徴発に関した兵士の手記と記事

徴発に関した兵士の手記をいくつか取り上げます。

 

◎永井仁左右 陣中日記 野戦重砲第15連隊

1937年11月14日

 ・・・・朝食後陣地変更。

 太倉に入る。

 豚、鳥を取りて夕食とす。

 但し先行班のみ。

 支那酒又豊富なり・・・・

 

◎渡辺卯七 南京戦の思い出 

   第9師団経理部将校の回想

 徴発品の代金の支払は

 いかにされて居ったのか、

 軍隊は強盗でも山賊でもない。

 必ず代金を払って買わねばならないのである。

 しかし物はあっても人が逃れて居らぬ時、

 生きん為に食うものは

 是非必要という時は徴発と云うことになる。

 従ってこれについては

 国際法等で厳重な規定がある。

 後日所有者が代金の請求が

 出来るようにして置かねばならない故に

 徴発書はかねて印刷配布して

 所要の事項を記入すればよいようにして

 記載要領や注意事項も細部印刷して

 一読すれば誰にでも分かるのである

 しかるに後日所有者が代金の請求に

 持参したものを見れば、

 その記入がはなはだ出鱈目である。

 例えば○○部隊先鋒隊長加藤清正とか

 退却部隊長蔣介石と書いて、

 品種数量を箱入れ丸升とか

 瓶詰少量と云うものや

 全く何も記入していないもの、

 はなはだしいのは

 単に馬鹿野郎と書いたものもある。

 全く熱意も誠意もない。

 

◎N・Y一等兵手記(第9師団歩兵第6旅団歩兵第7連隊)

 畑にはネギがあったり、

 部落にはおどおどした土民が

 自分たちを見ていた。

 自分たちはてんでにネギを取って

 夜食の汁に入れることを考えていた。

 部落に入るときまって2,3人の兵が

 竿をふり回して鶏を追いかけるのであった。

 名も知らぬ部落にクリ-クの

 水を汲んでネギや鶏を入れた汁を

 啜りながら夕食をすませたのは、

 11時すぎであった。

 夕食を終えてから又出発をする

 

◎井家又一上等兵 日記 同上部隊

 11月13日上海の地近く

 七宝鎮より追撃の戦いを進め、

 鉄路に陸に野に山に水に

 幾度生死の巷を出で、

 寒さに雨に風にそして

 糧秣は与えられず

 交通とて橋は落とされ

 鉄橋は破壊せられて糧秣は続かず、

 支那家屋に侵入して

 徴発すること幾十度あった。

 ある時は支那人の芋を炊き

 暖かき蒸気の出ている奴を

 叩きつけて取り来ること幾十度、

 小羊・豚・牛・犬と野にいる

 家畜は一度は食ってみた。

 

◎木左木久少佐 日記 第16師団後方参謀

 午後2時常州を自動貨車にて立ち、

 行軍部隊を追い越して奔牛鎮に至る。

 物資徴発のため、部落内をあさる。

 米800俵、小麦1千俵、砂糖百俵、

 小蒸気2杯等々挑発は実に面白い

 

◎北山与 日記 第16師団歩兵第20連隊

12月3日 

   途中毛布工場があって

   毛布を15枚徴発する。

   次から次へみんなどの部隊も徴発している

   16日 

   途中北洋飲料店と書いた店屋がある。 

   入って見るとサイダ-が山ほど積んである。

     一本抜いてみる。

   甘いなんとも言えない美味しい味だ。 

   さっそく付近で人力車を一台徴発し、

   你公(ニーコ-・中国人の蔑称)に

   一杯載せて曳いて戻る。 

   外の者も寝台、家具、酒、砂糖、飴、

   蓄音機などたくさんもって戻っている

   17日 

   小隊の連中が是非教えてくれというので、 

   各分隊から2名ずつ連れて朝食後

   サイダ-を取りに車両を曳いて行く。 

   昨日から早や大分減じている。

   車に2台、2ダ-ス箱を60近く持って戻る。 

   鉛筆、石鹸、銀製のフォ-クなぞ徴発している。 

   午後城内を見て廻る。

   美しい衣服の家を見つける。

 

◎上羽武一郎 日記 同上師団衛生兵

 徴発にでる。面白し。

 洋服を着るやら、トランクをさげるやら、

 種々様々の服装でもはや凱旋気分いっぱいだ

 

◎山田栴二少将 日記 第13師団歩兵第103旅団長

 ☆徴発のふしだらさは、

  結局与うべきものを与えざりし悪習慣なり

 ☆徴発に依りて自前なるゆえ、

  或る所は大いにご馳走にありつき、 

  或る所は食うに食なしの状を呈す。

  先に処女地に行く隊のみ、

  うまきことをすることとなる。

 ☆兵の機敏なる、

  みな泥棒の寄集まりとも評すべきか

  旅団司令部にてもぼやぼやし居れば

  何でもなくなる、持っていかる、

  馬まで奪られたり

 

日本軍の中に蔓延した徴発と称した

略奪や強姦は日本側でも困っていて、

法務部や憲兵隊と連絡を取って

金沢医科大学の教授が召集されて調査をし、

「戦場神経症並びに犯罪について」という

報告書をまとめています。

 

● 軍医官の戦場報告意見集から 

     早尾乕雄陸軍軍医中尉

     金沢医科大学教授

 今事変に見る犯罪の種類は

 ことごとく内地においては重罪のもとに

 処刑せらるべきものなり。

 しかるに戦場においては

 無遠慮におこなわれ、

 その初めにおいては毫も制裁を受けず、

 かえってこれに痛快を感じ

 ますます奨励せらるるがごとき観ありき、

 例の徴発のごとき公然ゆるされし事さえ

 最初は躊躇せる者がついには

 徴発に大なる興味を感じ

 ついては競争心さえ起こすにいたる。

 ついては不必要なる(軍隊生活には)物品を

 自己の利欲より徴発をなすにいたり、

 これらを内地に向かって送りし例も少なからず、

 あるいは徴発により上官の機嫌を取り結び

 自己の進級等に利益をはかりし例も存せり。

 徴発はゆるされたる行為なれども

 これを次第に意義を換え濫用となりし結果が、

 犯罪構成に立ちいたりしものにして、

 実に徴発なる教えは極めて兵卒の心を

 堕さしめたる結果をしめせり。

 軍隊には「員数をつける」という言葉あり、

 これは一種の窃盗行為なり。

 ・・・・徴発はこの「員数をつける」を

 さらに大にして公にせしものの如くに 

 解釈せるの観あり。

 ついには掠奪となり強奪ともなり、

 しかもこれらの行為を恥ずるなきまでに

 いたりしものと思われる。

 兵卒の大部分は性善良なりしを疑わず、

 しかるも戦場に来るや予想せざるし

 不良行為が平然と行われ

 しかも何らの制約なきを見るや、

 いたずらに遠慮をなし不自由なる思いをなすより

 「員数をつける」心持ちの下に余

 分の物品まで掠奪をあえてなすに

 いたりしものと解釈すべきなり

  注:黄色線 

    徴発そのことは書類がきちんとしていれば

    合法ですが・・・

 

略奪に関してはアメリカの

新聞にも取り上げられています。

 

● ニュ-ヨ-クタイムス  

   F・ティルマン・ダ-ディン記者 

   1937年12月17日

 上海アメリカ船オファ-号発特電

 ・・・・日本軍の略奪は、町ぐるみを

 略奪するかと思うほどであった。

 日本兵はほとんど軒並みに侵入し、

 ときには上官の監視のもとで

 侵入することもあり、

 欲しい物はなんでも持ち出した。

 日本兵は中国人に

 しばしば略奪品を運ばせていた。

 なによりも欲しがったのは食料品であった。

 その次は、有用なもの、

 高価な物を片っ端から奪った。

 とくに不名誉なことは、

 兵隊が難民から強奪を働くことであり、

 集団で難民センタ-を物色し、

 金や貴重品を奪い、

 ときには不運な難民から

 身ぐるみ剥いでいくこともあった。

 アメリカ伝道団の大学病院の職員は

 現金と時計を奪われた。

 ほかに、看護婦の宿舎からも

 品物が持ち去られた。

 日本兵はアメリカ系の金陵女子文理学院の

 職員住宅にも押し入り、食料と貴重品を奪った。

 大学病院と金陵女子文理学院の建物には、

 アメリカ国旗が翻り、

 扉には、アメリカ所有物であることを

 中国語で明記したアメリカ大使館発行の

 公式布告が貼られていた

  注:発電は上海からとなっていますが、

    時期的には南京に付いての内容です。    

    特派員は日本軍から退去を命じられたので、

    上海から発電となっています。

 

● シカゴ・デイリ-・ニュ-ズ   

    レジナルド・スウイ-ト記者 

    1938年2月9日  上海発外信部特電

 南京占領軍の10名以上の軍人が

 軍紀紊乱の件で軍法会議を受け、

 重罰に処せられた旨、

 本日、当地日本代理大使から発表があった。

 彼らの犯した罪は

 この前首都における中国人・外国人財産を

 襲撃・略奪したことである。

 日本当局は軍法会議にかけられた者の中に

 将校がいるかどうかの言明を拒否したが、

 「軍人」という語は将校も含むものとしても

 解釈されるということを示唆した。

 いかなる処罰が加えられたか

 日本側は説明を拒んでいるが、

 最高のもので懲役10年である旨、

 私はある日本側非政府筋から情報を得た。