすり、

     夜は夜で明かり一つない位暗い小屋で暮らしている。

     恐らく、これまでの歴史の中で、

     今ほど農民が犠牲を強いられている時代はないであろう。

     

    1944年8月、フランスはヨ-ロッパ戦線でドイツに勝利し、

    それと共にベトナムのフランス軍も

    日本軍に強い姿勢を取るようになりました。

    12月、日本軍はそれに対して一挙に3個師団を増強させました。

     

    1945年2月、最高戦争指導者会議で

    「情勢ノ変化ニ応スル仏印処理ニ関スル件」が決定され、

    その中の「明号作戦-通称マ号作戦」によって、

    3月9日、日本軍は現地でフランス軍を攻撃し武装解除しました。

    それ以降ベトナムは日本の単独支配となりました。

     

    ●大本営発表  昭和20年3月10日 2時

     我が仏印駐屯軍は

     仏印当局の不信に基づき

     印度支那に於ける

     共同防衛遂に不可能となりたるにより、

     茲に敵性勢力を一掃し単独にて同地の防衛に任ずるに決し

     3月9日夜、所要の処置を開始せり

     

    そして同時にベトナムに対し独立を許可しました。

    この明号作戦を予測していた連合国軍は、

    対抗上東京空襲をすると警告していました。

    3月9日に日本軍がこの警告を無視して

    ベトナムで攻撃をしたため、

    翌日3月10日東京大空襲は実行されました。

     

    1944年から1945年にかけてベトナム北部で大飢饉が発生し、

    農村部でも都市部でも多くの人が餓死しました。

    日本は大飢饉による餓死で日本軍のせいではない。

    仕方がなかったのだ。・・・という立場です。

    確かにその都市のベトナムは

    台風や水害による被害がひどかったのは事実です。

    しかしベトナム北部は昔から、

    数年に一度大災害に襲われていた慢性地帯です。

    それなのにこれまではこのような

    大飢饉や餓死が起きることはありませんでした。

    やはり本当の原因は日本の侵略にあるのかもしれません。

     

    ●考えられる飢饉や餓死の原因は・・・・

     1 日本軍による米の強制供出

    ☆日本本土への米の輸出

    ベトナムからの輸出量は

         1940年47万トン

         1941年59万トン

         1942年97万トン

         1943年100万トン

         1944年50万トン

         1945年4万5千トン

         注:1945年は戦況悪化で輸出できませんでした。

      ☆数万の日本軍は2年分の米を備蓄してあった

       明号作戦のために増強された日本軍は、

       第21師団、第37師団、独立混成第34旅団、その他で

       総兵力82,000名といわれ、

       北部だけで25,000名がいたといわれます。

       さらに一般の民間日本人つまり

       在ベトナム邦人が7,000名滞在していました。

       それだけの日本人が2年分の食糧を備蓄していたのです。

      ☆フランス軍も米の備蓄をしていた

     2 水田を潰して軍事物資である

         ジュ-ト(黄麻)、ヒマ(油性植物)を栽培させた

       ベトナムでは自然災害で米が取れなくても

       トウモロコシのような雑穀を代替としてきましたが、

       戦争が激化すると、日本、フランス共に

       米やトウモロコシを強制買付けした上に、

       繊維性や油性作物の栽培を強制しました。

       結果として黄麻、チョマ、綿、ヒマ等

       穀物以外の作付けは40年度と比べて44年度には

       9倍に増えています。

         5,000ヘクタ-ル→45,000ヘクタール

       急速に作付面積を伸ばした

       軍需物資の栽培と輸出は日本の会社が行ないました。

    三菱商事 三井物産 大同貿易 日本綿花  

    台湾拓殖 又一商会 東洋綿花 その他

     3 戦況の悪化で南部から米が入らなくなった

       1938年~39年の統計では、

       インドシナ全域の米の収穫量は年間630万トンです。

         内訳は ベトナム北   25%

             ベトナム中   16%

             ベトナム南   40%

             カンボジ    12%

             ラオス       7%

       人口が多くて食料の足りない北部は

       地下資源と交換で南部から米を入れていました。

       ベトナム全域を支配した日本軍は、連

       合軍の攻撃を理由に北部に米を運ぶ努力をしなかったのです。

     4 天候不良

       ベトナムは慢性的に天候不良と水害があって飢餓の多い所です。

       特に1944年の冬からの悪天候は世界的なことでした。

       戦後もベトナムは何度も飢餓に襲われていますが、

       1945年のような餓死者を出していません。

       その時以外での最高の餓死者は1915年の200人です。

     

    いくつか手記を取り上げます。

     

    ●第21師団独立野戦高射砲第62中隊 軍曹 武田澄晴

     ・・・・退院の日、私はジャラムから

     ル-ジュ河畔に移動していた中隊に帰る時、

     堤防の上にずらりと並んでいる餓死者を見たのです。

     愕かずには居れませんでした。

     迎えのトラックの上から果てしなく続くその、

     まるでイリコを干してあるような光景はショックでした。・・・・

     同僚の話では「なに、毎晩片付けられているのだが、

     次の日は又この状態だよ」とのことでした。・・・・

     生まれて初めて見る餓死者、その寸前の者・・・・地獄でした。

     ほとんどが子供と老人でした。

     ムシロがかぶせてあるので死んでいるのかと思って見ると、

     大きな目を開いたうつろな表情、ものを言う気力もすでになく、

     じっと見つめているガイ骨のような顔々々・・・・

     むすびを持ったまま死んでいる者、

     幼い兄弟が抱き合ってミイラのようになっている者・・・・

     私も始めのうちは食物や銭を与えたりしましたが、

     キリがないんです。・・・・

     屍体をよけたりまたいたりして、市内の軍酒保に行くのです。

     そこにはありあまる山海のご馳走が

     安く飲食出来るようになっていました。

     ああ、この地獄に取り巻かれた中での痛飲飽食!

     サービスするベトナム娘はどんな気持ちだったでしょう。

     その頃、師団は決戦に備えて2年分の食料を確保していたそうです。

     

    * 第21師団第62連隊 2等兵 小林昇

     ・・・・猛烈な飢餓の惨状にいきなりでくわした。

     四方から流れ着いた農民の家族たちが、

     文字通り骨と皮だけになって、

     街路で斃死してゆくのである。

     それは栄養失調ではなく、絶食の死であった。

     息を止めた夫の身体にすがって

     妻や子の哭いている歩道を、幾時間して又戻ってくると、

     妻の方ももう声明のしるしがかすかになっているというような、

     やがていたるところで接しなければならなくなる光景に、

     私は始めて接したのであった。

     市の大八車が路上のそういう死者たちを

     積み上げて、屍臭をふりまきながら焼場へ運んでいく。

     その車には、まだ確か息のかよっていると思われる

     身体も積み込まれていた。

     

    このように考えると、

    やはり戦争の結果の餓死という見方が正解かもしれません。

    餓死者は200万人といわれています。

    日本政府では、推定30万人と主張しています。

     

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