強制連行の時代背景

中国人強制連行はいきなり始まった訳ではありません。

1937年頃日本の中国侵略が本格化すると、

軍需産業や関連諸産業は急激に忙しくなり

労働力が不足してきました。

特に炭鉱・鉱山・土建・港湾の労働者に

不足が目立ってきました。

身体の丈夫な男子から兵隊に招集されたのですから

当然とも言えます。

 

●1937年7月、商工省の諮問に答えて、

 石炭鉱業連合会は5ケ年の石炭生産計画を立て、

 約11万人の労働者の補充を国に要請した。

 しかし増員は困難だった。

 

●1938年8月、

 筑豊石炭鉱業会は

 石炭鉱業連合会、全国産業団体連合会、

 鉱山懇話会に陳情書を送った。

 ◎陳情書 

  ・・・・朝鮮人労働者の団体的移住は

  昭和9年閣議の決定により禁止せられたる所なるが、

  時局に鑑み労働力補充の一対策として、

  この閣議決定の方針を緩和し、

  これを内地に誘致し得るよう取り計れたきこと・・・・

 

土木業協会も日本発送電の工事業者と協議して、

「労務委員会」をもうけ、

厚生省に対して朝鮮人労働者の内地移入の

陳情を繰り返していました。

しかし政府はなかなかこの要請を受け付けませんでした

 

●1937年12月22日 内務省の通達

 公的社会機関をして能う限り鉱夫の充足をする

 労働条件の改善を促し鉱夫の生活の安定を図ること

 

政府が乗り気でなかった理由は

 1 大量移入は各種の社会問題の発生の因をなす恐れあり

 2 朝鮮の産業開発に労働力を要する為

    日本まで連れてこられない

 

しかしながら、労働力の不足は深刻になるばかりでした。

1939年7月28日、

遂に厚生省、内務省、朝鮮総督府の話し合いが成立し

朝鮮人労働者の移入政策が決定されました。

さらに朝鮮人だけではなく、

中国人労働者移入の嘆願書も出され始めました。

 

●北海道土木鉱業連合会から中国人労働者移入に関する嘆願書

1939年 

 ◎嘆願書

  ・・・・枯渇せる労働者資源を

  支那人の有する最も簡易なる奉仕をもって

  代位するはきわめて当然ならずや、

  彼らの如き低廉なる労働賃金をもって

  甘んずる労働者を我が本土に連行し・・・・

     注:中国人を馬鹿にした失礼な文言です

 

1941年8月、

石炭鉱業連合会と金属鉱山会は企画院、商工省、厚生省に

「鉱山労務根本対策意見書」を出した。

●意見書 

 ・・・・支那苦力(肉体労働者)の移入についても

 積極的に促進する事・・・・

 

かたや満州において、

1937年からの「満州国産業開発5ケ年計画」では

やはり労働力不足になっていました。

1938年1月に「満州労工協会」が設立され、

騙すような募集や供出で中国人労働者を集めていました。

満州ではそれでも労働者が足りなかったため、

1941年からは「華北労工協会」を通じて強制連行が始まりました。

連行された労働者は「特殊工人」と呼ばれました。

このように国内での労働力不足と

満州の特殊工人連行の成功が、

中国人強制連行開始のきっかけなりました。

そして連行は政府主導ではなく、

産業界からの要望や突き上げに

政府が応じるという形になりました。