大東亜共栄圏

フィリピン
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最終更新日:2015/08/23 10:39

開戦直後からフィリピンでは第14軍(司令官本間雅晴中将)が、

南京虐殺のような事件が起こらないように注意しながら、

北から第48師団、南から第16師団と別々にマニラに入りました。

1942年1月2日です。翌日の3日には日本軍による軍政府の樹立を布告しました。

そして即日「軍律に関する件」が公布されました。

*軍律に関する件 (原文カナ) 昭和17年1月3日  第日本軍司令部

左記の行為を為したる者は軍律に照らし、死刑又は重罰に処す、

但し発覚前自主したる者はその罪を免除せらるべし

1     日本軍に対し反逆を為したる者

2     軍隊軍艦の嚮導(注:道案内)を為すに当り詐欺の指導を為したる者

3     軍事に関する機密を探知収集し又はこれを漏洩公布公示したる者

4     軍事に関し虚偽の陳述又は造言飛語を為したる者

5~11 省略

12 帝国軍人・軍属及びその他の軍従事者を殺傷し又はその職務執行を妨害したる者

13 軍用手票(注:軍票)を偽造しその受領を拒絶し・・・・その流通を妨害する行為したる者

14 軍律違反者を奪取・蔵匿し又は隠避せしめたる者

15 軍の発したる軍事上必要なる命令に服従せざる者

16 その他軍に対し有害の所為ありたる者

17 以上各号の行為を企図し又は教唆もしくは幇助したる者

日本軍はフィリピン占領後すぐに軍政を敷き、力ずくで治安を保とうとしました。

しかしアメリカ文化に慣れていたことや、アメリカから独立を約束されていたこともあり、

あまりにも強引で残酷な日本軍のやり方にかえって反発が起きゲリラが活発になってきました。

軍政府は皇民化教育も進めました。

* 1943年1月1日 英字紙「ザ・トリビュ-ン」ニッポン語学習欄      大日本比島派遣軍発表認可

題 アジア ノ ハハ ダイニッポン

文 セカイ ノ ドコニモ ナイ フルイ レキシヲモツ ニッポン。

  セカイジュウデ 一バン ヘイワ ヲ ネガフ ニッポン。

  タダシク シカモ ツヨイ ニッポン。

  ニッポン コソ セカイ ヘイワ ノ シドウシャ デアリ ダイトウア ノ ハハ デ アリマセウ

1944年になるとアメリカ軍の反撃に備えて日本軍は増強され、50万人を越える大部隊となりました。

1944年10月にはアメリカ軍はレイテ島、45年1月にはルソン島に上陸し、

沢山のフィリピンゲリラもアメリカ軍と協力して日本軍と戦いました。

 

「 虐殺事件 」

  アメリカから徐々に追い込まれていく日本軍は多くの住民虐殺事件を起こすようになりました。

* 攻撃部隊の作戦命令書       石田甚太郎氏が防衛研究所図書館で発見

(1999年12月9日朝日新聞)

婦女子の殺傷は努めて避くるも匪賊混淆せる場合において一部の犠牲者は止むを得ず・・・・

俘虜を一囲に集合せしめ情報班の調査後処理す・・・・

住民虐殺の例です

* 1945年2月、追い詰められた日本軍はバタンガス州リパでアメリカ軍に協力していると思われる男子を

   通行許可証を渡すという 理由で集め、10人ずつ銃剣で刺して崖から突き落としました。

   犠牲者は800人以上と言われていますが、戦後の裁判資料では

   リパ全体で12,000以上の虐殺があったとされています。

         注:この事件は山下司令官が作戦中止命令を出した後のことです

* マニラ 海軍部隊が住民を教会や学校に集めてダイナマイトや機関銃で虐殺しました。

   マニラの大虐殺といわれています。

* パナイ島 足手まといになる老人、子供、女性が数百人、手榴弾や機関銃で殺されました。

次の表はパナイ島の虐殺推定数です。すべて1943年の事です。

  石田甚太郎氏 1989年1~2月調査

市町村名

人数

イロイロ

不明

ハニワイ

不明

ギマラス

998人

バロタックビ-ホ

35人

レオン  ハーモック

     ブエノビスタ

86人

50人

アリモジャン(タバン)

約150人

パシイ(ロンガオ)

約100人

シャガオ

約100人

ロハス

不明

インビアン

約100人

マカトウ(テッピャワン)

10人

イバハイホ-プビル

27人

ホ-プビル

14人

バガ

92人

サラ   ワニサ

     マラバヤ

アルデメル

約200人

約500人

約200人

 

1945年3月3日に日本軍はマニラから撤退しましたが、

それまでの1ケ月はアメリカ軍との激しい戦いが続き、マニラは廃墟と化しました。

日本軍の守備隊20,000人が全滅、アメリカ軍は6,000名の死傷者、非戦闘員や民間人の死者は約10万人と言われます。

7割が日本軍による虐殺とされます

フィリピンで日本軍による虐殺はどの位あったのかはっきりした資料はありません。

最大90万人と言う説もあります。

1942年からの資料があります。

不完全ですが表にしました。

* 日本軍によるフィリピン人の被害の概要 調査できた範囲ですのでかなり少なめです。

          (More Documents on the Japanese Occupation of Philippines)より

年 月 日

州名

地点

人数

1942.4.9~4.27

バタ-ン、パンパンガ

バタ-ンからサンフェルナンド

約16,000

    4.9~8.1

タルラック

収容所(オドンネル、カバス、タルラック)

約29,000

1944.11

セブ

セブ島北部

1,000以上

    12.

マニラ

北共同墓地

2,013以上

    12.10~11

ブラカン

ポロ、オバンド

約400

    12.29

レイテ

ダプダプ村、ポンソン島、カモテス島

300以上

1945.2.3

マニラ

ファンルナ通、トンド他

約115

    2.6~2.22

マニラ

聖オーガスチン教会、イントラスロム

約6,000

    2.9

マニラ

セントポ-ル大学附近

994以上

    2.9~2.17

マニラ

ベイビュ-ホテル、マニラホテル附近

女性子供476以上

    2.10

マニラ

バコ地区

404以上

    2.10~2.23

マニラ

フォ-トサンティエアゴ、アントラムロス

4,000以上

    2.11

ラグナ

カランバ

7,000以上

    2.16~3.19

バタンガス

サントトマス

1,504以上

      2.16~3.19

バタンガス

リパ

12,005以上

    2.19

バタンガス

クエンカ

984

    2.19

バタンガス

マタ-スナカホイ

約200

    2.20

バタンガス

サンホセ

504以上

        2.24

ラグナ

サンパブロ

約773

        2.28

バタンガス

バウアン

504以上

        3.4

バタンガス

ルンバン

1,527

        3.16

ラグナ

ロスバニオス

39以上

        6.30~7.4

カガヤン

タバル

250以上

1943~1945

イロイロ、他

パナイ島全域

1,762

 

     注:最後のイロイロのパナイ島は石田氏の資料では2,600人以上になっています。

 

「 虐殺に関する証言 」

   * エスペランサ・レエイスさん(ルンバンで夫と5ケ月と1歳半の子どもたちを殺された)

・・・・集落の責任者が午後2時に、薬をくれるから集まるように言ったんです。

行くと、いつの間にか銃剣を手にした日本兵に囲まれてしまった。

女や子どもと男を分けてから、男はみんな山に連れて行ったんです。

誰も帰ってこなかったから、間違いなく殺されたんですよ。・・・・

男達がいなくなってから、殺しが始まった。

2人の子どもが殺された後、私も銃剣で突かれて倒れてしまいました。

そして、死人の山の上に投げ捨てられたんです。

背中と腕と3ケ所突かれていました。

子どもは2人とも1ケ所やられただけで死んでしまったんです。・・・・

* 友清高志(藤兵団に所属してバタンガスのリパ大虐殺に参加した)

注:リパ周辺の虐殺をしたのは日本軍の悪い方の典型といわれた

藤兵団第86飛行場大隊で、藤重兵団長は1946年絞首刑になっています。

・・・・私が中隊長から聞いたところによりますと、藤重兵団長は、

正面にいる田辺第86飛行場大隊長を睨み付けて言ったそうです。

「おい田辺、思いっきりやって見せろ。責任はこの藤重が持つ。

後世の人間が、世界戦史をひもといた時、誰しもが肌に泡立つ思いがするような虐殺をやってみせろ」・・・・

翌早朝、アニラオ、アンチポロから16歳以上60歳までの男達800人がリパ市にやって来ました。・・・・

通行証を渡すという理由です。・・・・

証明書を受取った者は、各々家に帰るよう言い含めました。

丸腰のS軍曹らが、まず最初の10人を引率して出て行きました。

そして200メ-トルも行かない時です。

「爆音!爆音!」と、ヤシ林の中から兵隊が呼びます。

「おい爆音だ。走れ!」と全員が小屋まで走りました。

「待て!」怒声とともに小屋の陰から出てきたのは、20人の銃剣を構えた日本兵です。・・・・

10人を数珠つなぎにすると雑木林の奥へ連れて行きました。

1人1人の両脇腹には2人の兵隊の銃剣がピッタリとついています。

・・・・崖っぷちに来てS軍曹が命じました。

「突け!」銃剣は1人の身体をX字に貫きます。

すぐさま軍靴の底を腰に当てて銃を引きますと、

もんどりうつように10人は谷底に芋づる式に落ちていきました。

愛刀の試し斬りをする将校もいました。

日本刀を振り下ろし、或いは横に薙ぐと、滝のような音を立てる血潮の圧力で、

首は前に飛び、宙に舞い上がります。

爆音は、谷の対岸の雑木林に隠してあった屋外発電機の音です。

私はこれを始動する仕事を命じられました。

(注:計画して虐殺を準備していたのです)

こうして、マニラ軍法会議で検察官をひんしゅくさせ、「世界戦史に汚点を残した」と

弁護士諸氏まで憤慨させた「リパ事件」は、朝の8時から夕方の6時までかかりました。

薄闇の雑木林から、顔に、軍服に、返り血を浴び、三々五々出てきた疲労困憊の日本兵は、

もしこの世に幽鬼というものが存在するならまさにこれかと実感させる姿でした。

* アスセナ・オカンポさん ロスバニオ市で虐殺にあった 当時8歳  女性

小さな子供を含めた村の人たちは、村の中の大きな家に押し込められました。

そこには既に年老いた女性や子供や赤ん坊などで一杯でした。

私たちは床に跪くよう命令されました。その言葉に従って、

床の上に跪いて首を前に垂れて座っていると、

突然日本軍が銃剣を取り出して座っている人たちを1人1人殺し始めました。

みんな叫び声を上げましたが、次々と殺されていきました。

殺されたのは、年老いた女性もいました。

小さな赤ん坊もいました。私も恐れと刺された痛みのために気を失いました。

・・・・私の弟は空中に投げられて、日本軍の鋭くとがった銃剣の先で突き刺されました。

もう一人のまだ赤ん坊の妹も、同じように空中に投げられて、

とがった銃剣の先で突き刺されてすぐに死んでしまいました。

 

日本軍自身もフィリピン全体では東南アジア最大の犠牲者を出し、50万人近くの軍人が死亡しました。

現地の人々はさらに多い、1,111,938人という膨大な犠牲者が出たといわれています。

(フィリピン政府の調査)

恐らく虐殺や強姦等は東南アジアでは一番多かったのではないかと言う説もあります。

強姦に関しても、陸軍中央の会議で「比島方面においても強姦多かりし・・・・」と繰り返し問題になりました。

しかし「支那事変に比すれば少ない・・・・」とされ、かえって中国での強姦がひどかった事がわかります。

フィリピンは比較的資源が少ない為、日本の領土や植民地にする必要がなく、

1943年10月14日、日本軍からフィリピン共和国として独立が認められました。

大統領はホセ・P・ラウレルが就任し一院制の議会の議長はベニグノ・S・アキノでした。

しかし傀儡政権でしたので、実権はすべて日本軍の「比島政務班」が握っていました。

独立当日に締結された 「日比同盟条約」にその事があらわれています。

* 日比同盟条約の付則 原文カナ

       フィリピン国は日本の為すべき軍事行動の為の一切の便宜を供与す・・・・

 

「 バタ-ン半島死の行軍 」

  フィリピンはアメリカの植民地でしたが、アメリカの指導のもとで1935年には独立準備政府が出来ていて、

1946年には独立する事が約束されていました。

1942年1月、マニラ市の北部から日本軍は占領を開始しました。

その後4月9日にバタ-ン半島を占領し、アメリカ兵12,000人、フィリピン兵64,000人、

合計76,000人を捕虜にしました。

捕虜たちは3ケ月の篭城で食糧が欠乏し栄養失調でマラリアその他の病気で衰弱していました。

日本軍はその捕虜を60Km離れたオードネル収容所に入れるため、

バタ-ン半島のマリベレスからサン・フェルナンドまでを歩かせ、その後収容所まで列車で輸送しました。

水や食糧を与えないまま炎天下を歩かせ、多くの犠牲者が出ました。

これが「バタ-ン死の行軍」と呼ばれた事件です。

行軍中、食糧や水は沿道のフィリピン人が投げてくれたものだけでした。

列から遅れたりはみ出したりした捕虜はその場で殺され、途中で息絶えた病人はそのまま捨てられました。

沿道には延々と死体が続き、中には妊娠中の女性もいたそうです。

* 護送していく日本兵は貪欲で、ありとあらゆる物を強奪し、両手に腕時計をぎっしりはめた兵隊や、

  捕虜の食事まで取り上げたと 証言があります。

どれだけの捕虜がバタ-ン半島を歩かされたのか、

また行進中にどれだけの死亡者が出たのかは現在でも正確には分かっていませんが、色々の目安はあります。

* 防衛庁資料「比島攻略作戦」では

                            フィリピン・アメリカ兵合計 約50,000人   死者 記載なし

                 避難民    20,000人~30,000人    死者 記載なし

 

* スタンレ-・L・フォルク「バタ-ン死の行軍」

               フィリピン兵  66,304人  死者 避難民と合計で5,000人~10,000人

               アメリカ兵    9,921人   死者 600~605人

               避難民     25,000人

   * 極東裁判  フリッピン代表   ペドロ・ロペスの報告

 フィリピン兵 62,000人 死亡者16,000人

 アメリカ兵  11,000人   死亡者 1,200人

捕虜収容所に収容された人数は51,000人から54,000人といわれています。

そして収容されてからも虐待は続き多くの捕虜が死亡しました。

   * 小説家火野葦平は宣伝班員としてオ-ドネル収容所を訪ねて「バタ-ン死の行軍」を書いています。

    その中の一節です。

「・・・・門を入る前から嘔吐を感じさせる臭気が気にかかった。・・・・

蕎麦の花畑かと疑われる白い墓標が密集した墓地・・・・」と、書いています。

そして所長の伊藤大尉の話として「1日に200人、300人といって死ぬんですからね。

統計やグラフが作ってありますから、後ほどご覧に入れますが、最高は487人でした。

総計2万ほども死んだでせうか」書いています。

   * マニラ裁判の時に、バシリコ・ヘルナンデ陸軍少佐が提出した記録では

       1842年8月5日までに絶命した捕虜 27,169人

   * 収容所事務室で働いた捕虜 C・A・アンチェタの著書「フィリピンの勝利」から

          4月11日から8月4日までに29,180人が死亡

             内訳  フィリピン兵  27,674人

                 アメリカ兵    1,694人

                 民間人       857人

    注:色々な数字の合計が合っていませんが、そのまま書きます。

 死の行軍に加わらなかった捕虜は、辻政信大本営参謀の

米比投降兵を一律に射殺すべし」という口頭命令で多数が殺害されています。

さすがにこのひどい命令を拒否した部隊もありました。

   * 拒否した部隊  第141連隊 今井連隊長

             第142連隊 藤田副官 他

フィリピン攻略戦を指揮した第14軍司令官、本間雅晴中将は1964年4月3日死刑となりました。

 

「 連合軍捕虜と731部隊 」

  バタ-ン死の行軍や捕虜収容所で生き残ったアメリカ軍捕虜や、

各地で捕虜になったイギリスやオ-ストラリア兵は、さらに遠く満州の奉天まで連行されました。

人数は1,400人から2,000人といわれています。

奉天の関東軍から731部隊員が派遣され、細菌を使った色々な人体実験を捕虜におこなっています。

* 関総作命丙第98号(関東軍総司令部作戦命令)  梅津大将からの命令

 1943年2月1日、原文カナ

1 関東軍補給監は・・・・左記人員を速やかに、奉天収容所に派遣し・・・・

         軍医1、 衛生下士官2  衛生兵10

1 奉天収容所長はこれらの人員をもって衛生勤務を強化し

1 関東軍防疫給水本部長は左記人員を派遣し、防疫業務を援助指導すべし

* 関総作命丙第98号にもとづく軍軍医部長指示 梶原中将の命令 原文カナ

1 ・・・第1に現在猛威をふるっている慢性的な下痢症状を引き起こしているアメ-バ-赤痢、

   赤痢などの病原体の内臓よりの検索、第2にマラリア病原体の検索、その他必要なる検査

2 この疫病検査に必要な資材は関東軍防疫給水部より補給さるべし

* 奉天捕虜収容所における報告書  昭和18年2月17日  731部隊診療部長 永田大佐

・・・・バタ-ン・コレヒド-ルにおいて日本軍の猛攻撃によって降伏した英米軍将兵は・・・・

ある目的のため、1,485名が奉天捕虜収容所に収容される事になった・・・・

* 日本政府終戦中央連絡局からGHQ宛ての文書    1946年1月16日

・・・・石井(731部隊長)は腺ペスト菌をハルビンの中国人、奉天のアメリカ人に注射させて、

人体実験をしたといわれている。

* 1949年、シベリア、ハバロフスクの戦犯裁判での731部隊員   柄沢十三夫の証言

問: 第731部隊は、各種伝染病に対するアメリカ人の免疫性の研究に従事していたか、どうか?

答: 1943年の初めのころだたと記憶しております。・・・・

  私のところへ、部隊の研究員、

  秦(注:秦正男、京大医学部卒、コレラ班の班長として731部隊に所属)が

  訪ねてきまして、自分の業務について私に知らせました。・・・・

  秦は各種伝染病に対するアングロサクソン民種の免疫性研究のため、第731部隊によって、

  特に連合軍の捕虜収容所に出張させられていたのであります。

問: アメリカ軍の捕虜の血液の特質研究も、この目的で行なわれていたのか?

答: 全くその通りであります。

そして日本の敗戦で解放された捕虜たちは、今度は自分の母国から口を封じられました。

アメリカは戦略的に日本から731部隊関係の全資料を手に入れるために、日本の関係者を全て無罪、免責にしました。

細菌戦部隊やその行動の一切を無かった事にしたのです。

その為に自国の被害者の口さえ封じたのです。

国家や軍による国益とはまさに国民をも犠牲にする事が多い証拠です

* 証言 1986年9月17日、アメリカ下院退役軍人問題小委員会で 元捕虜フランク・ジェイムス

私たちは、戦争捕虜収容所からの帰途、マニラの錬兵場に来た時に命じられて、

「私たちはいかなる状況にあっても、捕虜収容所で起こったことを、どんな相手または新聞にも話しません」

という内容の軍の供述書に、軍法会議の威しを受けてサインしました。

人体実験も含めて死亡者はアメリカ兵だけで163名~238名といわれています。

 

「 フィリピンでの日本兵による人肉食事件 」

  東南アジア各地で日本兵による人肉食が報告されています。

   * オ-ストラリア軍法廷のBC級戦犯裁判

   * アメリカによるグアム法廷

   * 東京裁判・法廷証拠1387

      1945年8月にルソン島で起きた船舶工兵第25連隊の6人の日本兵による人肉食

   * 東京裁判・法廷証拠1447

      1944年12月25日にニュ-ギニアで捕虜になった第41師団歩兵第239連隊の訊問調書

それ以外にも実際には沢山あったのだろうと思われます。

1992年にフィリピン国立公文書館で、共同通信の石山記者が発見した裁判資料があります。

* 資料から

敗戦後、逃げ回った日本軍兵士はキタングラッド山(ミンダナオ島北部)に立てこもりました。

立てこもったのは34名です。      陸軍第15揚陸隊   28名

                 歩兵第74連隊        3名

                 捜索第30連隊    3名

この34名は1947年2月14日に投降し、18名が起訴されました。

敗戦から1年半たっていました。

起訴項目の内8項目が人肉食事件で、犠牲者は13人となっています。

犠牲者はヒガオノン族です。

裁判の結果、10名に絞首刑、4人に終身刑が言い渡されましたが、

1953年に特赦で全員日本に無事帰国しています。

その後誰にも知られず日本のどこかで生きていたのです。

注: 28名の第15揚陸隊は1944年に編成された部隊で、

12月には第35軍第30師団(師団長両角業作中将)の指揮下に 入っています。

(注:両角業作は南京攻略戦に参加し、歩兵第65連隊長として数万人の虐殺事件を起こしています。)

数ヵ月後に解除されその後所属が転々としています。

戦闘部隊ではなく軍用物資を陸揚げする為の部隊で土方部隊と呼ばれていました。

戦闘訓練も受けずに普段はゴロゴロしていた部隊でしたから、

敗戦のときはオロオロと山中を逃げ回っていたのです。

しかし一応「戦陣訓」教育は受けていたので捕虜にもなれなかったのです。

敗戦で正式には日本軍は崩壊していましたが、「自活自戦永久に抗戦を継続せよ」と命令を受けていたため、

ただ山の中を逃げていたのです。

その内食糧もなくなり自殺や病死、餓死で毎日何人かが亡くなりました。

* K軍曹の証言(第15揚陸隊)    裁判での供述

埃と垢で顔は薄黒く、身体は骨が突き出してほとんど筋肉の部分はなく、皮膚が直接骨を包み、

衣類は虱の群れがぎっしりと食い込んで死者の肉を貪り尽くしている

 

「 人肉食の証言 」

* K軍曹  同上

我々はここに滞在する事で合意した。

この4人を捕虜にしたのは、彼らが逃げれば我々の位置をフィリピン軍に通報するかもしれないからだ。

もうフィリピン軍に襲われるのはまっぴらごめんだった。

だから自衛のために彼らを捕まえたのだ。

我々5人は捕虜をどうするか話し合い、結局殺す事で合意した。

私は人命を救う事が仕事なので、殺害は他の4人にまかせた。・・・・

各々が捕虜をボロ(注:フィリピンの大型ナイフ)の一振りで殺した。・・・・

それから4人の死体は細かく刻まれた。

約1/3の肉は乾燥させた。これは我々5人で均等に分けた。

残りの肉は調理して食べた・・・・

* ホビ-タさん、クリセンシアさん 姉妹  聞き取り

・・・・いきなりボロで父親の首を切落とした。・・・・

日本兵は彼女達の見ている前で父親を解体していった。

1人はボロで、あとの2人は短剣を使った。

最初に太股の肉を付け根から、足と胴体を切り離し、膝、足、首を間接ごとに切断した。

次いで腕を肩から切り離し、肘、手首と切断していった。

そして各部から肉をそいでいき、4枚のバナナの葉の上に置いた。

さらに骨を3~4センチの長さに砕いていった。

胴体は中央から引き裂き、肺、心臓などを取り出してバナナの葉の上に置いた。

腸は食べないつもりなのか、引き出して投げた。・・・・

姉妹はただ泣きながら見ていた。・・・・

鍋を持ち出してきた。

その鍋に骨と肉と水を入れた。鍋を火にかけた。・・・・

日本兵達は5人全員が焚き火の横に輪になってバナナを片手に肉を食べ始めた。・・・・

姉妹に父親の肉を食えと強いた。・・・・

2人の口をこじあけて肉を突っ込んだ。・・・・

2人は肉を口に入れたが吐き出した。・・・・

その後2人の兵士が代わる代わるホビ-タさんを強姦した。

* セルベリオさん  当時10歳

・・・・母親はエルリンダちゃん(5歳)を抱えてビニングちゃん(6歳)の手を引いていた。

1人の日本兵が2人の子どもを母親からひったくった。

そしてビニングちゃんの首を短剣で切落とした。

それから別の日本兵はエルリンダちゃんを宙に放り上げ、

落ちてくるところを短剣で突いて殺し、首を切落とした。

その後2人を解体し始めた。

最初に体を真ん中から裂いて内臓を取り出し、次に腕と足を切断した。

続いてそれらをぶつ切りにした。

解体作業は3人でやり、他の2人は見ていた。・・・・

1人の兵士が竹の棒の先を短剣でけずって10本くらいの竹串を作った。・・・・

竹串に肉を突き刺してカモテと共に焼きながら食べ始めた。・・・・

日本兵は談笑しながらバナナの葉を皿がわりに使って手で食べた。・・・・

残した人肉はバナナの葉で包み、家の中にしまった。

 

「 人肉食に対する軍の対応 」

  フィリピンに限らず、日本軍では人肉食事件をかなり起こしています。

軍当局としては困って、敵の肉なら食べてもよいとの通達を出しています。

これは日本軍同士でも食べていたということです。

* 東京裁判資料 法廷証拠1447 原文カナ

12月10日 第18軍司令部から、部隊は連合軍の屍肉を喰う事は許可するも

   友軍の屍肉は喰ってはならぬとの命令が出た。

12月21日 「マルジップ」で第2大隊長守山少佐は戦闘の際殺された2人の豪州兵の肉を部下に配給し、

 彼も人肉を喰った。本捕虜(注:自分)は病気であった為にその配給を受ける事が出来なかった。

* 第18軍第41師団の命令書 法廷証拠1446 原文カナ

             (1944年12月31日にオーストラリア軍の捕虜になった青津喜久太郎少将から押収)

近時不法行為に殺人強姦その他人肉獲得の目的をもってする事件、

支隊管内において頻繁に発生し、軍隊の士気に大なる影響を与えある状況に鑑み・・・・

この種事故は軍規上は勿論人道上も許すべからざる事にして、

支隊としてはこの種事故の徹底的に撲滅を期しあり

       [一般刑法と陸軍刑法、軍内における特例] (上記文書に添付された別紙)

其の2 一般刑法

1    殺人の罪

人を殺したるものは死刑、無期若しくは有期の懲役に処す

其の3 軍内における特例

一般刑法の殺人に関し軍においては死刑者を左の通り定む

1 上官及び哨兵に対するもの

2 強盗の目的をもって為したるもの

3 人肉を得る目的をもって為したるもの

尚刑法には規定なきも人肉(敵を除く)たることを知りつつ之を食したる者は

人道上の最重犯として死刑と定む

フィリピンで人肉食事件の犠牲者がどれだけいたのか正確には分かりません。

1993年に被害者団体が発表した、名前が判明している被害者だけで94人です

 

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