中国人強制連行

連行された人の証言
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最終更新日:2014/06/01 14:11

 * 傳寿亭さん

1944年8月、私は保定市で日本軍第1417宮島部隊に捕まりました。

「八路軍だろう」という嫌疑により、何度も訊問や拷問をされましたが、絶対に認めませんでした。

その後石門労工訓練所へ送られました。

そこの住まいはアンペラ小屋で、夜になると着ている服も脱がされました。

食物は生煮えのコウリャンで、お湯も飲ませてもらえず生水だけでした。

雨が降ると雨漏りがして床には水が溜まりました。

服は薄い半袖で、寒さと飢えで多くの人が死にました。

1日に17~8人死んだのを見たことがあります。

1ケ月もたたない内に私たちは、300人を1つの大隊として編成されました。

2つの中隊、6つの小隊という編成でした。

日本人の松浦(華北労工協会職員)に護送され塘沽へ連行されました

  * 魏永禄さん

私は定県の梅家村の生まれです。

1944年6月に河北省完県で日本の憲兵隊に捕まりました。

その夜訊問・拷問が加えられました。

30分以上も革のベルトで殴り、革靴でけり痛めつけるという拷問が続けられました。

現在も背中にかなりの後遺症が残っています。

その後、望都へ連れて行かれました。そこでも拷問されました。

水を無理やり飲ませるための特別製の刑具があり、両手両足を縛りつけ、

さらに首の所には半円形の首を固定させる器具が付いていました。

それで首を押えられると、頭を動かす事が出来ません。

それで鼻をつまんで無理やり水を流し込むやり方でした。

腹一杯になると、私の腹を踏みつけて水を吐き出させるということを繰り返しました。

本当に死線をさまようひどい拷問でした。・・・・

その後水牢に入れられました。水牢は2部屋位ある大きなもので、

真ん中は非常に水位が深くなっていました。

これでは殺されると思い、やむなく「そうだ」と言ってしまいました。

その後石門俘虜収容所に送られました。

石門では寝る時には掛布団も敷布団もなくムシロだけでした。

逃亡を防止するためとして、すべての服を脱がされてパンツをはくことさえ許されませんでした。

収容所のまわりに電気鉄条網を引き、軍用犬を放していました。1ケ月位で塘沽に運ばれました。

  * 范振華さん

私は定州市の家で捕まりました。

日本の憲兵隊の高野と田中に8回も訊問・拷問されました。

八路軍だと認めないでいると、針金で私の小指と小指をくくりつけ、そのままに上に吊り上げました。

その為私の小指はこの様になってしまいました。

背中もこの様になってしまいました。

さらに口を開けさせて、粟の入っている水を無理やり飲ませ、腹一杯まで水を注ぎました。

その後革靴で腹を踏みつけ水を押し出します。

また、水を飲ませる。

さらに、床に膝まづけせ、太股に太い丸太を押し付け痛めました。

そのせいで今でも足が痛みます。

次には鉄の檻に中に入れられ尖った釘で身体を刺されました。

その後、石門俘虜収容所に入れられました。

食事は虫が湧いているコウリャンでした。

1ケ月位で塘沽に連れて行かれました。

痩せて皮1枚の状態で歩く事すらできないくらい弱っていました。

  * 鎖計さん

日本軍に捕まったのは1944年6月、22歳でした。

日本軍が私の村を包囲して「集会を行なう」と称して村民を集めて、取囲みました。

その村民の中から20数名を選び出して鄭家荘に連行しました。

そこではすぐに拷問されました。

針金で両手を縛って、かがませて、足の前に手を組ませて、

手と足の膝の裏に棒を通して動けないようにされたのです。

それから背中を床につけられて日本兵4人に押さえつけられました。

1人が頭を押えて後の2人は棒のところを押えていました。

また、鼻をつまんで口から石鹸水を注がれました。

ずっと殴られたり拷問されるので殺されると思い、嘘をついて「破壊活動をした」と言いました。

しかしその後も更に酷い拷問が続きました。その後石門俘虜収容所に連行されました。

収容所では布団や衣服は一切ありませんでした。半月位いて塘沽に連行されました。

  * 張来栄さん

1944年11月山東省で農業をしていた私は町の市場へ買い物に時連行されました。

銃を構えた日本兵が数十人現れ、市場を包囲しました。年齢の若い男だけが1ケ所に集められたのです。

そして全員トラックに乗せられてしまったのです。

30人近くはいました。青島では何千人もの中国人が、ほうぼうから集められていました。

  * 石玉海さん

1943年7月のある晩、私は急用のため友達を訪ねる途中でした。

暗がりでバラバラと4~5人の日本の憲兵が現れて、

私をすばやくホロの付いたトラックに押し込むと走り去ったのです。

ホロの隙間から家族のいる私の家の灯りが見え、それがドンドン遠ざかりました。

上海郊外の家はもう2度と見る事は出来ませんでした。

この時私は16歳でした。

 

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