「泰緬鉄道」
映画「戦場にかける橋」で有名な
泰緬鉄道は、タイ(泰)のノンブラドッグから
ビルマ(緬甸)タンビュザワまでの415キロメ-トルの鉄道です。
タイ側304キロメ-トル、ビルマ側111キロメ-トルです。
415キロといえば、ほぼ東京から東海道線の大垣までの距離です。
その鉄道を1年ちょっとで完成させてしまいました。
 
●1942年6月大本営決定、工事開始命令10月、翌年10月完成
 人跡未踏のジャングルを切り開き、
 山岳地帯に橋を架け、岩盤に穴をあけ、
 雨期にはバケツをひっくり返したような雨が
 何日も続き増水や洪水を起こす。
 そんなところに415キロの鉄道をたった1年とは、
 神技の様な仕事です。
 しかしそれを実行したのです。
 地獄のような想像を絶する
 強制労働が行なわれたものと思われます。
 何故そのような無茶な工事が行なわれたのでしょうか?
 中国での苦戦を打破するために、
 ビルマからの援蒋ルート(連合国から中国への支援ル-ト)を
 遮断しようとした軍部はビルマに進攻しましたが、
 あまりに早い進撃をしたために
 補給が追いつきませんでした。
 通常ビルマへは海路で行くしかなかったのですが、
 それでは時間がかかりすぎることと、
 連合国の攻撃にさらされ危ないので鉄道建設を計画したのです。
 もともと無理な計画でしたが、
 戦況が悪化したため、あせって死に物狂いの工事が行なわれ、
 労務者、捕虜・・・日本軍の兵士さえも
 虫けら同然に使い捨てにされたのです。
 
「鉄道建設部隊」
鉄道建設のために鉄道建設部隊が作られました。
この部隊は勿論日本人の部隊です。
そして近くに作られた捕虜収容所とタイアップしました。
捕虜は収容所長からの「今日は○○人出せ」と言う命令を受けて、
建設現場へ働きに出たのです。
捕虜ではない現地やインドネシアからの労務者は
現地の小屋に住んでいました。
 
●鉄道建設部隊の組織
大本営
 南方軍野戦鉄道隊司令部 日本人が約10,000人従事
  第2鉄道部 近衛工兵連隊、第2師団工兵連隊、
         手押し軽便鉄道隊、第4特設鉄道隊、他
         アジア人労務者約70,000人が従事していた
   鉄道第5連隊 連隊長 佐々木大佐   
           捕虜約18,000人を強制労働させた
   鉄道第9連隊 連隊長 今井??    
           捕虜約37,000人を強制労働させた
 
「捕虜収容所」
マレ-を制圧した時、連合軍の捕虜が予想した以上に多かったため、
日本軍はマレ-半島に捕虜収容所を沢山作りました。
そのうち泰緬鉄道に関係した収容所の一覧です。
収容所の本所はバンコックにありました。
| 地区 | 収容所名 | 捕虜数 | 朝鮮人軍属 | 責任者 | 
| タイ側 | 第1分所 | 7,200人 | 130人 | 知田少佐、石井中佐 | 
| 第2分所 | 9,600人 | 130人 | 柳田中佐 | 
| 第4分所 | 11,000人 | 130人 | 知田少佐、石井中佐 | 
| 第6分所 | 6,000人 | 130人 | 姥子少佐 | 
| 蜂須賀分所 | 3,000人 | 130人 | 蜂須賀少佐 | 
| ビルマ側 | 第3分所 | 9,000人 | 120人 | 永友中佐 | 
| 第5分所 | 2,000人 | 約100人 | 水谷大尉 | 
| 坂野分所 | 7,000人 | 130人 | 坂野中佐 | 
  注:1 この数字は連合軍捕虜と働く朝鮮人軍属の数です。
     一般労務者は含みません。
    2 朝鮮人軍属は捕虜監視員として働かせられました。
       その為戦後のB・C級裁判で多くの朝鮮人軍属が
       捕虜虐待の実行者として 裁かれました。
 
連合軍の捕虜の中でもオ-ストラリア捕虜は、
自分たちでグル-プを作り、
名前をアルファベットにしたり、
フォ-スという呼び方をしました。
●オーストラリア捕虜が作ったグル-プ
| タイ側     | ダンロップ・フォ-ス | 1,786人 | 
| Dフォース | 2,200人 | 
| Fフォ-ス | 3,660人 | 
| Hフォ-ス | 705人 | 
| Kフォ-ス | 55人 | 
| Lフォ-ス | 73人 | 
| ビルマ側   | Aフォ-ス | 3,000人 | 
| ウイリアム・フォ-ス | 873人 | 
| ブラック・フォ-ス | 593人 | 
| 第5グル-プ | 385人 | 
注:これはオ-ストラリア兵の捕虜だけの人数です。
      合計は13,300人です。
 
「強制労働で高い死亡率 」
捕虜や労務者の内、
日本軍人指揮のもと強制労働に投入された者の人数は・・
1 イギリス、オ-ストラリア、オランダ等の戦争捕虜   
   約55,000人(62,000人の説もあります)
  ☆犠牲者(死亡者)       
  12,000人~13,000人  死亡率 21~23%
 ☆特に奥地のFフォ-スの工区では   
  7,062人中 3,096人が死亡 死亡率43.8%
 内訳 オ-ストラリア兵    
     3,662人中 1,060人が死亡 死亡率28.9%
      イギリス兵         
    3,400人中 2,036人が死亡 死亡率59.9%
  あまりの病人の多さに捕虜で組織した衛
  生隊はシンガポ-ルからの衛生隊の派遣を要請しましたが、
  実現せず、南方軍総司令部への薬の要求も
  1/10から1/20しか実現しませんでした。
2 現地労務者
 ビルマ、タイ、マレ-半島、ジャワ(インドネシア)、
 シンガポ-ル、中国、インド等から
 約250,000人の労働者が強制労働に狩り出されました。
 その為、現在でも「ロ-ムシャ」と言う日本語が、
 東南アジア各地に現地語として残っているそうです。
 犠牲者は少なくとも42,000人以上です。 死亡率21%
 ☆イギリス政府の資料では、英領マラヤからの労務者は78,204人、
   死亡者は40,000人となっています。
 ☆ビルマ政府によれば、
  ビルマ人だけで80,000人が犠牲になったと推定しています。
 ☆日本の資料では、
  日本軍のビルマ軍政監部は1943年、
  ビルマ民政府に労務者の提供を命じ、  
  85,000人の労務者が 動員されたとなっています。
実際の犠牲者がどの位だったのかは現在でも分かっていません。
オーストラリアの戦争捕虜の1/3は泰緬鉄道に従事したといわれています。
 
「 JEATH-戦争博物館」
泰緬鉄道はまさに枕木1本に1人の
死者といわれた位「死の鉄道」呼ばれたのは事実です。
クワイ川鉄橋のそばに泰緬鉄道に関する博物館があります。
JEATH-戦争博物館といいます。
●J(日本)、E(イギリス)、A(オーストラリアとアメリカ)
 T(タイ)、H(オランダ)の 頭文字を並べた名前です。
 それにDEATH(死)をもじって JEATHとしたそうです。
 博物館の表札には
 「許そう、しかし忘れない(FORGIVE BUT NOT FORGET)」と書かれています。
 戦後アジアの人々は日本とどう向き合ってきたのか。
 恐らく心の中は「許そう、しかし忘れない」だったのでしょう。
 心に深く留めるべき言葉です。
 泰緬鉄道は今でも一部の約20キロは使われています。
 戦争の最後の年に走った蒸気機関車のC-56は、
 1979年にタイ政府から返還されて靖国神社に飾られています。
 旧日本軍人は懐かしがっていますが、
 犠牲者に対する処置はされていません。
 数万人とも言われる遺体はまだジャングルの中に眠っています。
 
「鉄道の開通と敗戦」
泰緬鉄道は1943年10月25日に開通式が行われました。
しかしこの頃の日本は戦争に負け始めていましたので、
この鉄道は連合軍の爆撃を浴びる事になりました。
また本来の目的であった、
ビルマ方面への兵員や物資の輸送には役に立たず、
逆にビルマから敗走する
日本兵の輸送に使われたことは皮肉です。
撤退は惨めでした。
 
●捕虜ア-ネスト・ゴ-ドンの手記
 負傷兵はなんの手当てを受けることもなく、
 全身を膿でおおわれ、
 そこから無数の蛆がわき出ている。
 糞尿と泥と血にまみれた姿で次々と後退してくる日本兵。
 しかし後退出来なかった兵は、ビルマの地に白骨をさらした。・・・・
 あれほど汚い人間の姿を見た事がない
 
「記録や証言」
●Fフォ-ス捕虜の日記
 5月25日 中隊からコレラ発生、作業中止、
       種痘とコレラ予防注射の実施
 5月30日 食糧は定量の1/5、捕虜はほとんどが下痢をしている
 6月 4日  作業開始、捕虜の就労率35%、1日2食
 6月11日 病人47%
 6月14日 朝、お粥と薄いス-プ、昼お粥とコーヒ-半杯、夜お粥。
       捕虜が「身の置き所がないくらい空腹だ」と言う。
       増水、膝まで泥。
 6月17日~24日 どしゃ降りのなか、宿舎移転
 6月24日 捕虜はほとんどが病人、
       重患39%、軽患61%、要するに全員が患者ということだ。
       この日、終日作業。捕虜の1/4は靴がない。
 7月20日 捕虜560人中、作業に出られる者60人、
        「骸骨が靴をはいている」
       この日、死者50人
●労務者 マレ-系中国人・宋日開さんの聞き取り
 一行780人は1942年8月4日、
 セレンバンから連れて行かれた。
 帰還出来たのは49人・・・・
 一人ひとり、背番号を付けられた一団は、
 インド系、中国系がほぼ半々、
 マレ-人が2~3%という編成だった。
 宋さんは[669番]だった。
 カンチャンブリまでは汽車やトラックで、
 そのあとは16日間も歩いてビルマ国境のテ-モンタ-へ、
 雨期で豪雨の中を歩き続けた。
 途中で、道端にころがっている死体や、
 半ズボンで皮膚病だらけのやせ細った捕虜たちを見て怖くなった。
 集められたアジア人労働者は2~3千人はいた。
 毎日乾燥芋ばかりで、材木を切り、土を掘り、レ-ルを運ぶ。
 昼夜兼行の重労働は雨の日も続いた。
 休めばムチがうなった。
 下痢やマラリアで倒れる者が続出した、自殺した人も。
 捕虜が墓を堀りに来て死体を埋めた。
 連合軍の空襲もひっきりなしだった。
 戦争が終わった翌年、
 生き延びた約300人とやっとマレ-半島に帰った。
 日本軍は3ケ月働けば帰れると言ったのに。
 3年8ケ月も苦しめて、その上給料も払わなかった。
 それを支払えと日本政府に要求しているのです。
●E・I・Hコ-ナ- 捕虜としてシンガポ-ルの博物館に勤務
 ・・・・航海中に死んだ者も少なくなかった。
 そういう時には、死体を米袋に入れ、
 生き残った仲間が海に捨てた。
 米袋は穴だらけであったから、
 穴から手足が突き出ていた。
 バラックの中でも沢山死んだが、
 やはり死体を米袋に入れて海に投げ捨てた・・・・
 人夫が女であり、若くてきれいだと、
 カタン近くの兵舎に送られ、兵士の慰みものになった。
 通行人は、彼女等がジャワ語で「助けて」と
 悲鳴を上げるのを耳にし、胸を締め付けられた。
 真昼間に堂々と市民の目の前で繰り広げられたこの惨事は、
 占領直後の華僑大虐殺と並んで
 永遠に歴史上に残る日本軍の汚点となった。・・・・
 バラックは体を動かせないほど弱った人夫(ロームシャ)で一杯だった。
 中に入る事も出来なかった。
 誰かが体を動かしたすきに、
 私とバ-トは少しずつ中へ入っていった。
 腐臭のする死体のほかに、死にかけた人間が
 そこらじゅうに座ったり横たわったりしていた。
 私たちは死体が13あることを確認し報告した。
 市のトラックが来て死体を積み込み始めた時、
 13番目の死体がよろよろ立ち上がった。
 だが報告が13とある以上13集めなければならない・・・・