中国の臣下として冊封体制に組み込まれていた
琉球王国は1609年に薩摩藩に侵略され
属国のような扱いを受けました。
しかし薩摩藩は奄美地区を直轄地としましたが、
沖縄は一見独立国のように見せかけるために
王国を存続させ、冊封体制を維持させたのです。
1872年(明治5年)維新慶賀使として、
正使伊江王子朝直(尚 健)以下2名が上京し明治天皇に拝謁しました。
まだその当時、日本は琉球の事を異民族扱いにしていたようです。
●井上馨の発言「かの酋長(琉球国王)を呼んで不臣の罪を責め・・・・」
明治政府は清国に気兼ねして
とりあえず琉球藩(注:県ではない)とし、
国王の尚泰を藩主として華族にとりたてました。
この処分は琉球で大問題になり、
正使一行は売国奴と呼ばれ
冊封国である清国に助けを求めましたが
既に清国にはその力がなかったのです。
●1875年(明治8年)7月
明治政府は琉球藩王に清朝との朝貢・冊封関係を
きっぱり絶つことを厳命した。
さらに明治年号を使用することを命令しました。
また琉球王の上京と大改革を強要しました。
琉球では抵抗しこの時も清朝に救援を求め、
清朝は再三日本に抗議はしましたが
具体的な支援は出来ませんでした。
●1879年(明治12年)3月27日
明治政府の松田道之が処分官として、
藩王代理今帰仁王子に処分の通達を交付し、
藩を廃止し沖縄県としました。
これがいわゆる「沖縄処分」です。
このようにして沖縄は日本に組み入れられますが、
その後沖縄より南の尖閣諸島を
明治政府はどのように扱ったのでしょうか。