ドイツ外交官の資料 2

● ドイツ外務省宛  発信者―トラウトマン

   1938年1月23日付 駐華ドイツ大使館第40号

   文書番号  2722/1470/3

[内容―中国の国内事情]        

 今回の戦争は、差し当たり敵の侵攻を

 まだそれほど受けていない華南を除いて、

 中国人民の生活に大きな影を落とした。

 この巨大な帝国に起きていることを

 ここで完全に把握することは不可能だとしても、

 個々の特徴的な傾向を確認することはできよう。        

 上海と長江沿岸地域で

 決定的な戦闘がおこなわれたことは、

 中国にとって不幸であった。

 なぜならこの地域は中国でも

 そしておそらく世界でも

 最も人口の集中する地域だからである。

 戦闘がおこなわれたところでは、

 住民は殲滅させられるか逃亡した。

 とくに上海~南京間の地域では

 それが顕著であった。

 鎮江という人口10万人の町から

 ある外国人が報告してきたところによれば、

 彼が家屋の瓦礫の間から

 発見したのはたった5人だったそうである。

 国土は荒廃している。

 私自身が上海から南京への帰途で

 まだ目にすることができた

 素晴らしい収穫は畑で腐っている。

 そしてあちこちの道で

 中国人から強奪した品々を運ぶ

 日本軍を見かける。

 蘇州などの都市では、

 まず日本軍の空襲があり、

 続いて中国兵が略奪と破壊を始め、

 最後に日本軍が殲滅を完遂した。

 この戦争がいかに残虐なものであるかは

 誰一人捕虜にならなかったという

 事実がなによりよく示している

 捕まったものは撲殺された。

 中国軍将校たちは

 前線においては日本軍捕虜を

 大切に扱うよう厳しく命じられていた。

 しかし、その命令が守られることはなかった。

 捕虜は後方に送られると殺害されたのである。

 ときどき写真に撮られ公表された数人の

 日本軍パイロットを除いて、

 中国側に捕虜はいなかった。

 また、日本軍も捕虜をとらなかった。

 凄惨だったのは日本陸軍が

 南京でおこなったことである。

 ここでは、戦闘の興奮が

 とっくに収まったころになって中国兵が

 ウサギのようにまとめて連れ出され、

 いくつかの集団ごとに冷酷に

 射殺されたのである。

 日本軍は激怒すると

 他の民族よりもずっと

 残酷なことをやってのける。

 私は、東京ドイツ大使館参事官時代の

 ある出来事を思い出す。

 関東大震災の直後のことである。

 ある指導的な社会主義者の家族を

 殺害するために、

 日本軍将校がその家の

 幼い子どもたちに甘いものを与え、

 彼らが貰ったものに夢中になっているところを

 後ろから縄で絞め殺したのである。

 こうしたアジア的残虐性は、

 中国人民に向かってその全貌をさらけだした。

 南京では、多くの民間人が射殺され、

 ヨ-ロッパ人の住まいを含めた家屋が略奪され、

 中国人女性は強姦され、

 米国大使の話では、

 米国人宣教師たちの家からだけで

 13人の中国人女性が

 日本軍部隊によって力ずくで連れ去られ、

 ヨ-ロッパ人の家屋の略奪もいまなお続いている。

 華北では、ヨ-ロッパ人宣教師が

 このうえない残忍な方法で日本兵に殺害された。

 村落に住む中国人の男たちは逃亡したか、

 さもなければ射殺された。

 凄惨な悲劇が繰り広げられた。

 中国人の女たちは、

 日本軍の手に落ちたくないという理由で

 自らの命を絶った。

 そして、幼い子どもたちは

 母親の亡骸の下で飢えていった。

 男たちは日本軍によって射殺された。

 なるほど民族とは一般に、

 自分たちにない特性を自慢するものだ。

 日本武士道の概念は、

 新渡戸教授によってプロパガンダのために

 作られたものである。

 以前はその名称すら知られていなかったのだ

                 以下 省略

 

● ドイツ外務省宛、 発信者―ローゼン

   1938年2月1日付 南京分館第5号           

   文書番号2722/1076/38

[内容―南京市自治委員会の抱える困難

     打ち続く日本兵の暴行]

 当分館通訳に先ほど伝えられたところによると、

 当地の南京市自治委員会の

 会長陶錫山氏が辞表を提出した。

 その原因は、委員会が日本軍から

 たえず受ける妨害にある。

 委員会は難民を安全区から

 他の市区内に連れ戻す問題に

 漸次的かつ慎重に取り組みたいと望んでいるが、

 日本軍は暴力に訴え、

 今月4日には兵士を使って

 安全区から難民を追放し、

 その粗末な家屋と売店を破壊させようとしている。        

 難民がいまだに市内に戻ろうとしないのは、

 日本兵の暴行が依然として

 連日起きているせいである。

 たとえば、ある女性が娘2人と家に戻ったところ、

 2人の娘は、彼女が強姦に抵抗したさいに

 日本兵に突き殺された。

 それで母親はふたたび

 安全区に戻ってきたのである。        

 ラ-ベ氏の敷地内に避難していた

 24才の女性は叔父の家に食料を取りに戻り、

 そこで強姦された。

 先の1月30日の日曜日、

 教会へ向かう途中のラ-ベ氏は、

 助けを求める中国人から呼びとめられた。

 酔っ払いの不埒者から

 身を守ってほしいというのだ。

 その酔っ払いは、女性を司法院附近の、

 棺の中まで空っぽの空き家に拉致し、

 そこで強姦に及んだのである。

 ラ-ベ氏はその兵士を追い払った。        

 自治委員会は浴場を再開した。

 すると日本兵が侵入してきて職員から金を強奪し、

 そのうち1人に発砲して殺害し、2人を負傷させた。        

 ラ-ベ氏は、皆殺しにあった13人家族の

 最後の生き残りである2人の子どもを

 隣の住民から引き取った。

 その子たちは、自分の目の前で陵辱され

 残忍なやり方で殺害された母親の死体の

 かたわらで14日間耐え続け、

 その後、隣人に保護されたのであった。        

 こうした状況下では、

 「わが家で」苦しみ続けるくらいなら、

 いますぐ安全区で自殺した方がましだと、

 多くの難民が言うのも無理はない。        

 漢口との郵便連絡が劣悪のため、

 本報告を外務省に直接提出する。

 漢口と東京のドイツ大使館および

 上海ドイツ総領事館は、

 本報告の写しを確実な方法で受け取る。

       ロ-ゼン(署名)

 

● ドイツ外務省宛  発信者―ローゼン

   1938年2月3日付 南京分館第6号           

   文書番号   2722/1091/38       

[内容―本間少将と日高大使館参事官の

     南京訪問 兵站地での大宴会]

 

 上海領事館を介して伝えられた

 東京ドイツ大使の要請に応じて、

 私は、当地に派遣された

 大本営陸軍部第二部長本間少将との

 会談を当地の日本外交代表に申し入れた。

 少将は協議日程を取り決める代わりに、

 我々を日本大使館の晩餐会に招待した。

 その席には、米国大使館と英国大使館の

 職員も招かれていた。

 日本側からは多くの幕僚将校の他、

 新たに任命された駐留軍司令官、

 さらに上海から少将に同行した、

 日高参事官を筆頭とする

 日本大使館員が参加した。        

 幸運にも、これまでかなり緊張していた

 日本軍と外国代表者との関係が、

 ちょうど少し持ち直したところだった。

 というのも、私の米国人同僚を見舞った

 悪名高い平手打ち事件―それは約1週間もの間、

 ロンドン、上海、マニラのラジオニュ-スで

 大々的に報道されたーが、

 日本政府が米国政府にはっきりと謝罪し、

 加害者を軍法会議にかけ、

 さらに私の願いどおり、

 出しゃばりで無礼な上海の軍「報道官」を

 処分したことで償われたからである。

 いずれにせよ日本側は、

 われわれがそもそも本間少将と

 話し合おうと考えていたすべての心配事や

 問題を派手な宴会で忘れさせようと努力した。

 宴会は我々の異議や苦情を

 封じ込めようとするあからさまな

 下心をもって開かれ、

 一度ならずワーグナ-の「タンホイザ-」開幕の

 場面が思い出された。

 愛くるしい芸者たちが、

 杯を飲み干す間も与えず酒の酌をし、

 将校たちはほどなく軍服の襟ボタンをはずし、

 歌才に恵まれた者も、

 そうでない者も歌に興じ始めた。

 芸者たちはわれわれ一同の膝の上に腰を下ろし、

 この甘美な重荷から解放されるには、

 グラモフォンの楽曲に合わせた

 ダンスに彼女たちを誘うしかなかった。

 日本軍将校や大使館員の中には、

 特大のセンセ-ションだといって、

 二人の芸者がまだ処女だと

 憚りもなく囃し立てる輩がいた。        

 これらの余興に詳しく言及したのは、

 中国勤務にほとんど関心がないと見える

 外務省の若手外交官に

 やる気を起こさせるためではない。

 大本営部長本間少将と外国代表団との

 最初の出会いが、どのような様子であったか、

 そして、ここでは物事を

 故国ドイツの尺度で測るのが

 いかに難しいかを示すためである。・・・・・

以下省略            

   注:外国人たちが困惑と軽蔑を持っていることが

    わかる報告です。それにしても、

    昔も今も酒と女でもてなす

    日本式の接待には恥ずかしさを覚えます

 

● ドイツ外務省宛  発信者―トラウトマン

   1938年2月7日付 駐華ドイツ大使館大76号

   作成者 シャルフェンベルグ

   文書番号  2718/1715/38 に添付

[内容―1928年1月20日の南京の状況]

 われわれの状況は先週いくらか良くなった。

 しかし安全区の25万人の難民の状況は

 ひどく悪化している。・・・・

 日本大使館はやっと、

 われわれがときおり玄武湖へ

 出かけられるように軍から許可を得ようと試みた。

 城内では車の移動だけが許されているが、

 通りは汚物にまみれ、

 ひどい悪臭がたちこめている。

 住宅街を歩くことはもうできない。

 というのも、何千人もの中国人が

 通りに溢れ路上にひしめきあっているからだ。・・・・

 自治委員会は、全焼した夫子廟に

 少女たちを集めて娼館を開いたが、

 その後、安全区内では故意の暴力行為は

 ほとんど起らなくなった。

 しかし、略奪はいまでもまれに

 おこなわれているので、

 安全区はかなり厳しく警備されている。・・・・・

   注:南京事件を否定する人たちがよく言う    

     「人口25万人」と主張するのは、      

     この報告書からの引用と思われます。      

     実際は安全国逃げ込んだ生存者が25万人と    

     報告されているのです。