尖閣諸島

調査と国有化断念
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最終更新日:2014/05/30 15:39

尖閣の国有化に関して、通説には1879年(明治12年)福岡の古賀辰四郎が那覇に移り住み

アホウ鳥の羽毛や海産物の採取事業を始め、

1884年(明治17年)頃に釣魚島(久場島)を発見し翌年に土地貸借を県庁に申請したとされています。

資料(ウィキペディア)によると明治17年に尖閣諸島のうち、

魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島を30年無料で借受け開拓事業をしたとされています。

しかし年代的に疑問が残ります。

恐らく単に上陸して海産物の仕事を多少しただけかもしれません。

注: 古賀辰四郎 1856年(安政3年)現在の福岡県八女市に生まれた。

1879年(明治12年)24歳で那覇に移り海産物問屋「古賀商店」を開業

実際に古賀から明治政府に「官有地拝借願」が出されたのは、明治28年のことなのです。

その件は後で詳しく書きます。

明治18年古賀は沖縄県に対し開拓の許可を申請しますが受理されずに、政府はまず調査を始めています。

そして政府・内務省と沖縄県の相談が進んでいきます。

その頃日本の船が尖閣周辺を動き回る事が多くなり中国の新聞が警戒の記事を載せています。

* 1885年9月6日付、「申報」の記事

台湾警信

台湾北東辺の島で、最近日本人が日章旗を掲げ、大いに島を占拠する勢いにあるという。

いかなる意見によるものかまだ詳らかではないが、ひとまずこれを記載して後聞を待つものとする。

注: 申報 正式には申江新報、1872年にイギリス人ア-ネスト・メジャ-が上海で創刊し

 1949年廃刊。

 かなりの影響力を持っていた新聞

 

1885年(明治18年)に沖縄県からの相談に対して内務省は尖閣諸島を領有する目的で

沖縄県令に調査を内命しました。

正式な命令ではなく、内命と言うところが少し引っかかるところです。

1885年(明治18年)9月21日沖縄県令(知事)は内命に対して次のように上申しました。

*第315号

久米赤島ほか2島調査の件につき報告します

本県と清国福州間に点在する無人島調査の件、先頃、

東京の森本本県大書記官へ御内命下さったので調査をしたところ、

概略別紙(不明)とおりです。

久米赤島、久場島及び魚釣島は、古来本県で呼んでいる名称で、

しかも本県所轄の久米、宮古、八重山等の群島に接近している無人島の島々につき

、沖縄県下に属するのであるので、敢えて問題はないに思われるが、

過日御報告した大東島(本県とと小笠原島の間にあり)とは地勢が違い、

中山傳信録に記載されている魚釣台、黄尾島、赤尾嶼と同一であるかもしれないとの疑問が残る。

果して同一であるときは、既に清国も琉球を訪問する使船の明細だけではなく、

それぞれ名称も付け、琉球航海の目標としてきたことはあきらかである。

よって今回の大東島同様、調査して直ちに国標をつけることはいかがなことかと懸念しています。

きたる10月中旬、両先島(宮古、八重山)へ向け出航した雇い汽船出雲丸の帰便をもって、

とりあえず実地調査、御報告をいたしたいと思います。

国標建設等の件は尚御指導を受けたく此段も合わせ申し上げます

明治18年9月22日

沖縄県令  西村捨三

内務卿伯爵 山県有朋殿

注:1 名称が違うので、違う島なら問題ないが、同じ島なら疑問が残る。

   2 同一の場合、今すぐに領土に組み込む事は如何なものか?

 

翌月の10月9日、山県有朋は井上馨外務卿に文書で意見を求めています。

* 「沖縄県と清国との間に散在する無人島の件に関し意見問い合わせの件」

附属書1 右の島々へ国標建設に関する太政大臣宛の上申案

附属書2 沖縄県令より山県内務卿宛上申書の写し

(官房甲第38号)無人島調査の件沖縄県令から上申がありましたが、

別紙乙号のように関係機関に相談したいのでご意見を伺いたいと存じます

明治18年10月9日   内務卿伯爵 山県有朋    外務卿伯爵 井上馨殿

別紙乙号

  太政大臣上申案

沖縄県と清国福州との間に散在する無人島久米赤島ほか2島の調査の件、

別紙の通り沖縄県令より報告(前記)がありました。

その島々は中山傳信録にある島々と同一かもしれないが、

単に航海の針路の目印なだけで、

別に清国所属の証拠とは思われない。

名称のごときは日本と清国の呼び方が違うだけである。

沖縄所轄の宮古、八重山等に接近している無人島であるから、

沖縄県において実地踏査のうえ国標を建てることは差し支えないと思われます。

至急御詮議ください。

注: 山県有朋は、「清国所属の証拠はないので、

 日本領土として国標を建設しても問題ないと思う」と主張しています。

 

山県有朋の問い合わせに対して井上馨は10月21日に下記のように返答しています。

* 「沖縄県と清国との間に散在する無人島への国標建設は延期すべき旨回答の件」

10月21日発遣

親展第38号

外務卿伯爵 井上 馨

内務卿伯爵  山県有朋殿

沖縄県と清国福州との間に点在する無人島、

久米赤島ほか2島、沖縄県にて実地踏査の上国標建設の件、

本月9日付甲第83号をもって御協議の事を熟考したところ、

右島々は清国との国境にも接近致している。

先に踏査を終わった大東島に比べれば、周囲も小さいし、ことに清国はその島名もすでに付けている。

近頃、清国新聞紙等にも、日本政府において台湾近くの清国所属の島嶼を占領する等の風説を掲載し、

我国に対し猜疑を抱き、しきりに清政府の注意を促してしるので、

この際すぐに公然と国標を建設するなどの処置をすると清国の疑惑を招きます。

とりあえず実地を踏査して、港湾の形状、土地物産開拓見込の有無を詳細報告させるだけにして、

国標や開拓等に着手するのは、後日の機会に譲るべきだと思います。

かつ先に調査した大東島のことも、今回調査の事も、

官報、新聞紙に掲載しないようにしたほうが良いと思います。

それぞれ後注意していただきますよう

右回答かたがた拙官の意見を申し上げます。

注: 政府の内務卿や太政大臣などは日本の領土としての国標を建てる事に熱心ですが、

 沖縄県や外務卿は清国の立場を考慮して慎重に考えている事がわかります。

 しかも井上は官報や新聞にも出さないで、

 調査だけして国標は次の機会にと主張しています。

 

その後11月5日に沖縄県令から以前の報告書にあった

「出雲丸の帰便をもって、とりあえず実地調査をして御報告をいたしたいと思います」の通り

その後の調査報告書が内務卿にありました。

* 「出雲丸報告書で熟考すると、最初はどこに属するかは決断しないで上申したが、

今回の復命及び報告書によれば、本県の所轄と決定したい」

 

11月24日には更に沖縄県令から内務卿へ国標建設に関する「伺い書」が上申されました。

* 「沖縄県下無人島の件に付、かねての命令どおり調査をいたしところ、

  国標建設の件はかってお伺いの通り清国との関係もないともいえず

  万一不都合を生じると困るのでどのようにしたらよいか至急御指導いただきたい。」

明治18年11月24日

沖縄県令 西村捨三

内務卿伯爵 山県有朋 殿

 

11月30日、沖縄県令からの報告書をどう扱うか山県有朋は井上馨に極秘の問い合わせをしています。

* 「無人島へ国標建設に関し沖縄県令への指令案協議の件」

附属書 沖縄県令より山県内務卿宛伺い写し(注: 前の伺い書の事です)

無人島への国標建設に関する件

秘第218号の2

別紙の通り無人島へ国標建設の件につき沖縄県令より伺いの内容ですが、

あらかじめご意見があった通り次の案にて指令をいたしますので署名捺印をしてご返送を願います。

明治18年11月30日

内務卿伯爵 山県有朋

外務卿伯爵 井上馨 殿

「指令案」

「書面にて伺い出た件、国標は目下建設しないと心得てください」

 

山県、井上のやり取りが続きますが、

12月4日井上馨から山県有朋に返事が出されています。

* 無人島へ国標建設に関し沖縄県令より伺い出に対する指令に関し返答の件

12月4日発遣

外務卿伯爵  井上馨

内務卿伯爵 山県有朋殿

「沖縄県下無人島へ国標建設する件、11月30日付の指令案通りで署名捺印して送付しました。」

注:建設しない事に同意した

 

翌日山県、井上連名で無人島へ国標建設をしないことが沖縄県令に通達されました

* 明治18年12月5日  内務・外務両卿

「書面伺いの件、目下国標建設は不必要と心得へるべし」

 

これらは全て1885年(明治18年)のやり取りです。

この時点で、明治政府は清国に気兼ねしてか或いは証拠不足なのか、

いずれにしても日本領土として国標を建設する事を断念しています。

その後も沖縄県知事からは領土編入への要請が何度か出されています。

* 1890年(明治23年)1月13日 沖縄県知事から内務大臣宛

* 1893年(明治26年)11月2日 沖縄県知事から内務・外務両大臣宛

沖縄県知事からの再三の要望に対して政府は回答をせず、領土としない方針は続きました。

* 1894年(明治27年)1月12日、「沖縄県政改革建議」が貴族院に出されました。

 

1894年(明治27年)春、朝鮮農民の暴動が始まり朝鮮政府は清国に援助を要請し、

チャンスをうかがっていた日本もどさくさ紛れに軍隊を派遣しました。

暴動が治まった後清国軍は撤退しましたが、日本軍はそのまま朝鮮に居座り7月23日朝鮮王宮を占領しました。

このことが日清戦争へとつながっていくのです。

* 1894年(明治27年)7月25日、日本海軍は黄海で清国の軍艦と輸送船を攻撃し日清戦争の火ぶたは切られました。

* 1894年(明治27年)8月1日、日清戦争「宣戦詔勅」が閣議決定されました。

日清戦争の勝利を確信できた12月に、明治政府は懸案事項だった尖閣諸島の国有化に着手します。

 

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