沖縄戦

集団自決
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最終更新日:2014/05/30 14:40

日本軍は徹底して住民に米軍に対する恐怖心を植え付けました。

アメリカ人はツノが生えていて鬼だ、捕まると虐殺され、女は暴行され、子どもは食べられる・・・・等です。

 

沖縄は移民が多く外国暮らしの経験者が多かったためその嘘は見破られました。

そこで日本軍はその嘘がばれるのを恐れて、外国帰りの人や沖縄語を話しただけでもスパイとして処刑したのです。

そこに集団自決の原因の一つがあるようです。

 

「慶良間諸島」

  以前より梅沢隊長から「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、

老人子どもは忠魂碑前に集合、全員自決せよ・・・」という通達がなされていました。

自決用の手榴弾も防衛隊を通じて配られていました。

3月26日、米軍が上陸した時、逃げ場を失った人々は、

山中で或いは家庭壕で、家族親類ぐるみで自殺を決行しました。

手榴弾のないものはカミソリ、鎌、包丁などで互いに刺し合い絶命しました。

一本のロ-プの端を木に縛りつけ、20人の首に順に巻きつけて絞め殺した人は放心して米軍に保護されました。

          犠牲者は171人(沖縄県史では358人)と言われます。

 

「渡嘉敷島」

  赤松隊長命令で集結した住民は日米両軍に挟まれて一斉自決をしました。

家族ごとに手榴弾が配られたが、不発が多く、棍棒や鍬などで頭を割って自殺しました。

          犠牲者 329人(内 婦女子224名)

* 証言

1 1945年3月20日 赤松隊から伝令で部落の住民を役場前に集めるように命令された。

  17歳未満の少年と役場職員を役場の前に集めた。

2 兵器軍曹が手榴弾を2箱持って来て、20数名に2個ずつ配り、訓示をした。

  訓示 「・・・・1発は敵に投げ、・・・・残りの1発で自決せよ」

村役場から離れていた阿真集落では「捕虜になれば腹一杯食事が食べられる」との情報を信じて、

米軍に保護され自決は行なわれませんでした。

 

「慶留間島」

  男たちは防衛隊にとられ、女と子どもと老人の島でした。

敵が上陸したら竹槍で戦い最後は自決する命令を受けていた。

3月26日米軍上陸と同時に自決が始まった。

子どもは親が手にかけ、ネコイラズを呑み、首をつり、或いは炎に飛込んで自殺しました。

わずか1時間で人口100人の半数が死亡しました。

    犠牲者  53人

 

「読谷」

  米軍上陸地点のすぐそば、読谷村波平の住民約1,500人は周辺に点在するガマ(洞窟)に避難していました。

その中の大きな事件です。

* チビチリガマ

141名が避難していました。

4月1日米軍がやって来ると、13歳以上の住民が竹槍で攻撃を仕掛け機関銃でやられてしまいました。

通訳が「殺しはしないから、ここを出なさい」と呼びかけましたが、

アメリカ人に恐怖感を持っていた住民は洞窟の奥に逃げ込んでしまいました。

洞窟の入口は警防団が固め、中国戦線帰りの在郷軍人は「米軍は捕虜にひどい事をする。

だから自分で死んだ方がよい」と言い、元従軍看護婦は「軍人は本当に残虐な殺し方をするよ。

うちは中国でさんざん見ているから良く知っているよ」と言って自決を強要しました。

そして住民は衣類や草木を燃やして一酸化炭素中毒で自殺をはかり、

刃物で家族ぐるみが刺し合い、毒薬の注射をしました。

               犠牲者 83名 (内 15歳以下が46名)

1キロメ-トルほど離れたシムグガマには役1,000人の同じ部落の人が避難していましたが、

自決は行なわれませんでした。

ここでは日本軍人や防衛隊はいなくて、ハワイ移民帰りの英語が話せる2人の男性がリ-ダ-をしていました。

アメリカにいた経験から彼らは日本軍のデマを信用せず、むしろ日本軍に恐怖感を持っていました。

2人はすぐに米軍指揮官と交渉し、米軍はすぐに撤退し、避難民は全員保護されたのです。

このような例は沢山あります。

 

つまり避難した壕に日本軍がいた所は集団自決となり、いなかった所は助かっているのです。

自決と言われる行為が自主的ではなく、実は半ば強制だったこのとの証拠です。

 

沖縄では海外移民が多く、戦争前までの累計は72,000人になり、全国の移民中11%を占めていました。

そのため海外、特にアメリカの文化に接し、英語を話せる人が沢山いたわけです。

ですから日本軍人さえいなければ防げた悲劇がかなりあったはずです。

 

「伊江島」

  前線から逃げてきた防衛隊員が住民に合流し急造爆雷で自決しました。

犠牲者ははっきりしませんが、100人以上といわれています。

 

「米須の洞窟(カミント-)」

* 大屋初子さんの証言

6月になって避難していたアガリガマ(洞窟の名前)に兵隊が来て

「ここは友軍の陣地になるから民間人は立ち退く事」と追い出された。

自分の家の墓を開けて隠れたが、そこにも兵隊が来て追い出された。

最後はカミント-の地下洞窟に部落の人があちこちから集まった。

6月22日、日本軍が実質的に解散したため、徴用されていた防衛隊員がカミント-洞窟に帰ってきた。

防衛隊員は手榴弾を2個ずつ持っていた。

1個は敵に投げるもので、1個は自決用です。防衛隊の人が「みんな一緒に自決しよう」と言った。

手榴弾が配られて、家族ごとに固まった。そのうち爆発音がおこった。

続いてあっちでもこっちでも手榴弾の音がバンバン聞こえてきた。

真っ暗な洞窟で、うめき声や泣き声がビンビン響いていた。

死ぬのが怖くなってお父さんお母さん妹と外へ飛び出した。

翌日、道端に枕木を並べたように無数の死体がごろごろしていたが、それを見ても何も感じなくなっていた。

* 沖縄国際大学 石原ゼミの調査

          米須部落の当時の人口  213世帯  1,034人

          戦死者   574人

          死亡率   55.5%

          一家全滅  62世帯

注:集団自決で何人死んだか不明です。

  しかし一家全滅が多いことを考えると、家族ぐるみの自決が多かったと思われます。

 

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