バタビア裁判

2014年3月、関東学院大学の林博史教授が新しい資料を発見し発表しました。

資料を見つけた所は国立公文書館です。

オランダ軍によるBC級裁判でスマラン裁判に関連する裁判です。

本来は慰安婦関係の裁判ではありませんでした。

しかし被告のインドネシアのバリ島に駐屯していた

元海軍兵曹長が、1962年の日本の法務省調査で行った供述を見ると

裁判内容とは別に慰安婦に関係している供述があります。

日本に帰ってきてからの供述ですから安心して本当のことをしゃべったのかもしれません。

季刊戦争責任資料第82号の林博史論文を要約します。

まさに組織的な隠蔽工作をしてうまくいったとする証拠資料です。

 

●現地臨時軍法会議付託決定書による被告の概略

 チビナン刑務所に拘禁中

 福岡県福岡市■■■■生まれ

 1908年8月25日出生

 当年38歳

 日本海軍二等兵曹

●現地での裁判記録

 暴行恐喝で慰安婦問題ではないため省略

●判決 懲役12年

 内容要約

 1947年8月、オランダ軍がバタビア(ジャカルタ)で

 開いた軍法会議で懲役12年だった

 罪に問われた10件は住民への暴行

 一番恐れたのは慰安所問題の発覚だった

 

「被告の帰国後の供述」

●名称 蘭・バタビア法廷事件第25号

三警事件資料

大阪、神戸地方出張調査報告書N0.47

●日時 昭和37年8月8日(水)14時から15時30分まで

●本人供述

 4.事件の真相

私は、終戦前から、この事件のあるを予期したので、

終戦直後の約3ケ月位、

気懸かりになった事件の揉み消し策に全力をつくした。

戦中に使っていた腕利きの現住民スパイ約800人を

終戦とともに蘭軍側に協力させた。

・・・・私の一番恐れていた事件は、慰安所事件であった。

これは慰安婦の中には、

スラバヤから蘭軍(オランダ軍)下士官の妻君5人の外、

現地人70人位をバリ島に連れてきた件である。

下士官の妻君5人は、終戦後直ちに送り返したが、

スラバヤ着と同時に現住民に殺されたとのことであった。

この外にも、戦中の前後約4ケ年間に200人位の婦女を慰安婦として

奥山部隊の命によりバリ島に連れ込んだ。

私は終戦後、軍需部、施設部に強硬談判して、

約70万円を本件の工作資として貰い受け

各村長を介して住民の懐柔工作に使った。

これが完全に効を奏したと見え、

一番心配した慰安婦の県は一件も出なかった。

      以下省略

 

●尋問調書にみる証言

1. ◇◇◇◇ 47歳 商人 デンパサ-ル在住

 1941年に(1942年か?)私は日本軍から、

 日本軍兵士のための慰安所を開くように強制されました。

 この種の仕事は私の宗教上禁止されていたので、

 拒否しましたが、無駄でした。

 私自身がこの家に泊まらせた女性たちは自分たちの自由な意思で来ました。

 彼女たちは職業的な売春婦で、全部で約17人でした。

 それからちょうど一年後、7月頃にめてA(被告のこと)によって

 強制されて女性たちが慰安所に連れて来られました。

 彼女たちが強制されていたということは、

 彼女たちが、車から降りて慰安所に入るときに

 泣いていたという事実から明らかでした。

 彼女たちは10人でした。

 彼女たちはAによって1人ずつ車から引きずり出されたので、

 服は引き裂かれていたほどでした。

 それ以降、彼女たちはこの家を離れることを許されず、

 おおむね監禁状態に置かれていました。

     中略

 ・・・・最後に、私は日本人のAからの命令を受け、

 Aが慰安所を監督し、管理していたというこができます。

2.  ◇◇◇◇ 20歳 店員 デンパサ-ル在住

 1942年ごろ、正確な日付は忘れましたが、

 悪名高い日本人Aが私の店にやってきて、

 慰安所に行くように命令しました。

 私が断ると、Aは私の顔を平手で20回くらい殴りました。

 そのため私は口からひどく出血しました。

 数分間、彼は立て続けに私に暴行を加えたので、私は意識を失いました。・・・・

 数日後、Aが私の家に来て、私に警察署に出頭するように命じました。

 警察署でまたAは私に慰安所に行くように命令しました。

 また私は拒否しました。

 するとAは、もし私が拒否し続けると、

 商売を続けることはもはや許されなくなると答えました。

 しかし、私は拒否し続けました。

 そして私は恐かったので、ク-リ-(肉体労働者)として働き始めました。