陸軍刑法

それでは軍は刑法上、

強姦をどのように考えていたのでしょうか?

 

●明治41年施行の陸軍刑法(原文カナ)

 第9章 掠奪の罪

  第86条 

   戦地又は帝国軍の領土地において

   住民の財産を掠奪したる者は

   1年以上の有期懲役に処す。  

   罪を犯すに当たり婦女を

   強姦したるときは

   無期又は7年以上の懲役に処す

 

と、ありますが、

掠奪のついでに強姦した場合のみが

対象になっていました。

強姦のみの場合は陸軍刑法ではなく、

一般刑法が適用とされました。

その場合親告罪(被害者本人の告訴が必要)でしたので、

実際にはほとんどが泣き寝入りだったと思います。

軍隊の強姦に対する考え方は

この程度だったのでしょう。

 

掠奪、強姦、殺人、放火等の犯罪に

困っていた陸軍では

1938年に兵士の心得を出します。

 

● 大日本陸軍部「従軍兵士の心得 第2号(軍紀風紀に就て)」

         (原文カナ)

       1938年11月

 本書は先に公布せる「従軍兵士の心得 第1号」の姉妹編である、

 特に軍紀風紀に就い記述したのであるが

 第1号と共に熟読するを要する

 (二)刑法の部

  (1)強姦の罪

 ・・・・総て強姦の罪に対しては

 2年以上15年以下の懲役を科し

 殺したり傷を負わせたりすれば

 重きは死刑に、軽きも無期もしくは

 3年以上の懲役に処せられるのである

 

それでも収まらない軍紀違反に困った

第11軍司令官だった岡村寧次は、

日本に帰還した1940年3月、

戦時強姦罪の設定を阿南陸軍次官に訴えています。

阿南はただちに同意し、改正に着手しますが

なかなか改定されませんでした。

2年後の1942年2月20日に陸軍刑法は改正され、

強姦の罪という単独の項目になりました。

改正に際して

「世界に冠たる皇軍の規律が疑わしいとは何事だ・・・!」

という反発を予想して、

法務局は次の回答を準備しています。

 ◎準備された回答

  支那事変勃発以来軍は相次ぐ動員編成により、

  その包容する人員激増し性格、能力、

  体力等において種々雑多 者を迎え、  

  中には素質低劣の、教育不十分なる者を

  免れず遺憾ながら抗命、   

  上官暴行殺傷強姦等の罪を犯す者も

  相当の数に上っ ているのであります」

 ◎改正された陸軍刑法

  第9章 掠奪強姦の罪

   第88条-2

    ・・・・前項の罪を犯す者、

    人を傷したるときは

    無期又は3年以上の刑に処し、

    死に至らしたるときは無期

    もしくは7年以上の懲役に処す

 

第9章に強姦と言う言葉が入りましたが、

刑は7年から3年に軽くなりました

そして一般刑法から陸軍刑法の

適用になったため親告罪ではなくなりました。

ところが実際には現地では、強

姦に陸軍刑法を適用せず、

一般刑法で処理した事が多々ありました。

一般刑法では先ほども述べたように

被害者が自分で訴える親告罪でしたので、

多くの事件がうやむやにされ、

又は訴えられないように

強姦後殺害してしまったのです。

では、陸軍刑法を改正して強姦は減ったのでしょうか?

相変わらず多かったようです。

 

まず岡村寧次が進言した改正作業の途中です。

 

● 陸軍省局長会報での大山文男法務局長の説明

19418月9日 金原節三「陸軍省業務日誌摘録」

 ・・・・軍法会議の上半期において

 取扱件数1,900余件あり、内軍人1,126人・・・・

 兵士に比し幹部に多し、

 現役者と下士官に多く・・・・

掠奪39件・・・・

横領100件以上、

収賄69件、

強姦39件・・・・

(注:軍法会議にかかるのはわずかで、

強姦の多くは秘密に処理されていた)

 

次は改正後の資料です。

 

● 「軍参謀長口演要旨」 昭和17年9月22日 

     第14軍司令部

     (フィリピン)イロイロ憲兵分隊執務参考綴り  

     (比島防衛546)から  (原文カナ)

 1.-3. 省略

 4. 軍紀風紀について

  東軍上陸以来の犯罪非行の状況をみると、

  作戦初期においては強姦著しく多く

  一時憂慮したが・・・・

  近頃窃盗横領等の散発を見る。

  特に将校、下士官にして

  この種の犯罪を犯す者がある・・・・

  役種別に状況を見ると、

  強姦や対上官犯は共に召集者に断然多く、

  窃盗横領は現役者に多い・・・・

         以下省略

 

● 「軍法会議取扱人員表」       

     昭和17年1月から12月  

     第一野戦憲兵隊会議書綴 から

  陸軍刑法 戦地強姦     7名

       戦地強姦致死   1名

  刑法   強姦       37名

       強姦未遂       2名

    注:逮捕されて処罰された人数です。

      実際はこの何10倍もあったでしょう

 

● 第64師団戦史から 

    1944年7月に華北から第11軍に配属された

 ・・・・湖南省に到着して将兵一同驚いたここは、

 第11軍将兵全般の民衆に対する暴戻ぶりであった。

 即ち、第11軍各兵団は「戦いには強いが

 民衆に臨むには暴であった」との感を強くした。・・・・

 いくたびかの第11軍の長沙攻略により、

 戦禍を蒙った住民の中には、

 放火、掠奪、強姦、殺傷等により、

 怨恨の骨髄に徹するものあり・・・・

 

このように慰安所を作っても、

陸軍刑法を改正しても強姦事件は

増えるばかりでした。

この項目の最後に、

国府台陸軍病院の早尾軍医中尉が

軍の委託を受けてまとめた

「戦場に於ける特殊現象と其の対策」という

論文を資料に使います。

その中の「性欲と強姦」という項目です。

 

● 性欲と強姦  国府台陸軍病院附 金沢医科大学教授

 陸軍軍医中尉 早尾乕雄 1939年6月  

   (原文カナ、意訳)

 ・・・・出征者に対して性欲を長く抑制することは、

 自然に支那婦人に対して

 暴行することになるだろうと

 兵站部は気をきかせ、

 中支那にも早々に慰安所を開設した。

 その主要な目的は性の満足により将

 兵の気分を和らげ皇軍の威厳を

 傷つける強姦を防ぐ事にあった。

 慰安所の急設は確かにその目的の一部は達した。

 しかしあの多数の将兵に対して

 慰安所の女の数は問題にならない。

 上海や南京には慰安所以外に

 その道は開けているから(注:民間の売春宿があった)、

 慰安所の不足した地方や前線へ送り出せたが、

 それでも地方では強姦の数は相当あり、 

 また前線にもこれを多く見る。

 これは女の供給が不足していることが

 原因であるが、

 やはり留学生が西洋女に興味を持つと

 同様で支那女に好奇心が湧くとともに

 内地では到底許されないことが

 敵の女だから自由になるだろうという

 考えが非常に働いているため

 支那娘をみたら憑かれた様に引き付けられて行く、

 従って検挙された者こそ不幸なんで、

 陰ではどれ程あるか分からない・・・・

 部隊長は兵の元気を作るために

 必要として見て見ぬ振りをしたのさえあった・・・・

 勝利者なるが故に金銀財宝の掠奪は言うに及ばず、

 敵国婦女子の身体まで汚すとは

 誠に文明人のする行為とは考えられない。

 東洋の礼節を誇る国民として慙愧に耐えぬことである。

 昔、和倭は上海に上陸し

 南京に至るまでこのような暴挙に出たため

 非常に野蛮人として卑しめられ嫌われたというが、

 今においても尚、同じ事が繰り返されるとは

 何とした恥辱であろう・・・・

 日本の軍人は何故このように

 性欲に理性が保てないのかと、

 私は大陸上陸と共にただちに痛感し、

 戦場生活1年を通じて始終痛感した。

 しかし軍当局はあえてこれを不思議とせず、

 この方面に対する訓戒は耳にした事がない。・・・・

 軍当局は軍人の性欲を抑えることは

 不可能だとして、

 支那婦人を強姦しないように慰安所を設けた。

 しかし強姦ははなはだ盛んに行なわれて、

 支那良民は日本軍人を見れば必ず恐れた・・・・