極東国際軍事裁判 1

東京裁判(極東国際軍事裁判)は1946年5月3日に始まりました。

約半年前に始まっていたドイツを裁く「ニュ-ルンベルグ」の国際裁判をモデルにして連合諸国が開きました。

ニュ-ルンベルグの時は連合国の大国4ケ国(英・仏・ソ・米)でしたが、

東京裁判は対日戦に参加した11ケ国で構成されました。

追加でビルマとインドネシアからも検察補佐官が派遣されましたから、

実質13ケ国の国際検察局が日本を起訴したことになります。

●ニュ-ルンベルグの裁判は指導的役割を果たしたイギリス・フランス・ソ連・アメリカの4カ国が裁判を構成した

●東京裁判では対日戦に参加した11カ国で検察局が構成された。    

イギリス・中国・ソ連・アメリカ・オーストラリア・カナダ・ニュ-ジ-ランド・フランス

オランダ・インド・フィリピン

裁判官は同じく11ケ国から指名され、オ-ストラリアのウイリアム・ウエップが裁判長となりました。

東条英機を始め25名(当初28名でしたが死亡等で減りました)が国際検察局から起訴されました。

起訴された25名  

東条英機  武藤章  板垣征四郎  松井石根  木村兵太郎  土肥原賢二  広田弘毅  

岡敬純  南次郎  畑俊六  橋本欣五郎  佐藤賢了  嶋田繁太郎  荒木貞夫  大島浩  

星野直樹  鈴木貞一  木戸幸一  梅津美治郎  小磯国昭  平沼騏一郎  賀屋興宣  

東郷茂徳  重光葵  白鳥敏夫

●被告中、松岡洋右と永野修身は公判中に死亡、大川周明は精神異常として除外された。

 

裁判は1946年5月3日に検察側の立証から始まり、翌年2月に日米合同の弁護団の弁護が始まりました。

判決は1948年11月に下されました

判決は8対3でしたが、司法慣例で多数意見が判決書となりました。

今回のテ-マの中国、南京関係では埋葬記録を始め膨大な調査資料や証言が裁判に提出されました。

国際検察局は、捕虜虐待・虐殺・強姦・不当な処刑・略奪・放火・・・・等

膨大な書証や証人を提出する方針をとりました。

その中で多くの南京事件の証拠が公になっています。

南京事件は当時世界的に知れ渡った事件で、

東南アジアでの日本軍の行為よりも南京の方の証拠が豊富に揃っていてやり易い裁判でした。

東京裁判での証人は時間節約のため40人に限定されていましたが、

国際検索局は南京事件を重要視していたので、10人が南京事件の為だけに召還されました。

証拠書類としては外国人居留者らによる文書、欧米諸国の在中外交筋報告書、

南京在住の一般市民被害者・目撃者による宣誓供述書など多くが提出されました。

現場の証言者として、ロバ-ト・ウイルソン、マイナ-・ベイツ、ジョン・マギ-、

許伝音ら国際安全区の委員たちや被害者が法廷で証言及び文書で提出しました。

●許伝音の宣誓口供書       

・・・・日本兵が安全区に入って来て、中国人市民を縛り、

10人あるいは15人の一団に固めて連れ去るのを目撃しました。

情報では翌朝機関銃で殺し、池に投げ込んだと言っていました・・・・    

●フィッチの口供書       

・・・・平服を着た約1300人の中国人が捕らえられ、100名の集団別に整列させられ、

隊長に抗議したのにもかかわらず、銃殺されるために連れて行かれた

●黄俊郷(生き残った被害者)の口供書   

・・・・1937年11月(太陰暦で)9日、日本軍は光華門近くの城壁を破って侵入し、避難民地区に迫りました。

それから2日後、日本軍が家宅捜査を開始しました。

地上各所に遺棄せられた武器を見て、彼らは多くの軍人が避難民区に潜伏しているに違いないと推断しました。

そこで彼らは国際道義を無視して殺戮を開始したのであります。

18歳から40歳までの人々は一切国民軍と看做されて捕らわれました。

最初の日に捕らわれた者の数は2,000を超しましたが、私もその中の一人だったのであります。

捕らわれた人は四列縦隊となり、

避難民地区より揚子江の堤に沿った各所(宝塔橋・四所村・老江口・草鞋峡・燕子磯一帯)に

行進させられましたが、その行進は長さにして一里にも及びました。

夜に入って日本軍はこれを殆ど殺戮しました。

まず検察側が立証した事実は次の2点に要約されます。

検察側主張

1.南京占領直後中国側の軍事抵抗がすでに終わっていたにもかかわらず、 

 日本軍は虐殺・強姦・略奪・放火・その他の非人道的行為を

 非武装化していた中国人戦闘員や南京市民に対して大規模に犯したという事実、

 そして、そうした残虐行為を少なくとも南京陥落後6週間、大規模に間断なく続けられた事実。

 特に検察側は日本兵が南京国際安全区に避難していた人々に対しても残虐行為を行ったことを申し立てた。

2.自国軍による一連の大規模な残虐行為について、

 日本の中央政府高級官僚や軍部指導者が事件当初から

 外交筋、報道関係から詳細な情報を受けていた事が、検察局によって明らかにされた。

 被告の内、司令官松井石根、参謀副長武藤章、外務大臣広田弘毅が状況報告を受けていた事を証明した。

弁護団はどのように対処したのでしょうか?

弁護側(日米合同弁護団・特にアメリカの弁護団は優秀だった)は検察側の圧倒的な証拠に、

形だけの反論をするだけで結局事実を認めざるを得ませんでした。

あの手この手と反論しても後から後から追加証拠が出てくる始末だったのです。

特にアメリカの弁護人ブルックス大尉は

最後に「この証人は公平を務めています」として反対尋問を終了したほどです。

日本側弁護人 

菅原裕 回想録「東京裁判の正体」から意訳(陸軍大臣荒木貞夫の主任弁護人)

われわれ日本人弁護団も、最初は全然彼等の悪宣伝で、

中国軍が退却に際し常套手段として行う残虐行為を日本軍に転嫁しているのだと、

冷笑しながら聴いていたが、審理の進むにつれて、多少その考えを修正しなければならなくなった。

もちろん彼らの主張する十中八九は虚偽と見るべきであろう。

しかし1~2割は実際にあったのではないかと、残念ながら、疑わざるをえなくなった

これは日清、日露の両役では断じてきかれなかったことであって、

日本民族としては、敗戦にもまして、悲しい事実の是認であった・・・・

滝川政次郎弁護人 回想録「東京裁判をさばく」から意訳(海軍大臣島田繁太郎の補佐弁護人)

・・・・多少の誇張があるにしても、南京占領後における日本軍の南京市民に加えた暴行が

相当ひどいものであったことは、覆い難き事実である。・・・・

当時私は北京に住んでいたが、南京虐殺の噂があまり高いので、昭和13年の夏、

津浦線を通って南京に旅行した。

南京市外の民家が概ね焼けているので、私は日本軍の爆撃によって焼かれたものと考え、

空爆の威力に驚いていたが、よく訊いてみると、

それらの民家は、いずれも南京陥落後、日本兵の放火によって焼かれたものであった。

南京市民の日本人に対する恐怖の念は、半年を経た当時においても尚冷めやらず、

南京の婦女子は私がやさしく話しかけても返事もせずに逃げかくれした。

私を乗せて走る洋車夫が私に語ったところによると、

現在南京市内にいる姑娘で日本兵の暴行を受けなかった者はひとりもいないという。