ヘッダーグローバルナビゲーション

おしえて!ゲンさん!

  • トップページ
  • お知らせ
  • このサイトについて
  • ご利用規約
  • サイトマップ
  • ホーム
  • キーワード「陸戦の法規慣例に関する条約」を含む投稿一覧

キーワード「陸戦の法規慣例に関する条約」を含む投稿一覧

  • 第二次上海事変から全面戦へと拡大 2

    2020/09/07
    11:59

    日本軍による南京政府攻撃が決まったことから、

    在南京の日本大使館館員や日本人居留民は

    下関(シャ-カン)から船、列車を

    乗り継いで青島に避難しました。

    引き上げる日本人に対して、

    中国人から危害が加えられないようにと

    国民政府は特別列車を用意し、

    40名の護衛用の憲兵や2人の外交部の係官まで

    随行させて丁重に扱っています。

    青島に着くまでの停車駅でも

    厳重な保護を与えています。

     注:もし立場が逆で日本だったら、

       またその後の南京での日本軍の暴行を考えると、     

       国民政府がきちんとした

       紳士的な政権だった事が分かります。

     

    ◎証言 庄司得二「南京日本居留民誌」から 1940年

     停車場構内の柵外には黒山のような人集まり、

     列車をさして何事か語り合いおるも

     ホ-ム内には人影なし。

     停車すると同時に護衛の憲兵ただちに

     列車の外側に並列し柵内を警戒しおる

     巡捕にて二重の警戒線を張り、

     列車付近に一人として群集を寄せつけず、

     厳重警戒をしおれり。

     その後停車のたびごとに注意しおりたるに、

     いかなる小駅にても同様にて、

     実に行き届きあれり

     

    ● 8月17日 

     近衛内閣は不拡大方針を

     次のように変更する決定をした。

     1. 従来執り来たれる不拡大方針を抛棄し、

      戦時態勢上必要なる諸般の準備対策を講ず

     2. 拡大せる事態に対する経費支出の為、

      来9月3日頃臨時議会を召集す

     

    この頃陸軍では中国での戦争を

    拡大するのかしないのかの

    意見が分かれていました。

    不拡大派の石原莞爾作戦部長は

    対ソ連を目標にした軍備拡張のため、

    中国とはあまり深入りしないほうが良いと主張していた

    ◎石原莞爾中将回応答録から

     然るに責任者の中には

     満州事変があっさり推移したのと同様、 

     支那事変も片付け得るという

     通念をもつものもいました。・・・・

     事変がはじまると間もなく傍受電により

     孔祥肌煕は数千万ドルの

     武器注文をどしどしやるのを見て、

     私は益々支那の抵抗、決意の

     容易ならざるを察知いたしました。

     即ちこの際、戦争になれば

     私は之は行くところまで行くと考えたので、

     極力戦争を避けたいと思い、

     又向こうも避けたい考えであったようです。

     さらに今日のようになったのは真に残念であり、

     又非常なる責任を感ずる次第であります。

    ◎同じ石原莞爾中将回応答録から

     今次の上海出兵は海軍が

     引きずって行ったものといっても

     差し支えないと思う・・・・

     私は上海に絶対に出兵したくなかったが

     実は前に例ががある・・・・

     

    拡大派には、杉山元陸相、田中新一軍事課長、

    武藤章作戦課長、永野佐比重支那課長などがいて、

    中国軍の実力を軽視し、

    断固として一撃を加えれば

    早く終わると主張していました。

    石原莞爾が言う海軍との間に結ばれた協定は

    1937年7月11日の「北支作戦に関する陸海軍協定」で、

    その中に帝国居留民の保護を

    要する場合においては、

    青島および上海付近に限定して

    陸海軍の協力することがきめられていました。

     

    そして近衛首相も広田弘毅外相も

    拡大派に同調していたため

    上海事変は拡大していきました。

     

    ところで、戦争ではなく事変と呼んでいますが、

    事変とは戦争ではない小さな揉め事です。

    この時期の戦争を全て事変とした理由は

     1.  簡単に中国軍にを打撃を与えて

      早く終わると思っていた

     2.  正式に宣戦布告をする大義名分がなかった

     3. 石油、鉄をはじめ多くの物資を

      アメリカから輸入していたため、

      小競り合いだという名目にしておきたかった

     4.  ハ-グの陸戦に関する条約を逃れるため

     

    そして軍としては戦争としないで事変として

    ハ-グ条約を逃れることになりました。

     

    ● 8月5日の陸軍次官通牒「陸支密第198号 

       交戦法規の適用に関する件」(原文カナ)

     現下の情勢に於いて帝国は

     対支全面戦争を為しあらざるを以って

     「陸戦の法規慣例に関する条約

     其の他交戦法規に関する諸条約」の具体的事項を

     悉く適用して行動することは適当ならず

    注:都合が悪いからハ-グ条約などは

      守らないようにするということです。

     

    さらにその後、

    11月に外務、陸軍、海軍の3省で

    宣戦布告の利害得失を検討して、

    布告しての正式戦争はマイナスが多いと

    判断されました。

     

    天皇の意思としては

    青島にも不穏な動きがあることから、

    戦線を拡大しないで(事変のまま)

    上海、青島を重点的に打撃を与えて

    早く終わらせたかったようです。

     

    ● 8月18日 

     天皇の「御下問」  

       軍令部総長、参謀総長(閑院宮)宛て(原文カナ)

     戦局漸次拡大し上海の事態も

     重大となれるが青島も不穏の形勢に在る由   

     斯くの如くにして諸方に兵を用ふとも

     戦局は永引くのみなり   

     重点に兵を集め大打撃を加えたる上にて

     我の公明なる態度を以て   

     和平に導き速に時局を収拾するの方策なきや   

     即ち支那をして反省せしむるの方途なきや

     

    このように天皇や軍中央は

    上海に限定された作戦のはずだったのですが、

    上海派遣軍の松井石根大将は

    内心南京まで行くつもりだったので、

    8月18日の送別会で不満を表明し、

    参謀本部から注意されています。

     

    ◎参謀本部総務部長中島鉄蔵少将から

     上海派遣軍飯沼守少将への注意(飯沼守日記から) 

     作戦命令も勅語も手続きは同様にて、

     作戦命令も勅語と同様のものにて、 

     これを批判するごときは不謹慎なれば、

     よく言うておいてくれ

     

    それでも松井はその後も不満を漏らしています。

    ◎参謀本部首脳との会合での発言

     国民政府存在する限り解決できず・・・・

     蒋介石下野、国民政府没落せざるべからず・・・・

     結末をどこにすべきやの議論あるも、

     だいたい南京を目標として

     このさい断固として敢行すべし、 

     その方法はだいたい5~6師団とし、

     宣戦布告して堂々とやるを可とす・・・・

     

    ● 8月23日 

     第3、第11師団は呉淞鎭南方、

     第11師団は揚子江の川沙鎭付近に

     強行上陸をしました。

     それでもかなりの苦戦をしたため

     青島用に待機していた天谷支隊が9月1日に、 

     台湾守備隊中心の重藤支隊が9月7日に上陸しました。

     

    それでも圧倒的な兵力の不足は

    予想されていたので、

    8月21日陸海軍の統帥部は検討の上

    2つの案を天皇に奉答しました。

    ◎上奏内容

    1.航空兵力で敵の軍事施設、軍需工業中心地、政治中心地等を爆撃して

     敵国軍隊および国民の戦意を喪失させる

    2.華北で北京、天津地方を占領し、上海を確保し、中国沿岸を封鎖する

    天皇としてはそれよりも兵力不足が問題だとしてまずは増兵を望んでいたようです。

    ◎昭和天皇独白禄・寺崎英成御用掛日記 より

     当時上海の我兵力は甚だ手薄であった。

     ソ連を怖れて兵力を上海に割くことを嫌っていたのだ

     2ケ師団の兵力では

     上海は悲惨な目に遭うと思ったので、

     私は盛んに兵力の増加を督促したが、

     石原はやはりソ連を怖れて満足な兵力を送らぬ・・・・

     

    天皇は再三増兵を督促していました。

    9月6日参謀総長を召して再度意思を伝えました。

    直ちに参謀本部は検討し、同日午後参内し

    天皇に「上海に第9、第13、第101師団及び

    台湾守備隊を増派することに内定」と上奏しました。

    整理すると、

     

    ●8月25日 

     首相・陸相・海相・外相の4相会議で、   

     宣戦布告はしないが、

     それに変わる勅語を出すことが決定された。

    ●9月2日   

     閣議で「北支事変」の呼称を

     「支那事変」に変えることが決定され、     

     全面的な日中戦争になった

     

    ●9月4日   

     第72臨時議会開院式で

     昭和天皇の勅語が発表された。

     (勅語)

      中華民国深く帝国の真意を解せず、

      みだりに事をかまえ、

      ついに今次の事変を見るにいたる。

      朕これを憾とす。

      今や朕が軍人は百艱を排して

      その忠勇をいたしつつあり、

      これ一に中華民国の反省を促し

      すみやかに東亜の平和を

      確立せんとするにほかならず。

      朕は帝国臣民が今日の時局に鑑み、

      忠誠公に奉じ、和協心を一にして

      賛襄もって所期の目的を達成せんことを望む

     

     

    ● 同日    

     杉山陸軍大臣は既に全面戦争であるとの

     訓示を出した。(現代文に要約)

     (訓示)

      ・・・・今回の事変はその原因は

      南京政府の従来からの国策から生じたものである。

      すなわち抗日排日がこのところ

      顕著になりそれに容共政策が加わって

      激成したものである。

      これは過去我が帝国が経験したこととは

      全く異なるものである。

      すでに全面戦争に移行したことを

      深く覚悟しなければならない・・・・             

     注:国家としては事変であると言いながら

       陸軍大臣は全面戦争であると訓示

     

    ●9月5日  

     前日から始まった臨時議会で

     近衛首相は次のような施政方針演説をおこなった。

     ◎演説 

      今日このさい、帝国として採るべき手段は、 

      できるだけすみやかに支那軍に対して

      徹底的に打撃を加え、 

      彼をして戦意を喪失せしめる

      以外にないのであります。 

      かくしてなお支那が容易に反省をいたさず、 

      あくまで執拗なる抵抗を続ける場合には、 

      帝国としては長期にわたる戦いも

      もちろん辞するものではないのであります。 

      惟うに東洋平和の確立の大使命を

      達成するがためには、 

      なお前途に幾多の多難が

      横たわっているのでありまして、 

      この難関を突破するためには、 

      上下一致堅忍持久の精神をもって

      邁進するの覚悟を要すると

      思うのであります。・・・・

     

    ● 9月6日   

     天皇は参謀総長を召して

     再度増兵の意思を伝えた。

     

    ● 9月7日   

     拡大派武藤章作戦課長を中心に

     大部隊の上海派遣が決定された。

     

    ● 9月11日 

     上海に5ケ師団の派兵遣が決定し、

     石原莞爾は辞任を決めた。

     

    ● 9月23日 

     石原は退陣し後任に

     下村定少将が就任しました。

     

    ● 9月28日 

     増派に反対していた石原莞爾は

     更迭される形で関東軍参謀副長になり、   

     石原は「ついに追い出されたよ」の

     言葉を残して満洲に去って行ったのです。

     

     

    つづきを読む

  • 国際条約との関係

    2020/07/31
    15:06

    日本は早くから化学兵器の禁止条約には

    積極的に参加してきました。

    明治の富国強兵を実現させるための

    安全策だったのかもしれません。

     

    ●ハ-グ宣言 (原文カナ)

     窒息せしむべき瓦斯又は

     有毒質の瓦斯を散布するを唯一の目的とする

     投射物の使用を各自に禁止する宣言

     1999年(明治32年)7月29日  海牙(ハーグ)に於いて調印

     1900年(明治33年)9月3日 批准

     同年10月6日        批准書寄託

     同年11月22日         公布

     宣言書

      下に記名するハ-グ万国平和会議に

      賛同したる諸国の全権委員は、

      之が為各本国の政府の委任を受け

      1868年11月29日~12月11日の

      聖彼得堡宣言書に掲げたる

      趣旨を体して左の宣言を南為せり

      「締盟国は窒息せしむべき瓦斯又は

      有毒質の瓦斯を散布するを唯一の目的とする

      投射物の使用を各自に禁止す」

      締盟国中の2国又は数国の間に

      戦を開きたる場合に限り

      締盟国は本宣言を遵守するの義務あるものとす

      前項の義務は締盟国間の戦闘に於いて

      1つの非同盟国が交戦国の一方に

      加はりたる時より消滅するものとす

      本宣言は成るべく速やかに批准すべし

         以下省略

     

    ●「陸戦の法規慣例に関する条約」は、

     1907年10月に署名し、

     1911年12月に批准しました。

     

    ●ジュネ-ブ議定書

     窒息性ガス、毒性ガス又は

     これらに類するガス及び細菌学的手段の

     戦争における使用の禁止に関する議定書

     (通称:毒ガス等の禁止に関する議定書)

    署名   1925年6月17日 (ジュネ-ブ)

    効力発生 1928年2月8日

    日本国  1925年6月17日署名

      1970年5月13日国会承認

      5月21日批准書寄託、公布

     下名の全権委員は、各自の政府の名において、

     窒息性ガス、毒性ガス又は

     これらに類するガス及び

     これらと類似のすべての液体、

     物質又は考案を戦争に使用することが、

     文明世界の世論によって

     正当にも非難されているので、

     前記の使用の禁止が、

     世界の大多数の国が

     当事国である諸条約に宣言されているので、

     この禁止が、諸国の良心及び行動をひとしく

     拘束する国際法の一部として広く受諾されるために、

     次の通り宣言する。

     「締約国は、前記の使用を禁止する条約の

     当事国となっていない限りこの禁止を受諾し、

     かつ、この禁止を

     細菌学的戦争手段の使用についても適用すること

     及びこの宣言の文言に従って

     相互に拘束されることに同意する。」

     締約国は、締約国以外の国が

     この議定書に加入するように

     勧誘するためあらゆる努力を払うものとする。

    以下省略

     

    上記1925年のジュネ-ブ議定書で

    毒ガス類は禁止されていましたが、

    具体的には1993年にパリで

    「化学兵器禁止条約」として作成されました。

     

    ●化学兵器禁止条約

      1993年1月13日 パリ

      130ケ国が署名

      日本国は1995年9月15日批准

     この条約の内容についてはあとの

     「毒ガス条約の発効」で詳しく書きます。

     

    日本はほとんどの会議で積極的に発言し、

    率先して署名していました。

    しかしその裏で世界中を欺いて

    密かに毒ガス製造の準備を進めていたのです。

     

    ●日本代表団の声明 1932年5月20日 ロンドン軍縮会議

     化学兵器の使用禁止は出来うる限り厳格にすべきで・・・・

     それはあらゆる窒息性、

     有毒性及びこれに類する液体、物質

     あるいは工具の使用を禁止すべきで、

     この点についてはいかなる例外

     あるいは保留もあるべきではない

     

    ●同年11月24日 刺激剤の扱いに関する会議で

     催涙ガスはその毒害の程度において

     顕著なるものに非ざるべきも、

     これを一般攻撃に併用する時は

     甚だしき惨害を醸すに至るべきをもって、

     これは1925年の議定書にあるガスに属し、

     その他のガスと同等に禁止の範囲に置くべきものなり

     

    そして使用者に対して検証と制裁も主張しました。

     

    このように世界中を禁止の方向に誘導しながら、

    実は日本のみ(?)着々と毒ガスの準備を進めていたのです。

    そして1933年3月、日本は国際連盟から脱退するのです。

    脱退する事によって、

    今まで積極的に制定した

    国際協定に従わないことにななりました。

     

    つづきを読む

  • マレ-シア・サンダカン死の行軍

    2020/07/22
    17:30

    サンダカンと言うと山崎朋子さんの「サンダカン八番娼館」や

    「からゆきさん」が有名です。

    そのサンダカンに日本軍の捕虜収容所がありました。

    1942年8月にはボルネオ島東北部「サンダカン」では

    日本軍捕虜としてオ-ストラリア兵1,800人と

    イギリス兵700人の合計2,500人が集められ、

    飛行場建設が始まりました。

     

    9月2日、日本軍は捕虜の指揮官ヴォルシュ大佐に対し

    次の内容の契約書にサインさせました。

     1    我々は日本軍の命令はどんな命令であっても、

        それを遂行するよう努力する

     2    我々は逃亡を試みない

     3    もし逃亡した場合、我々は銃殺されてもやむをえない

     

    捕虜を強制労働につかせることは

    国際法上違法ではありませんでした。

    日本は1907年ハ-グで決められた

    「陸戦の法規慣例に関する条約」に批准していました。

      ◎第6条 国家は将兵を除く外、

       俘虜をこの階級及び技能に応じ労務者として使役する事を得

       その労務は過度なるべからず

       また一切作戦行動に関係を有すべからず

     

    1927年の「俘虜の待遇に関する国際条約」は

    調印したものの軍部の反対で批准をしていませんでしたが、

    戦争開始後、連合国の求めに応じて、政府は陸軍省の了解を得て、

    これらの条約を準用するとの外務大臣声明を発表しました。

    条約には賃金を支払う事と、

    作戦行動に関係しない事が条件でしたので、

    この飛行場建設は商用空港と言う名目にしました。

     

    ●1904年に日本軍が定めた俘虜取扱規則には

     逃亡した俘虜は「必要の場合には之を殺傷すること」と

     書かれています。

     実際には必要の場合だけではなく、

     逃亡者は発見次第銃殺されていたようです。

     

    この飛行場工事は1943年9月、

    戦況の悪化で賃金が支払われなくなり

    食糧や医薬品が底をついてきました。

     

    ●生存者 キ-ス・ボッテリルの証言 

        (懲罰で重営倉に入った時の様子)

     最初の7日間は食糧がまったく与えられなかった。

     水も最初の3日間は貰えなかった。

     3日目の晩になって水が与えられたが、

     今度は「水責め」でいやというほど水を飲むのを強制された。

     7日目の晩から食事が与えられた。・・・・

     毎晩棒や拳固で殴られたり蹴られたりした。・・・・

     毎晩1回殴られた。

     蹴られるために檻の外に連れ出されたが、

     監視員たちはこれを「体操の時間」と呼んでいた。

     40日間身体を洗う事が出来なかった。・・・・

     身につけていたものはふんどし1枚きり、

     身体中蚤やしらみで一杯だった。

     便所に行くのは1日1回「体操」の時だけ、

     檻の中に17人閉じ込められていた。・・・

     話をする事は許されなかったため、

     お互いにささやきあった。

     夜寝るときは身体を横たえる場所がなく、

     窮屈に身体を寄せ合って寝た。・・・・

     

    1944年9月にサンダカンの飛行場はほぼ完成しましたが、

    2,500人の捕虜のうち、既に250人が死亡していました。

    更に年末までに400人が死亡しました。

    1945年4月には捕虜への米の配給は完全に停止しました。

    アメリカ軍の攻撃で飛行場は使えなくなり、

    さらにアメリカ軍上陸の可能性が高くなったため、

    動く事が可能な捕虜をボルネオ島西海岸の

    ラナウに移す事が決定されました。

    道のないジャングルと湿地帯で260キロの距離です。

    捕虜はいくつかの班に分けられ、

    数回に分けて移動が行なわれました。

     

    ●1回目の指揮をとる責任者は

     独立混成第25連隊第2部隊の山本正一大尉です。

     捕虜は370人がオ-ストラリア兵、

     100人がイギリス兵です。

     1945年1月29日、第1班として55人のオ-ストラリアの兵と

     40人の日本兵が出発し、

     最後の第9班は2月6日に出発しました。

     ラナウに着いた時には70人が死亡していました。

    ●2回目は5月29日、

     隊長高桑卓男大尉の指揮で、

     536人の捕虜が11班に分かれて出発しました

     オーストラリア兵439人、イギリス兵97人です。

    ●3回目は6月9日、岩下少尉の指揮で

     75人の捕虜と37人の日本兵が出発しました。

     この班は日本兵の一人を除いて

     全員(日本兵も)がジャングルの中で全滅しました。

     

    捕虜の移動では、歩けなくなった者から銃殺されていったようです。

    6月9日の時点でサンダカンに残っていた病人は185人となりました。

    7月12日、50人まで減ったところで

    23人を銃殺し残りは自然に死んでいきました。

    移動したラナウでは8月1日、

    高桑大尉が生き残っていた捕虜全員を銃殺し

    ジャングルの中に埋めました。

    結局当初2,500人だったオ-ストラリアと

    英国の捕虜で生き残ったのはわずかに6名で、

    死亡率は99%以上になりました。

     

    この事件の証言です。

    ●キ-ス・ボッテリル 生き残りの1人

     2日か3日おきに1人か2人の捕虜が取り残された。

     朝起きたとき病気で動けなくなった者は、

     豪州軍捕虜の班長にもうついて行けないことを告げた。

     すると日本軍の軍曹か士官が残りの

     捕虜の数を数えてから出発させた。

     そして0.5マイルほど行った所で我々は銃声を聞いた。

     日本軍士官は我々捕虜の班長に落伍した者は

     銃殺するより仕方がないと告げた。

     行進中に疲れてついて来られず

     落伍した者もしばしば日本兵に銃殺された。・・・・

     ポト附近の大きな山を登っている時に

     5人の仲間を失った事を覚えている。

     彼等は銃殺されたが、

     その内の2人が日本兵に銃殺されたのは私自身が目撃した。

     

    ●遠藤**の戦後の証言  

          阿部一雄中尉の命令で捕虜を殺害した

     病気になって行進を続けられなくなった

     捕虜は殺せという指示を阿部中尉から受けました。・・・・

     ポトを離れてまもなく、

     またもう1人の捕虜が行進を続けられなくなりました。・・・・

     佐藤2等兵と私がその捕虜を

     道の横のジャングルに連れ込み銃殺しました。・・・・

     私はその次に落伍した5人に付き添いました。

     阿部中尉から受けていた命令は

     彼らを殺せという事でしたが、

     私にはとても出来なかったため、

     食糧や水も与えず彼らを置き去りにして死なせました。・・・・

     今から振り返ってみると、

     これらの捕虜は病気で衰弱しきっていたため、

     銃殺して埋葬した方が

     はるかに人道的であったかとも感じます。

     

    ●台湾人監視員の証言

     ・・・・第2回目に私は1人の捕虜を殺しました。

     ・・・・この殺害は辻の命令でやりました。

     私は辻が捕虜を殺したのは見た事がありませんでした。

     福島も臆病そうに捕虜の名前を記録するだけで

     誰も殺しませんでした。

     高桑や渡辺が捕虜を殺したのも見た事はありませんでした。

     台湾人監視員はごく数人の病気の者を除いて

     全員この特別任務に順番に

     携わらなければなりませんでした。・・・・

     

    ●ウォン・ヒョン サンダカン収容所台所の料理人 

              地元中国人   当時19歳

     捕虜は十字架を背にして立たされ、

     「ヒナタ」が彼を押さえつけました。・・・・

     日本人士官は右手に金槌を持って踏台の上に立ちました。

     彼は捕虜の左腕を持上げて左手の甲に釘を打ち付け、

     左腕を肩の高さと同じになるように張りつけました。・・・

     捕虜は身体をくねりあげて叫び声を出しましたが、ヒ

     ナタが捕虜の身体を持上げるようにして十字架に押さえつけ、

     布切れを捕虜の口に押し込みました。

     士官は・・・・右手を同じように十字架に張り付けました。・・・・

     それから捕虜の足を2本の釘で・・・・

     木の板に張り付けました。・・・

     大きな釘を捕虜の額に打ち付けて頭を張り付けました。

     日本人士官はナイフを持って

     捕虜の左側の腹部から肉を一片切り取り、

     その肉をそばにあった木の板の上に置きました。

     それから彼は捕虜の右側の腹部からも肉を少し切落とし、

     それを同じ木の板の上に置きました。

     それから彼は自分の右手にゴム手袋をはめ、

     捕虜の内臓を取り出してこれも同じ木の板の上に置きました。

     再びナイフを持ち、今度は捕虜の両腿、両足、首からも

     少しずつ肉を切り取ってそれらも板の上に置きました。

     

    つづきを読む

  • 三光作戦の特徴

    2020/07/14
    13:00

    どのような手段で未治安地区を

    治安地区に したのか?

    かなり強引な手段を行使しましたが、

    その三光作戦の特徴を整理します。

     

    1 強制的に多くの無住地帯を作った。

      全てを焼き払って荒野にしてしまう作戦です。

      このために多くの住民が追払われた村は焼かれ、

      作物、家畜、食料は全て強奪されました。

      抵抗する者は殺されました。

      無住地帯の面積は5千平方キロメ-トル以上。

      (四国、九州、沖縄をあわせた位)と言われています。

    1 遮断壕を作る

      ゲリラの侵入と活動を防ぐために地図の上に封鎖線を書いて各兵団が分担して、

      幅4~6メ-トル、深さ2~3メ-トルの

      壕を何百キロメ-トルも作った。

      万里の長城にも匹敵する大工事です。

      このために延べ何百万人もの住民を強制労働させた。

    1 捕虜の殺害をした

      日本の中国侵略は戦争ではなく

      事変と呼び戦時国際法を適用しませんでした。

      その為国際法上の捕虜はいなかったことになります。

      (日本軍では俘虜という言い方をしました)

      捕虜は保護しなければならないが、

      捕虜はいないのだから殺してもよいという

      変な理屈が成り立ちます。

      また、特にゲリラは正規兵ではなく

      便衣兵(普段着の兵隊)といわれました。

      便衣兵は正規兵ではないので捕虜ではない。

      だから殺害してもよいと主張したのです。

     ●陸支密第198号支那駐屯軍参謀長宛 

        陸軍次官通牒「交戦法規の適用に関する件」  

        1937年8月5日

      現下の情勢において帝国は

      対支全面戦争を為しあらざるをもって

      「陸戦の法規慣例に関する条約

      その他交戦法規に関する諸条約」の

      具体的事項を悉く適用して

      行動することは適当ならず(原文カナ)

     

     また中国人に対する差別意識もかなりありました

     ●陸軍歩兵学校「対支那軍戦闘法の研究」の項目「捕虜の処置」    

          1933年(原文カナ)

      支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、

      特に兵員は浮浪者多く

      その存在の確認せられあるものは少なきをもって、

      仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題になること無し

    1 簡単に毒ガスを使用した (別の原稿に詳しく書きました)

    1    報復や見せしめのために住民虐殺や部落の焼き討ちを日常的に行なった

    1    強姦や慰安婦の強制連行が行なわれた

     

    つづきを読む

メインローカルナビゲーション

  • 原子力発電
    と放射線

  • 戦争・歴史

  • 健康

原子力発電と放射線

  • 原子力政策の始まりから
  • 元素とその変化
  • 放射線の危険性
  • 放射線被曝
  • 規準と用語
  • 福島の事故
  • 事故による健康被害
  • 指摘されていた危険性
  • チェルノブイリ事故について
  • 日本の原子力発電
  • 原発を始めた理由の検証
  • 原発の安全基準
  • 原発をめぐる法律
  • 経済効果と国民負担
  • 再生可能エネルギ-とPPS
  • 核燃料サイクル
  • その他
  • 最後に

戦争・歴史

  • 日本の細菌戦
  • 講演録:南京事件の真実は?
  • 報道の質
  • 朝日新聞の訂正記事と吉田清治証言
  • 日本国憲法の成立
  • 阿片政策
  • 沖縄戦
  • 三光作戦
  • 尖閣諸島
  • 大東亜共栄圏
  • 中国人強制連行
  • 日本の毒ガス戦
  • 防疫給水部(細菌戦部隊)
  • 軍による性暴力
  • 南京事件

健康

  • 健康食品と肝臓障害
  • 講演録:免疫と蛋白質~コラ-ゲン美容まで
  • 講演録 インフルエンザ
  • 講演録 最新デ-タ-から見る高血圧
  • 高齢者の薬と副作用
  • コレステロ-ルを含む食品の摂取制限
  • 自律神経と薬の作用
  • 副作用のある薬
  • 新型コロナウイルスと免疫
  • 食品や生活用品への警告や摘発
  • PM2.5
  • メタボ検診
  • 暮らしと健康アラカルト

キーワード

  • 歴史の教訓
  • サンフランシスコ条約
  • 河野談話
  • 陸軍刑法
  • 金原節三
  • 強姦
  • 軍需物資
  • 李秀梅
  • スマラン裁判
  • 国家無答責
  • 謝罪
  • 従軍慰安婦
  • NHK
  • 南京
  • 国際条約
  • 金学順
  • 挺身隊問題
  • 復命書
  • 誘出し
  • 夜襲
  • PX作戦
  • 米国本土に対する細菌攻撃
  • 小暮泰用
  • 沖縄や小笠原に細菌攻撃
  • 体当たり機
  • 竹内徳治
  • 償い金
  • 人質掠奪拉致
  • 米軍用慰安所
  • 抗体保有者
  • 阿片
  • 燃料棒のトラブル
  • 性奴隷
  • 人権侵害
  • 吉見義明
  • 恒久平和議員連盟
  • 国会図書館法
  • ILO
  • リンダ・チャベス
  • クマラスワミ
  • マクドゥ-ガル
  • 慰安所
  • 性病
  • UNTAC
  • 労務管理

フッターグローバルナビゲーション

© おしえて!ゲンさん! 〜分かると楽しい、分かると恐い〜