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キーワード「御前会議」を含む投稿一覧

  • 犬死論・近衛上奏文

    2020/07/24
    17:09

    戦争中は死んだ兵士の事を「軍神」、

    「靖国の英霊」として祭り上げ、賛美して来ました。

    現在でもある漫画家は「戦争論」という漫画で

    「公」のために死ぬ事を美化しています。

    それに対して侵略戦争で死んだのだから

    「犬死」だと言う人もいます。

    解釈はどうあれ、犬死と言う言葉は遺族にとっては

    納得できないという議論もあります。

    そこで、実際に日本軍の死者について

    少し細かく見てみたいと思います。

    兵士の死亡原因と死亡時期を詳しく見てみます。

     

    「兵隊の死亡」

    ●死亡原因

     日本政府の統計では、

     アジア太平洋戦争での日本軍死者は

     約230万人とされています。

     その内容を見ると、病死、栄養失調で死んだ人が

     120万人以上と言われ半数以上を占めています。

     つまり戦闘で死んだより

     病気や餓死が多かったという事です。

     ◎フィリピン       

      約500,000人の死者 約8割が餓死、栄養失調死

     ◎東ニュ-ギニア     

      約127,600人の死者   約9割が餓死

    注:尾川正二「東部ニュ-ギニア戦線」によると、

    参加した日本兵は157,646人で

    敗戦時生存者は10,072人となっていて、

    死亡率93.6%になっています。

     ◎ソロモン群島    

      約88,200人の死者   6~7割が餓死

     ◎ビルマ      

      約164,500人の死者   5割以上が餓死

     

    ●病死率の推移

     厚生省の聞き取り資料、

     4,296人の死亡状況の調査分析から2,960人分です。

     ソ連での人数は除く

    時期

    戦死

    病死

    その他

    計

    病死率

    1944年以前

    365人

    77人

    21人

    463人

    17%

    1945年1月

    87人

    19人

    6人

    112人

    17%

    2月

    154人

    25人

    10人

    189人

    13%

    3月

    225人

    43人

    5人

    273人

    16%

    4月

    270人

    52人

    12人

    334人

    16%

    5月

    258人

    55人

    4人

    317人

    17%

    6月

    292人

    86人

    11人

    389人

    22%

    7月

    252人

    143人

    12人

    407人

    35%

    8月1~15日

    97人

    72人

    9人

    178人

    40%

    8月16~31日

    48人

    93人

    12人

    153人

    61%

    9月

    23人

    115人

    7人

    145人

    79%

    合計

    2,071人

    780人

    109人

    2,960人

     

     

    ●戦没者の集計 軍人・軍属・一般邦人

    地域

    戦没者数

    旧満州(中国東北部)

    245,400人

    中国本土(旧満州を除く)

    465,700人

    沖縄

    188,100人

    硫黄島

    21,900人

    韓国

    18,900人

    北朝鮮

    34,600人

    台湾

    41,900人

    樺太・千島・アリュ-シャン列島

    24,400人

    旧ソ連本土

    52,700人

    モンゴル

    1,700人

    ミャンマ-

    137,000人

    インド

    30,000人

    フィリピン

    518,000人

    ベトナム・ラオス・カンボジア

    12,400人

    タイ・マレ-・シンガポ-ル

    21,000人

    ボルネオ

    18,000人

    インドネシア

    31,400人

    西イリアン(モルッカ、西部ニュ-ギニア)

    53,000人

    中部太平洋

    247,000人

    ビスマルク諸島・ソロモン諸島

    118,700人

    東部ニュ-ギニア

    127,600人

     

    ●死亡時期

     死亡時期は1944年7月のサイパンが陥落した後、

     つまり戦争期間の最後の1年間に集中しています。

     

    「見捨てられた兵隊」

    ●1943年9月30日、

     御前会議で「今後採るべき戦争指導大綱」と

     「右に基づく当面の緊急措置に関する件」を決定し

     「絶対国防圏」を設定しました。

     絶対国防圏とは絶対に守る地域を設定し、

     それ以外は放棄するという政策で、

     その決定時点で放棄する場所にいた部隊は

     見捨てられたのです。

     絶対に守る地域は次の通りです。

     千島、小笠原、内南洋(中・西部)及び

     ニュ-ギニア、スンダ、ビルマ等を含む地域

       注:この頃から日本は負ける見通しとなり、

         拡大した戦線を維持出来なくなってきたのです。

          その為に縮小した防衛範囲を決めたのです。

       そこで置き去りにされた兵士に

        病死や餓死が多発したのは当然といえます。

         国家と言うのは冷たいもので、

         いつも末端の人間を犠牲にします。

    ●1944年7月

     サイパン島が玉砕して絶対国防圏は破られました。

     そこで時間稼ぎのため「捷号作戦」を決め、

     絶対国防圏を縮小しました。

     縮小した絶対国防圏は次の通りです

     台湾、南西諸島、本土、千島

     そのためその外側の部隊は

     さらに見捨てられることになってしまったのです。

    ●1944年8月19日、

     御前会議で「別紙世界情勢判断」が採択されました。

     その中に示された判断は・・・・

      ◎本土空襲は激化する

      ◎海上交通は破壊される

      ◎ドイツの戦局は益々不利になる

      ◎船舶の輸送量は計画の1/3になる

      ◎国力は低下の一途をたどり、

       国民生活は逼迫の度を加える

     このように戦争継続は

     無理な状況にあったにもかかわらず、

     結論は「あくまで戦争の完遂を期す」となりました。

     

    ●1944年12月15日、

     レイテ決戦の戦死者が8万人以上で、

     死亡率が97%になったため、

     山下奉文第14方面軍司令官は作戦を中止しました。

     しかし部下の鈴木宗作第35軍司令官は

     続けろと指示したのです。

     「・・・・其の作戦地域内に於て

     自活自戦永久に抗戦を継続し

     国軍将来に於ける反抗の支柱たるべし・・・・」

     まさに沖縄戦の最後に牛嶋中将が出した命令と同じで、

     軍は解体するが個人で永久に戦えというひどい命令でした。

     

    「近衛上奏文」

    そして1945年1月6日、

    アメリカ軍がルソン島への

    上陸準備をしているとの情報で、

    天皇は木戸幸一に対し、重臣たちから

    秘密裏に意見を聞くように指示しました。

    意見を求められた重臣は

    「平沼騏一郎」「広田弘毅」「近衛文麿」

    「若槻禮次郎」「牧野信顕」「岡田啓介」

    「東條英機」ですが、

    この中の近衛文麿が天皇に

    拝謁した時のやり取りを取り上げます。

    前年、サイパン陥落後に

    アメリカの放送を傍受した近衛は、

    亡命中の大山郁夫を首班として

    「日本共和国」建設の動きがあることを知り

    危機感を抱いていました。

     

    ●近衛上奏文 1945年2月14日 

    注:原文を一部現代語に直しました

     敗戦は遺憾ながらもはや必至なりと存知候。

     以下この前提のもとに申し述べ候。

     敗戦は我が国体(注:天皇制)の危機ではあるが、

     英米の世論は今のところ国体の変革までは進んでいない。

     そのため敗戦だけならば国体上憂う要なしと存知候。

     国体の護持より最も憂うべきは、

     敗戦よりも敗戦に伴って起こる共産革命に御座候。

    (中略)

     戦局への前途につき、何らかの一縷でも

     打開の望みありというならば格別なれど、

     敗戦必至の前提のもとに論ずれば、

     勝利の見込みなき戦争をこれ以上継続するは、

     全く共産党の手に乗るものと存知候。

     したがって国体護持の立場よりすれば、

     一日も早く戦争終結の方途を

     講ずべきものなりと確信致し候。

    (以下略)

     

     この上奏文に驚いた天皇は御下問します。

     以下は天皇の下問と近衛の返事です。

     (天皇)

      我が国体について、近衛の考えとは異なり、

      軍部では米国は日本の国体変革までも

      考えていると観測しているようである。

      その点はどう思うか。

     (近衛)

      軍部は国民の戦意を昂揚させるために、

      強く表現しているもので、

      グル-次官らの本心は左にあらずと信じます。

      ・・・・ただし米国は世論の国ゆえ、

      今後の戦局の発展如何によっては、

      将来変化がないとは断言できませぬ。

      この点が、戦争終結策を至急に講ずる要ありと

      考える重要な点であります。

     (天皇)

      もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。

     (近衛)

      そういう戦果が挙がれば、

      誠に結構と思われますが、

      そういう時期がございましょうか。

      それも近い将来でなくてはならず、

      半年、一年先では役に立たぬでございましょう。

     

    近衛の最後の「半年、一年先では役に立たぬ」という

    言葉が的中して沖縄戦、原爆の悲劇になりました。

    このように見ていくと、

    完全に負けると分かった後も

    ずるずると戦争を続け、

    兵隊は国家から見捨てられたことが分かります。

    もし、戦争があと1年早く終わっていたらと考えると・・・・

    沖縄や原爆の悲劇がなかっただけではなく、

    多くの兵士や民間人の命は救われたかもしれません。

     

    何故戦争終結が出来なかったのでしょうか?

    戦争に負けることが分かっていても、

    近衛上奏文にあるように、

    国体護持つまり天皇制が守られるという

    約束が保証されるまでは、

    国民がどんなに犠牲になっても

    戦争を止めるわけにはいかなかったのです。

    それと「軍人勅諭」と「戦陣訓」の教育を受けた兵士は

    降伏する事が出来なかった事も原因でしょう。

    現代では「人はいかに生きるか」が当然ですが、

    軍国主義では「天皇のためにいかに死ぬか」が強制されたのです。

    現代でも国の為、大義の為という言葉を

    振りかざす人がにいますが、

    国民が国を作るのではなく、

    国家あっての国民という考えで、

    非常に危険です。

     

    そこで、犬死論です。

    言葉にこだわると

    感情的になってしまいますが、

    指導者の決断一つで助かったかもしれない

    という事は考える必要があると思います。

     

    つづきを読む

  • インドネシア占領と大量動員

    2020/07/23
    11:04

    インドネシアは非常に広大な面積です。

    ジャワ島を中心にスマトラ、ボルネオ、セレベス、

    チモ-ルその他多くの島々と民族で成り立っています。

    そのほとんどがオランダ領で

    石油、ボ-キサイト、ニッケル、マンガン等の産地でした。

    日本はこれらの資源を「重要国防資源」として

    獲得するための一環としてインドネシアを占領したのです。

     

    1941年(昭和16年)11月18日、

    岩国にある海軍航空隊で、

    寺内寿一陸軍大臣と山本五十六海軍大臣、

    その他両軍の作戦関係司令官や幕僚が参加して、

    南方作戦に関する陸海軍協定が交わされ、

    協定は「占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定」

    (昭和16年11月26日決定)として同日陸軍大学校にて調印されました。

    まだ開戦前の事です。

     

    1941年12月に攻撃を開始した日本軍は

    次々とインドネシアの各島々を占領していきました。

    オランダ軍は1942年3月4日、

    バタビア(ジャカルタ)から撤退し、

    日本軍は協定によって陸軍がジャワとスマトラ、

    海軍がボルネオと東インドネシア地域の占領地統治を始めました。

     

    第16軍が3月1日に55,000でジャワ島に上陸を開始し、

    軍政が3月7日から始まりました。

     

    ●軍政の簡単な分担

     ・ スマトラは陸軍第25軍

     ・ ジャワは陸軍第16軍

     ・ その他の島は海軍の統治

     ・ 軍政の長官は軍司令官か艦隊司令長官がなり、

       全ての命令を出す権限を持っていました。

       各地の占領地には司令部があり、

       その中に軍政部(後に軍政監部)が置かれました。

       軍政監には軍・艦隊の参謀長がなりました。

     

    1942年12月8日、

    バタビアはジャカルタと改名されました。

    日本軍は侵攻作戦の途中で放送を通じて

    「日本はオランダの支配からインドネシア民族を

    解放するために戦う」と宣伝し、

    オランダ時代には禁止されていた

    民族歌(インドネシアラヤ)を流し

    民族意識を高揚させました。

    また民族旗(現在の国旗)も沢山準備しました。

    そのためオランダの植民地だったインドネシアの人々は、

    最初は日本を解放者として歓迎、信じました。

    日本に期待したインドネシアの人々は

    すぐにでも独立できるものと錯覚し、

    新政府の閣僚名簿まで作成して発表した新聞もありました。

     

    ●チャハヤ・ティム-ル紙 1942年3月13日

    首相   アビクスノ・チョクロスヨソ

    副首相  スカルノ

    外務大臣 スジョノ

     

    しかし日本軍は占領を完了すると次々と布告を出し、

    逆に全ての政党を解散させ、民族旗や民族歌を禁止し、

    日の丸や君が代を強制したため

    住民からの信頼は失われていきました。

     

    ●布告第1号 1942年3月7日 原文カナ

    第1条 

     大日本軍は同族同祖たる東印度民衆の

     福祉増進を図ると共に大東亜共同防衛の原則に準拠し

     現地住民と共に共存共栄を確保せんことを期し、

     差し当たり東印度の治安を確立し

     民衆をして速やかに安住楽業せしめんが為に

     東印度占領地域内に軍政を施行す

    第2条 

     大日本軍司令官は総督の職権を行使す

    第3条 

     占領地に於ける在来の行政諸機関、其職域権限

     及び諸法令の規定は軍政施行のため特に障害たらざる限り、

     差し当たり引き続き有効とす

    第4条 

     官民は大日本軍及び大日本官憲の命令を遵守すべし

     

    黄色線のところをみると、

    布告第1号ではまだ住民を尊重しているように見えますが、

    その後は矢継ぎ早に厳しい布告が出されるようになります。

     

    ●布告第2号  1942年3月8日

     結社・集会の禁止

    ●布告第3号及び布告第4号  1942年3月20日

     政治的な言論・言語・言動示唆・宣伝活動の禁止

     祝日等には日本国旗のみを掲揚する

    ●布告第16号  1942年5月25日

     言論・出版機関の自由な活動の禁止

     

    1943年5月の御前会議で

    ジャワ・スマトラ・セレベス・マライ・ボルネオは

    帝国領土にする事が決定されました。

    結局は独立させる気はなかったのです。

    スマトラから石油が供給され、

    ジャワからは米が日本に供給されるようになりました。

     

    ●米の供給

     米を日本に供給するためには、

     耕作面積の拡大が絶対命令でした。

     その為にジャワの森林が15,000ヘクタ-ルも

     伐採されたといわれています。

     それらの工事に多くの労務者が連行されました。

     1943年から米の強制供出が徹底され、

     30%を日本軍政監部に供出し、残りの30%は備蓄、

     残った米がジャワの人々の生活に回されました。

     しかしこれはあくまでも日本軍が発表した数字で、

     実際には大部分が軍に取られたという証言もあります。

     

    このように日本軍は民衆の活動を厳しく制限した上で、

    戦争協力の為に最大限に動員する政策をとりました。

     

    ●三亜(三A)運動

    占領直後最初の大衆運動で、三亜運動又は三A運動と呼ばれました。

     三亜とは  アジアの光日本!

             アジアの保護者日本!

          アジアの指導者日本!

    この運動はサムスディンというインドネシア人を

    表面的に立てていましたが、

    推進母体は日本陸軍の宣伝部でした。

     ☆宣伝部に所属した日本の文化人たち

      大宅壮一、阿部知二、横山隆一、

      武田麟太郎、松井翠声、北原武夫・・・・

     ☆大宅壮一氏は、大邸宅を接収して

      高級慰安所を2ケ所経営していたそうです。

      白馬会-オランダ系女性を置いた

      黒馬会-インドネシア系女性を置いた

     

    この運動では、凡ての住民に毎朝、

    皇居の方向に向かって身体を90度曲げて最敬礼し、

    天皇に敬意を表す事が義務付けられました。

     

    ●プ-トラ(住民総力結集運動)

    三亜運動は露骨に日本中心過ぎたため

    住民の共感をあまり得られませんでした。

    そのため次にインドネシア人の民族主義者を

    全面に出して大衆運動を組織する事にしました。

    1943年3月9日、

    ジャワ占領1周年記念日にプ-トラは組織されました。

    日本軍に協力させられた民族主義者は

    通称四葉のクロ-バ-と言われました。

    メンバ-はスカルノ、デワントロ、ハッタ、マンス-ルの4人で、

    プ-トラの会長にはスカルノが、

    副会長に他の3人が就任しました。

     

    日本軍は民族主義者をうまく利用しようとし、

    民族主義者は将来の独立のために日本を利用しようとし、

    うまく行く筈でしたが結局は成功しませんでした。

     

    ●ジャワ奉公会

    今度は日本人、混血民族、華僑、

    その他全住民を対象にした組織が出来ました。

    日本の大政翼賛会、満州の協和会、

    中国の新民会を真似して作った組織です。

    軍政監が総裁に、スカルノが中央本部長に就任し、

    日本からは大政翼賛会、国防婦人会、

    新民会等の指導者が職員に任命されました。

     ☆ジャワ奉公会の規約

    1  軍政奉仕の率先実施

    2  万民親和による軍政奉仕の指導

    3  防衛強化

    4  戦時生活態度強化

    5  人民救護補導

    6  他

     

    日本軍はジャワ奉公会を中心に

    「隣組」「婦人会」「青年道場」「青年団」「警防団」等を

    組織して大量動員を行ないました。

    その後、1943年10月には兵補(後述)、

    さらにより軍事的なペタ(ジャワ防衛義勇軍)が作られました。

    このペタは純然たる軍事組織で、

    終戦までに38,000人以上の人数になったといわれています。

    これらの組織の中でペタのような軍事的組織が

    戦後すぐのインドネシア独立の中心になったため、

    日本人の中にはインドネシア独立は

    日本のおかげだと主張する人がいますが、

    単にたまたまそうなっただけであって、

    インドネシアの人々が日本に支配されながらも

    独立のチャンスを狙っていたとするのが妥当だと思います。

     

    ●イディン・ワンサ・ウイジャヤの証言  1986年3月12日

    ・・・・多くの青年がセイネンダン、

    ヘイホそしてケイボウダンなどに入りましたが、

    そのことは私たちが親日だったということを

    意味しないと確信します。

    私たちはうわべだけ親日だったのです。・・・・

    ですから、日本に何か功績があるとすれば、

    彼らを軍隊式に鍛えただけです。

     

    大量動員ではさらに豊富な労働力を

    労務者(ロ-ムシャ)として強制労働に狩り立てたり、

    軍隊の補助として兵補にしました。

     

    つづきを読む

  • 海南島

    2020/07/22
    16:47

    当時南京や重慶に対する長距離爆撃に成功した海軍は、

    航空兵力の拡充を国や国民にアピ-ルしていました。

    将来のアメリカを見据えた海軍は中国で爆撃の訓練もしていました。

    従来日本軍では海軍の出番が少なく予算の多くを陸軍が占めていました。

    しかし長距離爆撃のアピ-ルに成功した海軍は

    急速に予算の拡充に成功しました。

     

    ●臨時軍事費の変化

      年度

    臨時軍事費

     (陸・海合計)

    海軍臨時軍事費

    航空兵力関係

    第72回帝国議会(1937年)

    202,267万円

    39,995万円

    19,874万円

    第73回帝国議会(1938年)

    488,659万円

    116,530万円

    42,004万円

    第74回帝国議会(1939年)

    465,000万円

    93,955万円

    43,945万円

    第75回帝国議会(1940年)

    446,000万円

    84,000万円

    36,763万円

               注:1938年(昭和13年)に急速に増加しています。

    将来の対米戦争を視野に入れた日本軍は

    南方進出の重要拠点として海南島を押さえることにしました。

    位置的にマレ-半島やインドネシアに向かう重要拠点で、

    援蒋ルート(注:中国国民党のへの支援ル-ト)としても、

    シンガポ-ルから英米の物資を運ぶ拠点でもありました。

    さらに、香港(英国領)、フィリピン(アメリカ領)、

    中国南部が長距離爆撃機や零式戦闘機の渡洋範囲でもありました。

     

    海南島は面積が台湾くらいの島です。

    1940年頃の人口は約250万人です。

    位置的に重要な地点で、

    日本としても日本としても

    南方進出の重要拠点と見られていたため、

    さらに対米戦争を考えて軍事予算の増額に成功した

    海軍としては積極的に海南島攻略を考えていたようです。

     

    1939年1月13日の御前会議で海南島政略が決定され、

    2月10日に陸海軍両軍で占領を開始しました。

     

    ●大陸命第265号   1939年1月19日付  原文カナ

     大本営は南支那に対する航空作戦及び

     封鎖作戦の基地設定のため海南島要部の攻略を企図す

      注:南方侵略に対する航空や封鎖のための

        基地設定と言う限定した目的だった

     

    海南島占領は陸軍が飯田支隊

    (台湾混成旅団を中心とした部隊、飯田祥次郎少将)と

    海軍は第5艦隊(司令長官近藤信竹中将)の合同で行なわれました。

    この作戦は陸軍では「甲作戦」、海軍では「Y作戦」と呼びました。

    その後は海軍主導で作戦は進められていきました。

    この占領に対して、

    当時海南島を勢力範囲としていた

    フランスは厳重に抗議しました。

    2月13日に有田八郎外務大臣は

    「領土的野心はない」と回答しましたが、

    3月30日になると海南島と

    新南洋群島の領土宣言を一方的に発表し、

    各国に日本の南方侵略の警戒心を与える事になりました。

    占領時には中国の正規軍は既に撤退し、

    海南島には保安団や共産軍のゲリラ部隊が

    わずか1万人位残っている程度でした。

    それに対して日本軍は7,892人でした。

    (1941年12月現在)

     

    海南島では少数ながら抗日ゲリラが活発に活動していたため、

    海軍主導で「Y作戦」というゲリラ掃討作戦を行ないました。

    Y作戦は時期によって、Y1からY9まであります。

    ●海軍の地上作戦

     Y1作戦  占領開始

     Y2作戦  1940年3月~4月

     Y3作戦  1941年2月~3月

     Y4作戦  1941年8月

     Y5作戦  1941年11月~42年1月

     Y6作戦  1942年6月

     Y7作戦  1942年12月~43年6月

     Y8作戦  1943年12月~44年12月

     Y9作戦  1945年

     

    ●嶋田繁太郎支那方面艦隊司令長官の日記 

        1940年6月に視察 Y2作戦の頃  原文カナ

     海南島は海軍の思うとおりに指導されあり

     比較的短時間に着々治安上がり

     中部山岳方面の外は一通り平定す

     殊に2月より5月にわたりしY2作戦の効果大にして

     討伐道路も相当通し天然資源の状況もあきらかとなれり

     更にこの種の討伐を行い敵将

     王毅を伐取らば明朗となるべし

     鉱物の調査は進みしが

     農業にて本邦必需の熱帯資源の

     試作研究を一掃積極的に行なうの要切なり

     

    海南島占領の本来の目的は先に述べたように

    各地に進出する基地作りでしたが、

    それと同時に豊富な鉱物資源と

    農産物の獲得も大きな目的の一つでした。

    その為にも一刻も早い治安の安定が必要だったのですが、

    農産物の無理な収奪、鉱山その他の強制的労働、

    中国の三光作戦にも似た掃討作戦・・・・と、

    完全に住民を敵にするような強引な政策をとったため、

    かえってゲリラの勢力を完全には掃蕩できませんでした。

     

    ●海南警備府戦時日誌  1944年7月 原文カナ

     各管区に於ける共産匪は

     其の勢力の扶殖伸展に執拗なる策動を続けあり・・・・

     

    どの様な作戦をしたのか、Y5作戦の資料を見てみます。

    ●Y5作戦開始の命令 原文カナ

     海南部隊はY4作戦成果を拡充し

     占拠地及び未占拠地の残敵兵力を

     速やかに捕捉掃滅すると共に 

     人心の収攪、敵性物資の獲得等の総合作戦を実施、

     普く我の武威を浸透残敵再建の余地無からしめ

     以って対南方作戦基地たる本島の治安を急速に確立せむとす

     

    ●Y5作戦の成果

     敵に与えたる損害  遺棄死体  1,540

               捕虜       262

               投降者     91

               焼却家屋   10,379

               押収籾   41,000石

     注:1万戸以上の家を焼き払い、

          4万石もの籾を奪っています。

         まさに三光作戦です。

     

    ●Y5作戦が終了した翌月の戦時日誌

        2月1日から2月28日分

      遺棄死体   143

      射刺殺    293

      射殺       31

      刺殺     162

      人員処分     18

      土民刺殺     91

      捕虜       173

      焼却家屋     1,197

     注:Y5作戦が終わり、次のY6作戦が始まる前の数字です。

         平常時の1ケ月でも1000戸以上の家を焼き払い、

       600人以上の人を殺している事が分かります。

         遺棄死体だけが戦闘で死んだ数で、

      他は捕まえてから殺していますから、

      捕虜或いは民間人ということになります。

     

    ●Y5までの作戦を反省して、

        Y6作戦では「あまり家屋を焼かないように」となりました。

     ・・・・処理を考慮し敵性家屋といえども

     その焼却破壊は極力これを避け・・・・

     作戦一段落せば一般民衆に対する宣伝宣撫工作を活発にし・・・・

     

    それでもあまり変化はなくY7作戦に入ります

     

    ●Y7作戦の総合戦果  

       遺棄死体  2,635           

       射刺殺  6,748           

       捕虜      924           

       帰順   2,677           

       焼却兵舎  4499

     

    ●海南島占領から1942年末(Y7作戦途中)までの戦果一覧表

      遺棄死体(射刺殺を含む)    28,863人

      奪った武器(小銃、猟銃を含む)   6,302

     注:占領時の計算ではゲリラの数は約1万人でした。

        それが3万人近くも殺されています。

         その割りに奪った武器の数が少ないのは、

         一般住民を殺害した証拠でしょう。

     

    「海南島と民間企業」

    海南島は重要拠点であるため、

    掃討作戦と並行して、

    飛行場、港湾、道路などを整備し、

    軍事基地化を進めるため

    企業と協力して鉱山や電源等の開発を進めました。

     

    ● 海南島の日本企業

    会社名

    仕事

    石原産業

    田独鉄鉱山

    日本窒素

    石碌鉄鉱山

    三菱鉱業

    那大錫鉱山、羊過度嶺水晶鉱山

    浅野セメント

    抱披嶺石灰山

    西松組

    日本窒素関係の工事

    鉱山資源は豊富で、

    日本が占領した1939年~45年に

    日本窒素が開発していた石碌鉄鉱山が有名で、

    品位60~65%の赤鉄鉱の埋蔵量が

    2億トンと推定されていました。

    これらの多くの事業では大量の労働者を必要としました。

     

    「強制連行と強制労働」

    日本が香港を占領した後、

    人口が増えすぎて人々の困窮を極めていました。

    日本軍は人口疎散政策ととりましたが、

    その一環として青年たちを集めて

    海南島に労働者として送り込みました。

    さらに中国本土からも労働者が強制連行されてきました。

    始まりは

     1941年9月   上海から    約3,000人

     1942年2月   香港からの第一陣  483人

    それ以降香港から大量の労働者が海南島に連行されたのです。

     

    ●他の地区からの労働者

     海南島で強制労働を強いられたのは、

     他には、 地元先住民族、台湾人、朝鮮人、

     イギリスやオ-ストラリア軍の捕虜などがいます

     

    香港から船に押し込まれて

    4日間の航海で海南島に着いた時には

    多数の人が死んで海に捨てられ、

    残りの半数は病人であったという資料もあります。

    1943年7月までに香港経由で連行された人数は、

    合計20,565人(内、看護婦等特殊工員 3,002人)です。

    島での労働は幽閉状態で鉄鉱採掘、

    道路建設、空港建設などの労働を強制され、

    終戦後香港に帰れたのは

    1/3以下だったといわれますがよく分かりません。

     

    「朝鮮からの受刑者連行」

    1939年から朝鮮の刑務所に服役中の

    受刑者を南洋諸島の基地建設に

    強制労働させることを決定しています。

    これを受けて朝鮮各地10ケ所以上の刑務所から

    受刑者が海南島に連行されました。

    「南方派遣報国隊」という名称です。

    海南島への第1次派遣が出発したのは

    1943年3月30日で、第7次派遣で終了したようです。

    受刑者は隊員として日の丸の腕章を付け、

    「諸君は一人一人が日本精神を堅持すること、

    即ち一切を大君(天皇)に捧げまつる心を持って欲しい・・・」と

    送り出されました。

    連行された受刑者は2,000人から3,000人と言われ、

    半数以上が死亡したものと思われます。

    働かされた所は、三亜地区と石碌地区の2ケ所でした。

    朝鮮人の報国隊は海南島以外にも連れて行かれています。

    また海南島には「台湾報国隊」も連れてこられたようですが、

    資料が不足しています。

     

    「証言や資料」

    ●河野司氏 敗戦当時、日本窒素の総務次長

     石碌鉱山関係者の犠牲者だけで数万人くらいあった

    ●崔能さん  香港から海南島に連行された

     1942年3月、日本軍に狩り出されて海南島に連れて行かれた。

     私の仕事は楽な方で、運よく帰れたけど、大勢の人たちが死んだ。

     重労働だったので殺されたようなものだよ。

     戦争が終わって香港に戻ってみると、

     父は工場を没収され、飢えて栄養失調で死んでいた。

     母も飢えて戦後間もなく死んでしまったよ。

     兄も弟も同じ運命で死んだ。

     私は孤児になってしまった。

     残されたのは父の持っていた軍票だけだったが、

     日本は50年もたつのに返してくれない。

     私は今でも日本を恨んでいるよ。

    ●藤間忠顕「台湾及海南島視察記」より

       ・・・・隊員たち(朝鮮人)は

     朝の起床点検食事が終わると同時に朝礼をし、

     皇国皇民の誓詞を斉誦し部隊の訓示を受け

     ・・・・最近鮮内(朝鮮内)においても

     多数の病死者を出して居るのであるから、

     特に気候風土の異なった

     現地において多少の増加を見るのは当然であろう。

    ●宋龍雲さん 第1次で連行され1944年に帰国

     朝鮮人を殺すのを私たちは見たが、見せられたんだ!

     地面を大きく掘った穴の廻りに殺す人間を座らせて頭を下げさせる。

     日本人が軍刀で頸を斬ると、

     喉のところが切れないでつながっていて、 

     頸が落ちるのでその衝撃で身体ごと穴に落ちていった。

     犬死よりもひどかった。

     遺体は木と木の間に積み上げ揮発油をかけて燃やした。

    ●孫恵公さん 現地の黎族

     日本軍は1,000人以上の朝鮮の政治犯を

     収容所で殺害し南丁の丘に埋めた

    ●周亜細さん 現地の黎族

     日本の兵隊が男達を木にぶら下げて殴って殺した。 

     殺された人たちがぶら下がっていた姿を見た。 

     死んだ人たちは埋められた。

     

    敗戦のとき、日本軍は秘密の工事と虐殺を隠すため、

    1,000人以上の労働者を殺害し埋めました。

    そこは今でも「南丁千人坑」といわれています。

    香港や朝鮮からの労働者に限らず、

    海南島での犠牲者、人種、氏名は

    ほとんど調べられていません。

     

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