実験動物の供給基地埼玉県春日部周辺

戦争中細菌戦用の実験小動物を大量に飼育して

軍の研究所、100部隊、731部隊などの

細菌戦部隊に供給していたのは埼玉県です。

春日部周辺の農家が副業として動物の飼育をしていました。

その数4000軒とも言われます。

陸軍省医務局医事課の金原節三大佐の業務日誌には

43年の段階ですでに埼玉で年間47万匹、

さらに飼料を補給すれば20万増産可能・・・・と

書かれています。

庄和高校の生徒たちが周辺の農家で

聞き取り調査をした結果では、

1軒で5箱(20~40匹)ぐらい飼っていたようですし、

庄和町内だけで仲買をしていた人が23人

(名前が確認できた人だけで)いたそうです。

ネズミの価格は1940年以前は1銭ぐらいだったものが、

45年になるとラット1円、マウス10銭にまでなったそうです。

飼育された動物は立川の飛行場から

各地の細菌部隊に空輸されました。

支払は当初防疫給水部が直接担当していましたが、

扱い量が多くなると陸軍省経理局が

「委任支払」というかたちで業者に

代金を支払うようになりました。

敗戦後はアメリカ軍の第406部隊に

引き続き動物の供給をしています。

朝鮮戦争の細菌使用に役立ったと思われます。

農家から小動物を集めて軍に納入する業者もいました。

その内の一人春日部の試験動物集荷業者小澤市三郎は、

戦後は連合軍総司令部御用達の看板をかかげ、

米軍406部隊に動物の供給を続けていました

朝鮮戦争が始まると需要が増大し、

小沢は集荷所を

埼玉県販売農協連合会医科学試験動物取扱所と

組織替えし、その所長となりました。

同時に日本実験動物総合研究所

(731部隊の小林孝吉が勤務した)を併設して

新しい動物の飼育も始めました。

戦争中はラッテマウスが中心でしたが、

アメリカ軍の需要に答えるため、

モルモット、ハムスタ-、兎、猫、鶏、亀、

がま蛙、カマキリ、山羊まで飼育したといわれています。

当時仲買人が不当な利益を上げているとの告発が

農家からGHQにあり、GHQ埼玉地方経済調査庁調査をしました。

その報告書で当時の状況が分かります。

 

●埼玉県に於ける医科学試験用マウス種、

        20日鼠の飼育状況実態調査

 1. 飼育状況

  埼玉県下における農家の副業として

  南埼玉、北埼玉、北葛飾の3郡及び

  足立、入間両郡の1部計2市16町93ケ村に亘って

  飼育されている。

  飼育戸数 6038戸  

  飼育頭数 81400匹

 2.集荷体系

  右の表(略)の体系を以って連合軍406部隊へは

  毎週月曜木曜の2回に亘って納入している。

  其の他予研伝研帝大等に納入している。

  納入数量は 昭和23年において 429219匹

  昭和24年において   510897匹

 

1943年4月に参謀本部で開かれた

ホ号打合の様子を業務日誌から見てみます。

●上記金原大佐の業務日誌からネズミの供給について・・・・

  (記述からネズミの供給が茨城や栃木でも

  行われていたことが分かります)

 医校(軍医学校の防疫研究室)

 1.粕壁(春日部)付近が主力となる。

  1軒30。  

  4千軒で1組合(親1匹1ケ月2)2匹)

  本年度予定 玉47.5、茨城20.5、栃木6.45

  計74.45万  

 2.埼玉に飼料を補給せば20万増産可能。

  茨城県、栃木県は指導強化により

  10万程度増産見込。  

  最大産出見込100万。 

 3.輸送の円滑にゆくのは関東軍のみ。

  南方軍には種を補給す。北満、南満特に予定せず。

 関東軍

 1.  2万だけ中支、残の全部関東軍に、

  北支、南支、南方は餅種のみ。  

  これが輸送の援助を行うべし。
 2.  体重が増加すればする程生存日数長く」

  抵抗大となる。80g以上。

 

新聞記事からも見てみます

●埼玉新聞の記事  1943年12月10日

 粕壁(春日部)で小動物増産協議会・・・・

 田中一郎(仮名・小沢の事か?)組合長の

 挨拶に続いて協議に移り、

 小動物増産が決戦下重要使命を帯びる為、

 これが増産に関する協議をなし・・・・

 

証言

●小沢と親しかった高木一郎の証言 1991年11月

 日本実験動物研究所の職員が昼休み

 よくビリヤ-ドをやっていましてね、

 私も好きなもんで入れてもらってたんですけど、

 ある日アメリカ兵がビリヤ-ドをやってたんです。

 それがちょうど朝鮮戦争のちょっと前でした。

 それから日本実験動物は、

 アメリカ軍が細菌爆弾を開発するのに

 必要な実験用のネズミや兎を大量に

 供給してるんだってことが町中の噂になったんです。

 そのころからネズミを飼育している農家は

 急に需要が増えて、農閑期だけじゃなく、

 年中農業の忙しい時期も飼育するようになりましたね。

 小沢さんとこの集荷人も20人くらいに増えて、

 毎日回ってました。

 1軒の農家は少なくとも

 週1回1度に50-60匹出していました。

 朝鮮戦争が始まってからは、

 4トントラックが来ることもありました。

 

●田口新吉 証言   1991年11月

     元陸軍衛生兵、戦後共産党に入党、

     河辺村で飼育者の組合を作った

 アメリカ兵がトラックで実験動物を取りに来ていました。

 そのトラックには大きく

 「アメリカ陸軍医学研究所」と書いてあり、

 その下に406と書いてあるので、それで分かったわけです。

 ある程度親しくなってから、

 農協の職員に「今日のはどこへ持っていくんだ」とか、

 さりげなく聞いたりしたが、

 「朝霞」とか「座間」とか「根岸」とか色々でしたね。

 忙しいときはね、月にラッテマウスがね20万匹、

 モルモットは1万匹くらいは扱っていたと思う。

 朝鮮戦争の頃はよく督促されたね。

 集荷人の数も増やしたから、

 集荷地域を拡大したんじゃないかと思うね。

 昆虫なんかも出荷していた。

 高さ2メートル、幅2メートルくらいの

 風呂桶のようなものを出荷しようとしていたから、

 これは何に使うのかと聞いたら

 「これは水槽なんだと、このなかにボウフラを飼って

 蚊を繁殖させるのに使うんだ」と言っていた。

 

● 天野良治 1918年生れ  陸軍防疫研究室の経理部勤務

 ・・・・小動物(ネズミ、ノミ、ニワトリなど)は

 埼玉県の粕壁、川辺、南桜井(庄和町)の

 生産組合から週1回ほど納入され、

 月に5万匹(1匹5~6銭)ほど

 調達していと記憶しております。

 納入されたものを防疫研究室分、

 731部隊分、1644部隊分などに区分し、

 定期に運行している航空機により

 立川から運んでいきました。

 私たち主計は陸軍の階級のほかに、

 “前渡金管理官”という肩書もありました。

 ここで私が支払をしていた品物としては、

 細菌培養缶、寒天、肉、実験用のネズミ、サルなどがあげられます。