集団自決

日本軍は徹底して住民に

米軍に対する恐怖心を植え付けました。

アメリカ人はツノが生えていて鬼だ、

捕まると虐殺され、女は暴行され、

子どもは食べられる・・・・等です。

 

沖縄は移民が多く外国暮らしの経験者が

多かったためその嘘は見破られました。

そこで日本軍はその嘘がばれるのを恐れて、

外国帰りの人や沖縄語を話しただけでも

スパイとして処刑したのです。

そこに集団自決の原因の一つがあるようです。

 

「慶良間諸島」

以前より梅沢隊長から

「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、

老人子どもは忠魂碑前に集合、

全員自決せよ・・・」という通達がなされていました。

自決用の手榴弾も防衛隊を通じて配られていました。

3月26日、米軍が上陸した時、

逃げ場を失った人々は、山中で或いは家庭壕で、

家族親類ぐるみで自殺を決行しました。

手榴弾のないものはカミソリ、鎌、包丁などで

互いに刺し合い絶命しました。

一本のロ-プの端を木に縛りつけ、

20人の首に順に巻きつけて絞め殺した人は

放心して米軍に保護されました。

犠牲者は171人(沖縄県史では358人)と言われます。

 

「渡嘉敷島」

赤松隊長命令で集結した住民は

日米両軍に挟まれて一斉自決をしました。

家族ごとに手榴弾が配られたが、

不発が多く、棍棒や鍬などで頭を割って自殺しました。

犠牲者 329人(内 婦女子224名)

●証言

 1.  1945年3月20日 

  赤松隊から伝令で部落の住民を

  役場前に集めるように命令された。

  17歳未満の少年と役場職員を役場の前に集めた。

 2. 兵器軍曹が手榴弾を2箱持って来て、

  20数名に2個ずつ配り、訓示をした。

  訓示 

   「・・・・1発は敵に投げ、・・・・残りの1発で自決せよ」

村役場から離れていた阿真集落では

「捕虜になれば腹一杯食事が食べられる」との情報を信じて、

米軍に保護され自決は行なわれませんでした。

 

「慶留間島」

男たちは防衛隊にとられ、

女と子どもと老人の島でした。

敵が上陸したら竹槍で戦い

最後は自決する命令を受けていた。

3月26日米軍上陸と同時に自決が始まった。

子どもは親が手にかけ、ネコイラズを呑み、

首をつり、或いは炎に飛込んで自殺しました。

わずか1時間で人口100人の半数が死亡しました。

犠牲者  53人

 

「読谷」

米軍上陸地点のすぐそば、

読谷村波平の住民約1,500人は

周辺に点在するガマ(洞窟)に避難していました。

その中の大きな事件です。

●チビチリガマ

 141名が避難していました。

 4月1日米軍がやって来ると、

 13歳以上の住民が竹槍で攻撃を仕掛け

 機関銃でやられてしまいました。

 通訳が「殺しはしないから、ここを出なさい」と

 呼びかけましたが、

 アメリカ人に恐怖感を持っていた住民は

 洞窟の奥に逃げ込んでしまいました。

 洞窟の入口は警防団が固め、

 中国戦線帰りの在郷軍人は「米軍は捕虜にひどい事をする。

 だから自分で死んだ方がよい」と言い、

 元従軍看護婦は「軍人は本当に残虐な殺し方をするよ。

 うちは中国でさんざん見ているから良く知っているよ」

 と言って自決を強要しました。

 そして住民は衣類や草木を燃やして

 一酸化炭素中毒で自殺をはかり、

 刃物で家族ぐるみが刺し合い、毒薬の注射をしました。

 犠牲者 83名 (内 15歳以下が46名)

 

1キロメ-トルほど離れたシムグガマには

約1,000人の同じ部落の人が避難していましたが、

自決は行なわれませんでした。

ここでは日本軍人や防衛隊はいなくて、

ハワイ移民帰りの英語が話せる2人の男性が

リ-ダ-をしていました。

アメリカにいた経験から

彼らは日本軍のデマを信用せず、

むしろ日本軍に恐怖感を持っていました。

2人はすぐに米軍指揮官と交渉し、

米軍はすぐに撤退し、

避難民は全員保護されたのです。

このような例は沢山あります。

 

つまり避難した壕に日本軍がいた所は集団自決となり、

いなかった所は助かっているのです。

自決と言われる行為が自主的ではなく、

実は半ば強制だったこのとの証拠です。

 

沖縄では海外移民が多く、

戦争前までの累計は72,000人になり、

全国の移民中11%を占めていました。

そのため海外、特にアメリカの文化に接し、

英語を話せる人が沢山いたわけです。

ですから日本軍人さえいなければ

防げた悲劇がかなりあったはずです。

 

「伊江島」

前線から逃げてきた防衛隊員が

住民に合流し急造爆雷で自決しました。

犠牲者ははっきりしませんが、

100人以上といわれています。

 

「米須の洞窟(カミント-)」

●大屋初子さんの証言

 6月になって避難していた

 アガリガマ(洞窟の名前)に兵隊が来て

 「ここは友軍の陣地になるから民間人は立ち退く事」と

 追い出された。

 自分の家の墓を開けて隠れたが、

 そこにも兵隊が来て追い出された。

 最後はカミント-の地下洞窟に

 部落の人があちこちから集まった。

 6月22日、日本軍が実質的に解散したため、

 徴用されていた防衛隊員がカミント-洞窟に帰ってきた。

 防衛隊員は手榴弾を2個ずつ持っていた。

 1個は敵に投げるもので、1個は自決用です。

 防衛隊の人が「みんな一緒に自決しよう」と言った。

 手榴弾が配られて、家族ごとに固まった。

 そのうち爆発音がおこった。

 続いてあっちでもこっちでも

 手榴弾の音がバンバン聞こえてきた。

 真っ暗な洞窟で、うめき声や泣き声がビンビン響いていた。

 死ぬのが怖くなって

 お父さんお母さん妹と外へ飛び出した。

 翌日、道端に枕木を並べたように

 無数の死体がごろごろしていたが、

 それを見ても何も感じなくなっていた。

●沖縄国際大学 石原ゼミの調査

  米須部落の当時の人口  213世帯  1,034人

  戦死者   574人

  死亡率   55.5%

  一家全滅  62世帯

  注:集団自決で何人死んだか不明です。

    しかし一家全滅が多いことを考えると、

    家族ぐるみの自決が多かったと思われます。