安全区に対する掃討作戦・安全区側と日本側資料
国際委員会は難民区(安全区)を設けて
市民を守ろうとしましたが、
現実には武器を捨てた兵士が
逃げ込んだ事も事実です。
国際委員会はそれら敗残兵も
守ろうとしましたが、
日本軍はゲリラ(便衣兵)として
徹底的に掃蕩したのです。
国際委員会では市街戦を避けるためと、
武装解除した敗残兵は捕虜になっても、
日本軍は命の保障をしてくれるだろうと
判断したのです。
● 国際委員会 委員長ラ-ベの報告書
安全区の北の角で私は、
充分に武装したおよそ400人の
中国兵の部隊に最初に出会いました・・・・
私は武装解除させてから、
安全区のキャンプに入るように勧めたのです。
彼らはしばし熟考してから同意しました。
松井司令官が、17日に入城式を行う事を
強引に決定したため、治安が安定せず、
まだ早すぎると各部隊は反発していました。
しかし皇室の朝香宮司令官が来る以上
不始末は許されない!
その危機感が掃蕩の厳しさに拍車をかけました。
立ち入り禁止にした安全区に
敗残兵狩りと称して日本軍は
どんどん侵入しました。
そのどさくさで多くの強姦事件を起こし、
兵士と区別が出来ない多くの市民は
捕らえられました。
捕らえたものを軍事裁判に
かけるならともかく、
全てを即殺害してしまったのです。
安全区の掃蕩を担当したのは
第9師団と第16師団です。
● 第9師団歩兵第6旅団の命令
(第7連隊に出したもの 原文カナ)
青壮年はすべて敗残兵又は便衣兵とみなし
すべてこれを逮捕監禁すべし
● 第9師団歩兵第7連隊の命令
14日午後1時40分(安全区を担当)
各隊の俘虜はその掃蕩地区内の
1ケ所に収容すべし
これに対する食料は師団に請求すべし
注:この時点(14日午後1時)ではまだ
殺害せず監禁していただけでしょう
● 同連隊 15日午後8時30分の連隊命令
(歩作命甲第111号 原文カナ)南京戦史資料集より
1. 本15日まで捕獲したる俘虜を
調査せし所によれば殆ど下士官兵のみにて
将校は認められざる状況なり
将校は便衣に変え難民地区に
潜在しあるが如し
1. 連隊は明16日全力を難民区に指向し
徹底的に敗残兵を捕捉殲滅せんとす
各大隊は明16日早朝よりその
担任する掃蕩地区内の掃蕩、
特に難民地区掃蕩を続行すべし
● 同連隊長 伊佐一男日記 12月16日
3日間にわたる掃蕩にて
6500を厳重処分す(殺害の事です)
● 同連隊 某兵士の日記
午後、中隊は難民区の掃蕩に出た。
難民区の街路交差点に、
着剣した歩哨を配置して交通遮断のうえ、
各中隊分担の地域内を掃蕩する。
目につくほとんどの若者は狩り出される。
子供の電車遊びの要領で、
繩の輪の中に収容し、
四周を着剣した兵隊が取り巻いて
連行してくる。
各中隊とも何百名も狩り出してくるが、
第一中隊は目立って少ないほうだった。
それでも百数十名を引き立てて来る。
そのすぐ後に続いて、
家族であろう母や妻らしい者が
勢泣いて放免を頼みに来る。
市民と認められる者はすぐ帰して、
36名を銃殺する。
皆必死に泣いて助命を乞うが致し方もない。
真実は分からないが、
哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、
致し方ないことだという。
多少の犠牲者は止むをえない。
抗日分子と敗残兵は徹底的に掃蕩せよとの、
軍司令官松井大将の命令が出ているから、
掃蕩は厳しいものである。
● 第9師団歩兵第7連隊の兵士の日記
12月14日 昨日に続き、
今日も市内の残敵掃蕩にあたり、
若い男子のほとんどの、
大勢の人員が狩り出されてくる。
靴づれのある者、面タコのある者、
きわめて姿勢のよい者、
目つきの鋭い者、などよく検討して残した。
昨日の21名と共に射殺する。
● 第16師団 戦闘詳報 12月14日
敵は統制のもとに我と交戦の意図を
有するがごときもの無きが、
敗残潜在する数は少なくとも5~6千名を下らず・・・・
注:南京陥落後ですから
敵兵に戦闘意欲はないと言うことです
● 第16師団歩兵第20連隊 増田六助伍長の記録
明ければ14日、
今日は国際委員会の設置している
難民区へ掃蕩に行くのである。
昨日まで必死に抵抗していた
数万の敗残兵は、
八方より包囲されて唯の一人も逃げていない。
結局この難民区へ逃げ込んでいるのだ。
今日こそ虱潰しに、
草の根を分けても捜し出し、
亡き戦友の恨みを晴らしてやろうと
意気込んで配置に付いた。
各小隊分かれて、
それぞれ複雑な支那家屋を
一々捜して男は全部取り調べた。・・・・・
片っ端から引っ張り出して
裸にして持ち物の検査をし、
道路へ垂れ下がっている
電線で数珠つなぎにした。
大西伍長、井本伍長をはじめ
気の立っている者どもは、
木の枝や電線で力まかせにしばき付けながら、
「きさま達のために俺たちはこんなに
苦労しているんだエイ」ピシャン・・・・・
素裸の頭といわず背中といわず蹴る、
しばく、たたく、思い思いの気晴らしをやった。
少なくとも300人くらいはいる。
ちょっと多すぎて始末に困った。・・・・
夕闇せまるころ、600人近くの敗残兵の
大群を引き立てて玄武門にいたり、
その近くで一度に銃殺したのであった。
● 国際委員会委員長ラ-ベの報告書
武装解除された部隊の各人、
またこの日(13日)のうちに武器を持たずに
安全区に庇護を求めてきた
この他の数千の人々は、日本人によって
難民の群れから分けだされたのでした。・・・・
何千人もの人がこうして
機関銃射撃または手榴弾で殺されたのです。
恐るべき光景が展開されました。
とりわけ、見つけだされた元兵士の数が
日本人にとって
まだ少なすぎると思われたので、
まったく無実である数千の民間人も
同時に射殺されたのでした。
しかも処刑のやり方もいい加減でした。
こうして処刑されたもののうち
少なからぬ者がただ射たれて
気絶しただけだったのに、
その後屍体と同様に
ガソリンを振りかけられ、
生きたまま焼かれたのです。
これほどひどい目にあわされた者のうち
数人が鼓楼病院に運びこまれて、
死亡する前に残忍な処刑について
語ることができました。
私自信もこれらの報告を受けました。
われわれはこれらの犠牲者を
映画で撮影し、記録として保存しました。
射殺は揚子江の岸か、
市内の空き地、
または多くの小さな沼で行われました。
● ジョン・マギ-牧師
火曜日(12月14日)の夜、
私は通りを連行されていく男の集団を2回見た。
いずれも4人ごとに縛られていた。
一人の男はスボンを履いていなかった。
それは大集団だった。
おそらく5千から6千はいたに違いない。
この数日間、市の各地でこうした男子
(これらの6千人にかぶらず)が
虐殺されている機関銃の音が聞こえた。
どれだけ多くの人が虐殺されたのかを
確認する方法はないが、
私の推測では往来で殺害された者を含めて、
2万人はいるように思う
● 鼓楼病院ウイルソン医師
17歳の少年が持ってきた話によると、
年のころ15歳から30歳くらいまでの
中国人男性およそ1万人が、
14日にはしけ近くの川岸に
連れだされたそうだ。
そこで日本軍はかれらに
野戦砲、手榴弾、機関銃をぶっ放した。
ほとんどの死体が川の中に押し落とされ、
残りの死体は山と積み上げられて
焼かれたが、3人はかろうじて
逃げのびてきたという。
少年のあげた数字によると、
1万人のうち6千人が元兵隊で、
4千人が一般市民だった。
彼は胸に弾丸の傷を負っているが、
深刻なものではない