地域別・中国

兵隊達が慰安所を利用した事や

捕虜虐殺、放火等は、旧軍人の日記や

回想録にはある程度出てきます。

しかし強姦になると加害者側の

記録があまりありません。

強姦は恥であると同時に

軍規で厳しく禁止されていたからです。

ですから強姦の記録を集めようとすると

どうしても被害者の証言が

中心になるのは当然の事です。

 

1995年に中国の政治協商会議文史資料委員会が

「侵華日軍暴行総録」という本を出版しました。

台湾、香港を含む中国全省の聞き取り調査です。

その中から性暴力に関する部分を

河北省のみ掲載します。(北京、天津は除く)

 

「河北省」

河北省だけで97件ありますので書き切れません、

適当に省きます。

番号は原本にある番号のままです。

尚、この調査では全部で2,272件

暴行や強姦が記録されています。

しかしこれは調査をした範囲ですから

実際にはこの数倍あったかもしれません。

強姦事件は中国全域全期間で発生していますが、

特に三光作戦の時多発しています。

さらにその中でも解放区

(中国側が制圧し日本から解放された地区)を

再度攻めた時、日本軍は腹いせに

八路軍地区では何をやってもよい、

殺人、放火、掠奪、強姦、勝手次第(第1軍田中隆吉少将)」

・・・・という政策をとったからです。

番号

鎮・郷・村

年月日

性犯罪の事例及び概要

被害者

1

万全

県城

37.8.27

30人余の兵士が1女性を輪姦殺害、9名の女性を

任意に陵辱、屈辱に耐えられず自殺した女性あり

11

2

青県

流河

37.9.9

人妻を輪姦後銃殺、70歳の老女も強姦殺害

13

5

永清

瓦屋辛庄

37.9.16

7ケ月の妊婦を割腹、2人を強姦殺害、他村から

避難してきた20余名の婦女を発見して輪姦

多数

6

固安

辛倉村

37.9.16

3歳幼女の陰部に銃剣を突き刺し、空中に投げる

1

7

永清

白?村

37.9.15

他村から避難してきた少女7人を強姦殺害

7

9

永清

徐官営

37.9.15

干し草に隠れていた9人の娘を輪姦後刺殺、

逃げ遅れた女性を輪姦殺害

10

11

滄県

捷地

37.9.25

女子青年を裸にして縛り、強姦後銃剣で刺殺

不明

12

正定

近郊13村

37.10.8

女子青年28名が陵辱を逃れるため6名の幼児を抱えて井戸に投身、24名惨死、娘を輪姦後裸にして殺害

25

13

正定

カソリック協会

37.10.9

9名の外国人聖職者を殺害、多くの修道女を陵辱

多数

14

藁城

梅花鎮

37.10.12

200余名の婦女に対して陵辱、暴力、虐殺、11名の妊婦を割腹輪姦後女性の乳房を切除

200

33

安次

葛魚城

38.4.21

街中を掠奪殺戮、婦女陵辱。人妻を輪姦後斬り殺す

30

59

深県

北周堡

42.6.16

若い女性を陵辱、輪姦後数日後に死亡した女性もいた。

20余名の女性を日本軍の駐屯地に連行、陵辱

20以上

73

霊寿

大寨山

43.10.22

村の婦女22名を捕縛、数名を陵辱した後、全員を裸にし、

踊りを強制、不従者は刺殺、最後は大寨山に連行してがけから突き落とし、更に射殺

20余

74

平山

蘇家庄

43.秋

掃討作戦で全村民を監禁し若い婦女を陵辱

100余

 

「南京」

日本の中国侵略の象徴的事件として

南京事件があります。

南京大虐殺として有名です。

加害者、被害者、世界中の報道機関、

右寄りの学者さえ(きちんとした学者)

事実としていることです。

それでもこの事件をまぼろしと主張する

困った人たちがいます。

虐殺については別の原稿で詳細に述べますが、

南京では壮絶が強姦も行なわれています。

東京裁判の資料では1ケ月に20,000件の

強姦があったとされています。

日本軍ではあまりの強姦事件の多さに困って

軍慰安所を急ピッチで作りました。

被害者と加害者の証言を書きます。

このような強姦の被害者が

南京だけで20,000人いたことを

想像して読んでください。

 

● 蔡玉英さん 証言日 1998年12月15日

 当時(1937年)の住所は、

 南京城内通済門の北大中橋東文思巷に住んでいた。

 家族構成は53歳の父、53歳の母、

 7歳の私の3人家族で父親は竹細工師であった。

 日本軍が侵攻して来ることを知って、

 近所の人々は国際安全区に避難していった。

 父親は、自分たち年寄りや小さな子どもなら

 いくら日本軍が悪いといっても

 危害を加えることはないだろうと思って家に残った。

 まわりでも年寄りや子どものいる家庭は

 こうして残る家が多かった。

 12月13日   

  朝7時か8時ごろ、3~4人の銃と刀を持った

  日本兵が家の扉を開けて入ってきた。

  当時敷地内に3家族住んでいたが、

  銃を乱射して押し入ってきた日本兵に、

  まず管理人のおじいさん、

  朱という家主のおばあさんが撃たれた。

  続いて屋内にいた父が左腕を撃たれて倒れた。

  母も引きずり倒された。

  午後2~3時ころ、再び日本兵が入って来て、

  母を取り囲み、刀で母のシャツや

  身に着けていた衣服を切り裂いた。

  取られまいとしたら身に着けていた

  銀の首飾りやお金を日本兵は奪った。

  母は「やめてください」と言ったが、

  綿入れの上着や布団までなにもかも奪っていった。

 12月14日   

  午後2~3時ころ、父の傷が深いので

  近くの避難所に逃げようとしたが、

  手前で日本兵に銃で遮られ家に追い返された。

  真冬で寒かったので、

  午後庭の陽だまりで日に当たっていると、

  2人の日本兵が馬に乗って入ってきた。

  馬から降りた1人は髭が生えていて、

  急に私に近づいて抱き上げズボンを脱がそうとした。

  激しく抵抗して泣く私に父は

  「泣かないで、泣かないで」と言って、

  日本兵から私を取り戻そうとした。

  父は数度日本兵に顔を殴られ地面に倒れた。

  その場で馬乗りになり、

  首を3度も切りつけられた。

  血が止まらず血溜まりの中で父は動かなくなった。

  母は必死になって父をベッドに運んでいった。

 12月15日  

  午後2~3時ころ台所の下で

  私と母が横になっている所へ、

  再び2人の日本兵が入って来た。

  父は出血で衰弱して横たわったままだった。

  日本兵は父のところへ近づき、

  父の目を指で開き、刀を口に差し込み、

  中国語で「死了、死了」と言った。

  父は意識があったが傷がひどくて

  声も出ず抵抗も出来なかった。

  父が死んだと思って

  1人の日本兵が私に近づいてきた。

  私は恐怖で声も出なかった。

  日本兵は私を押し倒し、

  乱暴にズボンを剥ぎ取った。

  太ももを両手で開き、

  指を膣に押し込んでえぐった。

  痛くて痛くてたまらなかったが、

  殺されるのが恐くて泣く事もできなかった。

  そのまま私は日本兵に強姦された。

  母は強姦を恐れて顔に煤を塗っていたが、

  もう1人の日本兵に顔を強くこすられた。

  このときは母日本兵の手を噛んだので

  顔をひどく殴られ強姦されてしまった。

  その後銃口を膣にねじこまれて

  痛くて「やめて」と泣きながら哀願したが

  聞き入れられなかった。

  もし私も泣き叫んだら母も殺されると思っていた。

  母の下半身から沢山の血が流れ止まらなかった。

  動けなくなった父の眼前で

  母と私は日本兵から残酷な蹂躙を受けた。

  日本兵が去った後、私の性器は腫れあがり

  痛くて動くことも出来なかった。

  小便が知らないままに流れ出し

  調節が出来なくなっていた。

  父も母も動けなくなり傷の手当は

  自分でするしかなかった。

  布切れを股にあてていたが、

  小便がしみていたくて身体をうごかすことが出来ず、

  何ケ月たっても前かがみになって

  股を開いた姿でしか歩けなかった。

  父は首を切られたために身体が動かず、

  重体で食物も受け付けず、

  数日後には死んでしまった。

  母も精神的におかしくなり

  悲惨で毎日泣き暮らした。

  日本兵に強姦された時顔を

  強くこすられ目も傷ついて失明し、

  食物も受け付けなくなって

  父のすぐ後に死んでしまった。

  数日後、父の兄弟の妻が安全区から戻ってきて

  私たちの世話をしようとした。

  この人はまだ16歳で、

  家にやって来た3人の日本兵に輪姦されてしまった。

  後で戻ってきた夫はそれを知って

  「日本兵と寝た女」と彼女をひどく殴りつけた。

  夫に解ってもらえず彼女は絶望して

  間もなく池に飛び込んで自殺してしまった。

  また、近所に住んでいた自分より1歳年上の

  遊び友達の女の子は両親の前で日本兵に強姦された。

  父も母も「助けてください、助けてください」と

  跪いて哀願するのも聞き入れられず、

  銃で撃ち殺されてしまった。

  その上、女の子は強姦されたあと、

  酒の瓶の先を性器に差し込まれて

  痛くて泣き叫んでいた。

  日本兵は刀でその子を切り殺した。

  その後も日本兵はたびたびやってきたが、

  私のボロボロになったズボンをずらし、

  下半身が腫れあがっているのを見て

  強姦するのを諦めた。

  しかし、解らない言葉で怒鳴りながら

  私を殴ったり蹴ったりした。

  父も母も日本兵に殺され、

  幼い私は身体の痛みを我慢しながら、

  独りぼっちで生きていかなくてはならなかった。

  物乞いをしてその日の食物を手に入れることがあった。

  悲しくて何度も池に飛び込んで

  死んでしまおうと思った。

  ある日池の端で泣いていると、

  青年がやってきて私に泣いている訳を尋ね慰めてくれた。

  彼は早くに両親を亡くしていて、

  独りぼっちの私の悲しみを理解してくれ

  何度も食物やお金を分けてくれた。

  14歳になった時、私は14歳年上のその人と結婚した。

  彼は優しくて、私のおむつまで洗ってくれる人だったが、

  夫の姉はことごとく私に辛くあたった。

  「日本人と寝た女、汚らしい女」と罵り殴られた。

  両親を奪われ教育も受けられなかった。

  強姦のときの傷がひどく、

  私はいまだにおむつを離せない身体になり、

  60年間辛い思いをしてきた。

 

● 井戸 直次郎(仮名)  1914年7月生まれ   

    第16師団歩兵第33連隊第3大隊 

    2000年5月証言

 (強姦は)そこら中でやっとった。

 つきものじゃ。

 そこらじゅうで女を狙いおるのや、

 女を強姦しとるのをみたで。

 婆さんも見境いなしじゃ。

 強姦して殺すんじゃ。

 もう無茶苦茶じゃ。・・・・

 家の長持ちの蓋を開けると

 中に若い嫁さんが隠れとったんじゃ。

 纏足で速く逃げられんで、

 そいつを捕まえて、

 その場で服を脱がせて強姦したんじゃ。

 ズボン1つでパンツみたいな物をはいておらんで、

 すぐに出来た。

 やった後「やめたれ」って言うたんやけどな、

 銃で胸を撃って殺した。

 後で憲兵隊がきてばれると

 罪になるから殺したんじゃ。

 それを知っとるさかい、やった後殺すんじゃ。

 だいぶたって治安が良くなるとな、

 部隊のみんなを並ばせて、

 憲兵隊が強姦された女を連れてきて、

 誰がやったと調べたこともあった。

 平時と違って罪にはならんかったが、

 「やめとけよ!」と怒られる程度じゃった。

 悪い事し放題やった。

 10人おって9人までは強姦しとらん者はおらん。

 自慢話にもなっとる。

 慰安婦いうて、30人位の女を

 たいがいの部隊では連れ歩いておった。

 ほとんどは朝鮮人の女じゃった。

 わしらの部隊でも慰安所を作ったわな、

 中隊やなく、野田部隊の連隊で作っておった

 街の中でも女が隠れてとる所をよく知っといたわ。

 若いもんも、お婆も、みんなやった。

 それからばれたらまずいから殺すんじゃ。

 南京に入る前から、

 南京に入ったら女はやり放題、

 物は取り放題じゃ、と言われておった。

 「70くらいのお婆あをやった。腰が軽うなった」と

 自慢しよる奴もおった。

 街中にも女はぎょうさん残っておった。

 たいがい穴の中に隠れておってね。

 慰安所作っても強姦減らんわ。・・・・

 わしの分隊はまだましやったけど、

 他の兵隊は無茶苦茶や、

 分隊の兵隊はほぼ皆やっとった。

 街に行ったら「ただ」やからな。

 ほとんど女ばっかりの

 難民区(金陵大学か?)にも行って、

 部屋に入ったらこれとこれと、

 指差して、女は遊び放題やった。

 その場でやってしまうんや。・・・・

 昼夜お構いなしじゃ。

 大体1個分隊で行った。

 10数回は行ったやろうかな。

 各分隊みんなそんなもんじゃった。・・・・