三光作戦

河北省北坦村の虐殺と毒ガス
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最終更新日:2014/05/06 10:02

当時中国共産党が遊撃戦で日本に抵抗して地域は形の上では日本に制圧されていたが、

半農半兵の村民がほとんどで敵と味方の区別も出来ず、日本としての治安を保つことが困難でした。

特に多くの村では地下道を作って抵抗していました。

冀中(河北省中央)作戦は1942年5月1日から6月20日までの作戦でしたが、

北坦村の虐殺は作戦第3 期の5月27日に起きました。

参加した部隊は日本軍第110師団(師団長飯沼守中将)163連隊(連隊長上坂勝)大江大隊です。

* 大江大隊長の回想  歴史叢書 北支の治安戦 (2)原文カナ

当地区は中共側が平原地拠点のモデル地区と称していた所であり、

交通壕、地下壕の構築が進み、ほとんどの部落が地下施設を設け、

三ケ村訳7~8キロの間を地下壕で連接したところさえあった。

また部落民の抗日意識が強く、半農半兵の状態で、老幼婦女すら何らかの抗日団対を組織しており、

ために各隊の実施する粛清は極めて困難であった。

(5月27日日本軍は)・・・・大隊は払暁までに北坦村を完全に包囲した。・・・・

直ちに部落外囲の坑道及び部落内の坑道を捜索し、隣村に通ずる坑道は遮断した。

部落内の坑道、地下道には敵兵が充満しており、

頑固に抵抗するので手間取ったが、これをことごとく殲滅し多数の鹵獲品を得た。・・・・

敵は苦しまぎれに次々と穴の中から出てきた。・・・・本当の住民もいたであろう。

日本軍はこの時地下の入口に毒ガスを投入しました。

毒ガスは通称「あか」ジフェニ-ルシアンアルシンでした。

多くの人はガスで死にましたが、

地下から引きずり出された瀕死の赤ん坊や老人民兵は皆殺しされました。

女性は強姦されてから殺されました。

被害は800人とも1000人とも言われています。

* 日本軍第163連隊長 上坂勝の供述 1956年中国人民共和国最高人民法院軍事法廷にて

・・・・内容は全て事実である。

私がその虐殺を直接に命令した・・・・

私の命令により、この地域で人間の目玉をくり抜き、鼻をそぎ、耳をそいで殺した

* 1955年の5月14日の上坂勝の供述記録には

毒ガス兵器の赤筒と緑筒を傘下の大隊に配った

第一大隊はそれを使用した

毒ガスの使用は110師団の命令であった

 

 

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