三光作戦

三光作戦の時期
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最終更新日:2014/04/19 11:23

三光作戦は1940年後半から始まり、41年から本格化し、41~43年頃ピ-クをむかえています。

1938年、武漢や広東への攻略戦が終わると、日本軍はこれ以上戦線を拡大しないようにし、

長期持久戦に移行することを決めました。

そして北支那方面軍に対し黄河の東部分(河北省、山東省、山西省・・・・)を

治安区域として確保する命令を出しました。

* 1938年12月2日  大陸命241  (注:大陸命は天皇の直接命令)

それにもとづき北支那方面軍は1939年4月「治安粛清要綱」を発令し

徹底的に治安地区の粛清に乗り出すことになりました。

しかしそのころはまだ共産軍を侮っていて国民政府軍や地方軍閥を対象にしていました。

ところが1940年に八路軍の百団作戦(100個連隊と言う意味です)と言われる総攻撃を受けました。

予想もしていない奇襲攻撃で日本軍は大きな損害を蒙りました。

百団作戦は1940年8月20日からの第1次攻勢と9月22日からの第2次攻勢があり、

日本軍の警備隊、鉄道、通信施設に対する奇襲攻撃でした。

共産軍と民衆の攻撃を受けた日本軍は反撃を開始し、これからがいわゆる三光作戦と呼ばれる時期に入るのです。

1941年1月に北支那方面軍は兵団長会議を開き、

軍司令官多田駿中将は「軍の努力を共産軍に集中するよう」と訓示しています。

1941年7月に北支那方面軍は「粛清計画3ケ年計画」を発表します。

三光作戦の本格化です。

 

 

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