GHQ マッカ-サ-の機密文書

2013年8月15日、韓国の聨合ニュ-スが

「慰安婦強制動員 

マッカッサ-の機密文書で明るみに、」と

報道しました。

この機密文書は敗戦後の

1945年11月15日付で作成された文書で、

「連合軍通訳部(ATIS)調査報告第120号 

日本軍における各種アメニティ」と題されています。

 

長い間機密でしたが1993年3月に機密解除され、

2006年ブッシュ大統領下で

議会が日本軍の慰安婦問題を検討する

資料となっていました。

そして、今回米下院外交委員会

東アジア担当専門委員をつとめた

デニス・ハルピン氏が聨合ニュ-スに公開したものです。

 

Stiffmuscleさんが翻訳したものを引用します。

内容はこの「軍による性暴力」と重複するので

最初だけ引用します。

 

B. ビルマ

(1)捕虜

 (1944年8月10日ワイモウ附近で、

 その妻および従軍売春婦20とともに捕獲された 

 一般市民の売春宿経営者)の供述

 ● 捕虜、その妻、及び義理の姉妹は、

  朝鮮の京城にて食堂経営者として

  それなりに稼いでいたが、客足は減ってきていた。

  彼らはより多く稼ぐ機会を探していたので、

  「慰安婦」を京城からビルマへ連れて行く

  許可を京城の陸軍司令部に申請した

  捕虜によると、

  その示唆は、もともと陸軍司令部から出たもので

  京城にいる捕虜と同じような

  多数の日本人「実業家」たちに伝えられていた

注:軍の方針だったということです

  捕虜は朝鮮人女性22名を購入し、

  女性の性格、容姿、年齢に応じて

  300~1000円を彼女の家族に支払った。

  これら22名の女性の年齢は19~31歳であった。

  女性たちは捕虜の占有財産なっていたので、

  陸軍は彼女たちから利益を得なかった。

  朝鮮軍司令部は、

  日本陸軍の全ての軍司令部あての

  書簡を捕虜に与え

  移送、食料、医療など、

  捕虜が必要とした場合の援助は

  全て提供するよう要請した。

 注:各軍が業者に大変な便宜を図ったということです

  食堂を続けるために義理の姉妹を残して、

  捕虜とその妻は、22名の女性を連れて、

  女性703人(全員が朝鮮人)および

  日本人男女90名程度(全員が捕虜と同じような

  いかがわしい者たち)からなる一行で、

  1942年7月11日に釜山を出航した。

  7隻からなる船団の中で、

  一行は4000トンの旅客船に搭乗して航行した。

  陸軍司令部からは無料乗船券が提供されたが、

  航海中の食事は捕虜が全額支払った。

  台湾に寄港したした際、

  シンガポ-ルへ向う女性22名が新たに乗船した。

  その後、シンガポ-ルに寄港した際に、

  一行は別の船に乗り換え、

  1942年8月20日ラング-ンに到着した。

  ラング-ンで、一行は

  20~30名ずつのグル-プに分けられ、

  各グル-プは異なった連隊、部隊、

  もしくは中隊に配属され、

  ビルマ各地へ分散して行ったため、

  各グル-プは独自の売春宿を持つようになった。

  捕虜のグル-プは歩兵第114連隊に配属され、

  客に追従して、ダウング-、メイクテ-ラ-、

  およびメイミョ-で数ヶ月過ごした後、

  (1943年1月ごろ)ミッチナに到着した。

  すでにミッチナには売春宿2軒が設置されていたので、

  売春宿は3軒、女性は総勢63名ということになった。

  内訳は、捕虜の売春宿であったキョウエイが

  朝鮮人女性22名、キンスイが朝鮮人女性20名、

  そしてモモヤが中国人女性21名であった。

  この中国人女性たちは、

  ここの朝鮮人女性と同一条件で広東で購入された。

  後方地域には慰安所に日本人女性がいたが

  (例:メイミョ-では8件の慰安所のうち

  2軒が日本人女性で成り立っていた)、

  前線地域には日本人女性はいなかった。

       以下省略