尖閣列島の国有化

国有化を断念していた明治政府は

日清戦争を機会にいよいよ国有化に着手します。

 

1894年(明治27年)12月27日、

野村内務大臣は陸奥外務大臣に極秘の書簡を送り

「閣議で尖閣列島を国有化」することを要請しました。

 

●秘別<朱書>第123号

 久場島、魚釣島へ沖縄県所轄の標杭を建設する件、

 別紙の通り、以前から沖縄県知事より申し出があり、

 明治18年貴省と御協議をした結果

 標杭を建設しないことになっていましたが、

 その当時と現在とは事情も異なるにつき、

 別紙のように閣議に提出しては如何でしょう、

 一応御協議に及び下さい

明治27年12月27日

内務大臣子爵 野村 靖(印)

外務大臣子爵 陸奥宗光殿

 「別紙閣議」

 沖縄県下八重山群島の北西に位する

 久場島、魚釣島は、従来無人島なれども、

 最近該島へ向け漁業等を試みる者があります。

 これらの取締りをするために、

 沖縄県の所轄として標杭建設をしたいとの

 要請が同県知事よりあります。

 同県は島々を所轄と認めて、

 上申通り標杭を建設したいと思います。右閣議を請う。

 

そして陸奥外務大臣の意見ですが、次のように答えています。

 

●1895年(明治28年)1月11日、

 陸奥宗光外相から野村靖内相に対する答・・・

 「本件に関し本省においては、

 特別異議は無いので、

 計画通りにしてよろしいと思います」

 

その結果尖閣諸島は日本領土に編入される事になります。

 

●1895年(明治28年)1月14日、

 内閣は魚釣島と久場島を

 沖縄県所轄として標杭をたてる事につき、

 上記12月27日の「別紙閣議」を

 「別に差し支えないので請議の通りにてしかるべし」と

 日本領土とすることを決定しました。

注: 編入した島は久場島、魚釣島の2島です。

 久米赤島(大正島)は

1920年(大正9年)2月17日に石垣村に編入されました。

 

1月21日、

 内務大臣から沖縄県知事宛に

 「標杭建設に関する件請議の通り」と指令が出されました。

   注: 日本領土に編入する事は決定しましたが、

      国標の建設は戦後1969年です

 

日清戦争で勝利した日本は

日清講和条約で尖閣諸島の領土編入を確実にします。

 

●日清媾和条約 

 通称 日清講和条約 下関条約 馬関条約

 調印 1895年(明治28年)4月17日 下関にて

 批准 1895年(明治28年)4月20日

 第1条 清国は、朝鮮国の完全無欠なる

      独立自主の国たることを確認する、

     よって右独立自主を損害すべき

     朝鮮国より清国に対する貢献典礼などは

     将来全く廃止すべし

 注: 清国と朝鮮の冊封体制を断絶させることです。

  その事が朝鮮を清国から独立させ、

  日本に組み込む為の布石となります

 第2条 清国は左記の土地の主権並びに

     該地方にある城塁兵器製造所及び

     官有物を永遠に日本国に割与する

  1 省略

  2 台湾全島及びその附属諸島嶼

 

日清講和条約の第2条の2の

「台湾全島およびすべての付属島嶼」

割譲で日本の領土になったのです。

特に尖閣諸島とは書いてありませんが、

附属島嶼に尖閣は含まれると解釈されています。

注: 附属諸島嶼には尖閣列島は

   含まれないと言う説もあります。

  もし含まれていたとすると

  第二次世界大戦終了時のカイロ宣言や講和条約で

  放棄しなければならなくなるからです。

 

1895年(明治28年)6月10日

古賀辰四郎は野村靖内務大臣に

「官有地拝借御願」を出しました。

 

●私は・・・・明治12年以降15年にいたるまで

 琉球や朝鮮に航海し、もっぱら海産物の調査を致しました。

 今日まで住居を沖縄に定めてその事業をし、

 更に業務拡張の目的で沖縄本島の正東の無人島で

 魚介類の豊かな大東島に社員を送リ、

 また農事を行い日常食糧も確保しながら

 おおいに海産物を得るために

 明治24年11月20日、沖縄県知事丸岡莞爾氏から

 同島開墾の許可を得た次第です。

 これより以前明治十八年、

 沖縄諸島を巡航し八重山島の北方90カイリの

 久場島に上陸したところ

 俗にバカ島と言う鳥が群集しているのを発見しました。

 羽毛輸出営業の目的で久場島全島の

 拝借願いを出しましたが、

 久場島はまだ我が国の所属である事が判明していないので、

 今日まで見送っていました。・・・・

 しかし今日、島は当然日本の所属と確定しましたので

 よ ろしくおねがいします

 

沖縄は1896年(明治29年)になると

勅令13号で国内法上の「沖縄県の郡編成に関する件」で

正式に編入措置が取られたといわれています。

 

●朕、沖縄県の郡編成に関する件を裁可し、

 茲にこれを交布せしむ。

御名御璽

 注:朕(ちん)とは天皇自身のことです。

   私と言うことです。

   御名御璽(ぎょめいぎょじ)、天皇の署名と捺印です

明治29年3月5日

内閣総理大臣侯爵  伊藤博文

内務大臣      芳川顕正

勅令第13号

第1条  那覇・首里区の区域を除く外沖縄県を盡して次の5郡とす

 島尻郡 

  島尻各間切、久米島、慶良間諸島、

  渡名喜島、粟国島、伊平屋諸島、鳥島及び大東島

 中頭郡   

  中頭各間切

 国頭郡   

  国頭各間切及び伊江島

 宮古郡   

  宮古諸島

 八重山郡  

  八重山諸島

第2条 郡の境界もしくは名称を

     変更することを要するときは内務大臣が之を定む

  附則

第3條     本令施行の時期は内務大臣之を定む

注:この勅令で正式に

八重山郡に魚釣島、久場島、南小島、

北小島は編入されたと言われますが、

しかし不思議な事にこの郡編成には

尖閣諸島の島名がありません。

 

1896年(明治29年)9月、

日本政府は古賀辰四郎に

尖閣列島の魚釣島、久場島、南小島、北小島、

4島を30年間無償貸与する許可を出しました。

無料貸与終了後は1年ごとの有料としました。

1897年(明治30年)、

古賀辰四郎は借用許可を得て

尖閣列島の開拓に着手しました。

その功績によって古賀は

1909年(明治42年)に藍綬褒章を受けています。

1900年(明治33年)、

日本政府は釣魚島等を尖閣諸島と改名しました。

命名者は前年に「地質学会誌」に論文を書いた

沖縄県師範学校教諭 黒岩恒と言われています。

注:5月1日に古賀は久場島の調査をしましたが、

  その時に黒岩恒も同行しました。

 

さて、ここまでが日本が尖閣諸島を領土とした経緯です。

1932年尖閣列島のうち

魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島が

古賀辰四郎の息子善次氏に国から有償で払い下げられました。

金額は不明です。

そして戦後ですが、

1972年古賀善次氏は埼玉県の

栗原国起に南小島と北小島の2島を譲渡し、

1978年には善次氏が死去し、

その後妻の花子氏が魚釣島も栗原に譲渡しました。

以上が現在問題になっている尖閣列島に関する経緯です。

確かに無人島ではあるが、

もしかしたら清国の領土かもしれない・・・

と思って遠慮しながら調査をしていた

明治政府が日清戦争に勝利した事で

堂々と領土に編入したのです。

この辺りが問題になるところです。