未解決の軍票
戦争になると当然の事ですが
軍事費がどんどん増えてきます。
日本のように広大な中国や東南アジアを占領し、
維持するには大変な金額を必要とします。
食糧や軍需物資を調達するためです。
日本のお金つまり「円」を持っていっても
占領地では通用しないし、
第一本国の通貨が不足して混乱してしまいます。
その為本国経済と戦地(占領地)の経済を
切り離すために発行された特殊な紙幣が軍票です。
正式には軍事手票と言われます。
日本では西南の役の時に
西郷隆盛の軍隊が発行した「西郷札」が有名です。
第2次世界大戦では交戦国のほとんどが発行しました。
戦後も沖縄ではアメリカによって
「B円」という軍票が使われていました。
参考までにB円の写真です。
寸法は78ミリ×65ミリです。
表
裏
軍票は本来戦争が終われば、
元の一般通貨と交換するべきものです。
日露戦争の時は戦後回収し交換しています。
日露戦争で日本政府が発行した軍票
(注:当時は軍用切符といった)は1億4,841万円でした。
中国侵略の1937年10月、
日本は中国で軍票を使う事を閣議決定しました。
そして11月、南京攻略戦で柳川兵団(第10軍)が
杭州湾に上陸した頃から本格的に使用されました。
その後は当時中国内で信用のあった
国民政府の「法幣」と競争を始めました。
つまり武力だけではなく貨幣戦争もあったのです。
●法幣
重慶にあった蒋介石国民党政権が発行した貨幣で、
中国銀行券、中央銀行券、交通銀行券の総称です。
当然のことながら中国人からは信用がありました。
1941年11月20日、
大本営政府連絡会議で決定された
「南方占領地行政実施要領」では、
「通貨は勉めて従来の現地通貨を
活用流通せしむるを原則とし、
やむを得ざる場合にありては
外貨標示軍票を使用す」という方針が掲げられました。
実はそれ以前にひそかに策定されていた
「南方外貨表示軍用手票取扱手続」では、
どの地域でどの軍票を使うかが決められ、
印刷の準備がされていたのでした。
●地域と軍票
蘭印(インドネシア) ギルダ-表示
英領マラヤ、英領ボルネオ 海峡ドル表示
フィリピン ペソ表示
英領ビルマ ルピ-表示(少し後から決定)
中国や香港では「円軍票」が使われましたが、
東南アジアでは現地通貨の表示とされました。
その理由は中国と違って、
東南アジアはお金も物資も現地で自活するようにし、
独立国として大東亜共栄圏の一員にしようとしたからです。
●南方経理勤務に関する指示 1941年11月26日
戦地使用通貨の大理想は、
戦地既存通貨制度をそのままに軍の手に生け捕りにし、
これにより完全無欠に金も物も現地自活の途を講ずるに在り。・・・・
軍票は作戦初期、軍において支払手段なき時期における応急通貨たる・・・・
そして開戦と同時に日本軍は
軍票を携帯して侵攻していったのです。
●開戦後の「対策要綱」
◎占領当初は現地通貨と等価の軍票を流通させること
注:インフレを起こすのでむやみに発行せず、
現地の通貨と同じ額だけ、という意味です。
◎軍票処理機構を整備すること
注:軍票の発行と回収の組織をきちんとすることです
◎占領が進むと同時に現地発券制度を把握して、
現地通貨で軍票の回収を行なうこと
これらから判断すると、
当初は軍票の発行は一定限度とし、
軍政が進んだら軍票は中止して回収し、
現地通貨に戻す方針だった事が分かります。
日本軍では日清戦争、日露戦争、
中国への侵略戦争と軍票を発行し続けました。
軍票のタイプを「甲号」「乙号」「ろ号」などと分けていました。
アジアではどの様な軍票を発行したのか、
国別に見てみます。
●マラヤ・スマトラ「に号」
マラヤは海峡ドル軍票、
スマトラはギルダ-軍票を共に円と1:1で決めましたが、
中間のシンガポ-ルでは実際には
海峡ドルとギルダ-の交換比率は
1:0.6だったため通貨の混乱をきたし、
1943年軍はスマトラを分離しました。
●フィリピン「ほ号」
1942年2月から現地のペソ貨幣と
ペソ軍票のみを流通させました
●ビルマ「へ号」
当初、マラヤの海峡ドル軍票を流通させ、
後からルピ-軍票を発行しました
●仏印(ベトナム)
円表示の軍票を使用し、
1945年8月の発行残高は2億6,000万円でした
●ジャワ
当初はギルダ-軍票で、
後からルピア軍票に変わりました。
●北ボルネオ
海峡ドル軍票
●オランダ領インドシナ「は号」
ギルダ-(グルテン)軍票
●ニュ-ブリテン(ラバウル)、ニュ-ギニア「と号」
オ-ストラリア・ポンド軍票
実際の軍票がどの様なものだったのでしょうか?
海峡ドルの写真です。
1942年3月には、
政府出資による南方における
中央銀行的な役割をする南方開発金庫が設立されました。
●各占領地に作られた銀行
満州 満州中央銀行
華北 中国連合準備銀行
華中 中央儲備銀行
東南アジア 南方開発金庫
南方開発金庫は発券機能があり、
新しい通貨「南発券」を発行しました。
正式には金庫券といいます。
地域別にバラバラに軍票を出すと
色々と不都合が生じるため
統一した貨幣が必要だったからです。
しかし実質は従来の軍票と変わらないものでした。
本来軍票の発行はインフレにならないように、
現地の通貨の範囲内で印刷し慎重に発行するべきでした。
しかし日本軍は資源の調達を急ぎ、
戦争を進めるため無制限に発行するようになりました。
しかも一般通貨と交換できない不換券でした。
そのためインフレが起きると
更に発行するという悪循環に陥ったのです。
その上に「南発券」まで発行したのですから
通貨は大膨張してしまいました。
●南方開発金庫券発行要領 昭和18年3月
大東亜大臣達 原文カナ
第1条 南方開発金庫券は、
次の通貨単位名称の南方開発金庫券(以下金庫券と称す)を、
夫々の地区ごとに発行すべし
「ドル」(弗) 馬来及び北「ボルネオ」地区
「ペソ」 比島地区
「グルデン」(盾) 東印度地区
「ルピ-」(留比) 緬甸地区
「ポンド」(磅) 豪州地区(委任統治地区を含む)
第2条 金庫券の発行に付いては
大東亜大臣の定むる金庫券発行計画に拠るべし
第3条 金庫券の種類及び様式は外貨軍票と同一とす
付則
第10条 金庫券の発行は昭和18年4月1日よりこれを実施すべし
第11条 既発行の外貨軍票に付いては
国庫にたいする整理の関係を除き
凡て金庫券として取り扱うべし
「軍票に関する証言」
●今日出海 「山中浪人-私は比島戦線の浮浪人だった」から
軍票に関して
軍票に対する不信用は
日増しに増大しているのに、
軍はマニラ新聞の印刷機を始め、
軍管理のあらゆる印刷所を動員して軍票を製造していた。
昭和19年の秋から3~4ケ月間に
50億余の紙幣を印刷したので、
通貨はハチ切れるばかりの膨張を示した。
そのために物価はこの3年間に約100倍に騰貴した。
●村田省蔵の回想録より 当時フィリピン特命全権大使
戦時財政上、もとより止むを得ざるに
出たるものなりと言えども、
何等の裏付なくして
無制限に軍票を発行せば、その価値の低下を見、
物価の騰貴を誘致し、
ついには悪性インフレ-ションを導く事は当然なり・・・・
一体軍票はどの位発行されたのでしょうか?
南発券を含めた東南アジアの軍票 194億6,822万円
中国で発行した支那事変軍票 25億1,646万円
合計 219億8,468万円
現在の貨幣価値から考えると
大変な金額の軍票を発行したのです。
さらに中国の占領地に作った銀行では、
華北では連銀券、
華中では儲備銀行券という軍票でなく
通貨を発行していました。
その両方の通貨の合計はなんと6,181億500万円です。
この全部の合計6,400億円以上の残高が
日本の責任である事は当然でしょう。
しかし日本はその軍票や通貨をそのままにして戦争に負けました。
敗戦後、連合国総司令部(GHQ)最高司令官
マッカ-サ-の覚書に基づいて、
大蔵省は一切の軍票及び占領地通貨は
無効とする旨声明を出しました。
つまり放り出したのです。
●日本帝国大蔵省声明 昭和20年9月16日 原文カナ
・・・・日本政府及び陸海軍の発行せる
一切の軍票及び占領地通貨は無効且つ無価値とし、
一切の取引において之が授受を禁止す
アジアの人々は戦争で人的な被害を受けた上に、
物資とお金を収奪され、
軍票というただの紙切れを残されたのです。
軍票を残された国々はどの様に対処したのでしょうか?
中国 国民党政府が中国の通貨と交換
仏印(ベトナム) 流通量が少なかったため放置
香港 英国が焼却したが、
その残りの約12億円は現在でも放置
マラヤ 焼却されたが、住民の不満が強かったため
1人当り20ドルを支給した
フィリピン ほとんど焼却
インドネシア 戦後も流通、焼却、新ギルダ-と交換
このように国によって色々な対処がされましたが、
いずれにしても日本政府は責任を取っていません。
色々ある戦後処理の大きな問題の一つとして残っています。