ニュ-ヨ-クタイムス・ティルマン・ダ-ディンの記事
ニュ-ヨ-クタイムス
ティルマン・ダ-ディン
● 1937年12月17日
上海アメリカ船オファ号発
ニュ-ヨ-クタイムズ宛特電
南京における大規模な虐殺と蛮行により、
日本軍は現地の中国住民および
外国人から 尊敬と信頼が得られるはずの、
またとない機会を逃がしてしまった。
中国当局の瓦解と中国軍の崩壊により、
南京の大勢の中国人は、
日本軍の登場とともにうちたてられる
秩序と組織に応える用意ができていた。
日本軍が南京城内の支配を掌握した時、
これからは恐怖の爆撃も止み、
中国軍の混乱による脅威も
除かれるであろうとする安堵の
空気が一般市民の間に広まった。
少なくとも戦争状態が終るまで、
日本の支配は厳しいものに
なるだろうという気はしていた。
ところが、日本軍の占領が始まってから
2日で、この見込みは一変した。
大規模な略奪、婦人への暴行、
民間人の殺害、住民を自宅から放逐、
捕虜の大量虐殺、
青年男子の強制連行などは、
南京を恐怖の都市と化した。
「民間人多数を殺害」
民間人の殺害が拡大された。
水曜日、市内を広範囲に見て回った
外国人は、いずれの通りにも
民間人の死体を目にした。
犠牲者には老人、子供なども入っていた。
とくに警察官や消防士が攻撃の対象であった。
犠牲者の多くが銃剣で刺殺されていたが、
なかには、野蛮このうえもない
むごい傷をうけた者もいた。
恐怖のあまり興奮して逃げ出す者や、
日が暮れてから通りや露地で
巡回中のパトロ-ルに捕まった者は、
だれでも射殺されるおそれがあった。
外国人はたくさんの殺害を目撃した。
日本軍の略奪は、町ぐるみを
略奪するのかと思うほどであった。
日本兵はほとんど軒並みに侵入し、
ときには上官の監視のもとで
侵入することもあり、
欲しいものはなんでも持ち出した。
日本兵は中国人にしばしば
略奪品を運ばせていた。
なにより欲しがった物は食料品であった。
その次は、有用なもの、
高価なものを片っ端から奪った。
とくに不名誉なことは、
兵隊が難民から強奪を働くことであり、
集団で難民センタ-を物色し、
金や貴重品を奪い、
ときには不運な難民から
身ぐるみ剝いでいくこともあった。
アメリカ伝道団の大学病院の職員は、
現金と時計を奪われた。
ほかに、看護婦の宿舎からも品物が持ち去られた。
日本兵はアメリカ系の
金陵女子文理学院の職員住宅にも
押し入り、食糧と貴重品を奪った。
大学病院と金陵女子文理学院の建物には、
アメリカ国旗が翻り、
扉にはアメリカ所有物であることを
中国語で明記したアメリカ大使館発行の
公式布告が貼られていた。
「アメリカ外交官の私邸を襲う」
アメリカ大使の私邸さえもが侵入を受けている。
興奮した大使館の使用人から
この侵入の知らせを受けて、
パラマウント・ニュ-スのカメラマンと記者は、
大使の台所にいた日本兵5人の前に
立ちはだかり退去を要求した。
5人はむっつりしながら
おとなしく出ていった。
彼らの略奪品は懐中電灯1本だけであった。
大勢の中国人が、
妻や娘が誘拐され強姦された、
と外国人に報告にきた。
これら中国人は助けを求めるのだが、
外国人はたいてい無力であった。
捕虜の集団処刑は、
日本軍が南京にもたらした
恐怖をさらに助長した。
武器を捨て、降伏した中国人を
殺してからは、日本軍は市内を回り、
もと兵士であったと思われる
市民の服に身を隠した男性を捜し出した。
安全区の中のある建物からは、
400人の男性が逮捕された。
彼らは50人ずつ数珠繋ぎに縛りあげられ、
小銃兵や機関銃兵の隊列にはさまれて、
処刑場に連行されて行った。
上海行きの船に乗船する間際に、
記者はバンド(埠頭)で200人の男性が
処刑されるのを目撃した。
殺害時間は10分であった。
処刑者は壁を背にして並ばされ、
射殺された。
それからピストルを手にした
大勢の日本兵は、ぐでぐでになった
死体の上を無頓着に踏みつけ、
ひくひく動くものがあれば弾を打ちこんだ。
この身の毛もよだつ仕事をしている
陸軍の兵隊は、バンドに停泊している
軍艦から海軍兵を呼び寄せて、
この光景を見物させた。
見物客の大半は、あきらかに
この見世物を大いに楽しんでいた。・・・・・
町を破壊し、人から略奪をし、
日本軍が中国人の憎しみの感情を
根深く植え付けたことは、
今後、何年にもわたって中国人に反日本の
感情をくすぶり続けさせることになるのだが、
東京はこれを取り除くために
闘っているのだと公言してはばからない。
「南京陥落の惨事」
南京の占領は、
中国人が被った最も大きな敗北であり、
近代戦史における最も悲惨な
軍隊の崩壊であった。
中国軍は南京の防衛を企図し、
自ら包囲下に陥り、
その後に続く虐殺を許すことになった。
この敗北により、中国軍は、
何万人というよく訓練された兵隊を失い、
何百万ドルに匹敵する装備を失い、・・・・
以下省略
「中国軍の1/3は袋のねずみ」
火曜日の朝、記者は下関に車で
出掛ける途中、25人ほどの
絶望的な中国兵の一団に出会った。
彼等は依然として中山路の寧波会館を
占拠していたが、のちに全員が降伏した。
何千人という捕虜が日本軍に処刑された。
安全区に収容されていた
中国兵のほとんどが、集団で銃殺された。
市は一軒一軒しらみつぶしに捜索され、
肩に背嚢の痕のある者や、
その他兵止の印のある者が探し出された。
彼等は集められて処刑された。
多くが発見された場所で殺害されたが、
中には、軍とはなんの関わりもない者や、
負傷兵、怪我をした一般市民が含まれていた。
記者は、水曜日の2,3時間の間に、
3つの集団処刑を目撃した。
そのうちの一つは、
交通部近くの防空壕で、
100人を越す兵隊の一団に、
戦車砲による発砲がなされた虐殺であった。
日本軍の好みの処刑方法は、
塹壕の縁に10人ほどの兵隊を集め、
銃殺すると、
遺体は穴に転がり落ちるというものである。
それからシャベルで土をかけると、
遺体は埋まってしまうというわけだ。
南京で日本軍の虐殺が開始されてから、
市は恐ろしい様相を呈してきた。
負傷者を治療する中国軍の施設は、
悲劇的なまでに不足してきた。
一週間前でさえ、
しばしば路上で負傷者を見掛けた。
ある者はびっこをひき、
ある者はいずりながら治療を求めていた。
「民間人の死傷者多数」
民間人の死傷者の数も、
千人を数えるほどに多くなっている。
唯一開いている病院は
アメリカ系の大学病院であるが、
設備は、負傷者の一部を
取り扱うのにさえ、不十分である。
南京の通りには死骸が散乱していた。
ときには、死骸をどかしてからでないと、
車が進むめなかった。
日本軍の下関門の占領は、
防衛軍兵士の集団殺戮を伴った。
彼らの死骸は砂嚢に混じって積み上げられ、
高さ6フィ-トの小山を築いていた。
水曜日遅くになっても日本軍は死骸を片付けず、
さらには、その後の2日間、
軍の輸送車が、
人間も犬も馬の死骸も踏み潰しながら、
その上を頻繁に行き来した。
日本軍に抵抗するとひどいめにあうぞと
中国軍に印象づけるために、
日本軍はできるだけ長く
恐怖の状態にしておきたい意向のようだ。
中山路はいまやごみの大通りと化し、
汚物、軍服、小銃、拳銃、機関銃、野砲、
ナイフ、背嚢などが全域に散乱していた。
日本軍は戦車をくりだすなどして、
瓦礫を片付けなければならないところもあった。
中国軍は、中山陵公園内の立派な建物や
住宅を含む郊外のほぼ全域に放火した。
注:南京事件を否定する人は、
放火は中国人がしたと主張するのは、
この事です。
これは南京防衛をし易くするための為の
放火で、別のことです。
下関はほとんどが焼け落ちた。
日本軍は立派な建物を破壊するのは避けた模様だ。
占領にあたって、空襲が少なかったのは、
建物の破壊を避ける
意図があったことを示している。
日本軍は建物のたてこんだ地域に
集まった中国軍部隊でさえも、
爆撃するのを避けているが、
建物の保存を狙っていたのは明らかだ。
注:南京陥落後の傀儡政権を
維持するのに建築物の保存が大切でした。
立派な交通部の建物だけが、
市内で破壊された唯一の政府機関の建物である。
これは中国軍に放火されたものである。
現在の南京は、外国人の支配のもとで、
死、拷問、強奪の不安のなかで
生活している恐怖におののく人々を抱えている。
数万人にものぼる中国兵の墓所は、
日本という征服者への抵抗を願う、
すべての中国人の希望の墓所であるのかもしれない。
● 1938年1月9日 上海12月22日発
ニュ-ヨ-クタイムス宛 航空便
◇南京侵略軍、2万人を処刑
◇日本軍の大量殺害―中国人死者、
一般市民を含む3万3千人
◇征服者の狼藉
◇暴行、根深い憎悪を浸透さす-
中国軍による放火甚大な被害をもたらす
南京の戦闘は、
近代戦史における最も悲惨な物語の
一つとして、歴史に残ることは疑いない。
近代軍事戦略の指示にことごとく反し、
中国軍は自ら罠にかかり、包囲され、
少なくとも3万3千人を数える
兵力の殲滅を許した。
この数は南京防衛軍のおよそ3分の2にあたり、
このうち2万人が処刑されたものとおもわれる。
攻防戦は、全体としておおむね封建的、
中世的なものであった。
城壁内において中国軍は、
市の中心部から数マイルに広がる
村落、住宅地、繁華な商業地区を
大規模に焼き払って防戦し、
占領後には日本が虐殺、強姦、略奪を働くという、
すべてがまるではるか昔の野蛮な時代の
出来事のように思われる。
南京を失ったことは、中国軍にとり、
首都を失っただけだというわけにはいかなかった。
中国軍は尊い兵士の士気と
多くの命を失ったのである。
上海から長江流域下流にかけ、
絶えず日本軍と戦ってきた中国軍は
壊滅的打撃を受けた。
中国軍が再起して
日本軍の兵器と対抗できるような
効果的攻撃ができるとは思えない。
日本軍にとり、南京占領は
軍事的・政治的に最も重要であった。
しかし野蛮な行為、大規模な捕虜の
処刑、略奪、強姦、民間人の殺害、
その他暴行などにより、
日本の勝利は台無しになった。
そればかりか、日本陸軍や日本国民の
名声を汚すことになるだろう。
「中国兵の大量投降」
月曜日(37年12月13日)いっぱい、
市内の東部および北西地区で
戦闘を続ける中国軍部隊があった。
しかし、袋のねずみとなった
中国兵の大多数は、戦う気力を失っていた。
何千という兵隊が、
外国の安全区委員会に出頭し、
武器を手渡した。
委員会はその時、
日本軍は捕虜を寛大に扱うだろうと思い、
彼らの投降を受け入れる以外に無かった。
たくさんの中国軍の集団が
個々の外国人に身を委ね、
子供のように庇護を求めた。
日本軍は散発する小競り合いの後、
月曜日遅くには、市の南部、
南東部、および西部を掌握した。
火曜日昼には、武装して抵抗を続ける
中国兵はすべて排除され、
日本軍は南京市を完全に支配するに至った。
南京を掌握するにあたり、
日本軍は、これまで続いた日中戦争の過程で
犯されたいかなる虐殺より野蛮な
虐殺、略奪、強姦に熱中した。
抑制のきかない日本軍の残虐性に
匹敵するものは、
ヨ-ロッパの暗黒時代の蛮行か、
それとも中世のアジアの征服者の
残虐な行為しかない。
無力の中国軍部隊は、
ほとんどが武装を解除し、
投降するばかりになっていた
にもかかわらず、
計画的に逮捕され、処刑された。
安全区委員会にその身を委ね、
難民センタ-に身を寄せていた
何千人かの兵隊は、
組織的に選び出され、
後ろ手に縛られて、
城外の処刑場に連行された。
塹壕で難を逃れていた小さな集団が
引きずり出され、縁で射殺されるか、
刺殺された。
それから死体は塹壕に押し込まれて、
埋められてしまった。
ときには縛り上げた兵隊の集団に、
戦車の砲口が向けられることもあった。
最も一般的な処刑方法は、
小銃での射殺であった。
南京の男性は子供以外のだれもが、
日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。
背中に背嚢や銃の痕ががあるかを調べられ、
無実の男性の中から兵隊を選び出すのである。
しかし、多くの場合、もちろん軍とは
関わりのない男性が処刑集団に入れられた。
また、元兵隊であったものが見逃され、
命びろいする場合もあった。
南京掃蕩を始めてから3日間で、
1万5千人の兵隊を逮捕したと
日本軍自ら発表している。
そのとき、さらに2万5千人が
市内に潜んでいると強調した。
この数字は、南京に取り残された
中国軍の正確な兵力を示唆している。
日本軍のいう2万5千人という数字は、
誇張が過ぎるかもしれないが、
およそ2万人の中国兵の
処刑はありそうなことだ。
年齢、性別にかかわりなく、
日本軍は民間人をも射殺した。
消防士や警察官はしばしば
日本軍の犠牲者となった。
日本兵が近づいてくるのを見て、
興奮したり恐怖にかられて
走り出すものは誰でも
射殺される危険があった。
日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、
外国人が市内をまわると、
民間人の死骸を毎日のように目にした。
老人の死体は路上に
うつ伏せになっていることが多く、
兵隊の気まぐれで、
背後から撃たれたことは明らかであった。
日本軍の占領の主要な犯罪は大規模な略奪であった。
いったん地域が日本軍の完全支配下に入ると、
そこの住宅はどこも日本兵の略奪が
ほしいままになされた。
なによりも先に食糧が求められたようだが、
高価な物はなんでも、
ことに持ち運びの簡単な物を、
勝手気ままに持ち去った。
住宅に人がいる場合は強奪し、
抵抗するものは射殺された。
「外国人財産も略奪される」
難民キャンプも侵入を受け、多くの場合、
不運な難民はわずかな金を奪われた。
防柵をめぐらした住宅も侵入され、
そして外国人の建物も例外ではなかった。
日本兵は、アメリカ伝道団の
金陵女子文理学院の職員住宅にも押し入り、
望みの品を持ち出した。
アメリカ伝道団の大学病院も捜索を受け、
看護婦の宿舎から所持品が持ち去られた。
建物に翻っていた外国国旗は引き裂かれ、
少なくとも3台の外国人自動車がなくなった。
駐華アメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン氏宅にも
5人の日本兵が侵入したが、
略奪を働く前に追い払われたため、
被害は懐中電灯1個であった。
日本兵は中国婦人を好きなだけもてあそび、
アメリカ人宣教師が個人的に知るだけでも、
難民キャンプから大勢が連れ出されて
暴行されている。
日本軍部隊には、
訓練されて統制がとれているものもあり、
また将校のなかには、
寛容と同情の心をもって権力を
和らげる者もいたと言うべきであろう。
しかし、全体として
南京の日本陸軍の振舞いは、
国家の評判を汚すものであった。
南京陥落後数日して当地を訪れた
責任ある高位の日本軍将校および外交官は、
外国人が見聞して報告したあらゆる狼藉を
事実と認めている。
彼の説明によると、
陸軍のなかの一部が手におえなくなり、
上海の司令官の知らぬ間に
虐殺が行われていたという。
南京に中国軍最後の崩壊がおとずれた時、
人々の間の安堵の気持ちは非常に大きく、
また、南京市政府および防衛司令部が
瓦解した時の印象はよくなかったので、
人々は喜んで日本軍を迎えようとしていた。
事実、日本軍の縦隊が
南門、西門から入城行進してくると、
人々は集まって実際に歓声をあげて迎えていた。
しかし、日本軍の蛮行が始まると、
この安堵と歓迎の気持ちは
たちまち恐怖へと変わっていった。
日本軍は広く南京市民の支持と信頼を
かち得ることができたかもしれなかったのに、
逆に、日本への憎しみを
いっそう深く人々の心に植え付け、
中国の人々の「協力」をとりつけるために
闘っているのだと言いながら、
その「協力」をはるか先のほうに後退させてしまった。
以下省略