はじめに

この原稿は1997年に書いたものを基本にして、大幅に加筆しました。

 

731部隊を始めとしたいわゆる4つの細菌部隊の目的は

捕虜を使った実験だけをしていただけではありません。

実はこれらの残虐行為はそれ自体が目的ではなく,

細菌の毒力強化や,効果判定や,大量生産のシステムを

作り上げるための研究として行なわれていたのです。

そして本当の目的は実際の戦争で細菌戦を実行する事でした。

もともと日本の軍事医学は非常に優れていました。

昔から世界のどの戦争でも、実際の戦闘で死ぬ人よりも

伝染病その他の病気で死ぬ人の方が多かったそうです。

ところが日露戦争では日本軍の病死者が少ない事が

世界の驚異となりました。

しかも日本軍はとても人道的で,

多くのロシア人捕虜の病気や怪我を治療して

送り返した事が欧米諸国から賞賛されたと言う

エピソ-ドが残っている位です。

 

しかし石井四郎率いる731部隊が登場してから

戦争医学は人命を救う事から,

戦争の手段つまり細菌攻撃をする目的に

180度変ってしまったのです。

資源の乏しい日本が大国であるソビエトや

アメリカと戦争するためには

最も安上がりな生物兵器が必要だと言う

石井四郎の意見が通ったせいです。

 

●  関東軍司令官 山田乙三大将 ハバロフスク公判供述

 ・・・・731部隊は、主としてソビエト同盟

 並びに蒙古人民共和国及び中国に対する細菌戦の

 準備を目的として編成されたものである

 

●  元 731部隊隊員 軍属 篠塚良雄 証言

 生体解剖ともなれば,確かに医者たちは

 自分の研究や野心を満足させるので喜々としてやる。

 植付けた細菌がどの部位でどのような

 変化を与えているか大変興味をもって調べる。

 しかしそれは731部隊の目的からすれば2次的なことだ。

 本来は,そこで細菌の毒力がどれだけ強化されたかを調べ,

 より強力な細菌をとり出すということだ。

 したがって生体実験というものは、

 細菌の毒力、感染力の強化実験と言ってもよい。

 生体解剖が必要なのは、死後の雑菌によって

 植付けた菌の毒力が低下しないためだ。

 

●  大阪大学名誉教授 中川米蔵   1994年証言

 私は昭和20年に京都帝国大学に入学した時、

 731部隊幹部である軍医の話を聞きました。

 「医学と言うのは,病気を治したり,

 ケガを治したりするものではない。

 日本は世界を相手に戦っている。

 医学もまた兵器だ

 

そして細菌戦はその通り実行されました。

1938年に日本軍機による細菌爆弾の投下や井戸への

コレラ・チフス菌の投下などの記録がありますが、

裏づけの証拠や資料が不足しています。

 

確実なのは1939年のノモンハン事件からです。

 

●  証言 西俊英軍医中佐 731部隊教育部長  

 (1949年12月26日、ハバロフスク裁判公判記録から)

注:検事の質問は短くして、答えを中心に書きます

 ◎ハルハ河方面事件の際、石井部隊が

  細菌兵器を実用したことを知っています。

  1944年7月、私は孫呉の支部から平房駅の

  第731部隊教育部長に転任せしめられました。

  私は前任者園田中佐から事務を引き継ぎました。

  同日、園田中佐は日本に向けて出発しました。

  私は彼の書類箱を開け、ノモンハン事件、

  すなわちハルハ河畔の事件で、

  細菌兵器を使用したことについて書類を発見しました。

  そこには当時の写真の原版、

  この作戦に参加した決死隊の名簿、

  碇少佐の命令がありました。

  決死隊は将校が2人、下士官、兵役20名からなっていました。

  この名簿の下には血で認めた署名があったのを記憶しています。

 ◎(誰の署名か?)

  隊長碇の署名です。

  ついで碇の一連の詳細な命令、

  すなわち如何に自動車に分乗し、

  如何にガソリン瓶を利用するか等、

  さらに帰還するかについての指示が若干ありました。

  これら2つの文書から20人乃至30人からなる決死隊が河-

  私はハルハ河と思いますが-を

  汚染したことが明らかになりました。

  翌日私は、これ等の書類を碇少佐に手渡しました。

  私がこれ等の書類を碇に手渡した時、

  さてこの結果はどうであったのかと興味を持ちました。

  碇は黙ったまま書類を引取りました。

  この作戦が行われた事実は争う余地がありませんが、

  その結果に就いては、私は何も知りません。

 

●  証言 元731部隊少年隊 千葉和雄、鶴田兼敏、石橋直方

 1989年8月24日 朝日新聞  (要約)

 「ノモンハン事件の戦場に川に、

 私たちの手で大量の腸チフス菌を流した」

 ホルステン川の上流から病原菌を流し、

 下流のソ連軍に感染させる目的で,

 ハルビン平房から軽爆撃機で輸送されて来た

 18リットルの石油缶22~3個に入った

 寒天状の腸チフス菌を川にぶちまけた。

 その際隊員の中に感染者が出て、

 死亡したものもあった。

 腸チフス菌を川に投入すれば流されて

 すぐにも効力がなくなることぐらいは

 石井らも知らないはずはない。

 あの作戦は細菌戦というよりも、私らの士気を高め、

 能力がどのくらいあるのかを調べる訓練のように思う。

 

その後中国各地で細菌戦を行ない,

最後には東南アジア、オ-ストラリア、

アメリカまでが目標になってきます。

しかし戦後の東京裁判では

日本は731部隊の事は免責され、

存在すら認めていなかったのですから、

細菌戦も当然無かった事とされてきました。

ところが最近になって細菌戦の実体が

少しづつ明らかになってきました。

 

まず1994年10月浙江省崇山村の農民たちが

損害賠償を求める文書を日本大使館に

提出しましたが、日本政府は無視しました。

この動きがきっかけになって,

1997年8月11日にはその細菌戦で被害をこうむったとして

108人余りの内、代表で4人の中国人が来日し

日本政府を訴えました。

原告の108人は浙江省,湖南省の6ケ所の地域の人達です。

今回述べる細菌戦は主として

満州の731部隊と南京の栄1644部隊との

合同で行なわれたものです。

細菌戦による被害は1940年から出ていますが,

米軍による空襲が始った1942年4月からは、

その米軍基地が浙江省にあると判断した大本営は

支那派遣軍に対し同省附近の掃討戦を命令し

浙かん作戦と称され、その一環として

細菌戦が強化されたのです。