ヘッダーグローバルナビゲーション

おしえて!ゲンさん!

  • トップページ
  • お知らせ
  • このサイトについて
  • ご利用規約
  • サイトマップ
  • ホーム
  • キーワード「赤弾」を含む投稿一覧

キーワード「赤弾」を含む投稿一覧

  • 永井仁左右 回顧録・メモ等 2

    2020/09/15
    16:02

    ● 毒瓦斯(注:毒ガス)

    1. 戦前の軍縮時代野重8に入隊したが、

     軍装には必らず防毒面(正式名:被服甲)を

     携行させられた。  

     演習で毒ガス訓練をやった時、

     練兵場の一部の散毒地帯の

     小石を拾い臭いを嗅ぎ別けたり、  

     晒粉で消毒したり、

     防毒面を被り馳足又防毒のゴム服

     (これは全員分ナシ)を着たり随分苦しかった    

     散毒地帯の実戦ではそのまま

     突進してから急ぎサラシ粉で消毒する。    

     車両は高速ではガスを巻き上げるから不可、

     むしろ低速で走り通過してからよく消毒する、など    

     瓦斯弾は弾の下方の胴体の上あたりに

     赤、青、黄等を胴体と同じくらいに印されてあり、 

     赤弾、青弾と呼称して訓練した。 

     実戦では、イペリット、ルイサイト等の

     永久性ガスは使われなかったようである。 

     又、学校で一年先輩の増田さんは、

     陸軍化学研究所で作業中イペリットで

     太股の一部を腐食したことがあった

    2.  南昌攻略戦 

     昭和14年2月末、紙坊鎭より武昌に出て、 

     19日船舶にて長江を下り、

     黄石港を経て、20日九江に上陸。 

     星子道を盧山を迂回して

     豪雨、寒気、泥土に腹の心まで

     濡れ困難のうちに、

     高家隋、永修車站付近に至り、 

     南昌攻略戦で修水渡河援護の為、

     陣地、壕、幕舎など準備に追われる。 

     集結する我砲兵各隊も、対岸よりの

     敵弾飛来する中それぞれ準備していたが、 

     敵弾の一発が我X隊の集積せる

     ガス弾に命中し、ガスが発散し、

     我々もやられた。 

     直ちに散開したが、気分が悪くなったり、

     鼻血を出したりして皆倒れた。 

     軍医が早速嗅ぎ薬(人差し指ぐらいの荒い布で

     くるんだガラス筒入りの薬を手で潰して嗅ぐ)で手当てした。 

     暫くして少し落ち着き、

     点呼のため集合させたら、

     又バタバタと倒れた。 

     それは集まった為衣服のシワや

     薬盆などの隙間に残っていたガスが

     又濃くなったためで、 

     又散開させ、皆バタバタ服等を叩いて、

     ガスを散らしてから集合し直した。

     

    ● 激戦地ではじめて見た一人の老婆

     昭和12年8月23日、

     2ケ師団が軍艦で緊急輸送され

     早暁上海の呉淞に強行上陸したが苦戦

     我野戦銃砲兵第15連隊は9月13日充員召集、

     装備不足のまま9月26日上海上陸戦闘参加

     逐次4ケ師団増援されるも、

     支那軍は70万、縦深5キロの陣地など優勢で、

     然も砲弾の補充少なく困難を極めた。

     勿論戦場では一般人は居る筈もなかったが、

     一度一人の老婆が何処かに隠れていたのか、

     歩兵に引張って来られた。

     暑い盛りに綿入れの黒い服を着て、

     汚れて青い顔は痩せていた。

     その内、行けと言って突き離されて逃げ出すと、

     背中へ一発小銃を打込まれ、

     倒れるとき、振り返ったその顔の

     恐ろしかったこと、今でも目に浮かぶ。

     当時夜間、あちこちで烽火のような

     火の玉があがると必らず狙っていたように

     敵弾が打込まれて来るので、

     老若男女を問わず潜伏している

     間諜の仕業と言われていたので、

     老婆もその関係か又犠牲なのか

     忘れられない出来事であった。

     その后は次第に我彼の戦死者のいろいろの姿や

     一般の人の犠牲者の有様にも馴れて来るのである

     

    ● はずみ

     徐州大会戦で我が北上軍は

     昭和13年5月5日払暁、

     懐遠で総攻撃の火蓋を切った。

     その第一夜猛烈な雷雨となり幕舎は吹飛ばされ、

     全身泥ンコの濡鼠となった。

     明けても一面のぬかるみと地雷の為め

     我々野戦銃砲は前進が捗らず

     悪戦苦闘していたところ、

     友軍の飛行機が1機飛来、

     通信筒を落として数回旋回したと思ったら、

     強風で大きく湾曲していた気球の索に触れ、

     アッと云う間に真逆様に墜落し

     畑にメリ込んでしまった。

     気球は無事だった。

     又同年11月16日、武漢攻略戦で武昌を占領、

     続く進撃戦で崇陽手前の橋梁が破壊され止むなく、

     林家咀に露営、次の朝各隊出発準備中、

     近くの気球隊では気球を少し浮上させていた。

     そこへ友軍の飛行機が3機編隊で翼を振りふり

     低空で頭上を通過、我々も手を振った。

     その瞬間1機がブルンと震えたが

     そのまま飛び去ってしまった。

     飛行機が気球の索を切断した。

     気球はフワフワと浮上し然も

     敵側に流れ始めたではないか。

     あわてて居合わせた各隊が一斉に射撃したが

     撃ち落すことが出来ず遂に敵隊深く消えてしまった。

     これは何れも私が目撃した事故で、

     気球の索と飛行機の接触した時の

     諸条件は殆ど変わりはないと思われるが、

     片や飛行機が墜落し、

     片や気球が空の彼方へ消え失せた。

     これがはずみと云うものだろう。

     

    ● 戦争で儲ける連中

     ◎ナマクラ鋸

      作戦の間には自活の為め、

      炭焼、井戸掘り等いろいろやったが、

      炭材の木や炊事の薪を作るのに

      支給された鋸は唯の鉄板で、

      グニャグニャで形だけの使えないものだった。

      他の道具も同様だった。

      又時折支給された薪に、

      納入直前にタップリ水を含ませて

      目方を増したそうである。

     ◎金銭の不思議

      武昌の奥地で民家へ

      分隊単位程度で分散駐屯していた。

      或夜半急に1ケ小隊を○○方面へ

      派遣する命令を受け、

      約3ケ月分の給料を支給することになり、

      分任官を命ぜられていた私は

      相当離れていた本部へ行き、

      受領して戻り、

      支給を終えると金が余っている。

      随分調べたが間違いなく相当多いので

      寝る間もなく出発を見送り、

      夜道を本部へ行き、

      主計将校にその旨申し上げ差し出すと、

      貴様、俺が間違える筈がないと

      怒鳴り、叩きつけた。

      私は一度言ったものだから

      持ち帰ることも出来ず逃げるように帰ったが、

      その后何の話もなかった。

      機密費か、関係納入業者との

      カカワリに依る何かがあるのか不明朗である。

      万一私が黙って懐へ入れてしまっても

      解らなかったろうとさえ思った。

      又この主計さん徐州戦で空襲を受けた時、

      逃げ足早く一番遠くへ行き、

      戻るのに時間が掛かって笑われたのである。

     

    ● 重大な責任の始末

     野戦重砲兵第15連隊は

     10糎カノン砲をキャタベラ式牽引車で引く、

     中支唯一の機械化重砲で、

     軍直轄の為め休む間もなく重要作戦に参加し、

     上海戦以来3年目になり、

     大作戦の后は必ず砲は勿論

     牽引車など整備していたが、

     砲の車輪のゴムが処々欠けて来ていたので、

     補充された新しいのが武昌に着いたので

     長江上流15キロの王家湾より下り、

     新しい車輪を取替へ大堤を戻ったが

     暫くすると車輪のゴムが

     外れて来たので驚き急ぎ戻り、

     今迄の旧のと付替へ、

     事なきを得てそのまま各戦争をしたのである。

     万一の時の不良車輪による事故は

     我々だけではなく他部隊にも及ぼす

     影響を思うと恐ろしくなった。

     命拾いをした。

     

    ● 千人針

     これは出征兵士の無事を祈って、

     関係する女の人が白木綿で腹巻を作り、

     皆さんに一針一針赤糸で結び玉を

     千個縫い付けて貰うのである。

     寒暑昼夜を問はず、

     銀座は勿論そちこちの街頭で

     一生懸命に御願いしたり、

     立ち止まり縫い付けて下さる

     女の人々の姿の真剣さには

     頭の下がる思いがしたものである。

     縫い終わってわざわざ

     息を吹き掛け拝む人もいた。

     死線を越えると言うので

     五銭を縫い付ける人もいた。

     昭和12年9月13日、

     応召入隊する前夜、

     宴の途中父が突然

     俺も千人針を縫ふと云いひ、

     皆んなが、女の人が縫うものだと云っても、

     何俺は縫うと云って

     ゴツイ手で針を持ち縫い付けた。

     品川駅頭で最后の面会の時、

     父は酒を持って来て、

     コップで別れの杯を酌み交わしたが、

     用事があると云って

     一言も云わず帰ってしまった。

     仮にも魚河岸の重役で

     時間の都合が付かぬ筈がない。

     酒は富久娘であった。

     未だその時の味は忘れない。

     父は、日露戦争で

     乃木軍の203高地攻撃の時中隊が全滅し、

     肺に近い左肩貫通の重症を負っているのだから、

     万感胸に迫る思いだったのだろう。

     その代はり兄は誰も付いて来なくなった

     ホ-ムの終わりまで晋司を抱いて

     馳け乍ら見送ってくれた。

     終始両親は何も云わなかった。

     3年後帰還して部隊から電話した時先ず母が出た。

     静かな声であった。

     後で「てい」(帰って1ケ月で結婚した家内)の話では、

     母は仁左右は必ず無事で帰えると

     口ぐせのように云っていたそうである。

     又父等へは何かに付け、

     「戦地では奉公している

     仁左右の事を思いなさい、と

     強いことを云っていたそうである。

     又父は私の武運長久を祈り

     香取神宮へ参拝百円を奉納した。

     奉賛会長の近衛文麿から感謝状を受け、

     境内の神杉で作られた硯箱と共に

     今も私の手元にある。

     上海敵前上陸、

     大場鎮など攻撃の頃は

     敵陣は縦深5キロと云はれ

     優秀で昼夜の別なく爆竹の様に敵弾が来た。

     早速銃弾でやられる者、

     砲弾命中で千切れ飛んだ者、

     又衛生最悪で、コレラで死んだ者も出た。

     殆どの者は赤痢に罹っており、

     夜、塹壕や天幕から這ひ出して

     周囲で下痢便をするので、

     足の踏み場もない有様だった。

     私は少し離れた砲弾で千切れた

     立木が少しは障害物になりそうで

     その陰で何回か用を足した。

     何回目かの朝、

     その木株に変なものが

     掛かっているので良く見ると、

     自分の千人針だ。

     前回外して掛けたまま忘れ、

     夜半の雨に打たれて

     赤色が滲み出していたのであった。

     そこで、勿体ないので

     父の縫い込んだお金を取り出し、

     腹巻は雑のうに入れ、

     余り使ふことはなかった。

     そして、お守りの入った千人針は、

     私と一緒に帰還し、

     母が大切に神棚に納め、

     またいろいろ書き込んだ

     日の丸のチョッキは

     母がよく羽織下に着ていた。   

      注:この手記に書かれた千人針の図

         手記にある千人針の図 

     

    ● 無茶な検疫

     残暑の昭和15年9月

     大陸戦線の中支各隊から一部交代帰還する。

     我々を乗せた貨物船がやっと広島に着いた。

     ところが検疫の為め沖合にに停船してしまった。

     上海で乗船する前后から、

     いろいろな調べや検査を受けたが、

     ここではコレラの検査で相当酷かった。

     全員素裸にされ、

     甲板に印されたところへ手足を置くと、

     四つん這いの惨めな格好になる。

     そのうえ尻を上げ口を開いて力を抜けと云ふ。

     丁度箸のようなガラス棒を

     各人ごとに尻の穴に差込み、

     それを試験管へ移すのだが、

     口を結んでいると入りにくく、

     強引に突込まれて、前

     につんのめったのが何人かいた。

     処置は機械的に進められた。

     後は検査の結果が出るまでは

     一切のものを海へ捨てられないので、

     甲板上に急造便器で用を足すことになった。

     唯々石油缶などを一杯並べただけの物だった。

     炎暑のさなか、

     大小便をそのまま溜めておくのだから、

     無茶な話だ。

     若しも菌が出たら上陸は勿論

     大変なことになるらしい。

     大陸焼けした、

     武運嚇々たる歴戦の勇士も流石に顔色なく。

     残念乍がら糞尿と共にあるのも、

     なにもかもすべて懐かしい。

     我が家に帰れるまではと、

     我慢に我慢をした。

     そして汚物が溢れそうになった時、

     やっと許可が出た。

     万歳万歳と皆んな躍り上ってよろこんだ。

     と同時に一斉に汚物を舷側より投捨てし始めた。

     その物凄い音はドドドゥと

     大滝のように響き、

     さらにプンプンたる悪臭、

     そして船の周囲から黄色くなった

     海面がグングンと拡がって行った。

     

    ● 戦争に於ける生と死

     あの人たちの為なら戦死してもよい、

     と思ったことが2度あった。

     先ず応召入隊の昭和12年9月13日、

     家から壮行会場の築地公園に向うふ時、

     高い幟を先頭に進む私等の行列の為め

     本願寺前の交差点は勿論交通止めになるし、

     たいへんな見送りであった。

     その中に僧侶のような方が一人

     土下座をして私を拝んでおられた。

     よしあの人たちの為めにと思った。

     次は同22日、

     輸送船が大阪港を出航するときの

     夜半12時頃甲板にでると、

     誰も居ないくらい波止場に

     カッポ-着姿の国防か

     愛国婦人会かの襷を掛けた方が二人、

     日の丸の小旗を唯捧げ深く頭を垂れて

     見えなくなるまで何時までも

     見送って下さる姿を見て、

     あの人等の為めに命掛けでやるぞと心に誓った。

     この二度である。

     超応急動員で明治神宮参拝に出発の前、

     9月の暑いさなか夏服を着せられ、

     鉄帽も間に合わず、

     不揃いのままの軍装検査の時、

     大隊長は訓示の冒頭で、

     今日唯今皆の命をこの俺が貰ったと云われた。

     当時は当然のこととして聞いたのである。

     編成4~5日の通信班の部下は

     皆優秀だが寄せ集めの老兵ばかりで、

     新しい器材の取扱を教えたり

     また点検などし乍ら、

     多忙な大阪港出航間際に、

     部下だけの時をえらび

     皆んな揃って帰れるよう

     くれぐれも命を大切にして呉れと言った。

     皆んな驚いてそんなことを云っていいのですか、

     随分度胸ががいいですねと云った。

     中支戦線では、軍直轄野重の為め、

     何時も最も重要な第一線に協力させられたので、

     今度は駄目か、これで一巻の終わりかと

     思ったことが度々あったし、

     特に決死の任務に選抜されたことも

     何回かあったが当然のことであった。

     唯一度だけこれが最后かと思った一瞬の間に、

     親兄弟は勿論いろいろな人々や、

     幼い頃から今迄の生涯すべてのことが

     走馬灯のように鮮明に脳裡を走り去った。

     この不思議な現象は説明の仕様がない。

     徐州戦の時、観砲間の通信線が

     猛烈な敵砲弾で切断された。

     危険なので止むなく自分一人で補修点検の為め、

     遠方の小山に出してある観測所まで

     誰も居ない平地を走り出したら、

     又々敵弾が激しく落下して来た。

     あたりが真暗になる程だった。

     恐ろしくなり私は夢中で駈け戻り

     小さな部落へ飛び込んだ。

     友軍の歩兵が少し居た。

     一瞬私は逃げ込んだように見られないか、

     万一卑怯な振舞いだったら第一母が許さないだろう。

     そして国では一族が皆後ろ指をさされないかと思ひ、

     自らを励まし決死の覚悟で

     又観測所へ向ひ走り出した。

     そして弾着で穴だらけの所で切断された

     電話線を修理して観測所へ着くと

     皆心配して見ていたそうである。

     その時私はつくづく若し天涯の孤児で

     自分一人だったら完全に逃げていただろうと、

     何ともいえない思いをした。

     負傷した兵が、中隊長殿と呼び、

     中隊長が何だ傷は浅いぞしっかりしろと云うと、

     天皇陛下万歳と叫ぶ者が良く居たが、

     これは決して死なない。

     本当に死ぬのは、

     お母さんと云うか唯一息深く吸うぐらいであった。

     誰でも一番大切なのは自分の命である。

     たとえ天皇陛下の為めでも

     意味なく死んでもよいと思ったことは

     一度もない。

     度胸の有る無し、

     職業軍人でも気の小さい人、

     百姓でも恐いもの知らずなど

     人それぞれであるが、蛮勇は困る。

     弾の来るなか、

     強そうに一人立ち上がっていても

     弾はなかなか命中しないものである、

     かえって狙い弾が沢山来るので

     周囲のものに無駄な犠牲者が出ることがある。

     南京城に日章旗が上がった后、

     敵大部隊の退却に当り、

     大河の流れのような勢いで

     我が大砲も乗り越え乗り越え

     我彼芋を洗うような乱戦に落ち入った時、

     皆の命を貰ったと高言した大隊長は

     地隙に伏し、踏まれても蹴られても

     一言も発しないでうずくまっていた。

     中隊長は中隊長はここありと叫び乍ら

     飛び廻って指揮していた。

     この中隊長は戦闘中でも、

     出来るだけ畑など

     荒らしてはいけないと云う優しさがあった。

     救援を命ぜられた小隊長は兵を整列させ、

     あれやこれや服装を点検、

     小銃の手入れなどまで調べ、

     何時まで出発しないので、

     流石に上官より間に合はず

     全滅してしまうぞとおこられ、

     やっとトラックで出発したが、

     乗る時俺はここが良いと荷台に乗り、

     指揮官の乗る運転台の席に兵隊を乗せた。

     一番先に狙われるからである。

     上海眞如の国際無線台を占領した時、

     観測手の老兵が命ぜられても塔に登れない。

     遂には観測将校が拳銃で撃殺すと云ひ、

     相当青くなって震え乍らも登れなかった。

     (中隊長が中に入って事なきを得た)

     世田谷の原隊出発時のことになるが

     私の部下になる筈の老兵が

     精神異常になり残置された

     又連隊段列では切腹した者がいた。

     徐州戦で皆んな蒙城を陥して

     城外に露営することになり

     充満する残敵を掃蕩することになり、

     高粱畑を各隊共同で包囲し

     次第に締めて行ったが、

     最后はなかなか近寄れず、

     敵も必死で我が方に負傷者も出るので、

     夕刻軽戦車で弾を撃込んで終った。

     その時軍人にしては紳士の武雄大尉

     (杭州湾上陸で有名な柳川中将の娘婿)は

     生来の恐れ知らずで

     丸腰でカメラを持って様子を見に近寄られたら、

     自動小銃で股を何発もやられ即死された。

     勿体ない人であった。

     やはり自重の必要があったのでは。

     その時掃蕩から私も戻ったのだが、

     指揮下だった中隊当番の

     広瀬と云う茨城出身の補充兵が

     敵兵を生捕りにして

     中隊長の土産としてつれて来た。

     中隊長はそんな素首を切ると

     俺の刀の名折れになるからいらないと云われ、

     広瀬は自分がと云って

     自慢の刀を取り出し首を切り落とした。

     夜半、幕舎からゴソゴソ出て行く者がいるので、

     どうしたと聞いたら、

     広瀬が気になると云って

     離れた首を胴体に合わせ槌を被せて、

     気がすんだと云って入ってきた。

     と思ったらすぐイビキをかいて眠ってしまった。

     或る者は、俺じゃないと怒鳴って飛起きた。

     要するに十人十色である

     又隣の中隊の召集少尉は

     日暮里の或る寺の僧侶で

     話も上手だが、何より殺すのが好きで、

     人の分まで引受けて首を切っていた。

     切っては拝んでいた。

     やはり精神に異常を来たし帰された。

     私はお蔭で一人も殺さず

     持参の日本刀はおじに返へし、

     官給の曹長刀も拳銃も使わず返納した。

     

    ● メモ

     日本軍では補給を軽視した(戦闘第一主義)

     私は徐州会戦では北上軍に属したが、

     総攻撃以来補給無く(乾パンなど食べ尽くしたあと)

     勝手に民家に有るものや、

     豚、トリなど勝手に食べていた。

     占領したあと、

     一度に沢山届いた事もあったが、

     次の戦闘に出る時、運べずに捨て置いた。

     戦后米軍のレ-ション(弁当)を見たが驚いた。

     栄養万点、更にチョコレ-ト、

     安全カミソリまで入っていた。

     

    ● 慰問娯楽

     (従軍手帖より)

     昭和13年

     3月21日  

      大戯院にて慰問挨拶あり 

      松竹の八雲 松本 里見等実演あり

      映画 結婚三羽烏等

     4月11日  

      陸軍の慰問団ポリド-ル班来鎭 

      染千代、平山ミユキ、上原敏、金波銀波等

     4月17日  

      陸軍省慰問 

      キングレコ-ド班来るも満員となりて聞かず

     

     

     

    つづきを読む

  • 手帖の記録 昭和14年

    2020/09/13
    12:05

    「昭和14年」

    1・1  

     南方堆土上にて

     東方に向ひ万歳三唱遥拝す

    1・3  

     本日紙坊鎮駅週間衛兵の勤務に服す  

     鉄道警備隊なり 

     昨年も正月3日より衛兵にて

     運の悪い廻り合わせなり

    1・9  

     下番となり部隊に帰へる 

     根岸曹長以下大正11年兵帰還に決定

     突然自分が帰還兵の内

     湾岸警備の藤井上(注:藤井上等兵)の交代に

     原上(注:原上等兵)を連れて行き

     藤井上を南京まで引率する

     命を受く(連絡を含み)

     5・30頃夕食もせず急に出発となり

     武昌7時到着

     漢口に渡り

     朝隆丸に乗船す8・30

     あまり急いて目を回す 

     船倉に寝る寒し

    1・10 

     自炊 8時出発

    1・11 

     九江上陸千田兵站宿舎に寝る 

     連絡船は15日迄無き由

    1・14 

     1700ときわ丸に乗船

    1・15 

     0800出発1800安慶着 

     清水部隊に連絡す

     新溝とのことなり 

     増田兵站に宿る

    1・16 

     未明江上船舶班の共栄丸に乗船

     0900出発 香口に1600着

     皆元気なり 会食をやる

     高橋中尉、小室准尉、麻生軍曹を始め

     皆元気なのに驚く

    1・17 

     0900藤井上、高見沢伍(注:高見沢伍長)、

     市川上と共に共栄丸にて出発

     1400安慶着 増井兵站に宿る

    1・19 

     博洋丸に乗船す

    1・20 

     出航蕪湖止り

    1・21 

     1時南京上陸 

     材料監視隊に当着 

     藤井上を宮前准尉に引渡し任務を全うす

    1・24 

     帰還兵出発す

    1・25 

     到着日より朝夕2回の連絡船に依り

     明日漢口行の便ありと

    1・26 

     朝出発下関より温洲丸に乗船す 

     宮川軍曹外8名と共に

    1・29 

     九江到着 

     ポンポン船にて第五米丸に乗換る

    1・31 

     1530漢口着 

     武昌に渡る 

     2100本隊に着く

    2・4  

     週番下士官勤務に服す

    2・6  

     調子悪く福田伍長に交代せしめらる

    2・9  

     出征以来の高熱出る39度3分

     1月初めよりの勤務に引続き

     連絡の為め風邪を無理せし為めならん

     声出ず弱る

    2・10 

     又 伍長に進級の命令出る 

     中隊10名中我小隊5名を占む

     内通信にて松浦、鈴木の2名 

     先に高村、横田、古矢の3名あり

     かくも優秀なる人多き班を

     指揮する立場にある自分は

     我不肖を思う時益々御奉公の

     念を強むるのみなり

     小隊長高山少尉以下33名、

     車両伍長2、他7名、観測曹1、伍3、他3名、

     通信自分外、伍5、他10名なり

     何と言っても中隊一の優秀なる小隊なり

     感謝にたえず

     殊に松浦、鈴木の2名は適任証を持たず

     本当に衆に範たる誠心誠意の人なり

     我通信班にあるを誇りとす

    (手帖かはる)

     

    ここまでが個人手帳に書かれたものです。

    この先は正式な従軍手帖に書かれたものです。

     

    2・16 

     週番勤務に服す

    2・17 

     戦砲隊出発す 

     武昌に至り船舶にて○○に向ふ

    2・18 

     命令変更 

     夜半に至りほとんど睡眠を取らず

    2・19  

     7時出発武昌口の十二号桟橋より

     良友丸(3200屯㌧)に乗船 

     13時30分出発

     黄石港1945到着

    2・20 

     7時45分出航 

     九江13時30分到着 

     宿営す

    2・21 

     九江新宿舎に入る 

     江岸警備隊と合す 

     毎日雨なり

    3・1  

     九江出発 

     九江星子道を行軍

     盧山を迂回し徳安手前七里半

     熊庄附近に露営す

    3・3  

     熊庄出発 雨 

     泥寧激しく全くの泥鼠となる 

     寒気も激し

     南尋鉄道(道路化せるもの)を南下 

     官家に露営す

     途中乗用車を徳安に止む

    3・4  

     出発 

     予定集結地山口舗を過ぎ

     祝家山東側に露営

     相変わらずの雨泥 

     車両を引上げて

     ぬかるみの上に天幕を張る

     豪雨防ぎようもなく

     腹の芯までビショ濡れとなり全く生気なし

     久し振りにて弾の音を聞く 

     寒気激し

      本人注:この頃、赤弾青弾等の

          我々のガス弾に敵弾が当り、

          皆 やられたが一時性のガスのため

          被害が少なかった。

    3・8  

     高家?北側に2班に別れ前進す

     (永修車站より右折)

     相当銃砲声あり 露営

    3・12 

     05時起床 

     観測所に移動す 

     雨にて困難を窮む

     宿舎は九尺七間茅ぶき

     毎日通信網構成或は壕幕舎等仕事に追はる

    3・17 

     101の一部渡河(支流)の為め砲

     兵活動し完全に敵を制圧す

     我等遠戦砲兵は本夕撃たず

      注:遠戦砲とは長距離を撃つ砲

    3・20 

     我部隊射撃開始 

     午后4・30全砲兵も活動し

     雨の修水河畔を打揺がす

     (300門位と予想す)

     歩兵も全線に亘り渡河を開始

     全部成功す 

     ズブヌレの戦闘夜半に到る

    3・21 

     前6・30より引続き攻撃をす 

     前線進み午后に至り撃止 

     既に軍橋出来たり

    3・22 

     追撃準備の為め

     高家?に移動し出発用意なす

    3・23 

     出発 悪路を行軍 

     夜1時頃徳安到着 

     雨の天幕露営

    3・24 

     猛烈な風となり

     天幕も吹き飛ばされる程であった

     昨日昼間の暑さに引換え

     激しき寒さとなった

    3・25 

     編成替をなし出発す 

     虬津市東北約4km倪庄に

     永修河橋梁架橋中の為め止まる

    3・26 

     突然6師団配属となり 

     明早朝若渓に向ひ進発と

     中隊長より達せらる

     直后夕食時又々突然急に出発となり

     21時出発 

     0030橋梁破壊されある為め露営

     又雨に降らる(虬津市-白楂街-若渓)

    3・27 

     戦車壕多き道を行軍 

     2100頃若渓少し手前に止まり露営 

     銃砲声を聞く

    3・28 

     前進 依然悪路行進 

     武寗約2里手前より徒歩前進し 

     砲列陳庄 観測所張林南側

     久し振りで険しき山に登る 

     軍は武寗へ向ひ攻撃急なり

     又も露営は雨に悩まさる 

     本日は松永准尉に会う

     (本人加筆:兵器学校本部付)

    3・29 

     観測所にて目賀田少佐殿に再会す

     (本人注:兵器学校本部付)

     武寗へ友軍0145入城せり

     我隊は武寗に集結西進準備とのことなりしが

     突然 夕方になり 

     徳安に集結 

     澄田少将の指揮下に復帰のこととなる

    3・30 

     早朝出発物凄き悪路にて全く疲労す 

     修水支流河畔庄下に露営す

    3・31 

     早朝出発若渓を過ぎ三秘橋に露営 

     又々夜になり豪雨に見舞われ

     2時頃打壊れた家を求めて入る

    4・1  

     虬津市徳安間通行止めとのことにて

     虬津市手前にて露営

     天幕を張る最中に

     早や毎日の如く雷雨に襲わる 

     衛兵司令に服務す

     雨と寒さの為め閉口す

    4・2  

     昨一晩中豪雨に打たれ乍ら

     夜を明かし午后6時下番となる

    4・3  

     明くるば増水にて

     山の中腹に張れる天幕も

     将に浸水しそうになり山上に上ぐ

     修水は氾濫し一面の湖になる

     道路は沈み2大隊の自動車10輌を

     間に合わずして架橋のみわずかに

     見える山腹を崩して道となし

     自動車を山上に上ぐ

     神武天皇祭 遥かに故郷を拝す

     大隊長大学選科受験東京に行かれるとのこと

    4・4  

     大隊長見送りだけ

     又ゴム舟にてまず虬津市に向わる

     (本人注:大隊長は中尉の時は

     兵器学校本部付 陸大選科受験の為)

    4・6  

     出発 

     途中虬津市徳安間通行禁止解除となり

     徳安に行進し徳安到着す

     九江より漢口に集結とのことなり

    4・8  

     0700出発 

     陸路九江に向ふ 

     戦砲隊等は汽車にて

     昨日より出発を開始せり

     往路を行軍し九星道を前進

     夜半九江に着く

    4・12 

     0800九江埠頭に於て天洋丸(6843屯)に

     積載開始 

     5時半頃出発す

    4・13 

     漢口着

    4・14 

     卸下開始 

     日没宿舎に付く

    4・17 

     漢口市内を見学す 

     支那人の生業に帰するもの多く雑踏する 

     建物は相当なり

     東京そばの高きに驚き

     北京料理を1テ-ブルやる

     唯奇にして美味ならず

    4・20 

     漢口出発

     徳安(江北徳安)に向ひ出発す

     研子崗着舎宿す(約70K)

    4・21 

     出発夏店に露営

    4・22 

     花園着露営

    4・23 

     徳安着露営

    4・28 

     出発 馬坪を経 

     浙河道を進み中間に露営

     今回砲兵にて歩兵を編成し

     歩兵と行動を共にすることとなり

     自分は分隊長を命ぜらる

     (選抜小銃隊)

    4・30 

     昨日軍装検査 

     本朝7時出発 

     浙河に集会す

     大隊長は新井大尉 

     中隊長大田中尉 

     小隊長久能木少尉

     我が分隊は軽機を有し

     第4中隊第1小隊第2分隊となる

     小銃1に150発、軽機1に5000発携行 

     糧秣は乙を2日分 随分重い荷であった

     (本人注:携行糧秣は内容によって

     甲と乙の2種類あった)

     渡河をし鉢巻山、剣山の警備を

     歩兵より申し受く

     敵に近接せる為め全員にて

     夜間は配備に付く

     昼間は相当な暑さになるも

     朝夕可也寒く睡眠は昼間とる

     敵の姿を見ラッパの音を聞く

    5・4  

     前1時頃巡察に起きる 

     月蝕物凄く歩哨犬を見間違えて

     発砲する程緊張せり

    5・8  

     歩兵に申送り浙河に集結す 

     昨夜敵襲あり 

     睡眠を得ず

     昼食後出発 

     塔児湾着 

     露営の予定なりしも9時出発し 

     前2時頃七姑店市に露営

     8時出発厲山にて昼食 

     疲労甚し 

     追撃前進の命にて前進

     夜10時頃突然厲山警備の命令来たり 

     引返へし城外に露営

    5・10 

     8時警備に付く 

     火事各所にあり消火す 

     糧秣なく探し集める

    5・16 

     厲山警備を引上げ浙河に集結せんと

     出発せしも対岸の兵站へ我小隊は援護に残る

     各部隊は続々引上ぐ

    5・17 

     午后出発 浙河着 

     撰抜小銃大隊河原に集結す

    5・18 

     16時解散式を行ひ各原隊に復帰す

     人員器材異状無く 

     未だ前進の疲労癒えずも

     歩兵の苦労を体験せしは

     全く面白き尊き思い出とならん

    5・19 

     午后突然出発し応山手前にて露営

    5・20 

     出発せしも雨にて通行止となり

     応山城外に露営

    5・21 

     0900出発 

     応山を経て広水市にて露営 

     浅き河原なり

    5・22 

     広水市露営地区内に入るも

     我小隊は家なく露営す

     宣撫工作完備せる為め

     1本の薪も得られず 

     我々には芳しからず

    5・24 

     分任官を命ぜられる 

     給養も全部やることとなった

     上海上陸以来通信掛として

     生死を共にした我観測小隊と

     別れなければならなくなった

     思えば感慨無量である

     今後は新任務に中隊機関に入り

     大いに働かねばならない

     (本人注:分任官とは国家の代理として

     兵隊に給料を支払う係)

    6・1  

     軍曹2等級に昇級す

    6・7  

     広水より汽車行きにて設営の為め先行 

     攝口より軽列車に乗換え漢口監視隊に到る

    6・8  

     早朝武昌に渡り新警備地区に向ふ

     武昌紙坊間なるも既に駐軍なく

     土民は逃げる有様なり

     金牛の委員会会長は殺されたる由

     武昌道は交通の安全性保障し難き状態

     葛店武昌道は部隊にても

     襲撃されるとのことなり

     紙坊等は遊撃隊の巣なりと

    6・9  

     昨日と同じく行動す 

     貨車団到着す 

     漢口 

     十日先行せる我々は本隊に合し宿営す

    6・11 

     門橋渡河武昌に渡る宿営

    6・12 

     偵察

    6・13 

     戦砲隊到着

    6・14 

     鄭家店道上警備地区に移動

    6・15 

     天然痘発生しある為め

     金口道に移り警備地区に入る

     中隊は四段村と言う小部落

    6・29 

     0400頃歩哨早苗上敵に狙撃され

     上膞を貫通銃創 

     直ちに応戦し撃退し配備を解く

    7・17 

     中澤以下13名入隊す

    7・29 

     川村軍曹以下13名帰還す

    8・3  

     工藤中隊長大尉に進級転出 

     太田中尉赴任す

    9・12 

     6時出発 威寧着 露営

    9・14 

     出発 楠林橋に到る 

     糧秣を補給す 敵襲あり

    9・16 

     出発 石城湾手前に到着す(王家)

    9・21 

     出発 途中敵襲に遭いつつ

     通城城外東側に到る

    9・22 

     出発 鯉港に到る 

     4時より夜半2時に到る

    9・23 

     攻撃 観測所

    9・24 

     山背に進撃し鯉港に引返す

    9・25 

     通城城外に到着

    9・26 

     城内に舎営す

    9・28 

     中隊主力は麦市に向ふ途中2回敵襲に遭う

     敵の中にて炊事 

     火を考慮し集積所を探し乾パン受領分配す

    10・7 

     通城に帰る

    10・12 

     0730出発 

     白霓橋に到り露営す

    10・12 

     楠林橋に到り露営

    10・13 

     糧秣を補給

    10・15 

     糧秣を補給

    10・17 

     楠林橋出発連隊へ先行す

     

    昭和14年の手帖はここで終っています。

     

    つづきを読む

  • 毒ガスの種類

    2020/07/31
    15:17

    毒ガスの種類としては7種類ですが、

    その毒ガスを砲弾や爆弾に詰めた毒ガス弾には

    多くの種類があります。

    毒ガスは見た目では判別が困難なことと、

    敵を欺くために「赤・黄・茶」など色で識別しました。

    毒ガスを詰めたガス段は

    帯状に色をつけて区別し

    「黄弾、赤弾、あお弾」等と呼びました

     

    ●毒ガスの種類

    呼称

    ガス名

    効果

    きい(黄)  1号

    イペリットガス

     通称マスタ-ドガス

    皮膚に付くと水膨れ化膿し糜爛をおこす

    吸込むと呼吸器、消化器を冒す致死濃度 0.1ppm

    きい   2号

    ルイサイトガス

    死の霧と呼ばれ、皮膚につくと痛みがあり糜爛をおこす

    致死濃度 0.005ppm

    ちゃ(茶) 1号

    青酸ガス

    致死性中毒ガス、運動麻痺を起こし数秒で即死する

    致死濃度 0.249ppm

    あお(青) 1号

    ホスゲン

    窒息性ガス

    あか(赤) 1号

    ジフェニ-ルシアンアルシン

    くしゃみ嘔吐性ガス

    みどり(緑) 1号

    臭化ベンジル

    催涙ガス

    みどり(緑) 2号

    クロロアセトフェン

    催涙ガス

     

    ●毒ガス弾の種類  上記の毒ガスを充填して色々な弾や装置が作られました。

    使用する武器

    使用する弾

    75ミリ山野騎砲

    92式きい弾 92式あか榴弾 92式あおしろ弾(ホスゲンと砒素の混合)

    100ミリカノン砲

    92式きい弾 92式あおしろ弾 93式あか榴弾

    150ミリ榴弾砲

    92式きい弾 92式あおしろ弾 93式あか榴弾 93式あお弾

    軽迫撃砲

    95式きい弾 95式あか弾

    航空機爆弾

    95式15キロあか弾 92式50キロきい弾 92式50キロあお弾

    航空機用毒剤撒毒器

     

    毒剤筒

    97式あか筒

    手榴弾

    92式あか曳火手榴弾 92式あおしろ曳火手榴弾

    撒布器材

    牽引式撒車 手撒撒毒器

    つづきを読む

メインローカルナビゲーション

  • 原子力発電
    と放射線

  • 戦争・歴史

  • 健康

原子力発電と放射線

  • 原子力政策の始まりから
  • 元素とその変化
  • 放射線の危険性
  • 放射線被曝
  • 規準と用語
  • 福島の事故
  • 事故による健康被害
  • 指摘されていた危険性
  • チェルノブイリ事故について
  • 日本の原子力発電
  • 原発を始めた理由の検証
  • 原発の安全基準
  • 原発をめぐる法律
  • 経済効果と国民負担
  • 再生可能エネルギ-とPPS
  • 核燃料サイクル
  • その他
  • 最後に

戦争・歴史

  • 日本の細菌戦
  • 講演録:南京事件の真実は?
  • 報道の質
  • 朝日新聞の訂正記事と吉田清治証言
  • 日本国憲法の成立
  • 阿片政策
  • 沖縄戦
  • 三光作戦
  • 尖閣諸島
  • 大東亜共栄圏
  • 中国人強制連行
  • 日本の毒ガス戦
  • 防疫給水部(細菌戦部隊)
  • 軍による性暴力
  • 南京事件

健康

  • 健康食品と肝臓障害
  • 講演録:免疫と蛋白質~コラ-ゲン美容まで
  • 講演録 インフルエンザ
  • 講演録 最新デ-タ-から見る高血圧
  • 高齢者の薬と副作用
  • コレステロ-ルを含む食品の摂取制限
  • 自律神経と薬の作用
  • 副作用のある薬
  • 新型コロナウイルスと免疫
  • 食品や生活用品への警告や摘発
  • PM2.5
  • メタボ検診
  • 暮らしと健康アラカルト

キーワード

  • 歴史の教訓
  • サンフランシスコ条約
  • 河野談話
  • 陸軍刑法
  • 金原節三
  • 強姦
  • 軍需物資
  • 李秀梅
  • スマラン裁判
  • 国家無答責
  • 謝罪
  • 従軍慰安婦
  • NHK
  • 南京
  • 国際条約
  • 金学順
  • 挺身隊問題
  • 復命書
  • 誘出し
  • 夜襲
  • PX作戦
  • 米国本土に対する細菌攻撃
  • 小暮泰用
  • 沖縄や小笠原に細菌攻撃
  • 体当たり機
  • 竹内徳治
  • 償い金
  • 人質掠奪拉致
  • 米軍用慰安所
  • 抗体保有者
  • 阿片
  • 燃料棒のトラブル
  • 性奴隷
  • 人権侵害
  • 吉見義明
  • 恒久平和議員連盟
  • 国会図書館法
  • ILO
  • リンダ・チャベス
  • クマラスワミ
  • マクドゥ-ガル
  • 慰安所
  • 性病
  • UNTAC
  • 労務管理

フッターグローバルナビゲーション

© おしえて!ゲンさん! 〜分かると楽しい、分かると恐い〜