南京事件

日本軍の給養不足と略奪
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最終更新日:2018/02/24 10:52

上海戦の拡大は日本軍の準備不足のまま増兵したので、補給の為の編成装備が不十分でした。

食料や日常品の給養(補給)を徴発(略奪)に頼ることが多かったのです。

特に南京に進撃を開始してからは、第一線部隊の進撃が早すぎたために補給が追いつかず、

略奪が増えてきました。

そして略奪のついでや抵抗を受けたため、という理由で虐殺、放火、強姦につながったとも言えます。

◎永井仁左右 回想録 野戦重砲兵第15連隊

・・・・鉄帽は5分の1位しか支給されず、それも英兵の様な型で変なものであった。

服は暑い盛りに冬服を着せられた。(補給できぬ為)

予防接種も間に合わず乗船してからもした。

輸送船は齢30年の老貨物船で、押し込められた船倉は蚕棚のように段々に仕切られ、

やっと座っても頭がぶつかるくらいで、手足も伸ばせず、

用便から戻っても、入るのに苦労する始末で、

同船の迫撃砲隊の馬が上段の方で、空気は白布1m位の丸筒の通風筒で下の方に導入されていた。

◎第10軍の軍参謀長の注意事項 (昭和12年陸支密大日記から)

・・・・現地物資の利用を徹底的にせられたし・・・・

上海戦の例に徴するに、家屋天井裏に相当数量の糧食隠匿せられありたり、

現地物資の利用上着意の要あり

注:第10軍では掠奪を積極的に奨励したのです。

◎第16師団、12月1日の状況報告 (原文カナ)

師団上陸以降の給養は主として現地物資により

調味品及副食等の一部は追走を仰ぎ足るも

幸に江蘇省特産の米を各地にて得らるる為比較的良好なる給養を実施せり

◎同上16師団、12月24日の状況報告

今次作戦間、兵馬の給養は現地物資をもってこれに充ちるの主義を採り、

もって迅速なる起動に応ぜんと企図せしが、

幸いに富裕なる資源により、おおむね良好なる給養を実施しえたり

◎第6師団、戦時旬報第15号の所見 「補給 給養 地方物資」より (原文カナ)

今次作戦間の後方補給不可能の為、

湖東会戦に於いては携帯糧秣4日分を以って10日間、

崑山転進より南京攻略迄は崑山、松江及嘉善に於いて補給を受けしのみ(大行李到着せず)にして

殆ど1ケ月の戦闘行動をなせり。

この間主として地方物資の徴発により給養せりといえども、

嘉興より秣陵関に至る間は師団重複せし為第二線兵団となりし

師団は地方物資の徴発困難となり、師団の給養は著しく粗悪となれり

注:黄色線の部分 大行李とは連隊や大隊で食料を運ぶ部隊

注:軍隊では民間の事を地方と言う。民間からの略奪の事

注:第一線部隊が略奪し尽くしたため後続(二線)部隊は略奪が出来なかった

◎第114師団、参謀部調整「湖州武康長興附近兵要地誌概説」の宿営給養から (原文カナ)

水濠地帯は人口稠密物資豊富なるを以て宿営力充分にして

給養もまた現地物資によりおおむね之を充足得べきも、

西南山嶽地帯は人口希薄にして物資に菟集し得べきものなく

又自動車道沿線約1キロの間は兵火を蒙り廃墟と化せるもの多く大部隊と言えども宿営給養を期待し得ず

◎松井石根司令官 日記 1937年12月26日

南京において各国大使館の自動車その他を、我が軍兵卒掠奪せし事件あり、

軍隊の無知乱暴驚くに耐えたり。

せっかく皇軍の声価をかかることにて破壊するは、残念しごく

中山参謀を南京に派遣して急遽善後策を講ずるとともに、

当事者の処罰はもちろん、責任者を処分すべく命令す。

とくに上海派遣軍は、殿下の統率せらるるもの、

その御徳に関する儀にもあり、厳重に処分かた取り計らうつもりなり        

注:上海派遣軍の司令官は朝香宮鳩彦王で平成天皇の大叔父にあたる。

◎稲田正純中佐(後中将)の回想録  稲田回想録から  (原文カナ)

上海戦は不明確なる作戦目的に因する不用意なる作戦準備と、

不十分なる兵力の逐次投入とにより、予想外に困難なる戦局を現出し、

爾後の戦争指導に重大なる禍因を与えたる作戦なり・・・・

徒に将兵を困憊せしめてその心理を悪化し、第一線の対支態度をして感情的に硬化せしめ、

国策の遂行上軽く進退を決せしむるの要大なる政略的出兵に報復的不純なる意図を介在せしむることとなり、

戦闘の実行にも又聖戦の清純を混濁せしむるものあり。

南京攻略後の混乱の如きその端をを此に発するものと認めざるべからず

◎中島今朝吾 第16師団長日記

「戦勝後のかっぱらい心理」

予は15日入城後残物を集めて一つの戸棚に入れ、封印してあったが駄目である。

翌々日入ってみれば、その内のこれはと思うたものは皆無くなっておる。

金庫の中でも入れねば駄目ということになる。

日本人は物好きである。

国民政府というのでわざわざ見物に来る。

ただ見物だけなら可なるも、何か目につけば、ただちにかっぱらって行く。

兵卒の監督ぐらいでは何もならぬ、堂々たる将校様の盗人だから真に驚いたことである。

中央飯店内に古器物の展覧会跡あり、相当なものがあってこれを監視したが、やはりやられた。

最も悪質なのは貨幣略奪である。

中央銀行の貨幣を目がけ、いたるところの銀行の金庫破り専門のものがある。

そしてそれはドルに対して中央銀行のものが日本紙幣より高価なるがゆえに、

上海に送りて日本紙幣に交換する

この仲介業者は新聞記者と自動車の運転手に多い。・・・・

第9師団と内山旅団にこの疾病が流行して、張本人中には、輜重特務兵が多い。

そして金が出来たため、逃亡するものが続出するということになる。

内山旅団の兵隊で4口、計3,000円送金したもの、その他300・400・500円宛送りたるものは4~50名もある。

誠に不吉なことである。

注:中島師団長自身略奪がとても好きで、司令官から注意を受けています。

  それに対して開き直った発言を日記に書いています。

●1938年1月23日  日記(原文カナ)

家具の問題も伺ったが、ケチケチしたことを愚図愚図言いおれば、

国を取り、人命を取るのに家具くらいを師団が持ち帰る位が何やあらん。

これを残して置きたりとて何人が喜ぶものあらんと突きはねて置きたり

 

 

 

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